マタイの福音書3章1-6節より
2024年1月28日
<聖書>
そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
(マタイの福音書3章1-6節)
<説教>
人間にとって大切なものはいろいろとあります。家族、健康、友人、目標、仕事、食べ物、住宅、衣服、金銭、教育…
そういったものとは別に、多くの人が知らないけれど、実はとても大切なものがあると、神のことばである聖書は教えています。
イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」
(マタイの福音書4章4節)
そうです。人間は神のことばが必要なのです。
しかし、歴史が始まって以来、人間に神のことばが与えられない沈黙の期間がありました。およそ西暦0年より前の400年間、人間の歴史から神の記録がなくなります(旧約聖書の最後の預言者マラキから、バプテスマのヨハネの間)。
皇帝テベリオの治世の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの国主、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主、ルサニヤがアビレネの国主であり、アンナスとカヤパが大祭司であったころ、神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。
(ルカの福音書3章1-2節)
突如として、ユダヤの荒野にバプテスマのヨハネが現れ、神のことばが語られました。その使信は
悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。
(マタイの福音書3章2節)
天の御国が近づいたというのです。天の御国とはいったいどういうことでしょうか。
実は今、私たちが生きている世界は、罪と悪が支配しています。人間の心の中も悪と死の原則が支配しています(本来の姿は、愛といのちによって心が支配されるべき)。しかし、それらはすべて滅び去り、神が支配する愛と正義による世界、天の御国が到来するのです。
そのために、ヨハネは次のような教えを人々に宣べ伝えたのです。
①神はおられます。預言されたキリストは来られました。
②神によって悪は明らかにされました。罪深い、自己中心の生活をやめなさい。
③神に心を向けて、心を変えて、正しい生活をしなさい。
これが、悔い改めて、信仰によって生きるということです。
そのために、神であるイエス・キリストがこの世界に人として来られたのです。
バプテスマのヨハネは、旧約聖書に登場する代表的な預言者エリヤの到来です(マラキ書4章5節)。エリヤはイスラエルの民を偶像礼拝から救い出して、まことの神への信仰に立ち返らせました。
今の時代も同じです。ヨハネは迷いさまよう人々をキリストへと導いています。キリストを信じることによって、まことの神の民(教会によって生まれる新しいイエスラエル)を罪の支配から救い出して、神の支配である天の御国に置いてくださるのです。
この世はいつまでも続きません。やがて滅び去ります。その終わりの日は、天の御国に入る救いの日です。しかしまた、神のさばきの日でもあるのです。
それは今、この神の招きにどう答えるか、その決断によって決定するのです。
心の欲を第一にする、罪の生き方をやめて、神へと心を向けて、神のことばに従う正しい生活をしようではありませんか。それは窮屈な束縛ではなく、そこにだけ自由と平安があります。
いかなる罪であっても神に対して罪を悔い改める者は赦され生きることができます。あなたの罪の身代わりにキリストが十字架で死なれました。
神のあわれみ、神のことばによって人は生きるのです。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。
(ヨハネの福音書3章18-21節)