いのちを守る悔い改め

マタイの福音書3章1-6節より

土山みことばキリスト教会

2024年1月28日

<聖書>

そのころ、バプテスマのヨハネが(あらわ)れ、ユダヤの荒野(あらの)で教えを()べて、言った。
()(あらた)めなさい。(てん)御国(みくに)が近づいたから。」
この人は預言者(よげんしゃ)イザヤによって、「荒野(あらの)で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。
このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
自分の(つみ)を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)3章1-6節)

<説教>

人間にとって大切なものはいろいろとあります。家族(かぞく)健康(けんこう)友人(ゆうじん)目標(もくひょう)仕事(しごと)、食べ物、住宅(じゅうたく)衣服(いふく)金銭(きんせん)教育(きょういく)

そういったものとは別に、多くの人が知らないけれど、実はとても大切なものがあると、神のことばである聖書(せいしょ)は教えています。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

(マタイの福音書4章4節)

そうです。人間は神のことばが必要(ひつよう)なのです。

しかし、歴史(れきし)(はじ)まって以来(いらい)、人間に神のことばが(あた)えられない沈黙(ちんもく)期間(きかん)がありました。およそ西暦(せいれき)0年より前の400年間、人間の歴史(れきし)から神の記録(きろく)がなくなります(旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)最後(さいご)預言者(よげんしゃ)マラキから、バプテスマのヨハネの間)。

皇帝(こうてい)テベリオの治世(ちせい)の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督(そうとく)、ヘロデがガリラヤの国主(こくしゅ)、その兄弟ピリポがイツリヤとテラコニテ地方の国主(こくしゅ)、ルサニヤがアビレネの国主(こくしゅ)であり、アンナスとカヤパが大祭司(だいさいし)であったころ、神のことばが、荒野(あらの)でザカリヤの子ヨハネに下った。

(ルカの福音書3章1-2節)

突如(とつじょ)として、ユダヤの荒野(あらの)にバプテスマのヨハネが(あらわ)れ、神のことばが語られました。その使()(しん)

()(あらた)めなさい。(てん)御国(みくに)が近づいたから。

(マタイの福音書3章2節)

(てん)御国(みくに)が近づいたというのです。(てん)御国(みくに)とはいったいどういうことでしょうか。

実は今、私たちが生きている世界は、(つみ)(あく)支配(しはい)しています。人間の心の中も(あく)()原則(げんそく)支配(しはい)しています(本来の姿(すがた)は、愛といのちによって心が支配(しはい)されるべき)。しかし、それらはすべて(ほろ)()り、神が支配(しはい)する愛と正義(せいぎ)による世界、(てん)御国(みくに)到来(とうらい)するのです。

そのために、ヨハネは次のような教えを人々に()(つた)えたのです。

①神はおられます。預言(よげん)されたキリストは来られました。

②神によって悪は明らかにされました。罪深(つみぶか)い、自己(じこ)中心(ちゅうしん)の生活をやめなさい。

③神に心を向けて、心を変えて、正しい生活をしなさい。

これが、()(あらた)めて、信仰(しんこう)によって生きるということです。

そのために、神であるイエス・キリストがこの世界に人として来られたのです。

バプテスマのヨハネは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)登場(とうじょう)する代表的(だいひょうてき)預言者(よげんしゃ)エリヤの到来(とうらい)です(マラキ書4章5節)。エリヤはイスラエルの(たみ)偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)から(すく)い出して、まことの神への信仰(しんこう)に立ち返らせました。

今の時代も同じです。ヨハネは(まよ)いさまよう人々をキリストへと(みちび)いています。キリストを信じることによって、まことの神の(たみ)(教会によって生まれる新しいイエスラエル)を(つみ)支配(しはい)から(すく)い出して、神の支配(しはい)である(てん)御国(みくに)に置いてくださるのです。

この世はいつまでも続きません。やがて(ほろ)()ります。その終わりの日は、(てん)御国(みくに)に入る(すく)いの日です。しかしまた、神のさばきの日でもあるのです。

それは今、この神の(まね)きにどう答えるか、その決断(けつだん)によって決定(けってい)するのです。

心の(よく)を第一にする、(つみ)の生き方をやめて、神へと心を向けて、神のことばに(したが)う正しい生活をしようではありませんか。それは窮屈(きゅうくつ)束縛(そくばく)ではなく、そこにだけ自由と平安があります。

いかなる(つみ)であっても神に対して(つみ)()(あらた)める者は(ゆる)され生きることができます。あなたの(つみ)の身代わりにキリストが十字架(じゅうじか)で死なれました。

神のあわれみ、神のことばによって人は生きるのです。

御子(みこ)を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名(みな)を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を(にく)み、その行いが明るみに出されることを(おそ)れて、光のほうに来ない。しかし、真理(しんり)を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

(ヨハネの福音書3章18-21節)

キリストの系図は神の愛の証明

マタイの福音書1章1-17節より

土山みことばキリスト教会

2024年1月21日

<聖書>

アブラハムの子孫(しそん)、ダビデの子孫(しそん)、イエス・キリストの系図(けいず)
アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの(つま)によってソロモンが生まれ、
ソロモンにレハブアムが生まれ、レハブアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
ヨシヤに、バビロン移住(いじゅう)のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
バビロン移住(いじゅう)(のち)、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
ヤコブにマリヤの(おっと)ヨセフが生まれた。キリストと()ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
それで、アブラハムからダビデまでの(だい)が全部で十四(だい)、ダビデからバビロン移住(いじゅう)までが十四(だい)、バビロン移住(いじゅう)からキリストまでが十四(だい)になる。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)1章1-17節)

<説教>

①イエス・キリストはアブラハムの子

ユダヤ人は()系図(けいず)に非常に関心を持ちました。それは出来る限り民族の血統(けっとう)を保とうとすることを大切にしたからです。わずかでもユダヤ人以外の血が入ると、ユダヤ人であり、神の(たみ)資格(しかく)が失われたのです。
例えば、祭司(さいし)はモーセの兄のアロンにまでさかのぼる系図(けいず)(てい)(しゅつ)する義務(ぎむ)がありました。
私たちには退屈(たいくつ)に思える系図(けいず)も、ユダヤ人にとっては、キリストの系図(けいず)が、ユダヤ人の祖先(そせん)であるアブラハムまでさかのぼることは非常に感銘(かんめい)(ぶか)いものなのです。

②イエス・キリストはダビデの子

また、この系図(けいず)はキリストがダビデの子であることを証明(しょうめい)するものです。この大切な事実を新約(しんやく)聖書(せいしょ)はくり返し強調(きょうちょう)します。

「私の福音(ふくいん)に言うとおり、ダビデの子孫(しそん)として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」

(Ⅱテモテ2:8

盲人(もうじん)たちもイエスに(さけ)びました。神がわからなくなった人生の迷子(まいご)である私たちもイエス様に(さけ)び求めるなら、神さまがわかるように心の目を開かせてくださいます。

「彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆(ぐんしゅう)がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人(もうじん)が、イエスが通られると聞いて、(さけ)んで言った。『(しゅ)よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。』」

(マタイ20:29-30

十字架(じゅうじか)に向かわれるイエス様が最後のエルサレムに入城(にゅうじょう)されるときも、群衆(ぐんしゅう)はイエスをダビデの子として歓迎(かんげい)しました。
ところでイエスをダビデの子と()んだのは、群衆(ぐんしゅう)庶民(しょみん)一般(いっぱん)の人たちでした。彼らは熱心(ねっしん)に待ち(のぞ)む人々でした。目の前は、いかなる現実(げんじつ)に見えようとも、いつか必ずダビデの子孫(しそん)が現れるのを信じたのです。そのとき、神の栄光(えいこう)によって、彼らが神に(むく)われることを(ゆめ)見たのです。
(たし)かに、今はイエス・キリストに同意(どうい)できない人たちもいます。そんな彼らの(ゆめ)実現(じつげん)の形は、力と(とみ)物質的(ぶっしつてき)繁栄(はんえい)野望(やぼう)実現(じつげん)です。
しかし、すべての人類の最初の(ゆめ)、平和と愛の完成という(ゆめ)実現(じつげん)するとすれば、イエス・キリストによってのみ可能なのです。
人として来られたイエス・キリストの中に預言(よげん)成就(じょうじゅ)したのです。旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)で昔の預言者(よげんしゃ)のことばは実現(じつげん)したのです。預言(よげん)を軽く見てはいけません。預言(よげん)偉大(いだい)な神の真理(しんり)(ふく)まれているのです。この天地(てんち)万物(ばんぶつ)、この世界のすべて、もちろん一人一人のあなたという人間の存在(そんざい)も、神の目的と計画によって起こったのです。
この歴史(れきし)終着点(しゅうちゃくてん)のない道ではありません。すべての命と世界はあてどもなく移り変わるのではなく、神の(たし)かな目的地に向かって進んでいるのです。

③ 神のあわれみの福音(ふくいん)はすべての人ために

この系図(けいず)(おどろ)くべきことは女性の名前が(ふく)まれていることです。ユダヤの系図(けいず)は普通、女性の名前は(しる)されません。しかも、この系図(けいず)の4人の女性の身分や行為(こうい)を知る時、さらに(おどろ)かされます。
ラハブはエリコの遊女(ゆうじょ)でした。ルツはモアブ人。(あく)名高(みょうだか)いモアブ人でした(民数記23:3)。タマルは(しゅうと)のユダをあざむき姦淫(かんいん)を犯しました。ダビデ王が姦淫(かんいん)と殺人の(つみ)によって部下のウリヤから(うば)()ったバテシュア。
ユダヤ人と異邦人(いほうじん)差別(さべつ)。男女の差別(さべつ)も、そして罪深(つみぶか)い人間と神との(へだ)ての(かべ)である(つみ)を神は()(のぞ)かれました。
それこそが、この系図(けいず)の目的であり、イエス・キリストによる神の福音(ふくいん)神髄(しんずい)を示すものなのです。
このような問題ある罪人(つみびと)がイエス・キリストの系図(けいず)にあること自体が、けっして変わることのない神の愛が現されているのです。
神は不思議(ふしぎ)にも、大きな(つみ)を犯した人たちをご自分の目的のために用い、ご自分の計画の中に取り入れられるのです。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、(へだ)ての(かべ)を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意(てきい)廃棄(はいき)された方です。敵意(てきい)とは、さまざまの規定(きてい)から成り立っている(いまし)めの律法(りっぽう)なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現(じつげん)するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架(じゅうじか)によって神と和解(わかい)させるためなのです。敵意(てきい)十字架(じゅうじか)によって(ほうむ)()られました。」

(エペソ2:14-16

知恵のことば、イエス様こそ日々の宝

箴言3章1-18節より

土山みことばキリスト教会

2024年1月7日

<聖書>

自分を知恵(ちえ)のある者と思うな。【(しゅ)】を(おそ)れて、(あく)から(はな)れよ。それはあなたのからだを健康(けんこう)にし、あなたの(ほね)に元気をつける。あなたの財産(ざいさん)とすべての収穫(しゅうかく)初物(はつもの)で、【(しゅ)】をあがめよ。そうすれば、あなたの(くら)(ゆた)かに()たされ、あなたの(さか)ぶねは新しいぶどう(しゅ)であふれる。わが子よ。【(しゅ)】の()らしめをないがしろにするな。その叱責(しっせき)をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、【(しゅ)】は愛する者をしかる。(さいわ)いなことよ。知恵(ちえ)を見いだす人、英知(えいち)をいただく人は。それの(もう)けは(ぎん)(もう)けにまさり、その収穫(しゅうかく)黄金(おうごん)にまさるからだ。知恵(ちえ)真珠(しんじゅ)よりも(たっと)く、あなたの(のぞ)むどんなものも、これとは(くら)べられない。その右の手には長寿(ちょうじゅ)があり、その左の手には(とみ)(ほま)れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。知恵(ちえ)は、これを(かた)(にぎ)る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は(さいわ)いである。

箴言(しんげん)3章1-18節)

<説教>

箴言(しんげん)は、古今(ここん)東西(とうざい)、最大の知者(ちしゃ)ソロモンによって書かれました。いろいろな国でも箴言(しんげん)のように、ことわざを集めた(じっ)生活(せいかつ)知恵(ちえ)や人生の教訓は存在します。しかし、箴言(しんげん)は神を(おそ)れ、神を礼拝(れいはい)する者が、神のおしえに(したが)って、どのように日常(にちじょう)生活(せいかつ)を歩むかという訓練(くんれん)の書です。

箴言(しんげん)を読むときのひとつの参考(さんこう)を以下にご紹介します。

知恵(ちえ)

生活の知恵(ちえ)という意味ではなく、神との関係から教えられることで、神を(おそ)れることが知恵(ちえ)の始まりです。

(おろ)かな者】

知恵(ちえ)のある者の反対として(おろ)かなもの、なまけ者のことが書かれています。(はたら)(もの)(あり)から学びなさいと言われます。

【友】

箴言(しんげん)では友、隣人(となりびと)についてもよく出てきます。友とは、どんな時にも愛するものである。自分に敵対(てきたい)するような人に対しても、よき隣人(となりびと)として()()いなさいと書かれています。
本当の友を得るようにとの教えや、本当の友の()たす役割(やくわり)などについての教えもあります。

【ことば】

ことばを正しく使うことの重要(じゅうよう)さも教えています。最上(さいじょう)のことばは、正しい(もの)の心から発するのだと、(ふか)く心の問題をあらわしています。
イエス様は、人は心にあることをことばにすると言われます。

【おしえ】

子どもについておしえが大切であることも書いています。正しい道への方向を教え、正しいいのちの道を自分で(えら)ぶことができるように(みちび)くのがおしえです。

しかし、箴言(しんげん)全体についても言えることですが、どんなによい教育(きょういく)訓練(くんれん)であっても、知恵(ちえ)(おし)()むことはできないということです。それらは、知恵(ちえ)を求める道を(えら)ぶようにと心を向けさせるものに()ぎません。

わたしの叱責(しっせき)に心を()めるなら、今すぐ、あなたがたにわたしの(れい)(そそ)ぎ、あなたがたにわたしのことばを知らせよう。

箴言(しんげん)1:23)

【いのちの木】

神を(おそ)れ、悪から(はな)れ、神との正しい関係にある者に(あた)えられる祝福(しゅくふく)長寿(ちょうじゅ)平安(へいあん)(新約では(すく)いの意味)、いのちです。これは、霊的(れいてき)な永遠のいのちに(いた)祝福(しゅくふく)です。地上の、物質の、一時的な祝福(しゅくふく)ではなく、天の、霊的(れいてき)な、永遠の祝福(しゅくふく)はまことの(すく)(ぬし)、イエス・キリストによって(あた)えられます。
箴言(しんげん)には、いのちの木のほかに、いのちの(いずみ)、いのちの道ともあります。いのちの道はいのちに(いた)る道という意味と、いのちに(ぞく)する道という意味でもあります。
その反対は、死への道、よみ、(ほろ)びの(ふち)、やみなど、悪者の運命として書かれています。これは神をあざける者がいく道と聖書は言います。

(しゅ)】を(おそ)れることは知識の初めである。(おろ)か者は知恵(ちえ)訓戒(くんかい)をさげすむ。

箴言(しんげん)1:7)

箴言(しんげん)中心(ちゅうしん)聖句(せいく)でもあります。

(しゅ)(おそ)れることは知恵(ちえ)であり、(しゅ)をあざける者は(おろ)か者です。そして(おろ)か者は、なまけ者でもあります。(しゅ)(おそ)れることなく、本当の友にも、隣人(となりびと)にもなることはできず、人の(とく)を高めることばを(はっ)することもできません。夫婦、親子、兄弟など家族間の関係もまた、神を(おそ)れることによって正しくされます。

神を(おそ)れることがいのちであり、神をあざけることが死なのです。

なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、【(しゅ)】から(めぐ)みをいただくからだ。わたしを見失(みうしな)う者は自分(じぶん)自身(じしん)をそこない、わたしを(にく)む者はみな、死を愛する。」

箴言(しんげん)8:35-36)

神のことばとして、イエス・キリストはこの世に来られました。

イエス・キリストを信じる者は、神の知恵(ちえ)のことば、箴言(しんげん)預言(よげん)された祝福(しゅくふく)をいただいて日々、生きることができます。

天の御国(みくに)は、畑に(かく)された(たから)のようなものです。人はその(たから)を見つけると、それを(かく)しておいて、大喜(おおよろこ)びで帰り、持ち物を全部()(はら)ってその畑を買います。

(マタイの福音書13:44

表裏のない生き方

ルカの福音書12章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月31日

<聖書>

そうこうしている(あいだ)に、おびただしい(かず)群衆(ぐんしゅう)が集まって来て、(たが)いに足を()み合うほどになった。イエスはまず弟子(でし)たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン(だね)に気をつけなさい。それは彼らの偽善(ぎぜん)のことです。
おおいかぶされているもので、(あらわ)されないものはなく、(かく)されているもので、知られずに()むものはありません。
ですから、あなたがたが(くら)やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上(おくじょう)で言い広められます。
そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを(おそ)れてはいけません。
(おそ)れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに()()権威(けんい)を持っておられる方を(おそ)れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を(おそ)れなさい。
五羽(ごわ)(すずめ)は二アサリオンで売っているでしょう。そんな(すずめ)一羽(いちわ)でも、神の御前(みまえ)には(わす)れられてはいません。
それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな(かぞ)えられています。(おそ)れることはありません。あなたがたは、たくさんの(すずめ)よりもすぐれた者です。
そこで、あなたがたに言います。だれでも、わたしを人の前で(みと)める者は、人の子もまた、その人を神の御使(みつか)いたちの前で(みと)めます。
しかし、わたしを人の前で知らないと言う者は、神の御使(みつか)いたちの前で知らないと言われます。

(ルカの福音書12章1-9節)

<説教>

あなたの生き方は表裏(おもてうら)があるでしょうか。

今日の聖書(せいしょ)箇所(かしょ)でイエス様が言われる「偽善(ぎぜん)」とは、もともとは役を(えん)じる意味でした。そかから、仮面をかぶって、()い人を(えん)じる意味になりました。

(つく)られたもので、神の前で(かく)れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが(はだか)であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。

(ヘブル人への手紙4:13

神さまはすべてのことをご存知(ぞんじ)です。そのことを信じられない人間は、秘密(ひみつ)(かく)しおおせると高ぶり、(つみ)(おか)すのです。(だれ)にも見つからなければ大丈夫(だいじょうぶ)だと思い込んでいます。

人生に表裏(おもてうら)があってはならないのです。()い人間を(えん)じる必要はないのです。神さまと自分を(いつわ)って生きて幸せになることなどできません。

神さまは、()い人間を(よそお)うのが上手(じょうず)な人より、(おろ)かであっても正直な罪人(つみびと)(えら)ばれます。ありのままで神様を信じていいのです。

神さまの教えに熱心(ねっしん)であったパリサイ人と言われる人たちは、見た目は立派(りっぱ)でしたが、内面の心は、(わる)(よく)でいっぱいでした。信仰(しんこう)形式(けいしき)は守っていましたが、一番大切な神さまを愛することが()けていました。

何よりも彼らは、神さまの言葉を(つた)える預言者(よげんしゃ)たちを()(ばら)い、神さまの言葉に()(したが)いませんでした。そして、預言者(よげんしゃ)によって語られた(すく)(ぬし)イエス・キリストを信じずに、十字架(じゅうじか)に付けてしまいました。

イエス・キリストを信じることなしに、まことの神さまを知ることはできません。神さまを人生の中に(むか)えることなしに、生き方が変わることは決してありません。

イエス様を信じる者は(つみ)(ゆる)されるのです。神の前に()(正しい者)とされ、その(れい)(たましい)は決して(ほろ)ぶことはありません。しかし、生まれたままの罪人(つみびと)のままで死を(むか)えるなら、肉体も(たましい)もゲヘナと言われる(ほろ)びの(ふち)へ投げ込まれてしまいます。人間はこの権威(けんい)を持つ神さまこそを恐れなければならないのです。

値段(ねだん)が付かない価値(かち)のない(すずめ)さえも神さまはご存知(ぞんじ)です。まして、あなたは(すずめ)よりもはるかに価値(かち)のある存在(そんざい)です。あなたの(かみ)()もみな数えられる神さまを、あなたの人生にお(むか)えするなら、もう表裏(おもてうら)のある人生、()い人を(えん)じる人生から解放(かいほう)されます。神さまの前に真実に生きることができるように日々、あなたに関わってくださいます。

イエス様が十字架(じゅうじか)で死んでくださったのは、あなたというかけがえのない存在(そんざい)のためなのです。神さまはあなたを(あい)されています。これが聖書の一番大切なメッセージ(福音(ふくいん))です。

新しい年をイエス様とともに、(あい)平安(へいあん)感謝(かんしゃ)()(あふ)れますようにお祈りします。

約束のメシヤは罪からの救い主

マタイの福音書1章16節-23節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月24日クリスマス礼拝

<聖書>

ヤコブにマリヤの(おっと)ヨセフが生まれた。キリストと()ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。それで、アブラハムからダビデまでの(だい)が全部で十四(だい)、ダビデからバビロン移住(いじゅう)までが十四(だい)、バビロン移住(いじゅう)からキリストまでが十四(だい)になる。
イエス・キリストの誕生(たんじょう)は次のようであった。その母マリヤはヨセフの(つま)と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊(せいれい)によって身重(みおも)になったことがわかった。
おっと)のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密(ないみつ)に去らせようと決めた。
彼がこのことを思い(めぐ)らしていたとき、(しゅ)使(づか)いが(ゆめ)(あらわ)れて言った。「ダビデの子ヨセフ。(おそ)れないであなたの(つま)マリヤを(むか)えなさい。その(たい)宿(やど)っているものは聖霊(せいれい)によるのです。マリヤは男の子を()みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の(たみ)をその(つみ)から(すく)ってくださる方です。」
このすべての出来事(できごと)は、(しゅ)預言者(よげんしゃ)(とお)して言われた事が成就(じょうじゅ)するためであった。
「見よ、処女(しょじょ)がみごもっている。そして男の子を()む。その名はインマヌエルと()ばれる。」((やく)すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

(マタイの福音書1章17節-23節)

<説教>

神は天地(てんち)万物(ばんぶつ)創造(そうぞう)され、イスラエルの歴史(れきし)支配(しはい)され、今も生きて働いて万物(ばんぶつ)(ささ)えておられます。

しかし、人は力ある神よりも、見えるものや権力(けんりょく)(たよ)ってしまいます。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)には、BC700頃、ユダの王アハズが、敵国(てきこく)に攻められ、恐れの中で神に信頼(しんらい)することができなくなったとき、神が預言(よげん)のことばによりご自身を現されました。

「それゆえ、(しゅ)みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女(しょじょ)がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」

(イザヤ書7:14)

「インマヌエル」それは、いかなる状況(じょうきょう)の中でも、すべての主権者(しゅけんしゃ)である神があなたと共におられるという真理(しんり)です。

このアハズ王に対する神の預言(よげん)は、究極的(きゅうきょくてき)にはそれから約700年後のキリストの誕生によって成就(じょうじゅ)しました。それが世界で最初のクリスマスです。

歴史(れきし)はキリスト誕生(たんじょう)から西暦(せいれき)が始まります。キリストは十字架(じゅうじか)()かり、ただ信じる者が(すく)われる新しい契約(けいやく)の時代になりました(旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)から新約(しんやく)聖書(せいしょ)へ)。

神の約束のことばによって、この世に来られたメシヤ、イエス・キリストは、信じる者に(つみ)(ゆる)しをくださる(すく)(ぬし)です。人間の問題はこの(つみ)にあるのです。

(つみ)による神と人間との(へだ)ての(かべ)()(こわ)して、いかなる時も、永遠に共にいてくださるインマヌエルの神さまです。そこにだけ、まことの平安があります。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

(マタイ28:20

会計入力ソフトを作成しました。

メイン画面
ここから入力、印刷、帳票の閲覧ができます。
入力履歴
ここから、現金出納帳や勘定科目帳を作成されます。

EXCELとVBAでちまちま、楽しみながらなんとか実用の段階まできました。さっそく今年の教会の会計の入力に使用しています。なかなか快適に使えています。

まだ、試用版ですが、使いたい方はご連絡ください。