イエスは道

ヨハネの福音書13章36節-14章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月2日

<聖書>

シモン・ペテロがイエスに言った。「主(しゅ)よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主(しゅ)よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨(す)てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨(す)てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告(つ)げます。鶏(にわとり)が鳴(な)くまでに、あなたは三度(さんど)わたしを知らないと言います。」
「あなたがたは心を騒(さわ)がしてはなりません。神(かみ)を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住(す)まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備(そな)えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備(そな)えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎(むか)えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主(しゅ)よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道(みち)であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通(とお)してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章36節-14章11節)

<説教>

イエスが十字架(じゅうじか)に架(か)かって死ぬときが近づいていました。しかし弟子(でし)たちは、イエスがどこへ行こうとしているのかわかりませんでした。弟子(でし)たちはイエスが自分たちから遠(とお)く離(はな)れてしまうことを恐(おそ)れて、心が騒(さわ)いでいたのです。

イエスはそんな弟子(でし)たちに次のことを約束(やくそく)されます。

  1. イエスを信じる者は、かならず天国(てんごく)に用意(ようい)された「住まい」それも大邸宅(だいていたく)に住(す)むことができる。
  2. イエスは弟子(でし)たちのついていけない所に行くが、必(かなら)ずもう一度戻(もど)って来る。

私たちが第一に心配(しんぱい)すること、心騒(さわ)ぐことは将来(しょうらい)どうなるかということです。イエスを信じる者はこの神の約束(やくそく)を信(しん)じなければなりません。イエスはあなたを必(かなら)ず迎(むか)えに来て、天国(てんごく)に住(す)まわせてくださいます。

それでも、イエスの言われることがわからない弟子(でし)たちに言われます。

「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

(ヨハネの福音書14:6)

「イエスは道」とはどういう意味でしょうか。

「分(わ)け登(のぼ)る麓(ふもと)の道は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」

という句(く)があります。これはどんな宗教(しゅうきょう)も、結局(けっきょく)、最後は救(すく)われて天国(てんごく)へ行けるのだからどの宗教(しゅうきょう)も同じだという意味です。

しかし、聖書(せいしょ)はイエスを信(しん)じなければ、父なる神のもとへはいけないと明らかにしています。

はじめて行く場所への道を誰(だれ)かに聞いた場合、どんなに丁寧(ていねい)に行き方を教(おし)えてもらっても、本当にそこへたどり着(つ)けるかわかりません。

一番確実(かくじつ)な方法は、その目的地(もくてきち)への道を知っている人が、一緒(いっしょ)に案内(あんない)してくれることです。

私たちは一度切りの人生の中でどうやって生きていいのか迷(まよ)います。何が正しいのかわからなくなります。じっさい聖書(せいしょ)は次のように書いています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言(しんげん)14:12)

私たちをゴールに案内(あんない)してくれるのはイエスご自身(じしん)です。イエスとともに生きる時、安全(あんぜん)です。

イエスの言うことをよく聞いて、イエスを知ることが大切です。

道は踏(ふ)みつけられて道となります。

イエスは人間の罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。イエスの十字架(じゅうじか)の犠牲(ぎせい)によって、信(しん)じる者は神と和解(わかい)することができます。イエスが神への道を開いてくださいました。

人が救(すく)われるためにイエスが道となってくださいました。このイエスを信(しん)じて、いつも、このお方の聖書(せいしょ)のみことばに従(したが)うとき、偽(いつわ)りの滅(ほろ)びへの道から逃(のが)れて、天国に住(す)まうことができるのです。

この道は、人間の力で見つけて入れる道ではありません。

自分の罪(つみ)深(ぶか)さを知り、イエスを信(しん)じて、悔(く)い改(あらた)めて生きようとする者だけが見出すことのできる小さい門、狭(せま)い道なのです。そのときイエスが道となってくださるのです。

イエスを信(しん)じて、このお方に従(したが)う者は決(けっ)して、迷(まよ)って行(い)き詰(づま)ったりせず、イエスが迎(むか)えに来てくださり、神の用意(ようい)された天国の住(す)まいに必ずたどり着(つ)くことができます。

何より大切なのはこの道に入ることです。他の道では決(けっ)して天国につながることはありません。この道に入る者は幸(さいわ)いです。

狭(せま)い門から入りなさい。滅(ほろ)びに至(いた)る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至(いた)る門は小さく、その道は狭(せま)く、それを見いだす者はまれです。

(マタイ7:13-14)

日々の信仰が与える勝利

サムエル記第一17章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月25日

<聖書>

ペリシテ人は戦(たたか)いのために軍隊(ぐんたい)を召集(しょうしゅう)した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣(じん)を敷(し)いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣(じん)を敷(し)き、ペリシテ人を迎(むか)え撃(う)つため、戦(たたか)いの備(そな)えをした。ペリシテ人は向(む)こう側(がわ)の山の上に、イスラエル人はこちら側(がわ)の山の上に、谷を隔(へだ)てて相対(あいたい)した。ときに、ペリシテ人の陣営(じんえい)から、ひとりの代表(だいひょう)戦士(せんし)が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背(せ)の高さは六キュビト半。頭には青銅(せいどう)のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅(せいどう)で五千シェケル。足には青銅(せいどう)のすね当て、背中には青銅(せいどう)の投(な)げ槍(やり)。槍(やり)の柄(え)は機織(はたお)りの巻(ま)き棒(ぼう)のようであり、槍(やり)の穂先(ほさき)は、鉄(てつ)で六百シェケル。盾(たて)持(も)ちが彼の先を歩いていた。ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣(じん)に向(む)かって叫(さけ)んで言った。「おまえらは、なぜ、並(なら)んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷(どれい)ではないのか。ひとりを選(えら)んで、おれのところによこせ。おれと勝負(しょうぶ)して勝(か)ち、おれを打(う)ち殺(ころ)すなら、おれたちはおまえらの奴隷(どれい)となる。もし、おれが勝(か)って、そいつを殺(ころ)せば、おまえらがおれたちの奴隷(どれい)となり、おれたちに仕(つか)えるのだ。」そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣(じん)をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負(しょうぶ)をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈(いきしょうちん)し、非常(ひじょう)に恐(おそ)れた。

(サムエル記第一17章1-11節)

<説教>

イスラエル人は宿敵(しゅくてき)ぺリシテ人との戦(たたか)いに苦(くる)しんでいました。谷をはさんでお互いに緊迫(きんぱく)状態(じょうたい)でした。そこでぺリシテからは3メートルもある巨人(きょじん)でベテランの戦士(せんし)ゴリヤテがイスラエルに一対一の戦(たたか)いを申(もう)し出(で)ます。イスラエル人はゴリヤテの巨体(きょたい)や武器(ぶき)を見て、恐(おそ)れて戦(たたか)う勇気(ゆうき)を失(うしな)ってしまいます。そんな時、8人兄弟の末(すえ)っ子(こ)の若(わか)い羊飼(ひつじか)いダビデがゴリヤテを石一つで打(う)ち殺(ころ)したのです。

戦士(せんし)でもない若(わか)い羊飼(ひつじか)いダビデがなぜゴリヤテに勝利(しょうり)したのでしょうか。

① ダビデは恐(おそ)れに支配(しはい)されなかった

ゴリヤテは自分の巨体(きょたい)と武器(ぶき)を見せつけて、おどし文句(もんく)を言ってイスラエル人を恐(おそ)れさせました。戦(たたか)う時に恐(おそ)れは最大の敵(てき)です。多くの場合、戦(たたか)う前の心理戦(しんりせん)で勝敗(しょうはい)は決定します。

聖書(せいしょ)に中に「恐(おそ)れるな」という命令(めいれい)は約365回出ています。それだけ人は恐(おそ)れてしまうものなのです。

しかし、ダビデはゴリヤテを自分と比較(ひかく)せずに全能(ぜんのう)の神さまと比較(ひかく)したのです。すべてを支配(しはい)される神さまと比べたらゴリヤテは取(と)るに足(た)りない小さい者です。

見える状況(じょうきょう)ではなく神さまに信頼(しんらい)するとき信仰(しんこう)と大胆(だいたん)さが与(あた)えられます。

② ダビデは普段(ふだん)の生活の中で神さまに仕(つか)えていた

ダビデは普段(ふだん)から神さまと共に羊飼(ひつじか)いの仕事に仕(つか)えていました。羊(ひつじ)をライオンや熊(くま)に襲(おそ)われたときも、神さまが共におられ信仰(しんこう)と勇気(ゆうき)により戦(たたか)っていました。

ダビデは、普段(ふだん)からみことばを想(おも)いめぐらし、祈(いの)り、賛美(さんび)して神さまと共にいました。

ダビデはいきなりゴリヤテに勝利(しょうり)したのではありません。ダビデはどんな時も神さまに仕(つか)えて、信仰(しんこう)と勇気(ゆうき)が与(あた)えられ、普段(ふだん)の生活の中で訓練(くんれん)され下地(したじ)が作られていたのです。

羊飼(ひつじか)いは決してきれいな仕事では、末っ子のダビデは父からまったく注目(ちゅうもく)されていませんでした。しかし、神さまのご計画(けいかく)は誰(だれ)も知らないところで準備(じゅんび)されていました。目立たない普段(ふだん)の何気(なにげ)ないところでの神さまとの関わりがやがて、目に見える形となって現(あらわ)されるのです。

③ ダビデは神さまが勝利(しょうり)を与(あた)えてくださることを知っていた

ダビデは勝利(しょうり)の秘訣(ひけつ)を知ってしました。神さまに忠実(ちゅうじつ)であるなら、あとは神さまが必(かなら)ず助(たす)けて導(みちび)いてくださいます。

ダビデはたった一つの石で巨人ゴリヤテを打(う)ち倒(たお)しました。しかしダビデの本当の武器(ぶき)は万軍(ばんぐん)の主(しゅ)の御名(みな)(生けて働かれる神の力)です。すべての戦(たたか)いに勝利(しょうり)をもたらすのは万軍(ばんぐん)の主(しゅ)の御名(みな)です。神さまご自身が戦(たたか)いに出て挑(いど)まれるのです。

石とはメシヤ(キリスト)の象徴(しょうちょう)です。この石(キリスト)が巨人(悪魔(あくま))を打(う)ち倒(たお)すのです。

悪魔(あくま)はキリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりにより、完全に打(う)ち倒(たお)されました。私たちがイエス様の御名(みな)で祈(いの)り、みことばを信じて従(したが)う時、悪魔(あくま)は何も手を出すことは出来ません。

私たちの戦(たたか)いとは、剣(つるぎ)や盾(たて)によるのではなく、人間の内にあります。罪(つみ)に対して神のことばと信仰(しんこう)によって戦(たたか)いに勝利(しょうり)できるのです。

ダビデの勝利(しょうり)によって、イスラエルに神さまがおられることをすべての国に知らしめました。

今もキリスト者は信仰(しんこう)によって罪(つみ)に勝利(しょうり)して、世(よ)にイエス・キリストを証(あかし)するのです。

なぜなら、神によって生まれた者はみな、世(よ)に勝つからです。私たちの信仰(しんこう)、これこそ、世(よ)に打(う)ち勝った勝利(しょうり)です。世(よ)に勝つ者とはだれでしょう。

イエスを神の御子(みこ)と信じる者ではありませんか。

(ヨハネの手紙第一5:4-5)

山上の垂訓‐心の貧しい者は喜びなさい

マタイの福音書5章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月18日

<聖書>

この群衆(ぐんしゅう)を見て、イエスは山に登(のぼ)り、おすわりになると、弟子(でし)たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を開(ひら)き、彼らに教(おし)えて、言われた。

「心の貧(まず)しい者は幸(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。
悲(かな)しむ者は幸(さいわ)いです。その人たちは慰(なぐさ)められるから。
柔和(にゅうわ)な者は幸(さいわ)いです。その人たちは地を受(う)け継(つ)ぐから。
義(ぎ)に飢(う)え渇(かわ)く者は幸(さいわ)いです。その人たちは満(み)ち足(た)りるから。
あわれみ深(ふか)い者は幸(さいわ)いです。その人たちはあわれみを受(う)けるから。
心のきよい者は幸(さいわ)いです。その人たちは神(かみ)を見るから。
平和をつくる者は幸(さいわ)いです。その人たちは神(かみ)の子どもと呼(よ)ばれるから。
義(ぎ)のために迫害(はくがい)されている者は幸(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)5章1-10節)

<説教>

マタイの福音書(ふくいんしょ)の5章から7章は「山上(さんじょう)の垂訓(すいくん)」と言われる長い説教(せっきょう)です。これはイエス様が語られたいろいろな説教(せっきょう)をまとめたものです。イエス様はこのような教(おし)えを弟子(でし)たちに絶(た)えず、習慣的(しゅうかんてき)に教(おし)えられました。

内容(ないよう)はとても高い神(かみ)の道徳(どうとく)基準(きじゅん)であり、人間が守(まも)ろうとして守(まも)れるものではありません。

たとえば、「人を憎(にく)んではならない」、「情欲(じょうよく)をもって異性(いせい)を見てはならない」、「人前(ひとまえ)で善行(ぜんこう)してはならない」、「人をゆるしなさい」、「自分の宝(たから)を天(てん)にたくわえなさい」、「何を食べるか心配(しんぱい)してはいけない」、「人をさばいてはならない」「自分の敵(てき)を愛(あい)しなさい」など。

これらの教(おし)えによって、人は自分が罪(つみ)を犯(おか)したことを知ります。神(かみ)さまは自分が決(けっ)して正しくないことを気付(きづ)かせてくれるのです。これらの教(おし)えは本来(ほんらい)の人間の姿(すがた)、神(かみ)さまが造(つく)られた人間の姿(すがた)を表わしています。神(かみ)さまを信じて生きる時に、神(かみ)さまがそのような人間、イエス様に似(に)た者に造(つく)り変えてくださるのです。

「心が貧(まず)しい人」とはどういう意味(いみ)でしょうか。

それは、あまりにも貧(まず)しくて、力も地位(ちい)も助(だす)けもなく、人や社会(しゃかい)から責(せ)められ見放(みはな)されて、すべての希望(きぼう)を神(かみ)にかける人のことです。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)の詩篇(しへん)にも、次のようにあります。

「この悩(なや)む者が呼(よ)ばわったとき、【主(しゅ)】は聞かれた。こうして、主(しゅ)はすべての苦(くる)しみから彼を救(すく)われた。」
(詩篇(しへん)34:6)

「貧(まず)しい者は決(けっ)して忘(わす)れられない。悩(なや)む者の望(のぞ)みは、いつまでもなくならない。」
(詩篇(しへん)9:18)

詩篇(しへん)の中の貧(まず)しく悩(なや)む者とは、神(かみ)に近づいて神(かみ)に喜(よろこ)ばれる人のことです。

私たちは財産(ざいさん)や貯金(ちょきん)がたくさんあれば、人生が安全(あんぜん)で保障(ほしょう)されると思っていました。幸(しあわ)せの多くがそのようなものだと考えていたかもしれません。

しかし、自分が人からある意味(いみ)で見放(みはな)された存在(そんざい)であると知り、心から全力(ぜんりょく)で神(かみ)さまに信頼(しんらい)する者は次のことを知るのです。

  • 物への執着(しゅうちゃく)がなくなっていく。物質(ぶっしつ)が人間に幸福(こうふく)や安全(あんぜん)を与(あた)えるのではない。
  • 神(かみ)さまだけが自分を助(たす)け、望(のぞ)みと力を与(あた)えることができる。

私たちの本当の問題(もんだい)は、貧乏(びんぼう)でみじめか、お金や物があって裕福(ゆうふく)かどうかなのではありません。それらは第一ではなく、実は自分(じぶん)自身(じしん)の内には、生きる希望(きぼう)や救(すく)いがまったくないと知ることなのです。

人間は弱(よわ)く、小さく、罪深(つみぶか)い者なのです。神(かみ)さまを必要(ひつよう)とする存在(そんざい)なのです。神(かみ)さまを頼(たよ)って、助(たす)けられなければ、罪深(つみぶか)い生き方から本当の人間として生きることはできません。

自分のありのままを受(う)け入れてくださる神(かみ)さまを信頼(しんらい)しましょう。そのとき本当の自分のすべてを愛(あい)して生きていけるのです。「神(かみ)さまと自分を知る」とき本当の人生が始まるのです。

「心の貧(まず)しい者は幸(さいわ)いです。」は原文のアラム語では、単調(たんちょう)な文ではありません。「ああ、幸(さいわ)いなるかな、心の貧(まず)しき者!」という感動(かんどう)に満(み)ちた意味(いみ)です。

この世(よ)の喜(よろこ)びは、健康(けんこう)が失(うしな)われた時、計画(けいかく)が失敗(しっぱい)した時、希望(きぼう)がかなえられなかった時にはかなく去(さ)っていきます。

しかし、イエス・キリストを信(しん)じる者は深(ふか)い静(しず)かな喜(よろこ)び、なにものにも変えられない喜(よろこ)びをもっています。

苦痛(くつう)の中、損失(そんしつ)、悲(かな)しみ、痛(いた)み、涙(なみだ)の中にも心に満(み)ち、消(け)すことのできない喜(よろこ)び、それは死(し)さえも奪(うば)い取(と)ることのできない喜(よろこ)びです。罪(つみ)の赦(ゆる)しを受(う)け、救(すく)われた者の勝利(しょうり)の叫(さけ)びです。

これはイエス・キリストと共に歩む者だけが持っているのです。

イエス様があなたの罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死(し)んでくださいました。このお方に何も心配(しんぱい)せずにおゆだねして、従(したが)っていきましょう。

神さまは心の動機を見られる

マタイの福音書20章1-16節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月11日

<聖書>

天の御国(みくに)は、自分のぶどう園(えん)で働(はたら)く労務者(ろうむしゃ)を雇(やと)いに朝早く出かけた主人(しゅじん)のようなものです。彼は、労務者(ろうむしゃ)たちと一日一デナリの約束(やくそく)ができると、彼らをぶどう園(えん)にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場(いちば)に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園(えん)に行きなさい。相当(そうとう)のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中(いちにちじゅう)仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも雇(やと)ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園(えん)に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう園(えん)の主人(しゅじん)は、監督(かんとく)に言った。『労務者(ろうむしゃ)たちを呼(よ)んで、最後(さいご)に来た者たちから順(じゅん)に、最初(さいしょ)に来た者たちにまで、賃金(ちんぎん)を払(はら)ってやりなさい。』そこで、五時ごろに雇(やと)われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初(さいしょ)の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを受(う)け取(と)ると、主人(しゅじん)に文句(もんく)をつけて、言った。『この最後(さいご)の連中(れんちゅう)は一時間しか働(はたら)かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中(いちにちじゅう)、労苦(ろうく)と焼(や)けるような暑(あつ)さを辛抱(しんぼう)したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当(ふとう)なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束(やくそく)をしたではありませんか。自分の分を取(と)って帰(かえ)りなさい。ただ私としては、この最後(さいご)の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法(ほう)がありますか。それとも、私が気前(きまえ)がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が先(さき)になり、先(さき)の者があとになるものです。」

(マタイの福音書20章1-16節)

<説教>

ぶどうは雨季(うき)になる前に急いで収穫(しゅうかく)します。雨にぬれるとぶどうが腐(くさ)ってだめになるからです。そのために多くの働き人が必要となります。イスラエルでは実際(じっさい)に、ぶどう園(えん)の主人(しゅじん)は朝の市場(いちば)で労働者(ろうどうしゃ)を募集(ぼしゅう)しました。

朝早く(6時)から一日中(いちにちじゅう)、労苦(ろうく)と焼(や)けるような暑(あつ)さの中を働いた人たち、9時、12時、午後3時、そして午後5時に一時間だけ働いた人たちがいます。どちらも賃金(ちんぎん)は1デナリでした。

朝早くから仕事を与(あた)えられた人たちは、一日(12時間)1デナリの約束(やくそく)をしました。しかし、それ以外(いがい)の人たちは、特(とく)に労働(ろうどう)条件(じょうけん)があったわけではありません。ただ「それ相応(そうおう)の報酬(ほうしゅう)」があると言われただけでした。

また、午後5時に市場(いちば)に立っていた人たちは「誰(だれ)も雇(やと)ってくれない」と言っています。

しかし、一日の終わりに最後に1時間しか働(はたら)かなかった者から順番(じゅんばん)に賃金(ちんぎん)が支払(しはら)われます。それも1デナリです。12時間働(はたら)いた者は不平(ふへい)を言いました。

朝(あさ)早(はや)くから働(はたら)いた者たちは、自分たちは労働(ろうどう)の契約(けいやく)を交(か)わした特別(とくべつ)の存在(そんざい)だと過信(かしん)しました。そして、彼らは義務的(ぎむてき)に報酬(ほうしゅう)のために働(はたら)いのです。

しかし、午後5時からの労働者は、いくら報酬(ほうしゅう)があるかも気にせず、雇(やと)ってくれた主人(しゅじん)を信頼(しんらい)して、お金のために義務的(ぎむてき)に働(はたら)くのではなく、喜(よろこ)び、感謝(かんしゃ)の姿勢(しせい)がありました。

このたとえ話は、神さまに仕(つか)えて生きる姿勢(しせい)をあらわしています。神さまを第一にして生きるとき、ただ報酬(ほうしゅう)のためだけに仕(つか)えるのではなく、神さまに喜(よろこ)んでいただきたいという姿勢(しせい)が大切です。取(と)り決(ぎ)めや、条件(じょうけん)、約束(やくそく)だけに縛(しば)られて働(はたら)くのではなく、どのような心の姿勢(しせい)で、また動機(どうき)を神さまは問(と)われるのです。

心が正しければ、働(はたら)きも正しくされます。心が利己的(りこてき)で貪欲(どんよく)であるなら、働(はたら)きも悪いものとなります。わたしたちと神様との関係がどうであるかが大切なのです。

イエス様を信じる者、イエス様のために生きていこうとする者は、自分が思う以上の報酬(ほうしゅう)を与(あた)えられることでしょう。人間にはその人の働(はたら)きを見た目や結果(けっか)でしか判断(はんだん)できません。それは、心の動機(どうき)や心の状態(じょうたい)を理解(りかい)することができないからです。 しかし、この地上(ちじょう)の、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)な順序(じゅんじょ)や、この世から認(みと)められる優劣(ゆうれつ)は、神さまによってすべて反対にされます。神さまは、物事の結果(けっか)だけでなく、そのプロセス、心を見られるからです。

神さまを信(しん)じて仕(つか)えたら、いくら報酬(ほうしゅう)があるのか、どんな利益(りえき)があるのか。そんなことは何も心配(しんぱい)しなくてよいのです。神さまは、それ相応(そうおう)のよいものをくださいます。

あなたの人生(じんせい)が今までどうであったかは大した問題ではありません。大切なのは、見返(みかえ)りを求(もと)めてイエス様を信(しん)じるのではなく、イエス様という人格(じんかく)を心から信頼(しんらい)する者を神さまは喜(よろこ)ばれます。

この地上(ちじょう)の人生(じんせい)を終えた後、天の御国(みくに)に迎(むか)え入(い)れていただき、神の子どもとしての財産(ざいさん)を受(う)け継(つ)ぎます。もちろんこの地上(ちじょう)の歩みも神様とつながり祝福(しゅくふく)が注(そそ)がれます。

罪と赦し

詩篇(しへん)51篇(ぺん)1-12節(せつ)より

土山みことばキリスト教会

2023年6月4日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言(よげん)者ナタンが彼のもとに来たとき

神(かみ)よ。御恵(みめぐ)みによって、私に情(なさ)けをかけ、あなたの豊(ゆた)かなあわれみによって、私のそむきの罪(つみ)をぬぐい去(さ)ってください。どうか私の咎(とが)を、私から全(まった)く洗(あら)い去(さ)り、私の罪(つみ)から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪(つみ)を知っています。私の罪(つみ)は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪(つみ)を犯(おか)し、あなたの御目(おんめ)に悪(あく)であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告(せんこく)されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎(とが)ある者として生まれ、罪(つみ)ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実(しんじつ)を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥(おく)に知恵(ちえ)を教(すく)えてください。ヒソプをもって私の罪(つみ)を除(のぞ)いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗(あら)ってください。そうすれば、私は雪(ゆき)よりも白くなりましょう。私に、楽(たの)しみと喜(よろこ)びを、聞(き)かせてください。そうすれば、あなたがお砕(くだ)きになった骨(ほね)が、喜(よろこ)ぶことでしょう。 御顔(みかお)を私の罪(つみ)から隠(かく)し、私の咎(とが)をことごとく、ぬぐい去(さ)ってください。神(かみ)よ。私にきよい心を造(つく)り、ゆるがない霊(れい)を私のうちに新(あたら)しくしてください。私をあなたの御前(みまえ)から、投(な)げ捨(す)てず、あなたの聖霊(せいれい)を、私から取(と)り去(さ)らないでください。あなたの救(すく)いの喜(よろこ)びを、私に返(かえ)し、喜(よろこ)んで仕(つか)える霊(れい)が、私をささえますように。

(詩篇(しへん)51篇(ぺん)1-12節(せつ))

<説教>

「あなた」と「わたし」と聞いて、何を連想(れんそう)しますか?

聖書(せいしょ)はずばり「神」と「私」の関係です。この詩篇(しへん)51篇の19節中で原語(げんご)では「私」が38回、「あなた」が47回出てきます。

罪(つみ)の赦(ゆる)しは、たんに懺悔(ざんげ)のような自分一人の独白(どくはく)ではなく、気分的に楽になるのでもありません。神との親密(しんみつ)な関係の中に確(たし)かな赦(ゆる)しが与えられるのです。

この詩篇(しへん)の中で、信仰者(しんこうしゃ)であったダビデはひたすら罪(つみ)の赦(ゆる)しを願(ねが)います。神を信じる者を神は決して見捨(みす)てない「御恵(みめぐ)み」(ヘブル語のヘセドで契約(けいやく)にもとづく愛の意味)、「あわれみ」(ヘブル語ラーハムで母の胎(たい)、子への生命の愛の意味)にすがります。

そして彼は、自分が罪(つみ)ある者であることを正直(しょうじき)に告白(こくはく)します。ダビデが自分の罪(つみ)を知ったのは、彼に語った預言者(よげんしゃ)ナタンの言葉によってでした。ダビデ王の権力(けんりょく)によって、ナタンを消しさることもできました。しかし、ダビデは神のことばを真実(しんじつ)なものとして罪(つみ)の赦(ゆる)しを乞いました。

罪(つみ)とはそれが発覚(はっかく)するかどうかはまったく関係ありません。神はすべての罪(つみ)をご存知(ぞんじ)だと聖書(せいしょ)は言うのです。罪(つみ)とは神を信じる者が、神の知恵(ちえ)によって認(みと)めることができるのです。

しかし同時にその神だけが罪(つみ)の解決(かいけつ)をお持ちです。ダビデは9節で「御顔(みかお)を私の罪(つみ)から隠(かく)し」てくださいと祈(いの)ります。すべての罪(つみ)をご存知(ぞんじ)の神に対して無意味(むいみ)にも思えます。しかし、すべての罪(つみ)をご存知(ぞんじ)の神が、人間の罪(つみ)を覆(おお)い隠(かく)してくださる。これは、新約(しんやく)聖書(せいしょ)のイエス・キリストの十字架(じゅうじか)の罪(つみ)の贖(あがな)いへとつながっていくのです。

さらに、ダビデはただ儀式的(ぎしきてき)に罪(つみ)が赦(ゆる)されるのではなく、彼の内の罪(つみ)の性質(せいしつ)が変えられ、きよめられ、新しく創(つく)り変えられることを願(ねが)い求(もと)めるのです。

人間の許(ゆる)しとは大目(おおめ)に見ること、我慢(がまん)することでしょう。しかし、神の赦(ゆる)しは、完全(かんぜん)であるだけでなく、義(ぎ)なる(正しい)者に内側(うちがわ)から刷新(さっしん)することを言うのです。

聖書(せいしょ)の最初は

「初めに、神が天と地を創造(そうぞう)した。」(創世記(そうせいき)1:1)

です。ここの「創造(そうぞう)した」はヘブル原語でバーラーという言葉です。これは主語(しゅご)が「神」の時だけに使われる特別な言葉です。

本編(ほんぺん)の10節の「私にきよい心を造(つく)り」の「造(つく)り」に使われているのがこのバーラーです。神を信じる者は、罪(つみ)が赦(ゆる)され、神によってその心が雪よりも白く造(つく)り変えられるのです。

そのためにいかなる捧(ささ)げものや犠牲(ぎせい)も必要(ひつよう)ありません。その犠牲(ぎせい)はイエス・キリストが十字架(じゅうじか)でその尊(とうと)い命すべてを捧(ささ)げてくださいました。

人間の側で必要(ひつよう)なのは、次の聖書(せいしょ)の言葉にあらわされています。

神へのいけにえは、砕(くだ)かれたたましい。砕(くだ)かれた、悔(く)いた心。

神よ。あなたは、それをさげすまれません。       (詩篇(しへん)51篇17節)

どんな罪(つみ)を犯したとしても、絶望(ぜつぼう)してはいけません。イエス・キリストはあなたの罪(つみ)のために死んでくださいました。告白(こくはく)だけが人を罪(つみ)から救(すく)ってくれます。

いかなる罪(つみ)であっても、悔(く)い改(あらた)めるなら、あなたは神から失(うしな)われることなく、神とともに生き続けることができます。そして神だけがあなたの大切な人生を、いつも新しく切り開き、造(つく)られるお方なのです。この地上だけでなく永遠にです。

キリストにあってすべてが新しい

コリント人への手紙第二5章11-21節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月28日

<説教>

こういうわけで、私たちは、主(しゅ)を恐(おそ)れることを知っているので、人々を説得(せっとく)しようとするのです。私たちのことは、神の御前(みまえ)に明(あき)らかです。しかし、あなたがたの良心(りょうしん)にも明(あき)らかになることが、私の望(のぞ)みです。私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦(すいせん)しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇(ほこ)る機会(きかい)をあなたがたに与(あた)えて、心においてではなく、うわべのことで誇(ほこ)る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂(くる)っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気(しょうき)であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取(と)り囲(かこ)んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後(こんご)、人間的な標準(ひょうじゅん)で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準(ひょうじゅん)でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造(つく)られた者です。古いものは過(す)ぎ去(さ)って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解(わかい)させ、また和解(わかい)の務(つと)めを私たちに与(あた)えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世(よ)をご自分と和解(わかい)させ、違反(いはん)行為(こうい)の責(せ)めを人々に負(お)わせないで、和解(わかい)のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節(しせつ)なのです。ちょうど神が私たちを通(とお)して懇願(こんがん)しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解(わかい)を受(う)け入(い)れなさい。神は、罪(つみ)を知らない方を、私たちの代わりに罪(つみ)とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義(ぎ)となるためです。

(コリント人への手紙第二5章11-21節)

<説教>

あなたは新しく生まれ変わりたいですか。

人間の体の90%は生まれ変わっているのをご存知(ぞんじ)ですか。古(ふる)い細胞(さいぼう)が新しい細胞(さいぼう)に入れ替わるのです。約4か月前に食べたものが今の、あなたの血や肉や骨になっているのです。

脳(のう)細胞(さいぼう)(脳(のう)みそ)と心筋(しんきん)細胞(さいぼう)(心臓(しんぞう)の筋肉(きんにく))以外(いがい)の細胞(さいぼう)は、物質的(ぶっしつてき)にほとんど入(い)れ替(か)わっていると言われています。約1年半後、見た目は変わらなくてもあなたはほぼ別人になっているわけです。

驚(おどろ)きですね。しかし、この人間を創(つく)られた神は、人の内面(うちめん)をも創(つく)り変(か)えることができるのです。

その方法は、聖書(せいしょ)を読んで、自分の罪(つみ)に気付(きづ)き、心を入(い)れ替(か)えて、神を信じて愛して生きることです。それ以外(いがい)に、人間は新しく生きることは決(けっ)してできません。

イエスが自分の罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださったこと、また三日目によみがえられたことを信じるなら、その瞬間(しゅんかん)、あなたの霊(れい)、魂(たましい)は新しくされます。あなたの中に、イエスが生き始めてくださいます。

外見(がいけん)は何も変わっていないように思えるかも知れません。しかし、その変化は時間が経(た)つに従(したが)って明らかにあらわれます。罪(つみ)に対して適当(てきとう)にごまかして生きることができなくされ、真実(しんじつ)に生きようという思いが与(あた)えられます。自分の弱さを知り、イエス様を求めるようになります。人生の価値(かち)や基準(きじゅん)が変えられます。生きる目的がはっきりし、自分を大切に健全(けんぜん)に愛(あい)する者へと変えられます。

それは、すべてイエス・キリストに似(に)た者へと変えられることであると聖書(せいしょ)は言っています。

イエスは神(かみ)でありながら、人間としてこの地上に来られ、父なる神(かみ)を大切に愛(あい)して従(したが)い、人々を愛(あい)して、人間の本来(ほんらい)の生き方を教(おし)えて下さいました。

人間は愛(あい)している者、信じている者に似(に)ていきます。イエスを信じて愛(あい)して生きるとき、まったく新しい人生を始めることができるのです。

命とは不思議(ふしぎ)なものです。命の誕生(たんじょう)は人間には説明できません。

あなたは自分が生まれたときのことを覚(おぼ)えていますか。おそらく何も覚(おぼ)えていないでしょう。しかし、心を入れ替(か)えてイエスを信じて生きようとするなら、もう一度新しく魂(たましい)が生まれ変わります。それは、あなたの喜(よろこ)びと希望(きぼう)となり、イエスこそがあなたの人生の目的になることでしょう。

信仰は神に答えるただ一つの手段

創世記11章27節-12章4節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月21日

<聖書>

これはテラの歴史(れきし)である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中(ぞんめいちゅう)、彼の生まれ故郷(こきょう)であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊(ふにん)の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。【主】はアブラムに仰(おお)せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷(こきょう)、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福(しゅくふく)し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福(しゅくふく)となる。あなたを祝福(しゅくふく)する者をわたしは祝福(しゅくふく)し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族(みんぞく)は、あなたによって祝福(しゅくふく)される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

(創世記11章27節-12章4節)

<説教>

創世記(そうせいき)は、「人類(じんるい)の初(はじ)め」について書かれています。宇宙(うちゅう)の創造(そうぞう)、人間の創造(そうぞう)、人間の堕落(だらく)、ノアの洪水(こうずい)による神の審判(しんぱん)、バベルの塔(とう)の後、言葉が混乱(こんらん)して、人々は散(ち)り散(ぢ)りにされました。

しかし、神に背(そむ)き、自己(じこ)中心(ちゅうしん)に生きようとする罪深(つみぶか)い人間に、神はいつも語りかけてくださいます。

人間を罪(つみ)と死の滅(ほろ)びから、救い出そうとする神の贖(あがな)いの計画は、ひとりの人物、アブラハムから始まります。

神はアブラハムの心が神の御前(みまえ)に真実(しんじつ)であるのをご覧(らん)になります。しかし、アブラハムは、異邦(いほう)の神、偶像(ぐうぞう)を神とするウルの町に住んでいました。神はアブラハムをそこから救(すく)い出されます。神の語りかけに答えるならは、人は罪(つみ)の世から分離(ぶんり)(聖(せい)別(べつ))されていきます。

75歳で子供のないアブラハムにとって、自分の子孫(しそん)を通して祝福(しゅくふく)を与える神の約束(やくそく)は、常識(じょうしき)では信(しん)じられないものでした。神の約束(やくそく)はかならず果(は)たされますが、その中に信仰(しんこう)の試練(しれん)が含まれています。

神は高齢(こうれい)のアブラハム夫婦(ふうふ)から星の数ほどの子孫(しそん)を与(あた)えることがおできになることをアブラハムは信仰(しんこう)によって信(しん)じました。そうです。神は約束(やくそく)されたことを必ず実現(じつげん)されます。神の語りかけに、アブラハムはすぐに答えました。まったく未知(みち)の地へ新しく進(すす)みだしたのです。

神の約束(やくそく)を受(う)け取(と)るただ一つの方法は「信仰(しんこう)」です。神のことばを間違(まちが)いのない真実(しんじつ)なものと信(しん)じることです。

聖書(せいしょ)のいう信仰(しんこう)者とは、正しい行いを守ることによっていただくよりも深い、真実(しんじつ)な神との関係を知っていました。

聖書(せいしょ)は初(はじ)めから終わりまで信仰(しんこう)によって受(う)け取(と)る神の約束(やくそく)です。

イエス・キリストを救(すく)い主(しゅ)と信じる信仰(しんこう)は特別(とくべつ)なものでなく、人間が創造(そうぞう)された昔(むかし)から神に対する人間ができる唯一(ゆいいつ)の応答(おうとう)なのです。

アブラハムに約束された祝福(しゅくふく)は、イエス・キリストを通して完全(かんぜん)に成就(じょうじゅ)しました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神を信じる者を義(ぎ)(罪(つみ)のない者)と認(みと)めてくださいます。

イエスに従う者の生き方

マルコの福音書10章35-45節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月14日

<聖書>

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼(たの)み事(ごと)をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光(えいこう)の座(ざ)で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求(もと)めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲(の)もうとする杯(さかずき)を飲(の)み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲(の)む杯(さかずき)を飲(の)み、わたしの受(う)けるべきバプテスマを受(う)けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許(ゆる)すことではありません。それに備(そな)えられた人々があるのです。」十人の者(もの)がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹(はら)を立(た)てた。そこで、イエスは彼らを呼(よ)び寄(よ)せて、言われた。「あなたがたも知(し)っているとおり、異邦人(いほうじん)の支配者(しはいしゃ)と認(みと)められた者(もの)たちは彼らを支配(しはい)し、また、偉(えら)い人たちは彼らの上に権力(けんりょく)をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉(えら)くなりたいと思う者(もの)は、みなに仕(つか)える者(もの)になりなさい。あなたがたの間で人の先に立(た)ちたいと思う者(もの)は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕(つか)えられるためではなく、かえって仕(つか)えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを与(あた)えるためなのです。」

(マルコの福音書(ふくいんしょ)10章35-45節)

<説教>

イエスの弟子(でし)のヤコブとヨハネは他の弟子(でし)たちと同じように、すべてを捨(す)ててイエスに従(したが)ってきました。しかし、心の中では人よりも自分が評価(ひょうか)されたいとも考えていました。

かつて弟子(でし)たちは天国(てんごく)で一番偉(えら)い者とはどのような人かをイエスに質問(しつもん)しました。人間とはそもそも偉(えら)くなりたい、認(みと)められたいと願(ねが)うものなのです。

キリスト者とはイエスに従(したが)って生きる者です。そこには自分のためだけに生きる者が経験(けいけん)しない試練(しれん)や苦(くる)しみがあることでしょう。

けれども、たとえイエスと苦(くる)しみをともに受(う)けても天国(てんごく)で受(う)ける報(むく)いの確約(かくやく)を取(と)ることはできません。究極的(きゅうきょくてき)にはすべての最後の権限(けんげん)はキリストの父である神(かみ)にあります。私たちが求(もと)めるべきは、いかに報(むく)いを受(う)けるかよりも、いかにイエスに従(したが)って仕(つか)えていくかなのです。

イエスを信(しん)じて生きる者は、この世の権力者(けんりょくしゃ)のようであってはなりません。神(かみ)の前では、そのような権力(けんりょく)や力はまったく通用(つうよう)しません。神(かみ)の前では人に仕(つか)える者こそ尊(たっと)ばれる生き方です。仕(つか)える給仕(きゅうじ)、しもべのように役に立つ、謙遜(けんそん)な姿勢(しせい)がキリスト者の根本的(こんぽんてき)な姿勢(しせい)です。

イエスは、その救(すく)い主(ぬし)(メシヤ)としての生涯(しょうがい)を通(とお)して仕(つか)えるしもべの生き方を示(しめ)されました。その十字架(じゅうじか)こそが完全(かんぜん)な模範(もはん)でした。

「贖(あがな)いの代価(だいか)(ギリュトゥトロン)」とは、自分の力ではどうしても抜(ぬ)け出せない罪(つみ)の奴隷(どれい)状態(じょうたい)から人間を救(すく)い出すためにイエスが十字架(じゅうじか)で支払(しはら)われた命(いのち)です。

十字架(じゅうじか)の死にまで従(したが)ったイエスのお姿を知って、私たちがイエスを信(しん)じて愛(あい)するとき、私たちもまた誰(だれ)かに仕(つか)えることによってイエスの愛(あい)と十字架(じゅうじか)を本当に体験(たいけん)します。その生き方によって私たちはイエスに似(に)た真実(しんじつ)な人間に変えられていきます。

この世で人々から称賛(しょうさん)されるのは、さまざまな勝者(しょうしゃ)といわれる人たちかも知れません。しかし、神(かみ)が天国(てんごく)で冠(かんむり)をかぶらせてくれる者とは、誰(だれ)にも知られないような人生の中で、小さきものに仕(つか)えた者なのです。

驚くべき恵み~キリストと共に生かす

エペソ人への手紙2章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月7日

<聖書>

あなたがたは自分の罪過(ざいか)と罪(つみ)との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪(つみ)の中にあってこの世(よ)の流(なが)れに従(したが)い、空中(くうちゅう)の権威(けんい)を持つ支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に働(はたら)いている霊(れい)に従(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の肉(にく)の欲(よく)の中に生き、肉(にく)と心の望(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを受(う)けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊(ゆた)かな神(かみ)は、私たちを愛(あい)してくださったその大きな愛(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救(すく)われたのは、ただ恵(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙2章1-5節)

<説教>

神(かみ)の驚(おどろ)くべき、信(しん)じがたい恵(めぐ)みを知るには、人間がいかにひどい状態(じょうたい)なのかを知る必要(ひつよう)があります。

死とはやがて迎(むか)える未来(みらい)のことではなく、今現在(げんざい)の人間の姿(すがた)こそが死(し)であると聖書(せいしょ)ははっきりと示しています。すなわち、死(し)とは、人間の生命(せいめい)の源(みなもと)である神(かみ)との関係を失(うしな)った状態(じょうたい)を言うのです。人間の霊(れい)は「病(や)んでいる」とか「弱(よわ)っている」とかではなく、「死(し)んでいる」のです。

人間は罪(つみ)と共に生まれてきます。その人間は罪(つみ)に支配(しはい)され、奴隷(どれい)とされて、神(かみ)に従(したが)うことができません。人間とは生まれながら神(かみ)の御怒(みいか)りを受(う)けるべき子どもなのです。この御怒(みいか)りとはすべての人間が死後(しご)に受(う)ける審判(しんぱん)のことです。

しかし、神(かみ)の愛(あい)は、人間に次のような信(しん)じられない恵(めぐ)みを与(あた)えてくださいます。

  • 神(かみ)への扉(とびら)は開(ひら)かれています

道を外れて家出した子どもは、もう帰る家の戸(と)はかたく閉(と)ざされていると考えるかも知れません。キリストの十字架(じゅうじか)の罪(つみ)の贖(あがな)いによって、信(しん)じる者はいつでも神(かみ)への和解(わかい)の道が用意(ようい)されています。神(かみ)は悔(く)い改(あらた)めて戻(もど)ってくる人間を喜(よろこ)んで待っておられます。

  • 罪(つみ)によって死(し)んだ理想(りそう)の灯(ひ)をともしてくださいます

人間は罪(つみ)を繰(く)り返(かえ)すことによって、人生の気高(けだか)い理想(りそう)を失(うしな)ってしまいます。しかしキリストの恵(めぐ)みは、消(き)え去(さ)った理想(りそう)にふたたび灯(ひ)をともします。人生はふたたび生きる価値(かち)あるものとされます。

  • 罪(つみ)によって失(うしな)われた意志(いし)に命を吹(ふ)き込(こ)み新しく造(つく)り変(か)えてくださいます

罪(つみ)は徐々(じょじょ)に、しかし確実(かくじつ)に人間の尊(とうと)い意志(いし)を破(は)滅(めつ)させてしまいます。禁(きん)じられた悪いことがやめられなくなり、人間の正しい自由(じゆう)意志(いし)の力を奪(うば)い去(さ)ります。そしてまったくなす術(すべ)もなく罪(つみ)の鎖(くさり)に縛(しば)られてしまうのです。しかし、キリストは失(うしな)われた意志(いし)を新しく造(つく)られます。愛(あい)は人に新しい力を与(あた)えるのです。人間の真実(しんじつ)の愛(あい)が人に生きる力を与(あた)えるとしたら神(かみ)の愛(あい)ははるかにそれ以上です。人はキリストを愛(あい)するとき、まさに、その愛(あい)が私たちの意志(いし)を善(ぜん)に向(む)けて新しく造(つく)り変(か)えるのです。

この素晴(すば)らしい神(かみ)の恵(めぐ)み(プレゼント)はすべて無料(むりょう)です。赦(ゆる)しは、ただ神(かみ)の一方的(いっぽうてき)な愛(あい)の行いです。人間の側(がわ)に出来(でき)ることは何一つないのです。

キリストの十字架(じゅうじか)の死(し)を、自分の罪(つみ)の身代(みが)わりであると感謝(かんしゃ)して、ただ受(う)け取(と)るならば、あなたはこの恵(めぐ)みをご自分のものとすることができるのです。

信仰によってイエスと生きる

マタイの福音書14章22-33節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月30日

<聖書>

それからすぐ、イエスは弟子(でし)たちを強(し)いて舟(ふね)に乗(の)り込(こ)ませて、自分より先に向(む)こう岸(きし)へ行かせ、その間に群衆(ぐんしゅう)を帰(かえ)してしまわれた。群衆(ぐんしゅう)を帰(かえ)したあとで、祈(いの)るために、ひとりで山に登(のぼ)られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟(ふね)は、陸(りく)からもう何キロメートルも離(はな)れていたが、風が向(む)かい風なので、波(なみ)に悩(なや)まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖(みずうみ)の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子(でし)たちは、イエスが湖(みずうみ)の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊(ゆうれい)だ」と言って、おびえてしまい、恐(おそ)ろしさのあまり、叫(さけ)び声(ごえ)を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐(おそ)れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主(しゅ)よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命(めい)じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟(ふね)から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈(しず)みかけたので叫(さけ)び出し、「主(しゅ)よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸(の)ばして、彼をつかんで言われた。「信仰(しんこう)の薄(うす)い人だな。なぜ疑(うたが)うのか。」そして、ふたりが舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)ると、風がやんだ。そこで、舟(ふね)の中にいた者たちは、イエスを拝(おが)んで、「確(たし)かにあなたは神(かみ)の子です」と言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)14章22-33節)

<説教>

このお話しは、イエスが5つのパンと2匹の魚から5千人に食事(しょくじ)を与(あた)えた奇蹟(きせき)の後の出来事(できごと)です。

弟子(でし)たちは、真夜中(まよなか)の海で向かい風と強い波(なみ)に悪戦苦闘(あくせんくとう)していました。そんな弟子(でし)たちを慰(なぐさ)めるためにイエスは海の上を歩いて弟子(でし)たちに近づきました。

疲(つか)れ切(き)った弟子(でし)たちは、昼間の奇蹟(きせき)を忘れて、イエスを幽霊(ゆうれい)と見(み)間違(まちが)って恐(おそ)れます。イエスは弟子(でし)たちに言われます

「しっかりしなさい。わたしだ。恐(おそ)れることはない」

これは現実(げんじつ)の問題(もんだい)に恐(おそ)れてしまう私たちへのイエスのおことばです。どんな状況(じょうきょう)の中であってもイエスを信(しん)じることだけがあなたを守(まも)ってくれるのです。

イエスのことばを信(しん)じたときペテロの恐(おそ)れは消(き)え、イエスだけを真(ま)っ直(す)ぐに見て水の上を歩くことができました。しかし、その直後(ちょくご)に風と波(なみ)を見たとき彼の心に恐(おそ)れが生まれ、海に沈(しず)みそうになります。信(しん)じ続(つづ)けることが難(むずか)しいのです。

科学(かがく)では人間は絶対(ぜったい)に水の上を歩けません。重力(じゅうりょく)や浮力(ふりょく)の法則(ほうそく)に逆(さか)らうことができないからです。この天地(てんち)万物(ばんぶつ)を造(つく)られた神(かみ)を信じる者は幸(さいわ)いです。神(かみ)は見えるものだけでなく、時間や光、力やあらゆる物理(ぶつり)法則(ほうそく)も定(さだ)められました。

しかしイエスを信(しん)じる信仰(しんこう)は、重力(じゅうりょく)や浮力(ふりょく)に逆(さか)らって水の上を歩くより驚(おどろ)くべきことです。それは人間にはどうすることもできない罪(つみ)の力、人間をがんじがらめにしている罪(つみ)の鎖(くさり)からの解放(かいほう)です。イエスが十字架(じゅうじか)で死んでくださり、よみがえられたことで、罪(つみ)の力はもう取(と)り去(さ)られたのです。イエスを信(しん)じるなら、罪(つみ)の力はもうあなたを深(ふか)い闇(やみ)に沈(しず)めることはできません。

水の上を歩くよりも不思議(ふしぎ)な道です。それは目には見えない、どこを探(さが)しても見つからない信仰(しんこう)という小さい門、イエスと共にしか歩めない真理(しんり)という狭(せま)い道を生きることです。

そのようにイエスを信じて救(すく)われた者も何度(なんど)も何度(なんど)も失敗(しっぱい)します。しかしイエスに従(したが)う者は必(かなら)ず助(たす)けられ、そこから立ち上り、前へ前へと進んでいくことができるのです。その道は天国につながっています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書14:6)