イエスのように神様に謙遜に生きる

ピリピ人への手紙2章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月17日

<聖書>

こういうわけですから、もしキリストにあって励(はげ)ましがあり、愛の慰(なぐさ)めがあり、御霊(みたま)の交(まじ)わりがあり、愛情(あいじょう)とあわれみがあるなら、
私の喜(よろこ)びが満(み)たされるように、あなたがたは一致(いっち)を保(たも)ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志(こころざし)を一つにしてください。
何事(なにごと)でも自己(じこ)中心(ちゅうしん)や虚栄(きょえい)からすることなく、へりくだって、互(たが)いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧(かえり)みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構(こころがま)えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿(みすがた)である方なのに、神のあり方を捨(す)てられないとは考えず、
ご自分を無(む)にして、仕(つか)える者の姿(すがた)をとり、人間と同じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって現(あらわ)れ、
自分を卑(いや)しくし、死にまで従(したが)い、実(じつ)に十字架(じゅうじか)の死にまでも従(したが)われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与(あた)えになりました。
それは、イエスの御名(みな)によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主(しゅ)である」と告白(こくはく)して、父なる神がほめたたえられるためです。

(ピリピ人への手紙2章1-11節)

<説教>

ピリピの教会(きょうかい)の中には、不一致(ふいっち)、不調和(ふちょうわ)があり、自分の野心(やしん)を満足(まんぞく)させようとする者、また自分が人々から注目(ちゅうもく)されたいと願(ねが)う人々がいました。

パウロは、謙遜(けんそん)でありなさい。自分のことだけでなく、他の人のことを気遣(きづか)うように注意します。自己(じこ)中心(ちゅうしん)や自慢(じまん)するために何かをしてはいけませんと教えます。

教会(きょうかい)に集うキリスト者、神さまを信じる者は神さまに従っていかなくてはなりません。そのためには自分の心の中にイエス様の平安がなくてはなりません。しかし、私たちの注目(ちゅうもく)するものが神さまではなくて、自分の欲や高ぶりが心の中にいっぱいであるなら、神さまに従(したが)うことは出来ません。

イエス様は、神さまであるのに、人間の姿を取って、この世に来られました。イエス様は、人間として、苦(くる)しみ、痛(いた)み、乏(とぼ)しさ、貧(まず)しさ、飢(う)え、また愛する者から裏切(うらぎ)られ、拒絶(きょぜつ)され、見捨(みす)てられる苦悩(くのう)と落胆(らくたん)を経験(けいけん)されました。すべてのことを父に従(したが)い通されました。

そのすべての働(はたら)きの原動力(げんどうりょく)は父なる神さまにお祈(いの)りしてお話しすることでした。父の御心(みこころ)に従(したが)うことが出来るように父に頼(たの)み祈(いの)りました。

そして、守(まも)るべきことを守(まも)り、罪(つみ)を犯さず、罪(つみ)を犯(おか)した者が受(う)けるべき刑罰(けいばつ)の死である十字架(じゅうじか)までも受(う)けてくださりました。十字架(じゅうじか)に付けられたイエス様は人々からあざけられ、からかわれ、さげすまれました。完全(かんぜん)に聖書(せいしょ)の言葉を守(まも)り従(したが)われたのです。

そして、死んで三日目に父なる神さまはイエス様をよみがえらせられ、天の父のもとに上げられました。

それは、すべての人がイエス様を信じて、神さまの素晴(すば)らしさを、喜(よろこ)び称(たた)えるためです。

神さまを知る前は、人間はむなしいもの、かなしいもの、罪深(つみぶか)いものを見ていました。しかし、神さまはそんな人間に、神さまを見上げてほしいと願(ねが)っておられます。

イエス様が父なる神さまに従(したが)い祈(いの)って生きる姿(すがた)は、私たちの生き方でもあらねばなりません。

イエス様こそが、本来(ほんらい)の人間の姿(すがた)を私たちに教えてくださっているのです。それは神さまにを信頼(しんらい)して従(したが)い、愛を受(う)けて祈(いの)りながら生きることです。

私たちは、どんな時でも、自分のしたいように欲(よく)のままに生きることはできます。神さまが私たちの心に示(しめ)されることを無視(むし)して生きる選択(せんたく)もあります。しかし、そこには神さまの祝福(しゅくふく)はなく、本当の喜(よろこ)びはなく、虚(むな)しさがあり、死の滅(ほろ)びへつながった道です。自分のことを愛せない生き方です。

しかし、自分を神さまの前に低(ひく)く、謙遜(けんそん)に、貧(まず)しく虚(むな)しくする者を神さまは救(すく)ってくださいます。神さまの前に、罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)め、自分を低(ひく)くする者、神さまの言われることに従(したが)う者は、必ず、神さまが素晴(すば)らしい高みへと引き上げてくださいます。

イエス様を信じて祝福(しゅくふく)を受(う)けるために大切なのは、何より素直(すなお)さです。神さまの前にも人に対して謙遜(けんそん)でありましょう。他の人のことを心から優(やさ)しく大切に親切(しんせつ)にしましょう。それだけが、イエス様を知る方法です。

イエス様はいのちを与える羊飼い

ヨハネの福音書10章7-15節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月10日

<聖書>

そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告(つ)げます。わたしは羊(ひつじ)の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人(ぬすびと)で強盗(ごうとう)です。羊(ひつじ)は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救(すく)われます。また安(やす)らかに出入(でい)りし、牧草(ぼくそう)を見つけます。
盗人(ぬすびと)が来るのは、ただ盗(ぬす)んだり、殺(ころ)したり、滅(ほろ)ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊(ひつじ)がいのちを得(え)、またそれを豊(ゆた)かに持つためです。
わたしは、良い牧者(ぼくしゃ)です。良い牧者(ぼくしゃ)は羊(ひつじ)のためにいのちを捨(す)てます。
牧者(ぼくしゃ)でなく、また、羊(ひつじ)の所有者(しょゆうしゃ)でない雇(やと)い人(にん)は、狼(おおかみ)が来るのを見ると、羊(ひつじ)を置(お)き去(ざ)りにして、逃(に)げて行きます。それで、狼(おおかみ)は羊(ひつじ)を奪(うば)い、また散(ち)らすのです。
それは、彼が雇(やと)い人(にん)であって、羊(ひつじ)のことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者(ぼくしゃ)です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様(どうよう)です。また、わたしは羊(ひつじ)のためにわたしのいのちを捨(す)てます。

(ヨハネの福音書10章7-15節)

<説教>

羊(ひつじ)は、イスラエル人が最(もっと)も愛(あい)した動物です。その歴史(れきし)はとても古く、神さまに造(つく)られた最初(さいしょ)の人アダムの子どものアベルは羊(ひつじ)を飼(か)う者でした。

羊(ひつじ)は、おとなしく、素直(すなお)で従順(じゅうじゅん)です。しかし、愚(おろ)かで弱(よわ)く、迷(まよ)いやすい動物でした。そんな羊(ひつじ)が生きていくためには、彼らを導(みちび)く羊飼(ひつじか)い(牧者(ぼくしゃ))が必要(ひつよう)でした。

羊飼(ひつじか)いは羊(ひつじ)の群(む)れを牧(ぼく)草地(そうち)に導(みちび)いて食料と水を飲ませます。また、羊飼(ひつじか)いは大切な羊(ひつじ)たちを熊(くま)や獅子(しし)といった野獣(やじゅう)から守(まも)ってくれるのです。

聖書(せいしょ)は、この羊飼(ひつじか)いと羊(ひつじ)の関係は、神さまと人間の関係であると教えています。

イエス様は、愚(おろ)かで弱(よわ)く、迷(まよ)いやすい人間を正しく導(みちび)いてくださいます。そしていのちを豊(ゆた)かに与(あた)えてくださいます。そのいのちとは、イエス様と共に生きる者に与(あた)えられる喜(よろこ)びと平安(へいあん)です。感謝(かんしゃ)して愛(あい)をあらわして生きることです。

どんなに立派(りっぱ)な教師(きょうし)や指導者(しどうしゃ)の言うことを聞いても、イエス様が与(あた)えるようないのちをいただくことはできません。

羊(ひつじ)は、羊毛(ようもう)(ウール)、凝乳(ぎょうにゅう)(チーズ)、食肉、天幕(てんまく)を覆(おお)う皮、革(かわ)袋(ぶくろ)、角笛(つのぶえ)、聖油(せいゆ)を入れる角などいろいろなものに使われます。しかし、代表的(だいひょうてき)な用途(ようと)は、神さまに捧(ささ)げられる、いけにえ(捧(ささ)げもの)です。

イエス様は、羊飼(ひつじか)いでありながら、神さまに捧(ささ)げられる小羊として、十字架(じゅうじか)で、まことの人間の罪(つみ)の身代(みが)わりの捧(ささ)げものとして死んでくださいました。

わたしは、良い牧者(ぼくしゃ)です。良い牧者(ぼくしゃ)は羊(ひつじ)のためにいのちを捨(す)てます。

(ヨハネ10:10)

イエス様は、罪(つみ)のないきよいご自分のいのちを、お捨(す)てになって、罪(つみ)に死んでいる人間にいのちを与(あた)えてくださったのです。

ベテランの羊飼(ひつじか)いは、自分の愛する羊たちの顔と名前を全部覚(おぼ)えています。50匹ほどの自分の羊たちが全部そろっているか、一目見てわかると言います。

イエス様は、ご自分の愛する子どもたちを知っておられます。その名前をご存知(ぞんじ)です。あなたは名前で呼(よ)ばれたら嬉しいでしょう。イエス様は、あなたを名前で呼(よ)んでくださいます。

イエス様は、あなたのすべてを知っておられます。イエス様が、あなたの心の中の秘密(ひみつ)までご存知(ぞんじ)なのはちょっと都合(つごう)が悪いでしょうか。本当の親友や家族とは、自分のいい面だけでなく、そうでない面も知ってもらうことではないでしょうか。

イエス様は、ありのままのあなたを受(う)け入れてくれるお方です。その時、安心と本当の自由と喜(よろこ)びが湧いてくるのではないでしょうか。それがイエス様が与えてくれるいのちです。

イエス様は、あなたが心から本当に喜(よろこ)んで、優(やさ)しく愛をいっぱいあらわして人生を楽しむことを願(ねが)っておられるのです。

イエス様の願(ねが)いは、あなたがイエス様を知ることです。

あなたがイエス様を愛して生きることです。この方から離(はな)れないで生きることなのです。

聖書(せいしょ)の中にこのことを、喜(よろこ)んで感謝(かんしゃ)しているみことばがあります。

【主しゅ】は私の羊飼ひつじかい。私は、乏しいことがありません。
主しゅは私を緑みどりの牧場まきばに伏ふさせ、いこいの水のほとりに伴ともなわれます。
主しゅは私のたましいを生き返らせ、御名みなのために、私を義ぎの道に導みちびかれます。
たとい、死の陰かげの谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐おそれません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖づえ、それが私の慰なぐさめです。
私の敵てきの前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯さかずきは、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限かぎり、いつくしみと恵めぐみとが、私を追おって来るでしょう。私は、いつまでも、【主しゅ】の家に住まいましょう。

(詩篇23篇1-6節)

苦難に対して生きる~キリストがくださる人生

ペテロの手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月3日

<聖書>

ご承知(しょうち)のように、あなたがたが父祖(ふそ)伝来(でんらい)のむなしい生き方から贖(あがな)い出(だ)されたのは、銀や金のような朽(く)ちる物にはよらず、
傷(きず)もなく汚(よご)れもない小羊のようなキリストの、尊(たっと)い血によったのです。
キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。
あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光(えいこう)を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰(しんこう)と希望(きぼう)は神にかかっているのです。
あなたがたは、真理(しんり)に従(したが)うことによって、たましいを清(きよ)め、偽(いつわ)りのない兄弟愛を抱(いだ)くようになったのですから、互(たが)いに心から熱く愛し合いなさい。
あなたがたが新しく生まれたのは、朽(く)ちる種(たね)からではなく、朽(く)ちない種(たね)からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その栄(さか)えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣(の)べ伝(つた)えられた福音(ふくいん)のことばがこれです。

(ペテロの手紙第一1章18-25節)

<説教>

神さまに造(つく)られた最初(さいしょ)の人アダムは神さまに背(そむ)き、神さまから離(はな)れて生きるようになりました。神さまの言われることに従(したが)うことができず、正しいことも、悪いことも自分で決めて生きようとしたのです。

聖書(せいしょ)にある通り、これが罪(つみ)の始まりです(罪(つみ)の堕落(だらく)と言います)。

それ以来(いらい)、すべての人間はこのアダムの罪(つみ)の影響(えいきょう)を深(ふか)く受(う)けています。誰(だれ)もこの罪(つみ)から逃(のが)れて生きることができないのです。

しかし、聖書(せいしょ)の約束(やくそく)通(どお)りにイエス・キリストがお生まれになりました。約2000年前に、キリストが十字架(じゅうじか)に架(か)かって死なれ、三日目によみがえり、人間が罪(つみ)から救(すく)われる道を与(あた)えてくださいました。

今日読んだペテロの手紙第一という聖書(せいしょ)の書簡(しょかん)は、この罪深(つみぶか)い世界の中で生きるクリスチャンに対しての手紙です。

イエス様を信じるキリスト者は、神さまに従(したが)って生きようとする時、必ず試練(しれん)や迫害(はくがい)があります。

それは、ただイエス様を信じるという理由(りゆう)によるのです。罪(つみ)の世は闇(やみ)なので光であるイエス様、クリスチャンを拒(こば)みます。

しかし、手紙の作者であるペテロはどのように生きるべきかを伝(つた)えて励(はげ)まします。

① どれだけ頑張(がんば)っても抜(ぬ)け出(だ)せなかった罪深(つみぶか)い生き方から救(すく)い出されたことを思い出しなさい。

すべての人は、罪(つみ)を犯したので、神からの栄誉(えいよ)を受(う)けることができず、ただ、神の恵(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価(あたい)なしに義(ぎ)と認(みと)められるのです。 

(ローマ3:23-24)

贖(あがな)いとは、罪(つみ)の支配(しはい)から自由にされることです。そのためにキリストが十字架(じゅうじか)で私たちの罪(つみ)の身代わりとなられました。キリストがあなたの罪(つみ)の代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことを信じる者は、罪(つみ)から救(すく)われます。人間が救(すく)わるのはこれ以外(いがい)の方法(ほうほう)はありません。

② キリストに従(したが)うことによる試練(しれん)や苦しみは、やがて神さまに必ず報(むく)いられる。

あなたがたの信仰(しんこう)の試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお朽(く)ちて行く金よりも尊(たっと)く、イエス・キリストの現(あらわ)れのときに称賛(しょうさん)と光栄(こうえい)と栄誉(えいよ)になることがわかります。

(Ⅰペテロ1:7)

神さまは、すべてをご存知(ぞんじ)です。特にあなたがキリストを信じて、従(したが)った生き方に称賛(しょうさん)を与(あた)えてくださいます。キリストのために生きる者は、必ず神さまが正しく報(むく)いてくださると信じて生きることができます。

そして、この世の終わりの日にキリストがもう一度、来られることを信じます(これを再臨(さいりん)と言います)。

贖(あがな)いとは、罪(つみ)の支配(しはい)から自由にされることです。そのためにキリストが十字架(じゅうじか)で私たちの罪(つみ)の身代わりとなられました。キリストがあなたの罪(つみ)の代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことを信じる者は、罪(つみ)から救(すく)われます。人間が救(すく)わるのはこれ以外(いがい)の方法(ほうほう)はありません。

③ キリストに従(したが)うことによる試練(しれん)や苦しみは、やがて神さまに必ず報(むく)いられる。

あなたがたの信仰(しんこう)の試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお朽(く)ちて行く金よりも尊(たっと)く、イエス・キリストの現(あらわ)れのときに称賛(しょうさん)と光栄(こうえい)と栄誉(えいよ)になることがわかります。

(Ⅰペテロ1:7)

神さまは、すべてをご存知(ぞんじ)です。特にあなたがキリストを信じて、従(したが)った生き方に称賛(しょうさん)を与(あた)えてくださいます。キリストのために生きる者は、必ず神さまが正しく報(むく)いてくださると信じて生きることができます。

そして、この世の終わりの日にキリストがもう一度、来られることを信じます(これを再臨(さいりん)と言います)。

神のいのちは死に打ち勝つ

ヨハネの福音書11章17-27節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月27日

<聖書>

17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓(はか)の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離(はな)れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰(なぐさ)めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎(むか)えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「主(しゅ)よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお求(もと)めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信(しん)じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信(しん)じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信(しん)じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。主(しゅ)よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信(しん)じております。」

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)11章17-27節)

<説教>

<ラザロの死>

イエスにとって、ラザロとその姉妹マルタ、マリヤは家族のようにゆっくりとやすめる故郷(ふるさと)のようでした。その愛するラザロが死んだことは、家族にとって大きな悲(かな)しみでした。
イエスご自身もラザロの死を悲(かな)しみ、家族や付(つ)き添(そ)いの人たちと同じように涙(なみだ)を流されました。
イエスは神でありながら、人としてこの世に遣(つか)わされました。神に泣いたりする感情があるのはおかしいでしょうか。聖書(せいしょ)に書かれる、まことの神は、人間を愛され、悲(かな)しまれたり、喜(よろこ)ばれるお方なのです。

<イエスはラザロをよみがえらせた>

死の悲(かな)しみに暮(く)れる家族の前で、イエスはラザロを死からよみがえらせました。
死の恐怖(きょうふ)におびえる人たちに、神は死に打(う)ち勝(か)つことができることを知ってもらいたかったのです。
イエスは愛する者を死からよみがえらせることがお出来になるのです。愛する者とは、すべての人間です。神はすべての人を愛して、イエスを信じていのちを与(あた)えたいのです。
死んでから4日経(た)ったラザロのよみがえりは、イエスが人間の罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれて、3日目によみがえることの「しるし」です。
神だけが、人類(じんるい)最後(さいご)の敵(てき)である「死」も滅(ほろ)ぼされるお方です。

キリストの支配(しはい)は、すべての敵(てき)をその足の下に置(お)くまで、と定(さだ)められているからです。最後の敵(てき)である死も滅(ほろ)ぼされます。

(Ⅰコリント15:25-26)

<イエスはなぜよみがえったのか> 

1.人間を死の支配(しはい)から解放(かいほう)するため

すべての人間にとって死は不気味(ぶきみ)で避(さ)けることのできない災(わざわ)いです。人間はこの死を取(と)り去(さ)ろうと努力してきました。医療(いりょう)で痛(いた)みを取(と)り除(のぞ)いたり、不気味(ぶきみ)な墓地(ぼち)のイメージを○○○メモリアルという名前で明るく、楽しい雰囲気(ふんいき)にしたりします。
しかし、それは死の恐(おそ)ろしさの裏返しです。いくら目をそらしても死が恐(おそ)ろしい証拠(しょうこ)です。死は人間から希望(きぼう)を取(と)り去(さ)り、人生に大きな影(かげ)を投(な)げかけ、そのため人間は正しく、きよく、愛をもって生きることができません。どうせ、死んだら終わりだと考えて、欲望(よくぼう)のまま生きてしまうのです。
イエスはよみがえりであり、いのちです。神だけが人間を死から解放(かいほう)して、いのちを与(あた)えることができるのです。イエスは死んで、よみがえりました。それは決して死ぬことはない、神のいのちです。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔(あくま)という、死の力を持つ者を滅(ほろ)ぼし、一(いっ)生涯(しょうがい)死の恐怖(きょうふ)につながれて奴隷(どれい)となっていた人々を解放(かいほう)してくださるためでした。

(へブル人への手紙2:14-15)

2. 古(ふる)い人、罪(つみ)の性質(せいしつ)が死んで、神のいのちを受(う)けて新しく生まれるため

イエスを信じる者は、十字架(じゅうじか)で死なれたイエスとともに、古(ふる)い人も死に、よみがえられたイエスとともに、永遠(えいえん)のいのちを与(あた)えられて新しく生まれ変わることができるのです。
イエスの死は、私たち人間の死とは違(ちが)います。人間の罪(つみ)の身代(みが)わりに死なれたのです。これは人間にはできません。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造(つく)られた者です。古(ふる)いものは過(す)ぎ去(さ)って、見よ、すべてが新しくなりました。

(Ⅱコリント5:17)

 3.日々、罪(つみ)に打ち勝って生きる力が与(あた)えられるため

罪(つみ)に対して弱く、罪(つみ)の奴隷(どれい)であった私たちが、イエスの復活(ふっかつ)のいのちが私たちの内で働(はたら)かれて、罪(つみ)に打ち勝つ力によって日々歩めるようになります。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(おちち)の栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

(ローマ6:4)

すべての人間にはやがて肉体(にくたい)の死を迎(むか)えます。しかし、すべての人間は神に背(せ)を向けて生きた罪(つみ)によって刑罰(けいばつ)の死があるのです(永遠(えいえん)の死、第二の死)。これは永遠(えいえん)の滅(ほろ)びであり、愛の神から永遠(えいえん)に離(はな)れてしまう恐(おそ)ろしい永遠(えいえん)の孤独(こどく)です。
イエスを信じるなら、この永遠(えいえん)の滅(ほろ)びの死から救(すく)い出されます。イエスを信じる者の肉体(にくたい)の死は、永遠(えいえん)のいのちが始まるための、一瞬(いっしゅん)に過(す)ぎ去(さ)る入口に過(す)ぎません。

どんなに生きることが苦(くる)しくても、死は救(すく)いではありません。イエスを信じることだけが救(すく)いの道です。

苦しみから与えられる慰め

コリント人への手紙第二1章4-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月20日

<聖書>

4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰(なぐさ)めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰(なぐさ)めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰(なぐさ)めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難(くなん)があふれているように、慰(なぐさ)めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰(なぐさ)めと救いのためです。もし私たちが慰(なぐさ)めを受けるなら、それもあなたがたの慰(なぐさ)めのためで、その慰(なぐさ)めは、私たちが受けている苦難(くなん)と同じ苦難(くなん)に耐(た)え抜(ぬ)く力をあなたがたに与えるのです。
7 私たちがあなたがたについて抱いている望(のぞ)みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰(なぐさ)めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激(はげ)しい、耐(た)えられないほどの圧迫(あっぱく)を受け、ついにいのちさえも危(あやう)くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟(かくご)しました。これは、もはや自分自身を頼(たの)まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼(たの)む者となるためでした。
10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望(のぞ)みを、私たちはこの神に置いているのです。

(コリント人への手紙第二1章4-10節)

<説教>

キリストを信じる前のパウロは、自分自身により頼(たの)み、キリスト者たちを迫害(はくがい)して苦しめて暴力(ぼうりょく)をふるう者でした。パウロは神を信じていても、現実は自分の力を誇(ほこ)って生きていたのです。現実の生活では神に従っていなかったのです。
罪(つみ)とは神から離(はな)れて、自分に頼(たよ)って生きる状態です。人生が自分のためにあると思うことです。そこから現実にあらわれる罪深(つみぶか)い言動(げんどう)によって、私たちは苦しみ、それは解決することなく、滅(ほろ)びへと向かいます。たとえ自分で苦しみを解決しても、自分の力を誇(ほこ)り、高ぶるようになることも多くあります。
しかし、神を信じる者の苦しみは、キリストがお受けになった苦しみを共にすることです。みことばに従って、愛に生きる者の苦しみです。苦しみによって自分の弱さを教えられます。
神はその苦しむ者を慰(なぐさ)め、ますます神をより頼(たの)む者へと造(つく)り変えて、キリストに似(に)た者へと内から変えてくださいます。
そして、苦しみの中にあるパウロは、苦しみの中にある教会の人々を慰(なぐさ)め、ともに成長する家族のように生きていきます。苦しみも慰(なぐさ)めもキリストにあって一つなのです。以前のキリストを迫害していたパウロもまた、兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)たちの慰(なぐさ)めと愛によって、キリスト者として迎(むか)え入(い)れられたのです。
パウロは自分の意思によって使徒になったのではなく、神の御心(みこころ)によって使徒になったという確信がありました。これが、どんな苦境(くきょう)、困難(こんなん)に出会っても、めげることのない理由だったのです。

私たちの大祭司(だいさいし)は、私たちの弱さに同情(どうじょう)できない方ではありません。罪(つみ)は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試(こころ)みに会われたのです。                                                             

(ヘブル人への手紙4:15)

キリストの十字架(じゅうじか)を信じて、罪(つみ)の赦(ゆる)しを与えられた者の特徴(とくちょう)は、素直(すなお)さ、謙虚(けんきょ)さです。
表面的な良い人ではありません。キリストを愛して生きようとする時、自分をごまかしたり、いかなる言い訳もむなしく感じられるのです。キリストは私たちの心の中を気付かせてくださいます。そして、愛することだけが、神を信じて従(したが)うことだと教えてくださいます。
そのように生きようとする時、私たちはキリストの苦しみを共にするのです。
苦しみを経験した者は、他の誰かが受けた同じ苦しみを理解することができます。苦しみを経験した者は慰(なぐさ)めることができるのです。
キリストは父なる神様に従(したが)われ、罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)に架かられました。罪(つみ)を犯すこと以外は、すべての人間の受ける苦しみを経験されました。
このキリストは、あなたの苦しみを経験され、あなたを理解して慰(なぐさ)めてくださる方です。そして、その苦しみを通して、愛とまことの人にあなたを変えてくださります。喜びと平安、人を愛する価値ある人生を与えてくださいます。
パウロは言います。

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒(しと)パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒(せいと)たちへ。                             (Ⅱコリント1:1)

キリストを信じて生きるあなたは、神の教会の、使徒(しと)、聖徒(せいと)なのです。いつも神はあなたと共におられます。

十字架の祈り

ルカの福音書23章32-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月6日

<聖書>

32 ほかにもふたりの犯罪人(はんざいにん)が、イエスとともに死刑(しけい)にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と呼(よ)ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人(はんざいにん)とを十字架(じゅうじか)につけた。犯罪人(はんざいにん)のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆(みんしゅう)はそばに立ってながめていた。指導者(しどうしゃ)たちもあざ笑(わら)って言った。「あれは他人を救(すく)った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救(すく)ってみろ。」
36 兵士(へいし)たちもイエスをあざけり、そばに寄(よ)って来(き)て、酸(す)いぶどう酒(しゅ)を差(さ)し出(だ)し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救(すく)え」と言った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札(ふだ)もイエスの頭上(ずじょう)に掲(かか)げてあった。
39 十字架(じゅうじか)にかけられていた犯罪人(はんざいにん)のひとりはイエスに悪口(あっこう)を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救(すく)え」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが答(こた)えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神(かみ)をも恐(おそ)れないのか。おまえも同じ刑罰(けいばつ)を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報(むく)いを受(う)けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国(みくに)の位(くらい)にお着(つ)きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告(つ)げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地(ぜんち)が暗(くら)くなって、三時まで続いた。
45 太陽は光を失(うしな)っていた。また、神殿(しんでん)の幕(まく)は真(ま)っ二(ぷた)つに裂(さ)けた。
46 イエスは大声で叫(さけ)んで、言われた。「父よ。わが霊(れい)を御手(みて)にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

(ルカの福音書23章32-46節)

<説教>

「どくろ」と呼(よ)ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人(はんざいにん)とを十字架(じゅうじか)につけた。犯罪人(はんざいにん)のひとりは右に、ひとりは左に。

(ルカの福音書23:33)

イエスの死が極悪(ごくあく)な犯罪人(はんざいにん)の刑罰(けいばつ)である印象(いんしょう)を人々に持たせようとしました。イエスは悪人として処刑(しょけい)されました。イエスの着物は脱(ぬ)がされ、着物はローマ兵がくじで分け合いました。
あざけり、からかい、憎(にく)しみとねたみに満ちた人々…
イエスを殺害(さつがい)しようとしたユダヤ宗教家(しゅうきょういえ)は、十字架(じゅうじか)に付けられたイエスを目の前に、自分たちの勝利(しょうり)を確信(かくしん)しました。

「父よ。彼らをお赦(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

(ルカの福音書23:34)

そんな彼らにイエスは祈られました。
イエス様の十字架(じゅうじか)の受難(じゅなん)は、ルカの福音書の中で、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)が多く引用(いんよう)されています(詩篇22、詩篇69)。
どれだけ知恵(ちえ)をこらして、策略(さくりゃく)を建てて、イエスを十字架(じゅうじか)で葬(ほうむ)り去(さ)ろうとしても、神さまはすべてご存知(ぞんじ)で、はるか昔に聖書ではっきり預言(よげん)していたのです。
そんな人間の愚(おろ)かさ、罪深(つみぶか)さ、神から離(はな)れて滅(ほろ)びへ向かう姿に、イエスは彼らの、いえ人間すべてに対して父なる神さまに赦(ゆる)しを乞(こ)うて祈ったのです。
すべての人のために、今もイエス様は罪(つみ)の赦(ゆる)しを祈っておられます。
十字架(じゅうじか)の上の左右の犯罪人(はんざいにん)の一人は、神を恐(おそ)れず、自分の罪深(つみぶか)さがわからず、自分がわかりません。ただ今の状況からの救(すく)いだけを願います。彼が信じるのは自分の心だけです。
しかし、もう一人の犯罪人(はんざいにん)は、自分の罪深(つみぶか)さを知り、悔(く)い改(あらた)めて、神を恐(おそ)れ、今の救(すく)いだけでなく、永遠の救(すく)いを祈ったのです。
彼は間もなく死を迎(むか)えるでしょう。しかし、たとえ死の間際(まぎわ)でも遅(おそ)くはないのです。イエス様の十字架(じゅうじか)は私の罪(つみ)の身代(みが)わりであると信じて、悔(く)い改(あらた)めて、罪(つみ)に背を向けて、神さまに心を向けて生きようとする者を神は「きょう」救(すく)ってくださいます。

「イエスさま。あなたの御国(みくに)の位(くらい)にお着(つ)きになるときには、私を思い出してください。」                                                

    (ルカの福音書23:42)

彼の祈りは正直でした。自分のことを覚(おぼ)えていてください。私を忘(わす)れないでくださいでした。私は愛されているのでしょうか?私は何のために生まれたのでしょうか?私の人生これでよかったのですか?
すべての人間には罪(つみ)があり、神さまとの関係を失いました。この不安と恐(おそ)れが人生を支配(しはい)しています。
競争きょうそう)に勝っても、欲しいものを手に入れても、どんなに頑張(がんば)っても、その不安と恐(おそ)れは消えません。
その解決(かいけつ)のためには、失われた神さまとの関係を回復(かいふく)、和解(わかい)するしかありません。
この犯罪人(はんざいにん)は、自分が受けている十字架(じゅうじか)刑の耐(た)え難(がた)い苦しみ痛(いた)みを、静かに受けられ、自分を苦しめる人々のために静かに祈られるイエスを神さまであると信じました。自分の十字架(じゅうじか)の刑罰(けいばつ)をイエス様は代わりに受けてくださっているとわかったのです。
そして、惨(みじ)めな十字架(じゅうじか)刑で人生を終わろうとする自分の罪深(つみぶか)さを悔(く)い改(あらた)めて、イエス様を受け入れたのです。
その瞬間(しゅんかん)、イエス様が彼と共におられ、神さまとの関係が回復(かいふく)しました。彼の絶望(ぜつぼう)、後悔(こうかい)、すべての罪(つみ)は赦(ゆる)され、彼の心は開かれ、恐(おそ)れは祈りとなりました。
イエス様はあなたを決して忘(わす)れることはありません。あなたがすべての人間の敵(てき)だとしても、すべての人があなたを忘(わす)れたとしても。
イエス様はあなたを愛されています。十字架(じゅうじか)の上であなたの罪(つみ)の赦(ゆる)しを祈って、それを成(な)し遂(と)げてくださいました。

そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの罪(つみ)をその身(み)に負(お)われました。それは、私たちが罪(つみ)を離(はな)れ、義(ぎ)のために生きるためです。キリストの打(う)ち傷(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者(ぼくしゃ)であり監督者(かんとくしゃ)である方のもとに帰ったのです。

(Ⅰペテロ2:24-25)

悪魔の力に打ち勝つ

マルコの福音書5章1-20節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月30日

<聖書>

1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚(けが)れた霊(れい)につかれた人が墓場(はかば)から出て来て、イエスを迎(むか)えた。
3 この人は墓場(はかば)に住みついており、もはやだれも、鎖(くさり)をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4 彼はたびたび足かせや鎖(くさり)でつながれたが、鎖(くさり)を引きちぎり、足かせも砕(くだ)いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
5 それで彼は、夜昼となく、墓場(はかば)や山で叫(さけ)び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆(か)け寄(よ)って来てイエスを拝(はい)し、
7 大声で叫(さけ)んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名(みな)によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8 それは、イエスが、「汚(けが)れた霊(れい)よ。この人から出て行け」と言われたからである。
9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願(こんがん)した。
11 ところで、そこの山腹に、豚(ぶた)の大群(たいぐん)が飼(か)ってあった。
12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚(ぶた)の中に送って、彼らに乗(の)り移(うつ)らせてください。」
13 イエスがそれを許(ゆる)されたので、汚(けが)れた霊(れい)どもは出て行って、豚(ぶた)に乗(の)り移(うつ)った。すると、二千匹ほどの豚(ぶた)の群れが、険(けわ)しいがけを駆(か)け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
14 豚(ぶた)を飼(か)っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
15 そして、イエスのところに来て、悪霊(あくれい)につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
16 見ていた人たちが、悪霊(あくれい)につかれていた人に起こったことや、豚(ぶた)のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
17 すると、彼らはイエスに、この地方から離(はな)れてくださるよう願った。
18 それでイエスが舟に乗(の)ろうとされると、悪霊(あくれい)につかれていた人が、お供(とも)をしたいとイエスに願った。
19 しかし、お許(ゆる)しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主(しゅ)があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚(おどろ)いた。

(マルコの福音書5章1-20節)

<説教>

湖の向こう岸はゲラサ人の地でした。まことの神さまから離(はな)れた異邦人(いほうじん)の世界です。
そこに汚(けが)れた霊(れい)に取りつかれた男が次のような姿でいました。

① 家に住まないで墓場(はかば)に住んでいた。
(人から離(はな)れて社会性を失っている状態でした)
②    何度も鎖(くさり)と足かせでつながれたが、鎖(くさり)を引きちぎり足かせを砕(くだ)いていた。
(非常に狂暴(きょうぼう)な姿でした。誰も彼を押さえつけることはできませんでした)
③    夜も昼もずっと墓場(はかば)や山で叫(さけ)び続けていた。
(彼の魂(たましい)は助けを求(もと)めていました)
④    石で自分のからだを傷(きず)つけていた。
(自分の価値(かち)を忘(わす)れて、自分を健全(けんぜん)に愛せずにいました)
⑤    長い間、着物も着ず裸でした。
(理性(りせい)、人間性を失(うしな)っている状態でした)
彼は自分の中に悪霊(あくれい)が働いていることを知っていました。レギオンという名前の悪霊(あくれい)は、ローマ軍の6千人で編成(へんせい)される軍団(ぐんだん)のように多数で強い力で男を縛(しば)ってしました。誰も彼を助け出すことはできませんでした。彼も自分の力ではこの悪霊(あくれい)をどうすることもできませんでした。それはユダヤが圧倒的(あっとうてき)な力でローマに支配されて、ローマの軍隊が、悪事(あくじ)を働き、人々を苦しめている状態でした。
イエス様が舟から上がってきたのを見た時、男はイエス様を迎(むか)えにいきます。どんなに悪霊(あくれい)の力が強くても、まことの神(かみ)さまの力を信じることが大切です。イエス様がこの地上に来られたのは、悪魔(あくま)を打倒すためなのです。

神(かみ)の子が現れたのは、悪魔(あくま)のしわざを打ちこわすためです。(Ⅰヨハネ3:8)

イエス様を信じる者は、いたずらに悪魔(あくま)を恐(おそ)れることはありません。しかし、悪魔(あくま)の力を侮(あなど)ってはいけません。確(たし)かに罪(つみ)を犯(おか)させようとする力は存在(そんざい)するのです。キリスト者生活を最後までやり遂(と)げることは、悪魔(あくま)との戦いでもあると言えるからです。
悪霊(あくれい)たちは神(かみ)の子イエス様に自分たちを追い出さないでくださいと願いました。堕落(だらく)した道徳の乱(みだ)れたこの世界は悪霊(あくれい)にとって住みよい環境(かんきょう)なのです。聖書は、毎日が邪悪(じゃあく)な日であり、今は悪い時代だと言います。
悪霊(あくれい)はサタン(悪魔(あくま))の手下(てした)で、この世で大勢(おおぜ)い活動しています。人や動物に入り、神(かみ)の働きや、計画を妨(さまた)げようとします。サタンは、24時間365日ずっと、破滅(はめつ)させることができる人々を探(さが)して歩き回っています。

身(み)を慎(つつし)み、目をさましていなさい。あなたがたの敵(てき)である悪魔(あくま)が、ほえたける獅子(しし)のように、食(く)い尽(つ)くすべきものを捜(さが)し求(もと)めながら、歩き回っています。

(Ⅰペテロ5:7)

この御言葉(みことば)の記者ペテロにとって、「目をさましていなさい」は忘(わす)れることのできないイエス様のことばです。悪魔(あくま)がペテロを征服(せいふく)して、イエス様を拒(こば)ませたことを忘(わす)れませんでした。
悪魔(あくま)は吠(ほ)えたけるライオンのような凶暴性(きょうぼうせい)と破壊性(はかいせい)によって、イエス様を信じる信仰(しんこう)を失(うしな)わせようとします。
しかし、イエス様によって信仰(しんこう)を守られたペテロは初代(しょだい)教会(きょうかい)で力強くイエス様を証(あかし)する者に変えられます。彼は確(かく)信(しん)して言います。

堅(かた)く信仰(しんこう)に立って、この悪魔(あくま)に立ち向かいなさい。ご承知(しょうち)のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

(Ⅰペテロ5:8)

イエス様の神(かみ)の権威(けんい)あるみことばによって、このゲラサ人の男に取りついた汚(けが)れた霊(れい)は追い出されました。彼は正気(しょうき)に返り、家に帰り、着物を着て、神(かみ)の救いを言い広め始めます。それはゲラサ人の地、デカポリス、ギリシャの植民地(しょくみんち)、異邦人(いほうじん)の地でキリストの救いのみわざはこの男性から広がっていくのです。

問 人の主な目的(もくてき)はなんであるか?
答 人の主な目的(もくてき)は神(かみ)の栄光(えいこう)をあらわし、神(かみ)を永遠(えいえん)に喜ぶことである。

ウエストミンスター小教理問答の第一問目
(プロテスタンキリスト教会の信仰(しんこう)基準(きじゅん))

心配しないで生きる

マタイの福音書6章25-34節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月23日

<聖書>

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配(しんぱい)したり、また、からだのことで、何を着(き)ようかと心配(しんぱい)したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物(きもの)よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔(たねま)きもせず、刈(か)り入(い)れもせず、倉(くら)に納(おさ)めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養(やしな)っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配(しんぱい)したからといって、自分のいのちを少しでも延(の)ばすことができますか。なぜ着物(きもの)のことで心配(しんぱい)するのですか。野のゆりがどうして育(そだ)つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華(えいが)を窮(きわ)めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾(きかざ)ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉(ろ)に投(な)げ込(こ)まれる野の草さえ、神はこれほどに装(よそお)ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄(うす)い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着(き)るか、などと言って心配(しんぱい)するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人(いほうじん)が切に求(もと)めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要(ひつよう)であることを知っておられます。だから、神の国とその義(ぎ)とをまず第一に求(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与(あた)えられます。だから、あすのための心配(しんぱい)は無用(むよう)です。あすのことはあすが心配(しんぱい)します。労苦(ろうく)はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書6章25-34節)

<説教>

神を信じない異邦人(いほうじん)は食べ物のこと、着物のことを心配(しんぱい)します。将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)します。

しかし、どれだけ心配(しんぱい)しても決して問題の解決(かいけつ)にはなりません。かえって体や精神的に悪いことさえあります。ほとんどの病気はストレスが原因だと言われています。

人間の心配(しんぱい)は、完全に信頼(しんらい)する存在、神を信じないことが原因です。神さまを認(みと)めないならば、すべての起こりうる心配(しんぱい)は自分でどうにかしなくてはいけないのです。それは罪(つみ)を犯(おか)して神様から離(はな)れてしまった人間の生き方となってしまいました。

では心配(しんぱい)しないためにどうすればいいのでしょうか。

①     自然の生きものの姿を見て学ぶ。

イエス様は働かなくていいとは言っていません。鳥も働いています(雀(すずめ)などは働き者で有名です)。しかし将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)する鳥や花はいません。しかし、神さまはそんな鳥を毎日養(やしな)い、一日で枯(か)れてしまう花でさえも、最高の美しさで装(よそお)ってくださいます。鳥や花より優(すぐ)れた人間を神さまが養(やしな)ってくださらないはずがありません。

②    神さまがすべてを支配(しはい)して守(まも)ってくださることをいつも覚(おぼ)えて、そこに自分を置(お)いて生活する。

イエス様は一番大切な守(まも)るべきことは自分を愛するように隣人(となりびと)を愛することだと言われます。愛の心を持って誰(だれ)かを思いやって生きる。誰(だれ)かのために生きるとき自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。信仰(しんこう)をもって神さまのことばを実践(じっせん)するとき、自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。

③    今日を精一杯生きて、明日の心配(しんぱい)はしない。

いくら明日を心配(しんぱい)しても私たちが生きることができるのは今日だけです。今日という日を罪(つみ)から離(はな)れて正しく、感謝して生きることに努(つと)めましょう。

もし、あなたが今までの人生をすべて、事前(じぜん)に知らされていたら、今日まで生きてこられたでしょうか。今までたくさんの苦労(くろう)、試練(しれん)があったことでしょう。しかし、あなたは、何が起こるか知らないで、心配(しんぱい)せずに生きてきましたが、今日まで生きて来られたのです。

神さまはあなたを守(まも)り養(やしな)ってくださったのです。

だから、神の国とその義(ぎ)とをまず第一に求(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与(あた)えられます。

マタイの福音書6:33

このみことばは聖書の中でも、とても素晴(すば)らしい約束の一つです。神の国とは神の支配(しはい)される領域(りょういき)をあらわします。神さまのご支配(しはい)される御国(みくに)の中で生活しようと努(つと)め、神さまのみことばに従(したが)って生きることを何より第一に求(もと)め続(つづ)けるなら、必ず、神さまがあなたの必要を備(そな)えてくださいます。

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりを自分の罪(つみ)の身代(みが)わりと信じる者は、そのような生き方に変えられます。あらゆることを心配(しんぱい)しながら単独(たんどく)で生きる人生から、神さまと心が結(むす)び付(つ)けられるのです。

あなたのすべての罪(つみ)を赦(ゆる)してくださった神さまは、愛をもって、あなたのすべての心配(しんぱい)もご自身の心配(しんぱい)事として引き受けてくださいます。

あなたがたの思(おも)い煩(わずら)いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配(しんぱい)してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7

神の祝福に生きよう

創世記25章19-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月16日

<聖書>

これはアブラハムの子イサクの歴史(れきし)である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの娘(むすめ)で、アラム人ラバンの妹であるリベカを妻(つま)にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の妻(つま)のために【主(しゅ)】に祈願(きがん)した。彼女が不妊(ふにん)の女であったからである。【主(しゅ)】は彼の祈(いの)りに答えられた。それで彼の妻(つま)リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹(はら)の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして【主(しゅ)】のみこころを求めに行った。すると【主(しゅ)】は彼女に仰(おお)せられた。「二つの国があなたの胎内(たいない)にあり、二つの国民(くにたみ)があなたから分かれ出る。一つの国民(くにたみ)は他の国民(くにたみ)より強く、兄が弟に仕える。」出産(しゅっさん)の時が満(み)ちると、見よ、ふたごが胎内(たいない)にいた。最初(さいしょ)に出て来た子は、赤くて、全身(ぜんしん)毛(け)衣(ころも)のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

(創世記(そうせいき)25章19-26節)

<説教>

神(かみ)さまは、ご自身の国をつくることによって、祝福(しゅくふく)をご計画(けいかく)されました。それは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)のイスラエルから始まり、今はキリストを信じる者が集められた教会(きょうかい)です。イスラエルは、アブラハムから始まり、その子イサクはリベカによってエサウとヤコブが生まれます。

しかし、二人は外見(がいけん)も性格(せいかく)もまるで違っていました。エサウは猟師(りょうし)で野の人で、ヤコブは天幕(てんまく)で神(かみ)さまに心を向けて生きる羊飼(ひつじか)いでした。

この双子(ふたご)の兄弟(きょうだい)はイサク夫婦(ふうふ)が神(かみ)さまに祈(いの)り求(もと)めて20年目に与(あた)えられた子どもでした。しかし、生まれる前から、リベカの腹(はら)の中でぶつかり合っていました。神(かみ)さまは、エサウとヤコブからそれぞれ国が生まれ、兄が弟に仕(つか)えると、リベカに預言(よげん)します。ヤコブの家系(かけい)から、神(かみ)の国をおこそうと計画(けいかく)されていました。

そして、あるとき兄のエサウが猟(りょう)からお腹(なか)を減(へ)らして帰ったとき、弟のヤコブは美味(おい)しそうな豆(まめ)料理(りょうり)を作っていました。そのごちそうを欲しがるエサウに、ヤコブは長子(ちょうし)の権利(けんり)を求(もと)めます。

エサウは空腹(くうふく)を満(み)たすために、よく考えることもなく、自分の長子(ちょうし)の権利(けんり)をヤコブに売ってしまいます。

当時のイスラエルは、長子(ちょうし)は他の子どもたちより2倍の相続(そうぞく)財産(ざいさん)をもらえました。人も家畜(かちく)も初子(ういご)(最初に母から生まれたもの)は神(かみ)さまのものとされ、特別な価値(かち)があったのです。それと同時に神(かみ)の命令(めいれい)を守り、神(かみ)の道に仕(つか)えて生きる責任(せきにん)と義務(ぎむ)があったのです。

ヤコブも親の財産(ざいさん)をたくさんもらいたいと思いました。しかし、長子(ちょうし)の権利(けんり)はそれよりも、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)を意味(いみ)していたのです。

神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)とは、何となくありがたい気分がすることではありません。神(かみ)さまを信(しん)じる者は、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)が与(あた)えられます。それは、信(しん)じる者に変化を与(あた)えるものです。次のようなものです。

1. 数量的に増(ふ)えること
2. 力が与(あた)えられること
3. 必要(ひつよう)な物が備(そな)えられること
4. 生きる使命(しめい)や任務(にんむ)が与(あた)えられること
5. 他の人に神(かみ)の恵(めぐ)みを分け与(あた)えること

お金や富(とみ)が増(ま)し加(くわ)えられるのも神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)だと、聖書(せいしょ)にあります。

主(しゅ)の祝福(しゅくふく)そのものが人を富(と)ませ、人の苦労(くろう)は何もそれに加(くわ)えない。

箴言10:22

また、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)は与(あた)えられるだけでなく、受(う)けた恵(めぐ)みを、他の人に与(あた)えることでもあります。

悪をもって悪に報(むく)いず、侮辱(ぶじょく)をもって侮辱(ぶじょく)に報(むく)いず、かえって祝福(しゅくふく)を与(あた)えなさい。あなたがたは祝福(しゅくふく)を受(う)け継(つ)ぐために召(め)されたのだからです。                                       

Ⅰペテロ3:9

ヤコブも人をだまして、自分の利得に生きる者でしたが、その生涯(しょうがい)にわたり神(かみ)さまのあわれみと訓練(くんれん)を受(う)け、まことの神(かみ)さまを知っていきます。やがてヤコブは授(さず)かった12人の子どもに神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)を祈(いの)り、祝福(しゅくふく)を与(あた)える者に変えられていきます。 この12人の子ども(後のイスラエル12部族)からダビデが生まれ、やがてその子孫からイエス・キリストがお生まれになります。

今はイエス様を信じる者は、神(かみ)さまの長子(ちょうし)とされます。神(かみ)さまの子が受(う)けるすべての霊的(れいてき)祝福(しゅくふく)が与(あた)えられます。

欲(よく)や目先のこと、物質的(ぶっしつてき)なこと、この地上のことを求めるだけでは人は幸せになることはできません。神(かみ)さまを信じて、罪(つみ)を赦(ゆる)しいただき、神(かみ)さまの子どもとされ家族として生きる時、神(かみ)さまの祝福(しゅくふく)を受(う)けて、まことの豊かな人生をおくることができるのです。

イエス様の十字架(じゅうじか)によって与(あた)えられる祝福(しゅくふく)を感謝(かんしゃ)しましょう。

このことは、アブラハムへの祝福(しゅくふく)が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受(う)けるためなのです。

ガラテヤ書3:14

愛に生きる

ヨハネの手紙第一 4章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月9日

<聖書>

愛(あい)する者たち。私たちは、互(たが)いに愛(あい)し合いましょう。愛(あい)は神(かみ)から出ているのです。愛(あい)のある者はみな神(かみ)から生まれ、神(かみ)を知っています。愛(あい)のない者に、神(かみ)はわかりません。なぜなら神(かみ)は愛(あい)だからです。神(かみ)はそのひとり子を世に遣(つか)わし、その方によって私たちに、いのちを得(え)させてくださいました。ここに、神(かみ)の愛(あい)が私たちに示(しめ)されたのです。私たちが神(かみ)を愛(あい)したのではなく、神(かみ)が私たちを愛(あい)し、私たちの罪(つみ)のために、なだめの供(そな)え物(ぶつ)としての御子(みこ)を遣(つか)わされました。ここに愛(あい)があるのです。愛(あい)する者たち。神(かみ)がこれほどまでに私たちを愛(あい)してくださったのなら、私たちもまた互(たが)いに愛(あい)し合うべきです。いまだかつて、だれも神(かみ)を見た者はありません。もし私たちが互(たが)いに愛(あい)し合うなら、神(かみ)は私たちのうちにおられ、神(かみ)の愛(あい)が私たちのうちに全(まっと)うされるのです。

(ヨハネの手紙第一4章7-12節)

<説教>

1902年にカナダで生まれたアルフレッド・ラッセル・ストーンは幼(おさな)い頃(ころ)から農業(のうぎょう)を愛(あい)しました。24歳から日本の長野(ながの)、北海道(ほっかいどう)で農村(のうそん)伝道(でんどう)に生涯(しょうがい)を捧(ささ)げた宣教師(せんきょうし)でした。

1920年生まれのディーン・リーパーは25歳から戦後(せんご)の焼(や)け野原(のはら)の東京(とうきょう)に宣教師(せんきょうし)として来日(らいにち)します。日本人になろうと銭湯(せんとう)に行っては日本人と背中(せなか)を流(なが)し合(あ)うリーパー宣教師(せんきょうし)は、プロ級の手品師(てじなし)でもありました。

1954年9月26日に大型の台風(たいふう)15号が接近(せっきん)する中、函館(はこだて)から青森(あおもり)へ出航(しゅっこう)した青函(せいかん)連絡船(れんらくせん)「洞爺(とうや)丸号(まるごう)」にこの2人の宣教師(せんきょうし)が乗船(じょうせん)していました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)は約4時間後の22時45分に沈没(ちんぼつ)し、死者(ししゃ)・行方(ゆくえ)不明者(ふめいしゃ)あわせて1155人におよぶ、日本(にほん)海難(かいなん)史上(しじょう)最悪(さいあく)の事故(じこ)となりました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)が台風(たいふう)に遭(あ)って、船が大きく真横(まよこ)に傾(かたむ)いたとき、

リーパー宣教師(せんきょうし)は恐怖(きょうふ)におびえる乗客(じょうきゃく)に、やさしく語(かた)りかけ、自慢(じまん)の手品(てじな)を披露(ひろう)、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜(おおよろこ)びします。一時(いちじ)船室(せんしつ)に落(お)ち着(つ)きがもどりますが、やがて船は大きく傾(かたむ)き、船室(せんしつ)に水が流(なが)れこみます。リーパー宣教師(せんきょうし)は、同乗(どうじょう)していたストーン宣教師(せんきょうし)、オース宣教師(せんきょうし)と力をあわせ、悲鳴(ひめい)の渦(うず)のなかで逃(に)げまどう乗客(じょうきゃく)に救命(きゅうめい)具(ぐ)を配(くば)り、着用(ちゃくよう)に手間取(てまど)る子どもや女性を助(たす)けました。ストーン宣教師(せんきょうし)は、救命(きゅうめい)具(ぐ)のない学生を見つけ「あなたの前途(ぜんと)は長いから」といって救命(きゅうめい)具(ぐ)をゆずりました。リーパー宣教師(せんきょうし)は女性や子どもたちに救命(きゅうめい)具(ぐ)を着(き)せてやり、最後まで励(はげ)ましの言葉をかけ続(つづ)けたと伝(つた)えられています。

後日、七重(ななえ)浜(はま)で救命(きゅうめい)具(ぐ)のない二人の宣教師(せんきょうし)の裸(はだか)の遺体(いたい)が発見(はっけん)されました。また台風(たいふう)の荒波(あらなみ)の中では、ほとんどの人が救命(きゅうめい)具(ぐ)を着(き)ていても助(たす)かりませんでしたが、彼らの救命(きゅうめい)具(ぐ)をもらった若者と子どもは奇跡的(きせきてき)に助(たす)かりました。

他人のために命をすてた洞爺(とうや)丸号(まるごう)の宣教師(せんきょうし)。自分の命を犠牲(ぎせい)にして人々を救った宣教師(せんきょうし)。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛(あい)はだれも持っていません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)15章13節)

神(かみ)は愛(あい)なり

(ヨハネの手紙第一4章8節)

神(かみ)さまの愛(あい)をアガペーと言います。無条件(むじょうけん)の愛(あい)、価値(かち)なき者を愛(あい)する愛(あい)です。

その神(かみ)の愛(あい)があらわされたのが十字架(じゅうじか)です。

イエス・キリストは、罪(つみ)の中で死んでいる私たち人間に、いのちを与(あた)えるために十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

私たちは生まれたままの状態(じょうたい)では、神(かみ)を知(し)らず、神(かみ)から離(ばな)れ、罪深(つみぶか)く自己(じこ)中心(ちゅうしん)で神(かみ)に敵対(てきたい)する罪人(つみびと)でした。

しかし、十字架(じゅうじか)のもとで神(かみ)の計(はか)り知(し)れない愛(あい)を知(し)り、そのいのちにあずかった者は心(こころ)の欲(よく)のままの生活に戻(もど)ることは出来ません。互(たが)いに愛(あい)し合うべきなのです。

その姿(すがた)によって、神(かみ)がおられると人は知(し)るのです。

イエス様はすべての人に言われています。

互(たが)いに愛(あい)し合いなさい。わたしがあなたがたを愛(あい)したように、あなたがたも互(たが)いに愛(あい)し合いなさい。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章34節)

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)はすべての人を救(すく)うことができます。その救(すく)いを受(う)けたいとあなたが決心(けっしん)するかどうかだけです。

さあ、罪(つみ)を捨(す)て去(さ)り、新しく、愛(あい)に生きようではありませんか。