悔い改め~涙と笑顔の真実な姿

マタイの福音書3章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2024年2月11日

<聖書>

しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを()けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒(みいか)りをのがれるように教えたのか。
それなら、()(あらた)めにふさわしい()(むす)びなさい。
『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫(しそん)()こすことがおできになるのです。
(おの)もすでに木の根元(ねもと)()かれています。だから、良い()(むす)ばない木は、みな()(たお)されて、火に投げ()まれます。
私は、あなたがたが()(あらた)めるために、水のバプテスマを(さず)けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを()がせてあげる()うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊(せいれい)と火とのバプテスマをお(さず)けになります。
手に()を持っておられ、ご自分の脱穀場(だっこくじょう)をすみずみまできよめられます。(むぎ)(くら)(おさ)め、(から)を消えない火で()()くされます。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)3章7-12節)

<説教>

人さて、エルサレム、ユダヤ全土(ぜんど)、ヨルダン川沿いの全地域(ぜんちいき)の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の(つみ)告白(こくはく)して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

(マタイの福音書3:5-6

当時の宗教家(しゅうきょうか)であり指導者(しどうしゃ)であったパリサイ人やサドカイ人たちも、洗礼(せんれい)(さず)けていたヨハネのもとに(つみ)(ゆる)しのバプテスマ(洗礼(せんれい))を受けに来ました。

彼らは、ユダヤ教の中心的存在(そんざい)でした。神に選ばれた特別な存在(そんざい)、アブラハムの子孫でもありました。パリサイ人やサドカイ人は、聖書(せいしょ)律法(りっぽう)を守る宗教には熱心でしたが、外面は立派(りっぱ)()()っても、内面は神ではなく自分の力や権力(けんりょく)(たよ)っていたのです。

そんな彼らに、バプテスマのヨハネは終わりの日には神のさばきは必ずくだること、すべての人が神に対して罪人(つみびと)であり、()(あらた)めが必要であると()きます。人間の(ほこ)るどんなものによっても人間の(つみ)(ゆる)されないのです。

多くの人は、自分は大丈夫(だいじょうぶ)(すく)いが必要とは考えません。内面にこそ問題がある罪人(つみびと)であることが(みと)められず、姿形や外見といった見た目を大切にします。しかし、ヨハネは「()(あらた)めの()」を(むす)びなさいと言いました。それは、神に()を向けた罪深(つみぶか)い生き方を止めて、神に心を向けて新しく生きることです。(つみ)(ゆる)されて、愛と正しさに生きることです。

そのために聖書(せいしょ)は、外面ではなく、内面が新しく()えられなさいと言うのです。内面が()えられないなら、外面を()えることは意味がないのです。問題は何も解決(かいけつ)されないのです。

しかし、生まれ持っての人間は自分の努力(どりょく)頑張(がんば)りで、人間は自分の内面を()えることなどできません。その方法はただ一つ、イエス・キリストを(つみ)からの(すく)(ぬし)と信じる者は、霊的(れいてき)誕生(たんじょう)経験(けいけん)して、新しく(つく)()えられるのです。

その方は、あなたがたに聖霊(せいれい)と火とのバプテスマをお(さず)けになります。

(マタイの福音書3:11

その奥義(おくぎ)()(あらた)めなのです。宗教(しゅうきょう)基本(きほん)、神との関係は「()(あらた)め」にあります。この世界は、神のあわれみと、罪人(つみびと)()(あらた)めによって(たも)たれているのです。

すべての生きている人に、いつでもどこでも()(あらた)めのとびらが開かれています。自分の(つみ)を神の前で、(みと)め、かなしみ、告白(こくはく)して謙遜(けんそん)になることです。

その時、聖霊(せいれい)によるいのちと力により、新しい創造(そうぞう)のみわざがなされるのです。

先のパリサイ人、サドカイ人は、宗教(しゅうきょう)には熱心でしたが、この神の力による、この世界の常識(じょうしき)ではありえない、超自然的(ちょうしぜんてき)な力による、人間が新しくされる~()(あらた)めによる(つみ)(ゆる)し~を受け取ることができなかったのです。

人間の理解(りかい)できる宗教(しゅうきょう)では、人は(すく)われません。人知(じんち)()えた神の力を信じる者、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死と三日目のよみがえりにより、人は(つみ)(ゆる)され(すく)われるのです。()(あらた)める者は、キリストと(むす)ばれます。

<追記>

ある賛美(さんび)で、罪深(つみぶか)い自分に(かな)しんで、イエス様に心から(ゆる)しを求める場面が歌われていました。その人は、冷え切った体のまま、神の前にうなだれて、その時、(あたた)かい(なみだ)が冷たい手の上にこぼれ落ちたのです。

人間の(なみだ)、それは、ただ目から流れた液体などではなく、心が()(うご)かされるような姿です。

人間でも、自分の(ゆる)せない人が、そのように心から謝罪(しゃざい)して、(なみだ)を流すのを見たら、多くの場合(ゆる)すのではないでしょうか。

(つみ)(みと)め、(ゆる)しを()う姿も、その姿にあわれみを(おぼ)え、(ゆる)す思いも、神が与えた真実な人間の姿です。

人間の心を完全にご存知(ぞんじ)の神なら、なおさらです。そうです、人が神の前に心から、自分の(つみ)(みと)め、(かな)しみ、()(あらた)めるなら神は(ゆる)してくださるのです。

そして素晴(すば)らしいことに(なみだ)とは、(よろこ)んだ時も流れるのです。自分の(つみ)が神に(ゆる)された者は、心から笑顔で(よろこ)ぶことができるのです。

神もまた(なみだ)されます。神のひとり子キリストが人間の(つみ)の身代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことは、神が流された(なみだ)です。(かな)しみをこえた(よろこ)びの(なみだ)です。

このイエス様の十字架(じゅうじか)を自分の(つみ)のためと信じる時、本当の(なみだ)と笑顔の素晴(すば)らしいいのちの歩みがあります。

  小さな手~♪
 RYLE(リラ)
  
 ひときわ(かがや)く星の光が 小さな馬屋(うまや)()らした
 冷たい風 心まで (つらぬ)くこの世界に
 (つみ)の重さを知った私は 心(ふる)わせて向かった
 小さな(あか)(とも)る あなたのいるその部屋へ
  
 ※    あなたは今 この中に ()()おけで(ねむ)っている
 そっと()れた小さな手は 私のため(きず)つくこと 知っているのに
 (やさ)しく(にぎ)り返した 私に微笑(ほほえ)みながら
  
 冷たさに (こご)えた手のひらに (あたた)かな(なみだ)落ちてく
 変わらないものを求めては (きず)ついた日々の中で
 (いた)む心 (かか)えた私は 声を(ふる)わせて泣いた
 ありのままの姿を (つつ)()む愛の中で
 ※ 

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