十字架への道

マタイの福音書26章47-56節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月5日

<聖書>

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりであるユダがやって来た。剣(つるぎ)や棒(ぼう)を手にした大ぜいの群衆(ぐんしゅう)もいっしょであった。群衆(ぐんしゅう)はみな、祭司(さいし)長(ちょう)、民(たみ)の長老(ちょうろう)たちから差(さ)し向(む)けられたものであった。イエスを裏切(うらぎ)る者は、彼らと合図(あいず)を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆(ぐんしゅう)が来て、イエスに手をかけて捕(と)らえた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸(の)ばして剣(つるぎ)を抜(ぬ)き、大祭司(だいさいし)のしもべに撃(う)ってかかり、その耳(みみ)を切(き)り落(お)とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣(つるぎ)をもとに納(おさ)めなさい。剣(つるぎ)を取(と)る者(もの)はみな剣(つるぎ)で滅(ほろ)びます。それとも、わたしが父にお願(ねが)いして、十二(じゅうに)軍団(ぐんだん)よりも多くの御使(みつか)いを、今わたしの配下(はいか)に置(お)いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書(せいしょ)が、どうして実現(じつげん)されましょう。」そのとき、イエスは群衆(ぐんしゅう)に言われた。「まるで強盗(ごうとう)にでも向(む)かうように、剣(つるぎ)や棒(ぼう)を持(も)ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮(みや)ですわって教(おし)えていたのに、あなたがたは、わたしを捕(と)らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者(よげんしゃ)たちの書(しょ)が実現(じつげん)するためです。」そのとき、弟子(でし)たちはみな、イエスを見捨(みす)てて、逃(に)げてしまった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章47-56節)

<説教>

ユダの裏切(うらぎ)りによって、イエスはユダヤ指導者(しどうしゃ)たちに逮捕(たいほ)されます。

普通(ふつう)は犯人(はんにん)が刑事(けいじ)に逮捕(たいほ)されるとき、犯人(はんにん)は逃げようとしたり、最後まで抵抗(ていこう)して悪あがきします。しかし、イエスは逮捕(たいほ)されるとき、逃(に)げも隠(かく)れもせず、武装(ぶそう)した何百人の群衆(ぐんしゅう)に、自分からすすんで捕(と)らえられました。

イエスの十字架(じゅうじか)はすべて神(かみ)が定(さだ)められた完全(かんぜん)な計画(けいかく)でした。イエスが十字架(じゅうじか)の上ですべての人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなられるためでした。イエスは十字架(じゅうじか)への苦難(くなん)の道が、父の神(かみ)の御心(みこころ)であることを確信(かくしん)して、人間の罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりを受(う)けられたのです。

ペテロは数百人の武装(ぶそう)した群衆(ぐんしゅう)に、勇(いさ)ましく剣(けん)で立ち向かいます。しかし、イエスを殺害しようとする本当の敵(てき)は、剣(けん)や棒(ぼう)をもった人間ではなく、悪の力、サタンなのです。この悪の力が完全(かんぜん)に打(う)ち破(やぶ)られる道はただ一つ、イエスご自身が神(かみ)の怒(いか)りの杯(はい)をお飲みになること、すなわち、十字架(じゅうじか)でその聖(きよ)い命を捧(ささ)げることでした。

私たちの敵(てき)は死であり、罪(つみ)の力です。その敵(てき)は決して恐(おそ)ろしい姿をしていません。それは私たちの日々の生活の中にあるのです。それは心から出てくる悪い考え、人の気持ちを知ろうとしない自己(じこ)中心(ちゅうしん)な考え、自分の欲望(よくぼう)や心の思いを満(み)たすことを人生の第一の目的としてしまったり…神(かみ)の存在(そんざい)を無視(むし)して、神(かみ)に従(したが)わずに生きること。それが罪(つみ)です。

罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は死です。死とはこの世から消(き)え去(さ)ることではありません。永遠(えいえん)に終わらない滅(ほろ)びの苦(くる)しみです。人間はこの罪(つみ)と死に対してまったく無力です。どんな武器(ぶき)も、勇気(ゆうき)も役(やく)に立たないのです。しかし、神は人間に救(すく)いの道を備(そな)えてくださいました。それが十字架(じゅうじか)の救(すく)いです。

イエスが十字架(じゅうじか)で死なれたのは、あなたの罪(つみ)のためであると信(しん)じて、心を変えて、神により頼(たの)んで生きようとするなら、あなたは罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は赦(ゆる)され、死の滅(ほろ)びから救(すく)い出されます。永遠(えいえん)の命が与えられ天の御国(みくに)に入ることができます。

イエスが十字架(じゅうじか)に向(む)かわれたのは、悪(わる)に対しても善(ぜん)をあらわして生きることの模範(もはん)です。そしてイエスは、犠牲(ぎせい)の愛による人間の真実(しんじつ)な生き方を表わされました。そして人間は「苦難(くなん)」によってしか成長(せいちょう)しないことをイエスは十字架(じゅうじか)で教えてくれたのです。

イエスを信(しん)じるなら、あなたは愛と真実(しんじつ)の人生に必ず変えられていきます。

「キリストも、あなたがたのために苦(くる)しみを受(う)け、その足跡(あしあと)に従(したが)うようにと、あなたがたに模範(もはん)を残(のこ)されました。キリストは罪(つみ)を犯(おか)したことがなく、その口に何の偽(いつわ)りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返(かえ)さず、苦(くる)しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任(まか)せになりました。そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの罪(つみ)をその身(み)に負われました。それは、私たちが罪(つみ)を離(はな)れ、義(ぎ)のために生きるためです。キリストの打(う)ち傷(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

(ペテロの手紙第一2章21-24節)

祈りの友

マタイの福音書26章36-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月26日

<聖書>

それからイエスは弟子(でし)たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼(かれ)らに言われた。「わたしがあそこに行って祈(いの)っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連(つ)れて行かれたが、イエスは悲(かな)しみもだえ始(はじ)められた。そのとき、イエスは彼(かれ)らに言われた。「わたしは悲(かな)しみのあまり死(し)ぬほどです。ここを離(はな)れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進(すす)んで行って、ひれ伏(ふ)して祈(いの)って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯(さかずき)をわたしから過(す)ぎ去(さ)らせてください。しかし、わたしの願(ねが)うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子(でし)たちのところに戻(もど)って来て、彼(かれ)らの眠(ねむ)っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らないように、目をさまして、祈(いの)っていなさい。心は燃(も)えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目(にどめ)に離(はな)れて行き、祈(いの)って言われた。「わが父よ。どうしても飲(の)まずには済(す)まされぬ杯(さかずき)でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻(もど)って来て、ご覧(らん)になると、彼(かれ)らはまたも眠(ねむ)っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼(かれ)らを置(お)いて行かれ、もう一度同(おな)じことをくり返(かえ)して三度目(さんどめ)の祈(いの)りをされた。それから、イエスは弟子(でし)たちのところに来(き)て言われた。「まだ眠(ねむ)って休んでいるのですか。見なさい。時(とき)が来(き)ました。人(ひと)の子(こ)は罪人(つみびと)たちの手に渡(わた)されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切(うらぎ)る者が近(ちか)づきました。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章36-46節)

<説教>

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)のあと、十字架(じゅうじか)へ向(む)かってイエスは弟子(でし)たちを連(つ)れて祈(いの)られました。その場所はオリーブの木に囲(かこ)まれたゲツセマネ(油(あぶら)しぼりの意味(いみ))と呼(よ)ばれます。そこでイエスは人間の罪(つみ)の杯(さかずき)(さばきの憤(いきどお)りのぶどう酒)を飲(の)み干(ほ)すために、汗(あせ)を血(ち)のようにしたたらせて祈(いの)られました。

イエスの十字架(じゅうじか)の前の祈(いの)りは、自分の願(ねが)いではなく、父なる神のみこころがなされることでした。

弟子(でし)のパウロとヤコブとヨハネは祈(いの)ることができずに、疲(つか)れと悲(かな)しみに眠(ねむ)りこけてしまいました。

今も、イエスと共に祈(いの)る者は決(けっ)して多くないと言われています。イエスはあなたに祈(いの)りの友となることを願(ねが)われています。

苦(くる)しみや悲(かな)しみの意味(いみ)がわからなくても、希望(きぼう)が閉(と)ざされようとも、祈(いの)りましょう。どう祈(いの)っていいのかわからなくても、じつはイエスがあなたのために祈(いの)ってくださっています。あなたのつたない祈(いの)りも、イエスの御名(みな)で祈(いの)る時、イエスの祈(いの)りとされているのです。

体でわかること(目で見る、耳で聞く、鼻でにおう、手や肌(はだ)で触(さわ)る)がすべてではありません。あなたの前の現実(げんじつ)の問題(もんだい)に絶望(ぜつぼう)して、感覚(かんかく)を頼(たよ)りにした誘惑(ゆうわく)に身(み)を任(まか)せてはいけません。

神を信(しん)じる者の祈(いの)りには力があります。祈(いの)りは必ず答えられます。祈(いの)ることができず、疲(つか)れて、悲(かな)しみの果(は)てに眠(ねむ)っても弟子(でし)たちはイエスのそばにいました。祈(いの)りはイエスのそばにいることです。そこにとどまるとき、イエスの愛(あい)と赦(ゆる)しがあなたを救(すく)ってくださいます。

祈(いの)りによって神があなたを変えてくださいます。状況(じょうきょう)を変えてくださいます。心(こころ)が変えられます。知識(ちしき)でも理屈(りくつ)でもありません。あなたは信仰(しんこう)によってそれを実際(じっさい)に体験(たいけん)するのです。

神はあなたを神に祈(いの)る者としてご自身(じしん)に似(に)せて造(つく)られたのです。祈(いの)りは神を信じる者の特権(とっけん)であり、務(つと)めであり、励(はげ)むべきことです。ただし、それは最高(さいこう)の人間の営(いとな)みです。

「まことに、あなたがたにもう一度(いちど)、告(つ)げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上(ちじょう)で心(こころ)を一つにして祈(いの)るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(マタイの福音書18章19-20節)

「病(や)まなければ」河野 進
病(や)まなければ 捧(ささ)げ得(え)ない悔(く)い改(あらた)めの祈(いの)りがあり
病(や)まなければ 聞(き)き得(え)ない救(すく)いのみ言葉があり
病(や)まなければ 負(お)い得(え)ない恵(めぐ)みの十字架(じゅうじか)があり
病(や)まなければ 信(しん)じ得(え)ないいやしの奇蹟(きせき)があり
病(や)まなければ 受(う)け得(え)ないいたわりの愛(あい)があり
病(や)まなければ 近(ちか)づき得(え)ない清(きよ)い聖壇(せいだん)があり
病(や)まなければ 仰(あお)ぎ得(え)ない輝(かがや)く御顔(みかお)がある
おお 病(や)まなければ人間でさえあり得(え)なかった

キリストのつまずき

マタイの福音書26章30-35節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月19日

<聖書>

そして、賛美(さんび)の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子(でし)たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜(こんや)、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼(ひつじか)いを打(う)つ。すると、羊(ひつじ)の群(む)れは散(ち)り散(ぢ)りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決(けっ)してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告(つ)げます。今夜(こんや)、鶏(にわとり)が鳴(な)く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決(けっ)して申(もう)しません。」弟子(でし)たちはみなそう言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章30-35節)

<説教>

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)でユダがイエスを裏切(うらぎ)りました。その後で、イエスはさらに弟子たちに、あなたがたはみな、私を裏切(うらぎ)ると宣告します。そうです。十字架の前に、イエスの弟子たちはすべてイエスにつまずいたのです。

ユダは自分の欲のためにイエスを裏切(うらぎ)りました。ペテロは自分は絶対(ぜったい)大丈夫(だいじょうぶ)だという自信(じしん)、過信(かしん)によってイエスを裏切(うらぎ)ります。

誰も自分の頑張(がんば)りや努力(どりょく)によってイエスを愛して、従(したが)い続(つづ)けることはできません。自分こそ弱(よわ)い者だ、罪深(つみぶか)い者だと認(みと)めるする者こそが、神(かみ)に助けを求め、悔(く)い改(あらた)めてイエスに従(したが)うことができるのです。

ペテロは、鶏(にわとり)が鳴(な)く前に3度イエスを知らないと言うイエスの予告(よこく)通(どお)りに、イエスを否(いな)みました。彼はイエスを間違(まちが)いなく愛していました。しかし人間の愛には限界(げんかい)があるのです。

しかし、ペテロはイエスの弟子としての大失敗(だいしっぱい)、恥(はじ)を隠(かく)そうとせず、聖書(せいしょ)の中にはっきりと表わしました。それは、弱(よわ)さや失敗(しっぱい)や罪深(つみぶか)い者をイエスはゆるして、愛して下さる方であることを皆(みな)さんに知ってもらいたかったからです。

イエスを愛していくとき、あなたは必ず、自分の罪深(つみぶか)さや汚(けが)れを知ることでしょう。しかしイエスは、あなたの弱(よわ)さやどうしようもない姿(すがた)をご存知(ぞんじ)なのです。その上で、イエスはあなたを愛してくださいます。あなたをその問題、苦しみ、絶望(ぜつぼう)から救(すく)い出すためにこそ、イエスは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

弟子(でし)たちはイエスを裏切(うらぎ)りましたが、イエスが約束(やくそく)されたのは十字架(じゅうじか)で死んだ後、よみがえり、弟子(でし)たちとガリラヤで会うことです。

自分を裏切(うらぎ)って離(はな)れ去(さ)っていく弟子(でし)たちすべてのことをご存知(ぞんじ)でした。しかしその先にある神の約束(やくそく)は赦(ゆる)しと愛です。

あなたはイエスの十字架(じゅうじか)のゆえに愛されています。赦(ゆる)されています。

神が定められたキリストの十字架

マタイの福音書26章14-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月12日

<聖書>

そのとき、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司(さいし)長(ちょう)たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨(ぎんか)三十枚を彼に支払(しはら)った。そのときから、彼はイエスを引(ひ)き渡(わた)す機会(きかい)をねらっていた。さて、種(たね)なしパンの祝(いわ)いの第一日に、弟子(でし)たちがイエスのところに来て言った。「過(すぎ)越(こし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意(ようい)をしましょうか。」イエスは言われた。「都(みやこ)に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子(でし)たちといっしょに、あなたのところで過(すぎ)越(こし)を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」そこで、弟子(でし)たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過(すぎ)越(こし)の食事の用意(ようい)をした。さて、夕方になって、イエスは十二(じゅうに)弟子(でし)といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告(つ)げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切(うらぎ)ります。」すると、弟子(でし)たちは非常(ひじょう)に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢(はち)に手を浸(ひた)した者が、わたしを裏切(うらぎ)るのです。確(たし)かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去(さ)って行きます。しかし、人の子を裏切(うらぎ)るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切(うらぎ)ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

(マタイの福音書ふくいんしょ26章14-25節)

<説教>

ユダヤの最大の祭(まつ)り、過(すぎ)越(こし)しが近づいています。

祭司(さいし)、長老(ちょうろう)たちは、イエスをだまして捕(とら)えて死刑(しけい)にする陰謀(いんぼう)を企(くわだ)てますが、祭(まつ)りの間は民衆(みんしゅう)の騒(さわ)ぎを恐(おそ)れていました。イエスの十字架(じゅうじか)の背後(はいご)には人々のねたみがありました。

イエスの12弟子(でし)のひとりイスカリオテのユダは祭司(さいし)長(ちょう)に銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売り渡(わた)します。彼にサタンが入ったとありますから、イエスの十字架(じゅうじか)の出来事の背後(はいご)にはサタン(悪魔(あくま))の働きがありました。

ユダの裏切(うらぎ)りによって、祭司(さいし)、長老(ちょうろう)たちの思惑(おもわく)とおりにいかず、イエスご自身(じしん)の予告(よこく)通(どお)り、過(すぎ)越(こし)しの祭(まつ)りにイエスは捕(とら)えられ、十字架(じゅうじか)に渡(わた)されました。ユダ自身(じしん)もイエスが死ぬとは考えていなかったでしょう。

では、十字架(じゅうじか)の出来事は偶然(ぐうぜん)おこったことなのでしょうか。

いいえ、十字架(じゅうじか)の出来事は、イエスが主権的(しゅけんてき)に、イエスが十字架(じゅうじか)の道を選(えら)び取(と)られました。聖書(せいしょ)の預言(よげん)が成就(じょうじゅ)するためでした。長いイスラエルの歴史(れきし)を通して、神は聖書(せいしょ)にはっきりと定(さだ)めておられました。

ユダヤの歴史(れきし)で最も大きな出来事は、出(しゅつ)エジプトと言われる、奴隷(どれい)からの解放(かいほう)と新天地(しんてんち)の約束(やくそく)でした。その救いは、小羊(こひつじ)の犠牲(ぎせい)の血(ち)による、滅(ほろ)びのわざわいからの過(すぎ)越(こし)し(救い)でした。

この過(すぎ)越(こし)しの犠牲(ぎせい)の子(こ)羊(ひつじ)として、イエスは十字架(じゅうじか)で死なれました。

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)は、最期(さいご)の過(すぎ)越(こし)しの食事でもありました。また、最初の聖餐式(せいさんしき)でした。

教会(きょうかい)で、今もこの聖餐式(せいさんしき)が守られ、2000年前の出来事であったイエスの十字架(じゅうじか)の罪(つみ)のあがないが忘れられたことは一度もありません。

あなたもイエスを信じるならば、過(すぎ)越(こし)し(救い)があり、出エジプト(解放(かいほう))が起こります。あなたの罪(つみ)が赦(ゆる)され、まことの自由が与(あた)えられ、あなたの人生は神の御国(みくに)に入ります。

まことの救い、まことの解放(かいほう)が神の定められた十字架(じゅうじか)につけられたイエスにあります。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取(と)り、祝福(しゅくふく)して後(のち)、これを裂(さ)き、弟子(でし)たちに与(あた)えて言われた。
「取(と)って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯(はい)を取(と)り、感謝(かんしゃ)をささげて後(のち)、こう言って彼らにお与(あた)えになった。
「みな、この杯(はい)から飲(の)みなさい。

これは、わたしの契約(けいやく)の血です。罪(つみ)を赦(ゆる)すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国(みくに)で、あなたがたと新しく飲(の)むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造(つく)った物を飲(の)むことはありません。」(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章26-29節)

愛に生きる

マタイの福音書26章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月5日

<聖書>

さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒(おか)された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価(こうか)な香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持ってみもとに来て、食卓(しょくたく)に着(つ)いておられたイエスの頭(かしら)に香油(こうゆ)を注いだ。弟子(でし)たちはこれを見て、憤慨(ふんがい)して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油(こうゆ)なら、高く売れて、貧(まず)しい人たちに施(ほどこ)しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困(こま)らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧(まず)しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油(こうゆ)をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬(まいそう)の用意(ようい)をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告(つ)げます。世界中(せかいじゅう)のどこででも、この福音(ふくいん)が宣(の)べ伝(つた)えられる所(ところ)なら、この人のした事(こと)も語(かた)られて、この人の記念(きねん)となるでしょう。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章6-13節)

<説教>

イエスの十字架(じゅうじか)の時が近づいていました。弟子(でし)たちは、イエスが間もなく死ぬという実感(じっかん)も緊張感(きんちょうかん)もありませんでした。しかし、ある女はイエスと過ごす機会(きかい)はもうこれが最後(さいご)かも知れないと感じました。

彼女は、自分の持ち物の中で一番高価(こうか)なもの、女性にとって大切な香油(こうゆ)をイエスに惜(お)しみなく捧(ささ)げました。それが、彼女が大切な愛するイエスにできる最高のことでした。彼女はイエスに愛と信仰(しんこう)を表わしたのです。

愛とは愛することと愛されることによって完成します。愛されることだけを願う人生は干からびた人生です。あなたが誰かに愛を与えるとき、人生は豊かな愛と喜びの素晴らしいものとなるでしょう。

愛を与えるとは、あなたの大切なもの与えることです。一緒に時間を過ごすこと、聞いて理解してあげること、手助けする事。また、ゆるしを与える事、信用を与える事です。あなたの心の中でわかること、あなたが願うことを、他の誰かに、あなたから与えるのです。

あなたの笑顔(えがお)は素晴らしいです。微笑(ほほえ)みながら優(やさ)しい言葉をかけてあげてください。その人はきっと励(はげ)まされ、勇気(ゆうき)を与えられるでしょう。

人生には一回きりしかない機会(きかい)があります。その機会(きかい)を逃(のが)せば、もう同じ場合、同じ人、同じ時、同じ感動(かんどう)は再び戻(もど)ってきません。多くの人は、よいことをする機会(きかい)を失ったために、人生を悲劇(ひげき)に終わらせているのです。

しかし、イエスを信じる者は、罪(つみ)赦(ゆる)されて、自分のかたくなさや自我、プライドから解放(かいほう)されて、心から素直に生きる者に変えられます。何度も失敗しながらです。イエスはあなたを絶対あきらめません。

イエスの愛に赦(ゆる)され、感動(かんどう)して生きる者は、愛だけがすべてであり、愛は無限であることを知るのです。弱かろうが、ちっぽけな存在であろうが、誰もが愛を与えることができます。イエスと共に生きる者はその素晴らしさを知り、体験していくのです。イエスに出会うなら、あなたはいかなるものも包み込み受け止める愛を、無尽蔵(むじんぞう)に与えることができます。あなたの愛はいつまでも残ります。