コリント人への手紙第二1章4-10節より
2023年8月20日
<聖書>
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。
(コリント人への手紙第二1章4-10節)
<説教>
キリストを信じる前のパウロは、自分自身により頼み、キリスト者たちを迫害して苦しめて暴力をふるう者でした。パウロは神を信じていても、現実は自分の力を誇って生きていたのです。現実の生活では神に従っていなかったのです。
罪とは神から離れて、自分に頼って生きる状態です。人生が自分のためにあると思うことです。そこから現実にあらわれる罪深い言動によって、私たちは苦しみ、それは解決することなく、滅びへと向かいます。たとえ自分で苦しみを解決しても、自分の力を誇り、高ぶるようになることも多くあります。
しかし、神を信じる者の苦しみは、キリストがお受けになった苦しみを共にすることです。みことばに従って、愛に生きる者の苦しみです。苦しみによって自分の弱さを教えられます。
神はその苦しむ者を慰め、ますます神をより頼む者へと造り変えて、キリストに似た者へと内から変えてくださいます。
そして、苦しみの中にあるパウロは、苦しみの中にある教会の人々を慰め、ともに成長する家族のように生きていきます。苦しみも慰めもキリストにあって一つなのです。以前のキリストを迫害していたパウロもまた、兄弟姉妹たちの慰めと愛によって、キリスト者として迎え入れられたのです。
パウロは自分の意思によって使徒になったのではなく、神の御心によって使徒になったという確信がありました。これが、どんな苦境、困難に出会っても、めげることのない理由だったのです。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
(ヘブル人への手紙4:15)
キリストの十字架を信じて、罪の赦しを与えられた者の特徴は、素直さ、謙虚さです。
表面的な良い人ではありません。キリストを愛して生きようとする時、自分をごまかしたり、いかなる言い訳もむなしく感じられるのです。キリストは私たちの心の中を気付かせてくださいます。そして、愛することだけが、神を信じて従うことだと教えてくださいます。
そのように生きようとする時、私たちはキリストの苦しみを共にするのです。
苦しみを経験した者は、他の誰かが受けた同じ苦しみを理解することができます。苦しみを経験した者は慰めることができるのです。
キリストは父なる神様に従われ、罪の身代わりに十字架に架かられました。罪を犯すこと以外は、すべての人間の受ける苦しみを経験されました。
このキリストは、あなたの苦しみを経験され、あなたを理解して慰めてくださる方です。そして、その苦しみを通して、愛とまことの人にあなたを変えてくださります。喜びと平安、人を愛する価値ある人生を与えてくださいます。
パウロは言います。
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。 (Ⅱコリント1:1)
キリストを信じて生きるあなたは、神の教会の、使徒、聖徒なのです。いつも神はあなたと共におられます。