イエスに従う者

マタイの福音書26章69-27章5節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月19日

<聖書>

ペテロが外の中庭(なかにわ)にすわっていると、女中(じょちゅう)のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを()()して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中(じょちゅう)が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを()()し、(ちか)って、「そんな人は知らない」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄(ちかよ)って来て、「(たし)かに、あなたもあの仲間(なかま)だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて(ちか)(はじ)めた。するとすぐに、(にわとり)()いた。そこでペテロは、「(にわとり)()く前に三度(さんど)、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、(はげ)しく()いた。さて、夜が明けると、祭司(さいし)(ちょう)(たみ)長老(ちょうろう)たち全員は、イエスを死刑(しけい)にするために協議(きょうぎ)した。それから、イエスを(しば)って()()し、総督(そうとく)ピラトに()(わた)した。そのとき、イエスを()ったユダは、イエスが(つみ)(さだ)められたのを知って後悔(こうかい)し、銀貨(ぎんか)三十枚を、祭司(さいし)(ちょう)長老(ちょうろう)たちに(かえ)して、「私は(つみ)(おか)した。(つみ)のない人の()()ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末(しまつ)することだ」と言った。それで、彼は銀貨(ぎんか)神殿(しんでん)()()んで()()った。そして、外に()て行って、(くび)をつった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章69-27章5節)

<説教>

(すぎ)()しの(まつ)りが近づく中、イエスを十字架(じゅうじか)(けい)にしようとユダヤ宗教(しゅうきょう)議会(ぎかい)(サンヘドリン)の裁判(さいばん)が行われます。そんなイエスの受難(じゅなん)の時、弟子(でし)のペテロはイエスを知らないと(いな)み、イスカリオテのユダは銀貨(ぎんか)30枚でイエスを()(わた)した(つみ)後悔(こうかい)して、(くび)()自殺(じさつ)します。

わずか前まではペテロはイエスが()ぬなら一緒(いっしょ)()ぬと言い、またイエスを逮捕(たいほ)しにきた大勢(おおぜい)群衆(ぐんしゅう)兵士(へいし)()かって(つるぎ)(たたか)おうとしました。勇敢(ゆうかん)に見えたペテロはイエスの十字架(じゅうじか)につまづいたのです。

ペテロはイエス出会ったとき、イエスが(かみ)であり、自分が罪人(つみびと)であることを告白(こくはく)しました。そしてすべてを()ててイエスを(あい)して、彼につき(したが)おうとしました(ルカの福音書(ふくいんしょ)5:1-11)。

しかし、十字架(じゅうじか)の前で彼は自分が(にぎ)っている(よわ)さを知りました。

イエスは

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を()て、自分の十字架(じゅうじか)()い、そしてわたしについて来なさい。(マルコの福音書(ふくいんしょ)8:34)」

と言われました。

イエスは十字架(じゅうじか)により、()から(くる)しみを()けて()てられました。イエスに(したが)おうとする者もまた、同じ(くる)しみを()けるのです。(かみ)を知らない()のただ中で生きるキリスト者の(くる)しみがあるのです。

すべての人の人生の中にある(くる)しみ、試練(しれん)(おそ)れ、不安(ふあん)ではなく、イエスを(しん)じることによって()ける(くる)しみです。

ペテロはイエスに(したが)う者が()ける(くる)しみを(こば)んだのでした。それは人間には()えない十字架(じゅうじか)です。しかし、イエスは「わたしについて来たいなら」と言われます。それは強制(きょうせい)されてでも、期待(きたい)されてでもなく、自分の意志(いし)によってイエスと一緒(いっしょ)に生きようとするまことのイエスの弟子(でし)です。そのいばらの(みち)への(もん)は小さく、十字架(じゅうじか)へと(つづ)(みち)(せま)いですが、その(みち)(かみ)栄光(えいこう)がまぶしく(かがや)いています。日々の生活の中で、みことばに(したが)い、(かみ)の力を()けて生きることができます。

(かみ)は、そのようなイエスの弟子(でし)()け入れてくださり、まことの(かみ)のご計画(けいかく)の中で使命(しめい)を与え、人生の目的(もくてき)(あた)えてくださいます。そこにイエスと共に()けるまことの(よろこ)び、(あい)祝福(しゅくふく)があります。

ユダは自分の力で人生をつかもうとして(つみ)(おか)しました。彼は自分の(つみ)後悔(こうかい)しましたが、祭司(さいし)(ちょう)(ちょう)(ろう)たちのもとに(つみ)のゆるしを()けようとしました。すべての(つみ)(かみ)の前に(おか)しているのです。一度(おか)した(つみ)は決して()()すことは出来ません。自分で始末(しまつ)することはできないのです。たとえ自殺(じさつ)して(いのち)と引き()えにしでも(つみ)(ゆる)しにはならないのです。

(つみ)(ゆる)しはただ一つです。(きよ)(かみ)のイエスの血の代価(だいか)(はら)われた十字架(じゅうじか)にあるのです。いかなる(つみ)もイエスのもとに()(あらた)めるなら(ゆる)され、(かみ)との和解(わかい)(あた)えられ、新しく生きる者ときよめ、つくり変えられます。

「もし、私たちが自分の(つみ)を言い(あらわ)すなら、(かみ)真実(しんじつ)で正しい方ですから、その(つみ)(ゆる)し、すべての(あく)から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一1:8)

十字架じゅうじかのかげに いずみわきて
いかなるつみも きよめつくす
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげに ゆきし時に
みかみあいを さとりえたり
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを もとつづけん
けわしきさかを のぼるときも
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを いかで離れん
御国みくにの門に 入る日までは
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
「十字架じゅうじかのかげに」聖歌 396番

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