マタイの福音書3章13-17節より
2024年2月18日
<聖書>
さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3章13-17節)
<説教>
バプテスマのヨハネがユダヤの荒野で罪の悔い改めを語り、罪に苦しむ大勢の人たちにヨルダン川で洗礼を授けました。
そして、イエス様がヨハネから洗礼を受けるためにヨルダンに来られました。なぜ、罪なきイエス様が洗礼を受けられたのでしょうか。
しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。
(ガラテヤ人への手紙4:4-5)
イエス様はユダヤ人として、八日目の割礼や、モーセの律法を守り、正しく生きることに努められました。そして、律法を守るだけでなく、律法の刑罰までもお受けになったのです。律法を破った者が受けるべき刑罰を、イエス様は身代わりとなられて十字架の上で命を捧げられました。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(コリント人への手紙第二5:21)
唯一まことの神を信じていたユダヤ人にとって正しいこととは、神の律法を守ることでした。
そんな彼らに、神さまは、報いを求めず、すすんで行う心からの愛をもって与えなさいと言われました。またイエス様の弟子パウロも次のように書いています。
キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
(ガラテヤ人への手紙5:6)
ユダヤ人として生きるための割礼、律法を守ること、洗礼さえ、人を新しく造り変えることはできません。
最初の人アダムの罪によってすべての人間は罪をもって生まれてきます。人間は神に従うべき善悪の基準を捨てて、善悪を自分勝手に決めて生きていると聖書は言っています。
神の前に正しく生きるためにはイエス・キリストを信じることだけが必要なのです。
こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
(マタイの福音書3:16-17)
すべての人の罪のために十字架に向かわれるイエス様の公の生涯が始まりました。父なる神さま、聖霊なる神さまが、イエス様と共にいてくださいます(三位一体の神さま)。正しく生きようとするイエス様を愛して喜ばれるのです。
十字架であなたのために死んでくださったイエス様を心から感謝して生きるとき、あなたは決してひとりではないことがわかるでしょう。神の目から見たあなたの尊い価値を知るでしょう。愛と力が与えられ、喜びがあふれてきます。
ユダヤ教の一分派であったキリスト教がなぜ世界宗教に広がったのでしょうか。
それは単に神の律法を守る正しい生き方以上の、神の恵みが明らかにされたからです。キリストの十字架の代償の死とよみがえりが、本物の愛だからです。
ただ、よい行いをすることが人生の最高の目的ではなくなったのです。イエス様を愛することが、すべての理由、源となったからなのです。
偽りの自由、罪深い生活から、イエス様を信じたら、罪から自由にされ、神さまに従って生きていきたいと変えられます。これ以上の奇蹟があるでしょうか。しかし、信じるならば誰もがこの素晴らしい奇蹟を受け取れるのです。