探して近づいてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月23日

<聖書>

またこう話された。「ある人に息子(むすこ)がふたりあった。弟(おとうと)が父に、『お父さん。私に財産(ざいさん)の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代(しんだい)をふたりに分けてやった。それから、幾日(いくにち)もたたぬうちに、弟(おとうと)は、何もかもまとめて遠い国に旅立(たびだ)った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水(ゆみず)のように財産(ざいさん)を使(つか)ってしまった。何もかも使(つか)い果(は)たしたあとで、その国に大ききんが起(お)こり、彼は食べるにも困(こま)り始(はじ)めた。それで、その国のある人のもとに身(み)を寄(よ)せたところ、その人は彼を畑にやって、豚(ぶた)の世話(せわ)をさせた。彼は豚(ぶた)の食べるいなご豆(まめ)で腹(はら)を満(み)たしたいほどであったが、だれひとり彼に与(あた)えようとはしなかった。しかし、我(われ)に返(かえ)ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余(あま)っている雇(やと)い人(にん)が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢(う)え死(じ)にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪(つみ)を犯おか)し、またあなたの前に罪(つみ)を犯(おか)しました。もう私は、あなたの子と呼(よ)ばれる資格(しかく)はありません。雇(やと)い人(にん)のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠(とお)かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄(よ)って彼を抱(だ)き、口づけした。息子(むすこ)は言った。『お父さん。私は天に対して罪(つみ)を犯(おか)し、またあなたの前に罪(つみ)を犯(おか)しました。もう私は、あなたの子と呼(よ)ばれる資格(しかく)はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急(いそ)いで一番良(よ)い着物(きもの)を持(も)って来て、この子に着(き)せなさい。それから、手に指輪(ゆびわ)をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥(こ)えた子牛(こうし)を引(ひ)いて来(き)てほふりなさい。食べて祝(いわ)おうではないか。この息子(むすこ)は、死(し)んでいたのが生(い)き返(かえ)り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴(しゅくえん)を始(はじ)めた。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)15章11-24節)

<説教>

有名(ゆうめい)な放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話です。正確(せいかく)には、失(うしな)われた子どもたち・父の愛(あい)の物語(ものがたり)と言えます。

父の存命中(ぞんめいちゅう)に相続(そうぞく)財産(ざいさん)を受(う)け取(と)り、父のもとから遠(とお)く離(はな)れて放蕩(ほうとう)のすえ、友も失(うしな)い孤独(こどく)となり、食べるのにも困(こま)り果(は)て、ユダヤ人にとって決(けっ)してあってはならない豚(ぶた)の世話(せわ)をするまで落(お)ちぶれてしまいます…

人間の罪(つみ)とは一体(いったい)何(なん)でしょうか。それは人間は愛(あい)に対して反逆(はんぎゃく)する存在(そんざい)だということです。それは、愛(あい)するために子に命(いのち)を与(あた)えた神(かみ)にとっては考(かんが)えられないことでした。決(けっ)してあってはならないことでした。

子の罪(つみ)は、親のお金を自分の欲(よく)のために浪費(ろうひ)したことではありません。この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)が父親の愛(あい)から独立(どくりつ)して生活したいと、なぜか考(かんが)えたことなのです。それは親を敬(うやま)っての自立(じりつ)ではありませんでした。父親の意志(いし)に従(したが)うことが窮屈(きゅうくつ)と感じて、父から離(はな)れて生きようとすることでした。また人生の主導権(しゅどうけん)は自分であって自分のしたいように生きようとすることでした。家庭(かてい)の愛(あい)の中で生きることは、自分の自由な人生を妨(さまた)げると考(かんが)えて、その家族から離(はな)れて生きようとすることでした。

実(じつ)はそれこそが、人類(じんるい)の最初(さいしょ)の罪(つみ)、最初(さいしょ)の人アダムが神(かみ)に従(したが)わず、神(かみ)から離(はな)れて生きることと同じなのです。それ以来(いらい)続(つづ)く人類(じんるい)の物語(ものがたり)の歴史(れきし)です。

罪(つみ)とは、自分を造(つく)った神(かみ)の最高の愛(あい)のもとで被造物(ひぞうぶつ)として従(したが)わずに、神(かみ)がくださる素晴(すば)らしい賜物(たまもの)を神(かみ)のために使わずに、神(かみ)のもとから離(はな)れて生きることです。しかし、神(かみ)から離(はな)れて自由に生きようとするとき、人間は必(かなら)ず罪(つみ)の奴隷(どれい)になると聖書(せいしょ)は教えています。

しかし父の愛(あい)は熱心(ねっしん)に失(うしな)われた息子(むすこ)を探(さが)すのです。息子(むすこ)が家にいたときも、父の財産(ざいさん)をもって遠(とお)く離(はな)れたときも、すべてを失(うしな)って豚(ぶた)の世話(せわ)をしていたときも、父の愛(あい)は変わることはありませんでした。

ただ、罪(つみ)が父と息子(むすこ)の間にあるために、和解(わかい)には息子(むすこ)の心(こころ)の変化(へんか)を待(ま)たねばなりませんでした。自分と向き合い罪(つみ)の悲惨(ひさん)を認(みと)め、神(かみ)に立ち返ろうと願(ねが)うこと、それは本人(ほんにん)以外(いがい)誰(だれ)にもできません。

人間は神(かみ)から離(はな)れて逆(さか)らっている間は、本当の自分から離(はな)れています。神(かみ)に立ち返るとき人間ははじめて本当の自分を見つけることができるのです。

我(われ)に返(かえ)ったとき、息子(むすこ)は父に従(したが)わなかった罪(つみ)の生き方を止めて父に従(したが)う雇(やと)い人(にん)になることで満足(まんぞく)します。もう愛(あい)される子どもの資格(しかく)はないと考えるかも知れません。

しかし、神(かみ)の前に悔(く)い改(あらた)めるなら、父なる神(かみ)は、喜(よろこ)んで彼を迎(むか)えてくださり、完全(かんぜん)なこども以上の存在(そんざい)を与(あた)えてくださいます。

あなたがたは自分の罪過(ざいか)と罪(つみ)との中に死(し)んでいた者であって、そのころは、それらの罪(つみ)の中にあってこの世の流(なが)れに従(したが)い、空中(くうちゅう)の権威(けんい)を持(も)つ支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に働(はたら)いている霊(れい)に従(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の肉(にく)の欲(よく)の中に生き、肉(にく)と心(こころ)の望(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを受(う)けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊(ゆた)かな神(かみ)は、私たちを愛(あい)してくださったその大きな愛(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死(し)んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救(すく)われたのは、ただ恵(めぐ)みによるのです── 

(エペソ人への手紙2:1-5)

すべて疲れた人へ

マタイの福音書11章20-30節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月16日

<聖書>

それから、イエスは、数々(かずかず)の力あるわざの行われた町々が悔(く)い改(あらた)めなかったので、責(せ)め始(はじ)められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔(むかし)に荒(あら)布(ぬの)をまとい、灰(はい)をかぶって悔(く)い改(あらた)めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰(ばつ)が軽(かる)いのだ。カペナウム。どうしておまえが天(てん)に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残(のこ)っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰(ばつ)が軽(かる)いのだ。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地(てんち)の主(おも)であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢(かしこ)い者(もの)や知恵(ちえ)のある者(もの)には隠(かく)して、幼子(おさなご)たちに現(あらわ)してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡(わた)されています。それで、父のほかには、子を知(し)る者(もの)がなく、子と、子が父を知(し)らせようと心(こころ)に定(さだ)めた人のほかは、だれも父を知(し)る者(もの)がありません。すべて、疲(つか)れた人、重荷(おもに)を負(お)っている人は、わたしのところに来(き)なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心(こころ)優(やさ)しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負(お)って、わたしから学(まな)びなさい。そうすればたましいに安らぎが来(き)ます。わたしのくびきは負(お)いやすく、わたしの荷(に)は軽(かる)いからです。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

ツロ、シドンは旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)で、異邦(いほう)の神(かみ)を崇(すう)拝(はい)して、栄華(えいが)と快楽(かいらく)と高(たか)ぶりにより、ユダヤをあざけり滅(ほろ)ぼされた国です。ソドムは汚(けが)れた肉欲(にくよく)と罪深(つみふか)い町であり、罪(つみ)と罰(ばつ)の代名詞(だいめいし)でした。けれども、そんな町々でさえ、イエスがなされる神(かみ)の奇蹟(きせき)を見るなら罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めるので、ユダヤの町々よりも罪(つみ)は軽いとイエスは言われます。

イエスを信じて罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めるなら、天国(てんごく)に入れる福音(ふくいん)(よい知らせ)は、賢(かしこ)い者や知恵(ちえ)ある者には神(かみ)は隠(かく)されるのです。神(かみ)は形式(けいしき)や儀式(ぎしき)を嫌(きら)われます。神(かみ)を愛(あい)する心を喜(よろこ)ばれます。世(よ)からさげすまれ、価値(かち)なき者、無知(むち)な者、ただ素直(すなお)な者に神(かみ)は救(すく)いの御国(みくに)を恵(めぐみ)として与(あた)えてくださるのです。

父なる神(かみ)を知るのは子なるイエスだけです。またイエスを知るのは神(かみ)だけです。父なる神(かみ)と子なるイエスは特別な関係(かんけい)をもちます。天の御国(みくに)にまつわるすべては神(かみ)からイエスに委ねられています。ただ、イエスによってのみ、人間は神(かみ)を知ることができるのです。ここで言う「知る」とはたんなる知的(ちてき)な知識(ちしき)ではなくて、いのちが通(かよ)い合う存在(そんざい)の関係(かんけい)です。

イエスは、すべての人に、わたしのもとに来るように招(まね)いています。それは、罪(つみ)の重荷(おもに)に苦(くる)しむ者、人生の思いわずらい、苦(くる)しみ、問題(もんだい)に悩(なや)む者です。この招(まね)きにこたえてイエスのもとに来るものは重荷(おもに)をおろして休むことができると約束(やくそく)されています。

それはイエスのくびきを共にいただくことです。くびきとは人間が2頭(とう)の牛(うし)や馬(うま)の首(くび)を板(いた)ではさんで固定(こてい)して操(あやつ)る道具(どうぐ)です。

それは、気ままに歩む者には、束縛(そくばく)であり邪魔(じゃま)なものです。しかし、主人(しゅじん)に従(したが)おうとする者には必要(ひつよう)であり、また願(ねが)うものです。イエスこそがすべての主権者(しゅけんしゃ)である神(かみ)であり、この方を認(みと)めて、信頼(しんらい)して生きるとき、人は初(はじ)めてまことの平安(へいあん)をいただくことができるのです。そのとき、不安(ふあん)、罪悪感(ざいあくかん)、欲求(よっきゅう)不満(ふまん)からくる緊張(きんちょう)や、あせりから解放(かいほう)されます。

なぜなら、イエスが与(あた)えるくびきは、あなたの体にぴったり合ったオーダーメイドのくびきだからです。肌(はだ)がすりむけるような苦痛(くつう)や窮屈(きゅうくつ)なくびきではありません。罪(つみ)の重荷(おもに)や、世(よ)に認(みと)められる労苦(ろうく)に結(ゆ)わえつけられたくびきではないのです。

いつもイエスが共にいる歩みであり、決して重荷(おもに)にはなりません。イエスを知っていく、罪(つみ)の重荷(おもに)が取(と)り去(さ)れ、汚(けが)れからきよめらえる愛(あい)と喜(よろこ)びと平安(へいあん)の歩みなのです。

   1.主(しゅ)にすがるわれに 悩(なや)みはなし
 十字架(じゅうじか)の御許(みもと)に 荷(に)を下ろせば
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
  
 2.恐(おそ)れは変(か)わりて 祈りとなり
 嘆(なげ)きは変(か)わりて 歌(うた)となりぬ
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
   
 3.主(しゅ)はいと優(やさ)しく われと語(かた)り
 乏(とぼ)しき時(じ)に 満(み)たし給(たま)う
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
  
 4.主(しゅ)の御約束(みやくそく)に 変(か)わりはなし
 御許(みもと)に行(ゆ)くまで 支(ささ)え給(たま)わん
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
  
 聖歌498番
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん(主(しゅ)にすがる我に) 

十字架の上

マタイの福音書27章27-51節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月2日

<聖書>

それから、総督(そうとく)の兵士(へいし)たちは、イエスを官邸(かんてい)の中に連(つ)れて行って、イエスの回りに全部隊(ぜんぶたい)を集(あつ)めた。そして、イエスの着物(きもの)を脱(ぬ)がせて、緋色(ひいろ)の上着(うわぎ)を着(き)せた。それから、いばらで冠(かんむり)を編(あ)み、頭(あたま)にかぶらせ、右手(みぎて)に葦(あし)を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王(おう)さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、葦(あし)を取(と)り上げてイエスの頭(あたま)をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物(きもの)を脱(ぬ)がせて、もとの着物(きもの)を着(き)せ、十字架(じゅうじか)につけるために連(つ)れ出した。そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架(じゅうじか)を、むりやりに背負(せお)わせた。ゴルゴタという所(ところ)(「どくろ」と言われている場所(ばしょ))に来てから、彼らはイエスに、苦(にが)みを混(ま)ぜたぶどう酒(しゅ)を飲(の)ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲(の)もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架(じゅうじか)につけてから、彼らはくじを引(ひ)いて、イエスの着物(きもの)を分け、そこにすわって、イエスの見張(みは)りをした。また、イエスの頭(あたま)の上には、「これはユダヤ人の王(おう)イエスである」と書いた罪状(ざいじょう)書(が)きを掲(かか)げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗(ごうとう)が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架(じゅうじか)につけられた。道(みち)を行く人々は、頭(あたま)を振(ふ)りながらイエスをののしって、言った。「神殿(しんでん)を打ちこわして三日(みっか)で建(た)てる人よ。もし、神の子なら、自分を救(すく)ってみろ。十字架(じゅうじか)から降(お)りて来(こ)い。」同(おな)じように、祭司(さいし)長(ちょう)たちも律法(りっぽう)学者(がくしゃ)、長(ちょう)老(ろう)たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人(たにん)を救(すく)ったが、自分は救(すく)えない。イスラエルの王(おう)だ。今、十字架(じゅうじか)から降(お)りてもらおうか。そうしたら、われわれは信(しん)じるから。彼は神(かみ)により頼(たの)んでいる。もし神(かみ)のお気に入りなら、いま救(すく)っていただくがいい。『わたしは神(かみ)の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架(じゅうじか)につけられた強盗(ごうとう)どもも、同(おな)じようにイエスをののしった。さて、十二時(じゅうにじ)から、全地(ぜんち)が暗(くら)くなって、三時(さんじ)まで続(つづ)いた。三時(さんじ)ごろ、イエスは大声(おおごえ)で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫(さけ)ばれた。これは、「わが神(かみ)、わが神(かみ)。どうしてわたしをお見捨(みす)てになったのですか」という意味(いみ)である。すると、それを聞(き)いて、そこに立(た)っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼(よ)んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走(はし)って行って、海綿(かいめん)を取(と)り、それに酸(す)いぶどう酒(しゅ)を含(ふく)ませて、葦(あし)の棒(ぼう)につけ、イエスに飲(の)ませようとした。ほかの者(もの)たちは、「私たちはエリヤが助(たす)けに来(く)るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう一度(いちど)大声(おおごえ)で叫(さけ)んで、息(いき)を引(ひ)き取(と)られた。すると、見よ。神殿(しんでん)の幕(まく)が上から下まで真(ま)っ二(ぷた)つに裂(さ)けた。そして、地(ち)が揺(ゆ)れ動(うご)き、岩(いわ)が裂(さ)けた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

十字架刑(じゅうじかけい)は、特別(とくべつ)な犯罪(はんざい)にしか使われませんでした。それは主人(しゅじん)を裏切(うらぎ)った者、逃亡(とうぼう)した者、最も低い身分(みぶん)の者が重い罪(つみ)を犯(おか)した場合でした。

汚(けが)れた罪人(つみびと)が地上に触(ふ)れないように、十字架(じゅうじか)の上で世(よ)から捨(す)てられた存在(そんざい)として、苦痛(くつう)と、さげすみと、はずかしめを受(う)けるのです。

そして、イエスは苦(くる)しみの十字架(じゅうじか)の上で、父なる神(かみ)にも見捨(す)てられました。

なぜでしょうか。神(かみ)は完全(かんぜん)に正しいお方(かた)で、きよく、愛(あい)なるお方(かた)です。神(かみ)は全能(ぜんのう)で何でもできます。しかし、神(かみ)のご性質(せいしつ)に反(はん)することはできません。神(かみ)は罪(つみ)をそのままにしておくことはできないのです。

イエスが十字架(じゅうじか)で死(し)ななければならないほど、人間の罪(つみ)は重(おも)いのです。十字架(じゅうじか)の上で、すべての人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなり、父なる神(かみ)の目には、イエスが完全(かんぜん)な罪人(つみびと)として見えたのです。そして、罪人(つみびと)としての刑罰(けいばつ)を、すべてお受(う)けになったのです。罪(つみ)は神(かみ)との関係(かんけい)を失わせます。神(かみ)に造(つく)られた者にとって、神(かみ)の答(こた)えがないことは何よりも苦痛(くつう)なのです。

イエスの右と左には強盗(ごうとう)が十字架(じゅうじか)に付けられていました。一人の強盗(ごうとう)は、自分の苦(くる)しみを叫(さけ)び、神(かみ)を呪(のろ)っています。しかし、もう一人の強盗(ごうとう)は、自分の罪深(つみぶか)い人生に気付(きづ)きます。神(かみ)がいないため、どうしようもない人生になったとわかったのです。しかし、彼はイエスが神(かみ)であり、自分の罪深(つみぶか)さに答(こた)えて下さると信(しん)じたのです。

しかし、彼は、もう十字架(じゅうじか)の上で死(し)ぬのをただ待(ま)つだけです。残(のこ)された時間で彼にいったい何が出来(でき)るとういうのでしょうか。もう絶望(ぜつぼう)なのでしょうか。

いいえ。人はいつでも自分と向(む)き合い、自分の罪(つみ)やけがれを心から、悔(く)い改(あらた)めるなら、イエスを信(しん)じるだけで、その瞬間(しゅんかん)に救(すく)われ、罪(つみ)が赦(ゆる)されます。

すべての人は、イエスの右と左の強盗(ごうとう)のどちらかです。それ以外の人はひとりもいません。すべての人間は罪人(つみびと)です。イエスが必要(ひつよう)なのです。

神(かみ)は人間の罪(つみ)を決してあいまいにはできません。しかし、神(かみ)は同時(どうじ)に、その罪(つみ)の刑罰(けいばつ)をご自分でお受(う)けになったのです。

十字架(じゅうじか)は、神(かみ)の完全(かんぜん)な正しさと、完全(かんぜん)な愛(あい)が現(あらわ)された死(し)をいのちに変(か)える力(ちから)です。

罪(つみ)の重荷(おもに)は、あまりに重(おも)く、誰(だれ)も背負(せお)うことなどできません。イエスはあなたを自由(じゆう)に解放(かいほう)するために「完了した」と言われ死(し)んでくださいました。

この尊(とうと)いイエスの犠牲(ぎせい)の死(し)、しかし、あなたのために喜(よろこ)んで十字架(じゅうじか)で死(し)んでくださったイエスを信(しん)じませんか。

十字架と罪

マタイの福音書27章15-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月26日

<聖書>

ところで総督(そうとく)は、その祭(まつ)りには、群衆(ぐんしゅう)のために、いつも望(のぞ)みの囚人(しゅうじん)をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人(しゅうじん)が捕(と)らえられていた。それで、彼らが集(あつ)まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(しゃくほう)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼(よ)ばれているイエスか。」ピラトは、彼らがねたみからイエスを引(ひ)き渡(わた)したことに気づいていたのである。また、ピラトが裁判(さいばん)の席(せき)に着(つ)いていたとき、彼の妻(つま)が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢(ゆめ)で、あの人のことで苦(くる)しいめに会いましたから。」しかし、祭司(さいし)長(ちょう)、長老(ちょうろう)たちは、バラバのほうを願(ねが)うよう、そして、イエスを死刑(しけい)にするよう、群衆(ぐんしゅう)を説(と)きつけた。しかし、総督(そうとく)は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放(しゃくほう)してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架(じゅうじか)につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪(わる)い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激(はげ)しく「十字架(じゅうじか)につけろ」と叫び続けた。そこでピラトは、自分(じぶん)では手の下(くだ)しようがなく、かえって暴動(ぼうどう)になりそうなのを見て、群衆(ぐんしゅう)の目の前で水を取(と)り寄(よ)せ、手を洗(あら)って、言った。「この人の血(ち)について、私には責任(せきにん)がない。自分(じぶん)たちで始末(しまつ)するがよい。」すると、民衆(みんしゅう)はみな答(こた)えて言った。「その人の血(ち)は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放(しゃくほう)し、イエスをむち打(う)ってから、十字架(じゅうじか)につけるために引(ひ)き渡(わた)した。  

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章15-26節)

<説教>

ローマの支配下(しはいか)のユダヤ領(りょう)の総督(そうとく)ポンテオ・ピラトによる、イエスの裁判(さいばん)が行われます。ユダヤ国は十字架刑(じゅうじかけい)を執行(しっこう)する権限(けんげん)がなかったので、イエスを政治犯(せいじはん)としてローマの権限(けんげん)で十字架刑(じゅうじかけい)にしようとしたのです。

裁判(さいばん)の中で、ピラトはイエスは無実(むじつ)であり、十字架刑(じゅうじかけい)にする理由(りゆう)はないと判断(はんだん)しました。ピラトはイエスを何とか釈放(しゃくほう)しようと努力(どりょく)します。しかし、イエスを憎(にく)むユダヤ指導者(しどうしゃ)や、彼らに扇動(せんどう)された群衆(ぐんしゅう)は狂(くる)ったように、「イエスを十字架(じゅうじか)に付けろ!」と叫(さけ)び続(つづ)けます。その力を恐(おそ)れて、自分の身を守るために、ついにピラトはイエスを十字架(じゅうじか)へと引(ひ)き渡(わた)します。

しかし、実はピラトの本当の姿(すがた)は堕落(だらく)していました。彼は不正(ふせい)を行い、残忍(ざんにん)で、不法(ふほう)な裁判(さいばん)で人を殺(ころ)し、人間として道(みち)を外(はず)していたのです。ピラトはイエスがこれまで裁判(さいばん)で見てきた罪人(つみびと)とはまったく違(ちが)う存在(そんざい)であることに気付(きづ)きます。いつしか、ピラト本人(ほんにん)がイエスに裁(さば)かれていました。無実(むじつ)のイエスをさばくことなどできない自分の罪深(つみぶか)い姿(すがた)をピラトは苦しみます。

ピラトは、イエスの無実(むじつ)を知りながら、ユダヤ人たちに自分の過去(かこ)の悪行(あくぎょう)を知られていたため、自分の判断(はんだん)や正しさを行えず、ユダヤ人の言いなりになったのです。

しかし、イエスは、そんなピラトの罪深(つみぶか)い姿(すがた)をご存知(ぞんじ)でした。

人間は自分の願(ねが)いをかなえるためには、少しの悪(あく)や不正(ふせい)はかまわないと思うかも知れません。いえ、悪(あく)は善(ぜん)に打(う)ち勝(か)つと本気で考える人たちもいるかも知れません。

しかし、ヘロデ、カヤパ、ピラト、ヒットラー、スターリン、その他すべての悪人(あくにん)たちは神(かみ)から遠(とお)く滅(ほろ)び去(さ)りました。しかし、イエスは今も生きておられる義(ぎ)なるお方です。

ピラトは社会的(しゃかいてき)立場(たちば)は問題(もんだい)がなくても、すべてをご存知(ぞんじ)の神(かみ)の目には罪深(つみふか)い姿(すがた)がありました。それはすべての人間の姿(すがた)でもあります。すべての人は十字架(じゅうじか)を王座とする血まみれのイエスという王によって裁かれるのです。人は十字架(じゅうじか)によってはじめて自分の罪(つみ)を知るのです。

バラバは極(ごく)悪人(あくにん)の罪人(つみひと)でしたが、イエスの十字架(じゅうじか)と引(ひ)き換(が)えに無罪(むざい)放免(ほうめん)となりました。バラバは願(ねが)っていた自由(じゆう)を手に入れました。しかし、そのとき、彼は自分の代(か)わりにイエスがむち打(う)たれ血まみれの姿(すがた)で十字架(じゅうじか)を背負(せお)って、ついに十字架(じゅうじか)の上で死(し)なれたことを知ったことでしょう。彼はたとえ釈放(しゃくほう)されても、犯(おか)した罪(つみ)は決(けっ)して赦(ゆる)されません。

しかし、イエスの死(し)がただの死(し)ではなく、自分のために死(し)なれたことがわかったとき、彼は罪(つみ)赦(ゆる)されるのです。

すべての人は、罪(つみ)を犯(おか)したので、神(かみ)からの栄誉(えいよ)を受(う)けることができず、ただ、神(かみ)の恵(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価(あたい)なしに義(ぎ)と認(みと)められるのです。

(ローマ人への手紙3:23-24)

イエスに従う者

マタイの福音書26章69-27章5節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月19日

<聖書>

ペテロが外の中庭(なかにわ)にすわっていると、女中(じょちゅう)のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打(う)ち消(け)して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中(じょちゅう)が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打(う)ち消(け)し、誓(ちか)って、「そんな人は知らない」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄(ちかよ)って来て、「確(たし)かに、あなたもあの仲間(なかま)だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓(ちか)い始(はじ)めた。するとすぐに、鶏(にわとり)が鳴(な)いた。そこでペテロは、「鶏(にわとり)が鳴(な)く前に三度(さんど)、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激(はげ)しく泣(な)いた。さて、夜が明けると、祭司(さいし)長(ちょう)、民(たみ)の長老(ちょうろう)たち全員は、イエスを死刑(しけい)にするために協議(きょうぎ)した。それから、イエスを縛(しば)って連(つ)れ出(だ)し、総督(そうとく)ピラトに引(ひ)き渡(わた)した。そのとき、イエスを売(う)ったユダは、イエスが罪(つみ)に定(さだ)められたのを知って後悔(こうかい)し、銀貨(ぎんか)三十枚を、祭司(さいし)長(ちょう)、長老(ちょうろう)たちに返(かえ)して、「私は罪(つみ)を犯(おか)した。罪(つみ)のない人の血(ち)を売(う)ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末(しまつ)することだ」と言った。それで、彼は銀貨(ぎんか)を神殿(しんでん)に投(な)げ込(こ)んで立(た)ち去(さ)った。そして、外に出(で)て行って、首(くび)をつった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章69-27章5節)

<説教>

過(すぎ)越(こ)しの祭(まつ)りが近づく中、イエスを十字架(じゅうじか)刑(けい)にしようとユダヤ宗教(しゅうきょう)議会(ぎかい)(サンヘドリン)の裁判(さいばん)が行われます。そんなイエスの受難(じゅなん)の時、弟子(でし)のペテロはイエスを知らないと否(いな)み、イスカリオテのユダは銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売(う)り渡(わた)した罪(つみ)を後悔(こうかい)して、首(くび)を吊(つ)り自殺(じさつ)します。

わずか前まではペテロはイエスが死(し)ぬなら一緒(いっしょ)に死(し)ぬと言い、またイエスを逮捕(たいほ)しにきた大勢(おおぜい)の群衆(ぐんしゅう)や兵士(へいし)に向(む)かって剣(つるぎ)で戦(たたか)おうとしました。勇敢(ゆうかん)に見えたペテロはイエスの十字架(じゅうじか)につまづいたのです。

ペテロはイエス出会ったとき、イエスが神(かみ)であり、自分が罪人(つみびと)であることを告白(こくはく)しました。そしてすべてを捨(す)ててイエスを愛(あい)して、彼につき従(したが)おうとしました(ルカの福音書(ふくいんしょ)5:1-11)。

しかし、十字架(じゅうじか)の前で彼は自分が握(にぎ)っている弱(よわ)さを知りました。

イエスは

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨(す)て、自分の十字架(じゅうじか)を負(お)い、そしてわたしについて来なさい。(マルコの福音書(ふくいんしょ)8:34)」

と言われました。

イエスは十字架(じゅうじか)により、世(よ)から苦(くる)しみを受(う)けて捨(す)てられました。イエスに従(したが)おうとする者もまた、同じ苦(くる)しみを受(う)けるのです。神(かみ)を知らない世(よ)のただ中で生きるキリスト者の苦(くる)しみがあるのです。

すべての人の人生の中にある苦(くる)しみ、試練(しれん)、恐(おそ)れ、不安(ふあん)ではなく、イエスを信(しん)じることによって受(う)ける苦(くる)しみです。

ペテロはイエスに従(したが)う者が受(う)ける苦(くる)しみを拒(こば)んだのでした。それは人間には負(お)えない十字架(じゅうじか)です。しかし、イエスは「わたしについて来たいなら」と言われます。それは強制(きょうせい)されてでも、期待(きたい)されてでもなく、自分の意志(いし)によってイエスと一緒(いっしょ)に生きようとするまことのイエスの弟子(でし)です。そのいばらの道(みち)への門(もん)は小さく、十字架(じゅうじか)へと続(つづ)く道(みち)は狭(せま)いですが、その道(みち)は神(かみ)の栄光(えいこう)がまぶしく輝(かがや)いています。日々の生活の中で、みことばに従(したが)い、神(かみ)の力を受(う)けて生きることができます。

神(かみ)は、そのようなイエスの弟子(でし)を受(う)け入れてくださり、まことの神(かみ)のご計画(けいかく)の中で使命(しめい)を与え、人生の目的(もくてき)を与(あた)えてくださいます。そこにイエスと共に受(う)けるまことの喜(よろこ)び、愛(あい)と祝福(しゅくふく)があります。

ユダは自分の力で人生をつかもうとして罪(つみ)を犯(おか)しました。彼は自分の罪(つみ)を後悔(こうかい)しましたが、祭司(さいし)長(ちょう)や長(ちょう)老(ろう)たちのもとに罪(つみ)のゆるしを受(う)けようとしました。すべての罪(つみ)は神(かみ)の前に犯(おか)しているのです。一度犯(おか)した罪(つみ)は決して取(と)り消(け)すことは出来ません。自分で始末(しまつ)することはできないのです。たとえ自殺(じさつ)して命(いのち)と引き換(か)えにしでも罪(つみ)の赦(ゆる)しにはならないのです。

罪(つみ)の赦(ゆる)しはただ一つです。聖(きよ)い神(かみ)のイエスの血の代価(だいか)が払(はら)われた十字架(じゅうじか)にあるのです。いかなる罪(つみ)もイエスのもとに悔(く)い改(あらた)めるなら赦(ゆる)され、神(かみ)との和解(わかい)が与(あた)えられ、新しく生きる者ときよめ、つくり変えられます。

「もし、私たちが自分の罪(つみ)を言い表(あらわ)すなら、神(かみ)は真実(しんじつ)で正しい方ですから、その罪(つみ)を赦(ゆる)し、すべての悪(あく)から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一1:8)

十字架じゅうじかのかげに 泉いずみわきて
いかなる罪つみも きよめつくす
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげに ゆきし時に
み神かみの愛あいを 悟さとりえたり
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを 求もとめ続つづけん
険けわしき坂さかを のぼるときも
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを いかで離れん
御国みくにの門に 入る日までは
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
「十字架じゅうじかのかげに」聖歌 396番

十字架への道

マタイの福音書26章47-56節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月5日

<聖書>

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりであるユダがやって来た。剣(つるぎ)や棒(ぼう)を手にした大ぜいの群衆(ぐんしゅう)もいっしょであった。群衆(ぐんしゅう)はみな、祭司(さいし)長(ちょう)、民(たみ)の長老(ちょうろう)たちから差(さ)し向(む)けられたものであった。イエスを裏切(うらぎ)る者は、彼らと合図(あいず)を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆(ぐんしゅう)が来て、イエスに手をかけて捕(と)らえた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸(の)ばして剣(つるぎ)を抜(ぬ)き、大祭司(だいさいし)のしもべに撃(う)ってかかり、その耳(みみ)を切(き)り落(お)とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣(つるぎ)をもとに納(おさ)めなさい。剣(つるぎ)を取(と)る者(もの)はみな剣(つるぎ)で滅(ほろ)びます。それとも、わたしが父にお願(ねが)いして、十二(じゅうに)軍団(ぐんだん)よりも多くの御使(みつか)いを、今わたしの配下(はいか)に置(お)いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書(せいしょ)が、どうして実現(じつげん)されましょう。」そのとき、イエスは群衆(ぐんしゅう)に言われた。「まるで強盗(ごうとう)にでも向(む)かうように、剣(つるぎ)や棒(ぼう)を持(も)ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮(みや)ですわって教(おし)えていたのに、あなたがたは、わたしを捕(と)らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者(よげんしゃ)たちの書(しょ)が実現(じつげん)するためです。」そのとき、弟子(でし)たちはみな、イエスを見捨(みす)てて、逃(に)げてしまった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章47-56節)

<説教>

ユダの裏切(うらぎ)りによって、イエスはユダヤ指導者(しどうしゃ)たちに逮捕(たいほ)されます。

普通(ふつう)は犯人(はんにん)が刑事(けいじ)に逮捕(たいほ)されるとき、犯人(はんにん)は逃げようとしたり、最後まで抵抗(ていこう)して悪あがきします。しかし、イエスは逮捕(たいほ)されるとき、逃(に)げも隠(かく)れもせず、武装(ぶそう)した何百人の群衆(ぐんしゅう)に、自分からすすんで捕(と)らえられました。

イエスの十字架(じゅうじか)はすべて神(かみ)が定(さだ)められた完全(かんぜん)な計画(けいかく)でした。イエスが十字架(じゅうじか)の上ですべての人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなられるためでした。イエスは十字架(じゅうじか)への苦難(くなん)の道が、父の神(かみ)の御心(みこころ)であることを確信(かくしん)して、人間の罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりを受(う)けられたのです。

ペテロは数百人の武装(ぶそう)した群衆(ぐんしゅう)に、勇(いさ)ましく剣(けん)で立ち向かいます。しかし、イエスを殺害しようとする本当の敵(てき)は、剣(けん)や棒(ぼう)をもった人間ではなく、悪の力、サタンなのです。この悪の力が完全(かんぜん)に打(う)ち破(やぶ)られる道はただ一つ、イエスご自身が神(かみ)の怒(いか)りの杯(はい)をお飲みになること、すなわち、十字架(じゅうじか)でその聖(きよ)い命を捧(ささ)げることでした。

私たちの敵(てき)は死であり、罪(つみ)の力です。その敵(てき)は決して恐(おそ)ろしい姿をしていません。それは私たちの日々の生活の中にあるのです。それは心から出てくる悪い考え、人の気持ちを知ろうとしない自己(じこ)中心(ちゅうしん)な考え、自分の欲望(よくぼう)や心の思いを満(み)たすことを人生の第一の目的としてしまったり…神(かみ)の存在(そんざい)を無視(むし)して、神(かみ)に従(したが)わずに生きること。それが罪(つみ)です。

罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は死です。死とはこの世から消(き)え去(さ)ることではありません。永遠(えいえん)に終わらない滅(ほろ)びの苦(くる)しみです。人間はこの罪(つみ)と死に対してまったく無力です。どんな武器(ぶき)も、勇気(ゆうき)も役(やく)に立たないのです。しかし、神は人間に救(すく)いの道を備(そな)えてくださいました。それが十字架(じゅうじか)の救(すく)いです。

イエスが十字架(じゅうじか)で死なれたのは、あなたの罪(つみ)のためであると信(しん)じて、心を変えて、神により頼(たの)んで生きようとするなら、あなたは罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は赦(ゆる)され、死の滅(ほろ)びから救(すく)い出されます。永遠(えいえん)の命が与えられ天の御国(みくに)に入ることができます。

イエスが十字架(じゅうじか)に向(む)かわれたのは、悪(わる)に対しても善(ぜん)をあらわして生きることの模範(もはん)です。そしてイエスは、犠牲(ぎせい)の愛による人間の真実(しんじつ)な生き方を表わされました。そして人間は「苦難(くなん)」によってしか成長(せいちょう)しないことをイエスは十字架(じゅうじか)で教えてくれたのです。

イエスを信(しん)じるなら、あなたは愛と真実(しんじつ)の人生に必ず変えられていきます。

「キリストも、あなたがたのために苦(くる)しみを受(う)け、その足跡(あしあと)に従(したが)うようにと、あなたがたに模範(もはん)を残(のこ)されました。キリストは罪(つみ)を犯(おか)したことがなく、その口に何の偽(いつわ)りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返(かえ)さず、苦(くる)しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任(まか)せになりました。そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの罪(つみ)をその身(み)に負われました。それは、私たちが罪(つみ)を離(はな)れ、義(ぎ)のために生きるためです。キリストの打(う)ち傷(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

(ペテロの手紙第一2章21-24節)

祈りの友

マタイの福音書26章36-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月26日

<聖書>

それからイエスは弟子(でし)たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼(かれ)らに言われた。「わたしがあそこに行って祈(いの)っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連(つ)れて行かれたが、イエスは悲(かな)しみもだえ始(はじ)められた。そのとき、イエスは彼(かれ)らに言われた。「わたしは悲(かな)しみのあまり死(し)ぬほどです。ここを離(はな)れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進(すす)んで行って、ひれ伏(ふ)して祈(いの)って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯(さかずき)をわたしから過(す)ぎ去(さ)らせてください。しかし、わたしの願(ねが)うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子(でし)たちのところに戻(もど)って来て、彼(かれ)らの眠(ねむ)っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らないように、目をさまして、祈(いの)っていなさい。心は燃(も)えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目(にどめ)に離(はな)れて行き、祈(いの)って言われた。「わが父よ。どうしても飲(の)まずには済(す)まされぬ杯(さかずき)でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻(もど)って来て、ご覧(らん)になると、彼(かれ)らはまたも眠(ねむ)っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼(かれ)らを置(お)いて行かれ、もう一度同(おな)じことをくり返(かえ)して三度目(さんどめ)の祈(いの)りをされた。それから、イエスは弟子(でし)たちのところに来(き)て言われた。「まだ眠(ねむ)って休んでいるのですか。見なさい。時(とき)が来(き)ました。人(ひと)の子(こ)は罪人(つみびと)たちの手に渡(わた)されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切(うらぎ)る者が近(ちか)づきました。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章36-46節)

<説教>

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)のあと、十字架(じゅうじか)へ向(む)かってイエスは弟子(でし)たちを連(つ)れて祈(いの)られました。その場所はオリーブの木に囲(かこ)まれたゲツセマネ(油(あぶら)しぼりの意味(いみ))と呼(よ)ばれます。そこでイエスは人間の罪(つみ)の杯(さかずき)(さばきの憤(いきどお)りのぶどう酒)を飲(の)み干(ほ)すために、汗(あせ)を血(ち)のようにしたたらせて祈(いの)られました。

イエスの十字架(じゅうじか)の前の祈(いの)りは、自分の願(ねが)いではなく、父なる神のみこころがなされることでした。

弟子(でし)のパウロとヤコブとヨハネは祈(いの)ることができずに、疲(つか)れと悲(かな)しみに眠(ねむ)りこけてしまいました。

今も、イエスと共に祈(いの)る者は決(けっ)して多くないと言われています。イエスはあなたに祈(いの)りの友となることを願(ねが)われています。

苦(くる)しみや悲(かな)しみの意味(いみ)がわからなくても、希望(きぼう)が閉(と)ざされようとも、祈(いの)りましょう。どう祈(いの)っていいのかわからなくても、じつはイエスがあなたのために祈(いの)ってくださっています。あなたのつたない祈(いの)りも、イエスの御名(みな)で祈(いの)る時、イエスの祈(いの)りとされているのです。

体でわかること(目で見る、耳で聞く、鼻でにおう、手や肌(はだ)で触(さわ)る)がすべてではありません。あなたの前の現実(げんじつ)の問題(もんだい)に絶望(ぜつぼう)して、感覚(かんかく)を頼(たよ)りにした誘惑(ゆうわく)に身(み)を任(まか)せてはいけません。

神を信(しん)じる者の祈(いの)りには力があります。祈(いの)りは必ず答えられます。祈(いの)ることができず、疲(つか)れて、悲(かな)しみの果(は)てに眠(ねむ)っても弟子(でし)たちはイエスのそばにいました。祈(いの)りはイエスのそばにいることです。そこにとどまるとき、イエスの愛(あい)と赦(ゆる)しがあなたを救(すく)ってくださいます。

祈(いの)りによって神があなたを変えてくださいます。状況(じょうきょう)を変えてくださいます。心(こころ)が変えられます。知識(ちしき)でも理屈(りくつ)でもありません。あなたは信仰(しんこう)によってそれを実際(じっさい)に体験(たいけん)するのです。

神はあなたを神に祈(いの)る者としてご自身(じしん)に似(に)せて造(つく)られたのです。祈(いの)りは神を信じる者の特権(とっけん)であり、務(つと)めであり、励(はげ)むべきことです。ただし、それは最高(さいこう)の人間の営(いとな)みです。

「まことに、あなたがたにもう一度(いちど)、告(つ)げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上(ちじょう)で心(こころ)を一つにして祈(いの)るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(マタイの福音書18章19-20節)

「病(や)まなければ」河野 進
病(や)まなければ 捧(ささ)げ得(え)ない悔(く)い改(あらた)めの祈(いの)りがあり
病(や)まなければ 聞(き)き得(え)ない救(すく)いのみ言葉があり
病(や)まなければ 負(お)い得(え)ない恵(めぐ)みの十字架(じゅうじか)があり
病(や)まなければ 信(しん)じ得(え)ないいやしの奇蹟(きせき)があり
病(や)まなければ 受(う)け得(え)ないいたわりの愛(あい)があり
病(や)まなければ 近(ちか)づき得(え)ない清(きよ)い聖壇(せいだん)があり
病(や)まなければ 仰(あお)ぎ得(え)ない輝(かがや)く御顔(みかお)がある
おお 病(や)まなければ人間でさえあり得(え)なかった

キリストのつまずき

マタイの福音書26章30-35節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月19日

<聖書>

そして、賛美(さんび)の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子(でし)たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜(こんや)、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼(ひつじか)いを打(う)つ。すると、羊(ひつじ)の群(む)れは散(ち)り散(ぢ)りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決(けっ)してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告(つ)げます。今夜(こんや)、鶏(にわとり)が鳴(な)く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決(けっ)して申(もう)しません。」弟子(でし)たちはみなそう言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章30-35節)

<説教>

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)でユダがイエスを裏切(うらぎ)りました。その後で、イエスはさらに弟子たちに、あなたがたはみな、私を裏切(うらぎ)ると宣告します。そうです。十字架の前に、イエスの弟子たちはすべてイエスにつまずいたのです。

ユダは自分の欲のためにイエスを裏切(うらぎ)りました。ペテロは自分は絶対(ぜったい)大丈夫(だいじょうぶ)だという自信(じしん)、過信(かしん)によってイエスを裏切(うらぎ)ります。

誰も自分の頑張(がんば)りや努力(どりょく)によってイエスを愛して、従(したが)い続(つづ)けることはできません。自分こそ弱(よわ)い者だ、罪深(つみぶか)い者だと認(みと)めるする者こそが、神(かみ)に助けを求め、悔(く)い改(あらた)めてイエスに従(したが)うことができるのです。

ペテロは、鶏(にわとり)が鳴(な)く前に3度イエスを知らないと言うイエスの予告(よこく)通(どお)りに、イエスを否(いな)みました。彼はイエスを間違(まちが)いなく愛していました。しかし人間の愛には限界(げんかい)があるのです。

しかし、ペテロはイエスの弟子としての大失敗(だいしっぱい)、恥(はじ)を隠(かく)そうとせず、聖書(せいしょ)の中にはっきりと表わしました。それは、弱(よわ)さや失敗(しっぱい)や罪深(つみぶか)い者をイエスはゆるして、愛して下さる方であることを皆(みな)さんに知ってもらいたかったからです。

イエスを愛していくとき、あなたは必ず、自分の罪深(つみぶか)さや汚(けが)れを知ることでしょう。しかしイエスは、あなたの弱(よわ)さやどうしようもない姿(すがた)をご存知(ぞんじ)なのです。その上で、イエスはあなたを愛してくださいます。あなたをその問題、苦しみ、絶望(ぜつぼう)から救(すく)い出すためにこそ、イエスは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

弟子(でし)たちはイエスを裏切(うらぎ)りましたが、イエスが約束(やくそく)されたのは十字架(じゅうじか)で死んだ後、よみがえり、弟子(でし)たちとガリラヤで会うことです。

自分を裏切(うらぎ)って離(はな)れ去(さ)っていく弟子(でし)たちすべてのことをご存知(ぞんじ)でした。しかしその先にある神の約束(やくそく)は赦(ゆる)しと愛です。

あなたはイエスの十字架(じゅうじか)のゆえに愛されています。赦(ゆる)されています。

神が定められたキリストの十字架

マタイの福音書26章14-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月12日

<聖書>

そのとき、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司(さいし)長(ちょう)たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨(ぎんか)三十枚を彼に支払(しはら)った。そのときから、彼はイエスを引(ひ)き渡(わた)す機会(きかい)をねらっていた。さて、種(たね)なしパンの祝(いわ)いの第一日に、弟子(でし)たちがイエスのところに来て言った。「過(すぎ)越(こし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意(ようい)をしましょうか。」イエスは言われた。「都(みやこ)に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子(でし)たちといっしょに、あなたのところで過(すぎ)越(こし)を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」そこで、弟子(でし)たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過(すぎ)越(こし)の食事の用意(ようい)をした。さて、夕方になって、イエスは十二(じゅうに)弟子(でし)といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告(つ)げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切(うらぎ)ります。」すると、弟子(でし)たちは非常(ひじょう)に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢(はち)に手を浸(ひた)した者が、わたしを裏切(うらぎ)るのです。確(たし)かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去(さ)って行きます。しかし、人の子を裏切(うらぎ)るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切(うらぎ)ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

(マタイの福音書ふくいんしょ26章14-25節)

<説教>

ユダヤの最大の祭(まつ)り、過(すぎ)越(こし)しが近づいています。

祭司(さいし)、長老(ちょうろう)たちは、イエスをだまして捕(とら)えて死刑(しけい)にする陰謀(いんぼう)を企(くわだ)てますが、祭(まつ)りの間は民衆(みんしゅう)の騒(さわ)ぎを恐(おそ)れていました。イエスの十字架(じゅうじか)の背後(はいご)には人々のねたみがありました。

イエスの12弟子(でし)のひとりイスカリオテのユダは祭司(さいし)長(ちょう)に銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売り渡(わた)します。彼にサタンが入ったとありますから、イエスの十字架(じゅうじか)の出来事の背後(はいご)にはサタン(悪魔(あくま))の働きがありました。

ユダの裏切(うらぎ)りによって、祭司(さいし)、長老(ちょうろう)たちの思惑(おもわく)とおりにいかず、イエスご自身(じしん)の予告(よこく)通(どお)り、過(すぎ)越(こし)しの祭(まつ)りにイエスは捕(とら)えられ、十字架(じゅうじか)に渡(わた)されました。ユダ自身(じしん)もイエスが死ぬとは考えていなかったでしょう。

では、十字架(じゅうじか)の出来事は偶然(ぐうぜん)おこったことなのでしょうか。

いいえ、十字架(じゅうじか)の出来事は、イエスが主権的(しゅけんてき)に、イエスが十字架(じゅうじか)の道を選(えら)び取(と)られました。聖書(せいしょ)の預言(よげん)が成就(じょうじゅ)するためでした。長いイスラエルの歴史(れきし)を通して、神は聖書(せいしょ)にはっきりと定(さだ)めておられました。

ユダヤの歴史(れきし)で最も大きな出来事は、出(しゅつ)エジプトと言われる、奴隷(どれい)からの解放(かいほう)と新天地(しんてんち)の約束(やくそく)でした。その救いは、小羊(こひつじ)の犠牲(ぎせい)の血(ち)による、滅(ほろ)びのわざわいからの過(すぎ)越(こし)し(救い)でした。

この過(すぎ)越(こし)しの犠牲(ぎせい)の子(こ)羊(ひつじ)として、イエスは十字架(じゅうじか)で死なれました。

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)は、最期(さいご)の過(すぎ)越(こし)しの食事でもありました。また、最初の聖餐式(せいさんしき)でした。

教会(きょうかい)で、今もこの聖餐式(せいさんしき)が守られ、2000年前の出来事であったイエスの十字架(じゅうじか)の罪(つみ)のあがないが忘れられたことは一度もありません。

あなたもイエスを信じるならば、過(すぎ)越(こし)し(救い)があり、出エジプト(解放(かいほう))が起こります。あなたの罪(つみ)が赦(ゆる)され、まことの自由が与(あた)えられ、あなたの人生は神の御国(みくに)に入ります。

まことの救い、まことの解放(かいほう)が神の定められた十字架(じゅうじか)につけられたイエスにあります。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取(と)り、祝福(しゅくふく)して後(のち)、これを裂(さ)き、弟子(でし)たちに与(あた)えて言われた。
「取(と)って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯(はい)を取(と)り、感謝(かんしゃ)をささげて後(のち)、こう言って彼らにお与(あた)えになった。
「みな、この杯(はい)から飲(の)みなさい。

これは、わたしの契約(けいやく)の血です。罪(つみ)を赦(ゆる)すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国(みくに)で、あなたがたと新しく飲(の)むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造(つく)った物を飲(の)むことはありません。」(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章26-29節)

愛に生きる

マタイの福音書26章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月5日

<聖書>

さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒(おか)された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価(こうか)な香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持ってみもとに来て、食卓(しょくたく)に着(つ)いておられたイエスの頭(かしら)に香油(こうゆ)を注いだ。弟子(でし)たちはこれを見て、憤慨(ふんがい)して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油(こうゆ)なら、高く売れて、貧(まず)しい人たちに施(ほどこ)しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困(こま)らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧(まず)しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油(こうゆ)をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬(まいそう)の用意(ようい)をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告(つ)げます。世界中(せかいじゅう)のどこででも、この福音(ふくいん)が宣(の)べ伝(つた)えられる所(ところ)なら、この人のした事(こと)も語(かた)られて、この人の記念(きねん)となるでしょう。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章6-13節)

<説教>

イエスの十字架(じゅうじか)の時が近づいていました。弟子(でし)たちは、イエスが間もなく死ぬという実感(じっかん)も緊張感(きんちょうかん)もありませんでした。しかし、ある女はイエスと過ごす機会(きかい)はもうこれが最後(さいご)かも知れないと感じました。

彼女は、自分の持ち物の中で一番高価(こうか)なもの、女性にとって大切な香油(こうゆ)をイエスに惜(お)しみなく捧(ささ)げました。それが、彼女が大切な愛するイエスにできる最高のことでした。彼女はイエスに愛と信仰(しんこう)を表わしたのです。

愛とは愛することと愛されることによって完成します。愛されることだけを願う人生は干からびた人生です。あなたが誰かに愛を与えるとき、人生は豊かな愛と喜びの素晴らしいものとなるでしょう。

愛を与えるとは、あなたの大切なもの与えることです。一緒に時間を過ごすこと、聞いて理解してあげること、手助けする事。また、ゆるしを与える事、信用を与える事です。あなたの心の中でわかること、あなたが願うことを、他の誰かに、あなたから与えるのです。

あなたの笑顔(えがお)は素晴らしいです。微笑(ほほえ)みながら優(やさ)しい言葉をかけてあげてください。その人はきっと励(はげ)まされ、勇気(ゆうき)を与えられるでしょう。

人生には一回きりしかない機会(きかい)があります。その機会(きかい)を逃(のが)せば、もう同じ場合、同じ人、同じ時、同じ感動(かんどう)は再び戻(もど)ってきません。多くの人は、よいことをする機会(きかい)を失ったために、人生を悲劇(ひげき)に終わらせているのです。

しかし、イエスを信じる者は、罪(つみ)赦(ゆる)されて、自分のかたくなさや自我、プライドから解放(かいほう)されて、心から素直に生きる者に変えられます。何度も失敗しながらです。イエスはあなたを絶対あきらめません。

イエスの愛に赦(ゆる)され、感動(かんどう)して生きる者は、愛だけがすべてであり、愛は無限であることを知るのです。弱かろうが、ちっぽけな存在であろうが、誰もが愛を与えることができます。イエスと共に生きる者はその素晴らしさを知り、体験していくのです。イエスに出会うなら、あなたはいかなるものも包み込み受け止める愛を、無尽蔵(むじんぞう)に与えることができます。あなたの愛はいつまでも残ります。