マルコの福音書12章41-44節より
2021年3月21日主日礼拝メッセージ
金持ちたちは有り余る中から献金箱に大金を投げ入れましたが、貧しいやもめは、少ない金額でもすべてを捧げました。イエスはこのやもめは献金箱に投げ入れた誰よりも多く捧げたと言われました。
いくら捧げるかよりも、どれだけ犠牲を払って、神様に捧げるかが大切です。有り余った中から捧げるものを神様は決して喜ばれません。どれだけ上質で大切なものを捧げたのかで、神様に対する真実な心が現れるのです。
この貧しいやもめは、明日の心配をしていませんでした。すべて神様にお委ねしていました。お金よりも神様を信頼していました。
この世で、お金はどれくらい頼りになるでしょうか。いくら財産を蓄えても、完全に安心することはできません。お金でその価値以上のものを手にいれることはできません。しかし、神様にお金を捧げるなら、その価値以上の祝福を受けます。
お金だけでなく、時間や、仕事も生活も、人生を神様に対して捧げて生きるなら、私たちの人生は、私たちの考えをはるかに超えた神様の素晴らしいご計画の中にあります。
また聖書は言います。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」 (マタイの福音書16章26節)
いくらお金を払っても、永遠の死から救われません。罪の刑罰は永遠の滅びです。
キリストが十字架で死なれ高価な代価が払われました。それは私たちを滅びの淵から、命を救い出すためです。お金の価値基準は、このキリストの支払われた犠牲にこそあるのです。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8章9節)
神様はキリストの罪なき聖い命を差し出されました。それはすべての罪人を救うためです。キリストの十字架を信じて罪赦されて、永遠の命を受けた者は、自分の大切なものを喜んで、神様のために差し出すことができるのです。これこそ、まことの自由です。まことの豊かさです。アーメン。