イエスは道

ヨハネの福音書13章36節-14章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月2日

<聖書>

シモン・ペテロがイエスに言った。「(しゅ)よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「(しゅ)よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも()てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも()てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに()げます。(にわとり)()くまでに、あなたは三度(さんど)わたしを知らないと言います。」
「あなたがたは心を(さわ)がしてはなりません。(かみ)を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、()まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を(そな)えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を(そな)えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに(むか)えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「(しゅ)よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが(みち)であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを(とお)してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章36節-14章11節)

<説教>

イエスが十字架(じゅうじか)()かって死ぬときが近づいていました。しかし弟子(でし)たちは、イエスがどこへ行こうとしているのかわかりませんでした。弟子(でし)たちはイエスが自分たちから(とお)(はな)れてしまうことを(おそ)れて、心が(さわ)いでいたのです。

イエスはそんな弟子(でし)たちに次のことを約束(やくそく)されます。

  1. イエスを信じる者は、かならず天国(てんごく)用意(ようい)された「住まい」それも大邸宅(だいていたく)()むことができる。
  2. イエスは弟子(でし)たちのついていけない所に行くが、(かなら)ずもう一度(もど)って来る。

私たちが第一に心配(しんぱい)すること、心(さわ)ぐことは将来(しょうらい)どうなるかということです。イエスを信じる者はこの神の約束(やくそく)(しん)じなければなりません。イエスはあなたを(かなら)(むか)えに来て、天国(てんごく)()まわせてくださいます。

それでも、イエスの言われることがわからない弟子(でし)たちに言われます。

「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

(ヨハネの福音書14:6

「イエスは道」とはどういう意味でしょうか。

()(のぼ)(ふもと)の道は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」

という()があります。これはどんな宗教(しゅうきょう)も、結局(けっきょく)、最後は(すく)われて天国(てんごく)へ行けるのだからどの宗教(しゅうきょう)も同じだという意味です。

しかし、聖書(せいしょ)はイエスを(しん)じなければ、父なる神のもとへはいけないと明らかにしています。

はじめて行く場所への道を(だれ)かに聞いた場合、どんなに丁寧(ていねい)に行き方を(おし)えてもらっても、本当にそこへたどり()けるかわかりません。

一番確実(かくじつ)な方法は、その目的地(もくてきち)への道を知っている人が、一緒(いっしょ)案内(あんない)してくれることです。

私たちは一度切りの人生の中でどうやって生きていいのか(まよ)います。何が正しいのかわからなくなります。じっさい聖書(せいしょ)は次のように書いています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言(しんげん)14:12)

私たちをゴールに案内(あんない)してくれるのはイエスご自身(じしん)です。イエスとともに生きる時、安全(あんぜん)です。

イエスの言うことをよく聞いて、イエスを知ることが大切です。

道は()みつけられて道となります。

イエスは人間の(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。イエスの十字架(じゅうじか)犠牲(ぎせい)によって、(しん)じる者は神と和解(わかい)することができます。イエスが神への道を開いてくださいました。

人が(すく)われるためにイエスが道となってくださいました。このイエスを(しん)じて、いつも、このお方の聖書(せいしょ)のみことばに(したが)うとき、(いつわ)りの(ほろ)びへの道から(のが)れて、天国に()まうことができるのです。

この道は、人間の力で見つけて入れる道ではありません。

自分の(つみ)(ぶか)さを知り、イエスを(しん)じて、()(あらた)めて生きようとする者だけが見出すことのできる小さい門、(せま)い道なのです。そのときイエスが道となってくださるのです。

イエスを(しん)じて、このお方に(したが)う者は(けっ)して、(まよ)って()(づま)ったりせず、イエスが(むか)えに来てくださり、神の用意(ようい)された天国の()まいに必ずたどり()くことができます。

何より大切なのはこの道に入ることです。他の道では(けっ)して天国につながることはありません。この道に入る者は(さいわ)いです。

(せま)い門から入りなさい。(ほろ)びに(いた)る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに(いた)る門は小さく、その道は(せま)く、それを見いだす者はまれです。

(マタイ7:13-14

日々の信仰が与える勝利

サムエル記第一17章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月25日

<聖書>

ペリシテ人は(たたか)いのために軍隊(ぐんたい)召集(しょうしゅう)した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに(じん)()いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に(じん)()き、ペリシテ人を(むか)()つため、(たたか)いの(そな)えをした。ペリシテ人は()こう(がわ)の山の上に、イスラエル人はこちら(がわ)の山の上に、谷を(へだ)てて相対(あいたい)した。ときに、ペリシテ人の陣営(じんえい)から、ひとりの代表(だいひょう)戦士(せんし)が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その()の高さは六キュビト半。頭には青銅(せいどう)のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅(せいどう)で五千シェケル。足には青銅(せいどう)のすね当て、背中には青銅(せいどう)()(やり)(やり)()機織(はたお)りの()(ぼう)のようであり、(やり)穂先(ほさき)は、(てつ)で六百シェケル。(たて)()ちが彼の先を歩いていた。ゴリヤテは立って、イスラエル人の(じん)()かって(さけ)んで言った。「おまえらは、なぜ、(なら)んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷(どれい)ではないのか。ひとりを(えら)んで、おれのところによこせ。おれと勝負(しょうぶ)して()ち、おれを()(ころ)すなら、おれたちはおまえらの奴隷(どれい)となる。もし、おれが()って、そいつを(ころ)せば、おまえらがおれたちの奴隷(どれい)となり、おれたちに(つか)えるのだ。」そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの(じん)をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負(しょうぶ)をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈(いきしょうちん)し、非常(ひじょう)(おそ)れた。

(サムエル記第一17章1-11節)

<説教>

イスラエル人は宿敵(しゅくてき)ぺリシテ人との(たたか)いに(くる)しんでいました。谷をはさんでお互いに緊迫(きんぱく)状態(じょうたい)でした。そこでぺリシテからは3メートルもある巨人(きょじん)でベテランの戦士(せんし)ゴリヤテがイスラエルに一対一の(たたか)いを(もう)()ます。イスラエル人はゴリヤテの巨体(きょたい)武器(ぶき)を見て、(おそ)れて(たたか)勇気(ゆうき)(うしな)ってしまいます。そんな時、8人兄弟の(すえ)()(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがゴリヤテを石一つで()(ころ)したのです。

戦士(せんし)でもない(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがなぜゴリヤテに勝利(しょうり)したのでしょうか。

① ダビデは(おそ)れに支配(しはい)されなかった

ゴリヤテは自分の巨体(きょたい)武器(ぶき)を見せつけて、おどし文句(もんく)を言ってイスラエル人を(おそ)れさせました。(たたか)う時に(おそ)れは最大の(てき)です。多くの場合、(たたか)う前の心理戦(しんりせん)勝敗(しょうはい)は決定します。

聖書(せいしょ)に中に「(おそ)れるな」という命令(めいれい)は約365回出ています。それだけ人は(おそ)れてしまうものなのです。

しかし、ダビデはゴリヤテを自分と比較(ひかく)せずに全能(ぜんのう)の神さまと比較(ひかく)したのです。すべてを支配(しはい)される神さまと比べたらゴリヤテは()るに()りない小さい者です。

見える状況(じょうきょう)ではなく神さまに信頼(しんらい)するとき信仰(しんこう)大胆(だいたん)さが(あた)えられます。

② ダビデは普段(ふだん)の生活の中で神さまに(つか)えていた

ダビデは普段(ふだん)から神さまと共に羊飼(ひつじか)いの仕事に(つか)えていました。(ひつじ)をライオンや(くま)(おそ)われたときも、神さまが共におられ信仰(しんこう)勇気(ゆうき)により(たたか)っていました。

ダビデは、普段(ふだん)からみことばを(おも)いめぐらし、(いの)り、賛美(さんび)して神さまと共にいました。

ダビデはいきなりゴリヤテに勝利(しょうり)したのではありません。ダビデはどんな時も神さまに(つか)えて、信仰(しんこう)勇気(ゆうき)(あた)えられ、普段(ふだん)の生活の中で訓練(くんれん)され下地(したじ)が作られていたのです。

羊飼(ひつじか)いは決してきれいな仕事では、末っ子のダビデは父からまったく注目(ちゅうもく)されていませんでした。しかし、神さまのご計画(けいかく)(だれ)も知らないところで準備(じゅんび)されていました。目立たない普段(ふだん)何気(なにげ)ないところでの神さまとの関わりがやがて、目に見える形となって(あらわ)されるのです。

③ ダビデは神さまが勝利(しょうり)(あた)えてくださることを知っていた

ダビデは勝利(しょうり)秘訣(ひけつ)を知ってしました。神さまに忠実(ちゅうじつ)であるなら、あとは神さまが(かなら)(たす)けて(みちび)いてくださいます。

ダビデはたった一つの石で巨人ゴリヤテを()(たお)しました。しかしダビデの本当の武器(ぶき)万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)(生けて働かれる神の力)です。すべての(たたか)いに勝利(しょうり)をもたらすのは万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)です。神さまご自身が(たたか)いに出て(いど)まれるのです。

石とはメシヤ(キリスト)の象徴(しょうちょう)です。この石(キリスト)が巨人(悪魔(あくま))を()(たお)すのです。

悪魔(あくま)はキリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりにより、完全に()(たお)されました。私たちがイエス様の御名(みな)(いの)り、みことばを信じて(したが)う時、悪魔(あくま)は何も手を出すことは出来ません。

私たちの(たたか)いとは、(つるぎ)(たて)によるのではなく、人間の内にあります。(つみ)に対して神のことばと信仰(しんこう)によって(たたか)いに勝利(しょうり)できるのです。

ダビデの勝利(しょうり)によって、イスラエルに神さまがおられることをすべての国に知らしめました。

今もキリスト者は信仰(しんこう)によって(つみ)勝利(しょうり)して、()にイエス・キリストを(あかし)するのです。

なぜなら、神によって生まれた者はみな、()に勝つからです。私たちの信仰(しんこう)、これこそ、()()ち勝った勝利(しょうり)です。()に勝つ者とはだれでしょう。

イエスを神の御子(みこ)と信じる者ではありませんか。

(ヨハネの手紙第一5:4-5