愛に生きる

ヨハネの手紙第一 4章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月9日

<聖書>

(あい)する者たち。私たちは、(たが)いに(あい)し合いましょう。(あい)(かみ)から出ているのです。(あい)のある者はみな(かみ)から生まれ、(かみ)を知っています。(あい)のない者に、(かみ)はわかりません。なぜなら(かみ)(あい)だからです。(かみ)はそのひとり子を世に(つか)わし、その方によって私たちに、いのちを()させてくださいました。ここに、(かみ)(あい)が私たちに(しめ)されたのです。私たちが(かみ)(あい)したのではなく、(かみ)が私たちを(あい)し、私たちの(つみ)のために、なだめの(そな)(ぶつ)としての御子(みこ)(つか)わされました。ここに(あい)があるのです。(あい)する者たち。(かみ)がこれほどまでに私たちを(あい)してくださったのなら、私たちもまた(たが)いに(あい)し合うべきです。いまだかつて、だれも(かみ)を見た者はありません。もし私たちが(たが)いに(あい)し合うなら、(かみ)は私たちのうちにおられ、(かみ)(あい)が私たちのうちに(まっと)うされるのです。

(ヨハネの手紙第一4章7-12節)

<説教>

1902年にカナダで生まれたアルフレッド・ラッセル・ストーンは(おさな)(ころ)から農業(のうぎょう)(あい)しました。24歳から日本の長野(ながの)北海道(ほっかいどう)農村(のうそん)伝道(でんどう)生涯(しょうがい)(ささ)げた宣教師(せんきょうし)でした。

1920年生まれのディーン・リーパーは25歳から戦後(せんご)()野原(のはら)東京(とうきょう)宣教師(せんきょうし)として来日(らいにち)します。日本人になろうと銭湯(せんとう)に行っては日本人と背中(せなか)(なが)()うリーパー宣教師(せんきょうし)は、プロ級の手品師(てじなし)でもありました。

1954年9月26日に大型の台風(たいふう)15号が接近(せっきん)する中、函館(はこだて)から青森(あおもり)出航(しゅっこう)した青函(せいかん)連絡船(れんらくせん)洞爺(とうや)丸号(まるごう)」にこの2人の宣教師(せんきょうし)乗船(じょうせん)していました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)は約4時間後の22時45分に沈没(ちんぼつ)し、死者(ししゃ)行方(ゆくえ)不明者(ふめいしゃ)あわせて1155人におよぶ、日本(にほん)海難(かいなん)史上(しじょう)最悪(さいあく)事故(じこ)となりました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)台風(たいふう)()って、船が大きく真横(まよこ)(かたむ)いたとき、

リーパー宣教師(せんきょうし)恐怖(きょうふ)におびえる乗客(じょうきゃく)に、やさしく(かた)りかけ、自慢(じまん)手品(てじな)披露(ひろう)、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜(おおよろこ)びします。一時(いちじ)船室(せんしつ)()()きがもどりますが、やがて船は大きく(かたむ)き、船室(せんしつ)に水が(なが)れこみます。リーパー宣教師(せんきょうし)は、同乗(どうじょう)していたストーン宣教師(せんきょうし)、オース宣教師(せんきょうし)と力をあわせ、悲鳴(ひめい)(うず)のなかで()げまどう乗客(じょうきゃく)救命(きゅうめい)()(くば)り、着用(ちゃくよう)手間取(てまど)る子どもや女性を(たす)けました。ストーン宣教師(せんきょうし)は、救命(きゅうめい)()のない学生を見つけ「あなたの前途(ぜんと)は長いから」といって救命(きゅうめい)()をゆずりました。リーパー宣教師(せんきょうし)は女性や子どもたちに救命(きゅうめい)()()せてやり、最後まで(はげ)ましの言葉をかけ(つづ)けたと(つた)えられています。

後日、七重(ななえ)(はま)救命(きゅうめい)()のない二人の宣教師(せんきょうし)(はだか)遺体(いたい)発見(はっけん)されました。また台風(たいふう)荒波(あらなみ)の中では、ほとんどの人が救命(きゅうめい)()()ていても(たす)かりませんでしたが、彼らの救命(きゅうめい)()をもらった若者と子どもは奇跡的(きせきてき)(たす)かりました。

他人のために命をすてた洞爺(とうや)丸号(まるごう)宣教師(せんきょうし)。自分の命を犠牲(ぎせい)にして人々を救った宣教師(せんきょうし)

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな(あい)はだれも持っていません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)15章13節)

(かみ)(あい)なり

(ヨハネの手紙第一4章8節)

(かみ)さまの(あい)をアガペーと言います。無条件(むじょうけん)(あい)価値(かち)なき者を(あい)する(あい)です。

その(かみ)(あい)があらわされたのが十字架(じゅうじか)です。

イエス・キリストは、(つみ)の中で死んでいる私たち人間に、いのちを(あた)えるために十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

私たちは生まれたままの状態(じょうたい)では、(かみ)()らず、(かみ)から(ばな)れ、罪深(つみぶか)自己(じこ)中心(ちゅうしん)(かみ)敵対(てきたい)する罪人(つみびと)でした。

しかし、十字架(じゅうじか)のもとで(かみ)(はか)()れない(あい)()り、そのいのちにあずかった者は(こころ)(よく)のままの生活に(もど)ることは出来ません。(たが)いに(あい)し合うべきなのです。

その姿(すがた)によって、(かみ)がおられると人は()るのです。

イエス様はすべての人に言われています。

(たが)いに(あい)し合いなさい。わたしがあなたがたを(あい)したように、あなたがたも(たが)いに(あい)し合いなさい。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章34節)

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)はすべての人を(すく)うことができます。その(すく)いを()けたいとあなたが決心(けっしん)するかどうかだけです。

さあ、(つみ)()()り、新しく、(あい)に生きようではありませんか。