マタイの福音書26章36-46節より
2023年2月26日
<聖書>
それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」
(マタイの福音書26章36-46節)
<説教>
最後の晩餐のあと、十字架へ向かってイエスは弟子たちを連れて祈られました。その場所はオリーブの木に囲まれたゲツセマネ(油しぼりの意味)と呼ばれます。そこでイエスは人間の罪の杯(さばきの憤りのぶどう酒)を飲み干すために、汗を血のようにしたたらせて祈られました。
イエスの十字架の前の祈りは、自分の願いではなく、父なる神のみこころがなされることでした。
弟子のパウロとヤコブとヨハネは祈ることができずに、疲れと悲しみに眠りこけてしまいました。
今も、イエスと共に祈る者は決して多くないと言われています。イエスはあなたに祈りの友となることを願われています。
苦しみや悲しみの意味がわからなくても、希望が閉ざされようとも、祈りましょう。どう祈っていいのかわからなくても、じつはイエスがあなたのために祈ってくださっています。あなたのつたない祈りも、イエスの御名で祈る時、イエスの祈りとされているのです。
体でわかること(目で見る、耳で聞く、鼻でにおう、手や肌で触る)がすべてではありません。あなたの前の現実の問題に絶望して、感覚を頼りにした誘惑に身を任せてはいけません。
神を信じる者の祈りには力があります。祈りは必ず答えられます。祈ることができず、疲れて、悲しみの果てに眠っても弟子たちはイエスのそばにいました。祈りはイエスのそばにいることです。そこにとどまるとき、イエスの愛と赦しがあなたを救ってくださいます。
祈りによって神があなたを変えてくださいます。状況を変えてくださいます。心が変えられます。知識でも理屈でもありません。あなたは信仰によってそれを実際に体験するのです。
神はあなたを神に祈る者としてご自身に似せて造られたのです。祈りは神を信じる者の特権であり、務めであり、励むべきことです。ただし、それは最高の人間の営みです。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイの福音書18章19-20節)
「病まなければ」河野 進
病まなければ 捧げ得ない悔い改めの祈りがあり
病まなければ 聞き得ない救いのみ言葉があり
病まなければ 負い得ない恵みの十字架があり
病まなければ 信じ得ないいやしの奇蹟があり
病まなければ 受け得ないいたわりの愛があり
病まなければ 近づき得ない清い聖壇があり
病まなければ 仰ぎ得ない輝く御顔がある
おお 病まなければ人間でさえあり得なかった