イエス様は罪人の友

マタイの福音書9章9-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月31日

<聖書>

イエスは、そこを去(さ)って道(みち)を通(とお)りながら、収税所(しゅうぜいしょ)にすわっているマタイという人をご覧(らん)になって、「わたしについて来(き)なさい」と言(い)われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従(したが)った。
イエスが家で食事(しょくじ)の席(せき)に着(つ)いておられるとき、見よ、取(しゅ)税人(ぜいにん)や罪人(つみびと)が大ぜい来(き)て、イエスやその弟子(でし)たちといっしょに食卓(しょくたく)に着(つ)いていた。
すると、これを見たパリサイ人(びと)たちが、イエスの弟子(でし)たちに言(い)った。「なぜ、あなたがたの先生(せんせい)は、取(しゅ)税人(ぜいにん)や罪人(つみびと)といっしょに食事(しょくじ)をするのですか。」
イエスはこれを聞いて言(い)われた。「医者(いしゃ)を必要(ひつよう)とするのは丈夫(じょうぶ)な者(もの)ではなく、病人(びょうにん)です。
『わたしはあわれみは好(この)むが、いけにえは好(この)まない』とはどういう意味(いみ)か、行って学(まな)んで来(き)なさい。わたしは正(ただ)しい人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招(まね)くために来(き)たのです。」

(マタイの福音書9章9-13節)

<説教>

イエスは罪人(つみびと)の友です。罪人(つみびと)に呼(よ)びかけて、私について来なさいと言われます。マタイはイエスの呼(よ)びかけにすぐに、何もかも捨(す)てて従(したが)いました。

信仰(しんこう)とは神さまの言葉(聖書)を信(しん)じて応(こた)えることです。あなたの意志(いし)と決断(けつだん)です。神さまのことを理解(りかい)しようとするならいつまでも信仰(しんこう)に入ることはできません。今までの生き方を悔(く)い改(あらた)めて、神を信(しん)じることから新しく始(はじ)まるのです。信(しん)じるなら必(かなら)ず神様があなたを助(たす)け、道を開(ひら)いてくださいます。

イエスは彼らの信仰(しんこう)を見て、中風(ちゅうぶう)の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪(つみ)は赦(ゆる)された」と言われた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)9章2節)

イエスは病(やまい)を癒(いや)しました。またイエスは罪(つみ)を赦(ゆる)す権威をお持ちでした。細胞が新しくされて病(やまい)は癒(いや)されます。人の内面(うちめん)が根底(こんてい)から造(つく)り変(か)えられて罪(つみ)が赦(ゆる)されます。

人間は外側(そとがわ)しか変(か)えられませんが、神さまは人間を内側(うちがわ)から造(つく)り変(か)えることができます。心が新しくされる→動機(どうき)がきよめられる→言葉や行いが変(か)わるのです。人間(教育(きょういく)・道徳(どうとく)・自己(じこ)啓発(けいはつ)など)の方法(ほうほう)では、言葉や行いを変(か)える→?→?。で終わります。キリストの十字架(じゅうじか)のみわざは人間の理解(りかい)を超(こ)えた命(いのち)なのです。

取(しゅ)税人(ぜいにん)マタイはイエスを信(しん)じて、価値観(かちかん)が変(か)えられました。自分のためだけに使(つか)ってきたお金を、イエス様のために、隣人(となりびと)のために盛大(せいだい)に振(ふ)る舞(ま)いました。

人はキリスを信(しん)じて、罪(つみ)が赦(ゆる)され、きよめられ、変(か)わることが出来るのです。愛する心が生まれるのです。

イエス様の招(まね)きに応(こた)えないならあなたは罪人(つみびと)のまま決(けっ)して変(か)わることはできません。神の目からはすべての人間が罪人(つみびと)だと聖書(せいしょ)は言います。罪(つみ)は必(かなら)ず永遠(えいえん)の滅(ほろ)びという死(し)に至(いた)る病(やまい)です。罪(つみ)の癒(いや)しは、十字架(じゅうじか)であなたの罪(つみ)のために死(し)なれたイエスがよみがえられたことを信(しん)じる以(い)外(がい)ありません。

イエスの招(まね)きに応(こた)える者(しゃ)はイエス様と一緒(いっしょ)に食事(しょくじ)をします。ともに食事(しょくじ)をとるのは親友(しんゆう)であるしるしでした。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)の預言者(よげんしゃ)ホセアは不貞(ふてい)の姦淫(かんいん)の女を妻(つま)にめとります(ホセア記)。

堕落(だらく)したイスラエルがまことの神様を捨(す)てて外国の神を崇(あが)めてみだらな礼拝(れいはい)を行いました。イスラエルの不真実(ふしんじつ)に対して、神さまの忍耐(にんたい)深(ぶか)い愛をあらわしています。

そして、新約(しんやく)の今、イエスが罪(つみ)と汚(けが)れの奴隷(どれい)である私たちと真実(しんじつ)な永遠(えいえん)の契(ちぎ)りを交(か)わして、結婚(けっこん)してくださることを預言(よげん)しています。

イエスはあなたに呼(よ)びかけています。それは罪人(つみびと)であるあなたの友となるためです。

神さまから離れて罪(つみ)の中に生きるあなたにイエス様は忍耐(にんたい)深(ぶか)い愛をもって、あなたが神さまに立(た)ち返(かえ)るように今も呼(よ)びかけています。

イエスはこれを聞いて言われた。「医者(いしゃ)を必要(ひつよう)とするのは丈夫(じょうぶ)な者(しゃ)ではなく、病人(びょうにん)です。『わたしはあわれみは好(この)むが、いけにえは好(この)まない』とはどういう意味(いみ)か、行(おこな)って学(まな)んで来(き)なさい。わたしは正(ただ)しい人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招(まね)くために来(き)たのです。」

(マタイの福音書9章12-13節)

苦難の中であなたと神の間にいるお方

ヨブ記1章20-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月24日

<聖書>

このとき、ヨブは立ち上がり、その上(うわ)着(ぎ)を引(ひ)き裂(さ)き、頭(あたま)をそり、地(ち)にひれ伏(ふ)して礼拝(れいはい)し、そして言った。「私は裸(はだか)で母(はは)の胎(たい)から出て来た。また、裸(はだか)で私はかしこに帰(かえ)ろう。【主(ぬし)】は与(あた)え、【主(ぬし)】は取(と)られる。【主(ぬし)】の御名(みな)はほむべきかな。」ヨブはこのようになっても罪(つみ)を犯(おか)さず、神(かみ)に愚痴(ぐち)をこぼさなかった。

(ヨブ記1章20-22節)

<説教>

ヨブは潔白(けっぱく)で正しい人でした。神(かみ)さまをおそれて悪(あく)から遠(とお)ざかっていました。彼は苦難(くなん)の中でも罪(つみ)を犯(おか)さずに神(かみ)さまをほめたたえました。
しかし、ヨブは一度(いちど)に家族(かぞく)と家財(かざい)を失(うしな)い、体中(からだじゅう)がひどい病(やまい)に侵(おか)されました。妻(つま)や友人(ゆうじん)たちの慰(なぐさ)めも、ヨブの心には全(まった)く届(とど)きませんでした。彼の苦難(くなん)は嘆(なげ)いても忍耐(にんたい)してもどうにもなりませんでした。
ヨブは自分が正しく生きてきたことを知(し)っていました。その自分が何故(なぜ)これほどの苦(くる)しみを受けるのかわかりませんでした。

ヨブが最(もっと)もおそれたことは、死(し)ぬこともできず苦(くる)しみ生(い)き続(つづ)けることでした。あまりの苦(くる)しみに彼は、生まれたことをのろい、死(し)を願(ねが)います。しかし、死後(しご)がわからない不安(ふあん)、恐(おそ)れがありました。また神(かみ)さまに誤解(ごかい)されたまま死(し)にたくありませんでした。結局(けっきょく)、ヨブは死(し)ぬことが問題(もんだい)の解決(かいけつ)ではないとわかります。

すべての解決(かいけつ)は神(かみ)さまとの関係(かんけい)の回復(かいふく)なのです。ヨブの苦(くる)しみの原因(げんいん)は、親族(しんぞく)や友人(ゆうじん)にわかってもらえず、見捨(みす)てられることではなかったのです。彼の苦(くる)しみは神(かみ)さまとの信頼(しんらい)関係(かんけい)を失(なく)くしたことでした。

ヨブは最後(さいご)の慰(なぐさ)めは神(かみ)さまと神(かみ)さまのことばだと気付(きづ)きます。まことの信仰者(しんこうしゃ)はすべてのことは人間中心ではなく、神(かみ)中心であると信(しん)じます。みことば(神(かみ)の啓示(けいじ)の聖書(せいしょ))を信(しん)じて人は救(すく)われるのです。

ヨブは自分の命は神(かみ)さまからいただいたことを知(し)ります。神(かみ)さまを信(しん)じる者は最後(さいご)で最大(さいだい)の苦難(くなん)である死(し)から救(すく)われます。

人は、死(し)ぬとき、何一(なにひと)つ持(も)って行(い)くことができず、その栄誉(えいよ)も彼に従(したが)って下(くだ)っては行(い)かないのだ。 

(詩篇(しへん)49篇17節)

ヨブは神(かみ)さまのことばに立ち返ります。ヨブは神(かみ)さまなしに自分を頼(たよ)りにして義(ぎ)(正しい)としていたのです。彼は自分と神(かみ)さまとの間をとりもつお方(かた)(仲介者(ちゅうかいしゃ)イエス様)を信(しん)じました。神(かみ)さまはヨブを通(とお)して神(かみ)さまと人間を和解(わかい)してくださる罪(つみ)からの救(すく)い主であるイエス様を私たちに明(あき)らかにしてくださいました。

信(しん)じる者は死後(しご)に会うイエス様を今、苦難(くなん)の中にあって出会えるのです。

私は知(し)っている。私を贖(あがな)う方(かた)は生(い)きておられ、後(のち)の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮(かわ)が、このようにはぎとられて後(のち)、私は、私の肉(にく)から神(かみ)を見る。この方(かた)を私は自分(じぶん)自身(じしん)で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶(た)え入(い)るばかりだ。 

(ヨブ記19章25-27節)

人生を支える2本の柱~あなたのすべてを知るお方が必要

詩篇139篇1-16節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月17日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)

【主(しゅ)】よ。あなたは私を探(さぐ)り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠(とお)くから読(よ)み取(と)られます。あなたは私の歩(あゆ)みと私の伏(ふ)すのを見守(みまも)り、私の道(みち)をことごとく知っておられます。ことばが私の舌(した)にのぼる前に、なんと【主(しゅ)】よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取(と)り囲(かこ)み、御手(みて)を私の上に置(お)かれました。そのような知識(ちしき)は私にとってあまりにも不思議(ふしぎ)、あまりにも高くて、及(およ)びもつきません。

私はあなたの御霊(みたま)から離(はな)れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前(みまえ)を離(はな)れて、どこへのがれましょう。たとい、私が天(てん)に上(のぼ)っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床(とこ)を設(もう)けても、そこにあなたはおられます。私が暁(あかつき)の翼(つばさ)をかって、海(うみ)の果(は)てに住(す)んでも、そこでも、あなたの御手(みて)が私を導(みちび)き、あなたの右の手が私を捕(と)らえます。

たとい私が「おお、やみよ。私をおおえ。私の回(まわ)りの光(ひかり)よ。夜(よる)となれ」と言っても、あなたにとっては、やみも暗(くら)くなく夜(よる)は昼(ひる)のように明(あか)るいのです。暗(くら)やみも光(ひかり)も同じことです。

それはあなたが私の内臓(ないぞう)を造(づく)り、母の胎(たい)のうちで私を組(く)み立(た)てられたからです。私は感謝(かんしゃ)します。あなたは私に、奇(くす)しいことをなさって恐(おそ)ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造(づく)られ、地(ち)の深(ふか)い所(ところ)で仕組(しく)まれたとき、私の骨組(ほねぐ)みはあなたに隠(かく)れてはいませんでした。あなたの目は胎児(たいじ)の私を見られ、あなたの書物(しょもつ)にすべてが、書きしるされました。私のために作(つく)られた日々(ひび)が、しかも、その一日(いちにち)もないうちに。

(詩篇(しへん)139篇1-16節)

<説教>

150篇(へん)ある詩篇(しへん)の半数(はんすう)は神さまに助(たす)けを求(もと)める祈(いの)りです。その大半(たいはん)はダビデが書いた詩篇(しへん)です。彼は名もない羊飼(ひつじか)いからイスラエルの王となりました。詩篇(しへん)にはひとりの人間としてのダビデの正直(しょうじき)な告白(こくはく)があります。

あなたはどこにいても何をしていても、自分から離(はな)れることはできません。もうひとりあなたと一緒(いっしょ)にいる方(かた)、それが神さまです。神さまはあなたのことを全(すべ)てご存知(ぞんじ)です。

神さまは、あなたが話す前にその言葉(ことば)を知っています。あなたが何かをする時、その動機(どうき)さえも知っています。あなたの心(こころ)の深(ふか)い内面(ないめん)をご存知(ぞんじ)なのです。

造(つく)られたもので、神の前で隠(かく)れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸(はだか)であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明(べんめい)をするのです。

(へブル人への手紙4章13節)

あなたは、ひとりで寂(さみ)しく、偶然(ぐうぜん)に生まれたのではありません。あなたが両親(りょうしん)から生まれる前から、神さまはあなたをご存知(ぞんじ)でした。聖書(せいしょ)によると、この世界(せかい)が創(つく)られる前からあなたの人生(じんせい)は神さまによって定(さだ)められていました。神さまはあなたの存在(そんざい)を愛しておられるのです。

あなたの人生(じんせい)にはふたつの柱(はしら)があります。ひとつはあなたの意志(いし)です。もうひとつは神さまの御心(みこころ)(おもい)です。あなたの人生(じんせい)という家がしっかりと建(た)つには、このふたつの柱(はしら)が必要(ひつよう)です。

あなたがどんなに努力(どりょく)して頑張(がんば)っても、本当に豊(ゆた)かな人生(じんせい)には到達(とうたつ)できません。神さまの御心(みこころ)を知(し)り、自分の人生(じんせい)が神さまによって建(た)て上(あ)げられなければなりません。神さまはあなたに使命(しめい)を与え、あなたの人生(じんせい)にご計画(けいかく)をお持(も)ちなのです。それはあなたが考(かんが)える人生(じんせい)とはまったく違(ちが)うかも知(し)れません。しかし、神さまには完全(かんぜん)なご計画(けいかく)です。

人は心(こころ)に自分の道(みち)を思(おも)い巡(めぐ)らす。しかし、その人の歩(あゆ)みを確(たし)かなものにするのは【主(しゅ)】である                                 

(箴言(しんげん)16章9節)

ダビデは王さまになるまでに、試練(しれん)と屈辱(くつじょく)を経験(けいけん)しました。それは神さまがダビデを訓練(くんれん)して信仰(しんこう)の人とするためでした。神さまにひざまずき、神さまに信頼(しんらい)する者(もの)となるためでした。

また、ダビデは自分の罪(つみ)や汚(けが)れに苦(くる)しみました。しかし、神さまの御心(みこころ)はそのことを責(せ)めるのではなく、ダビデが正直(しょうじき)に自分の罪(つみ)やあやまちやを神さまに告白(こくはく)するなら、罪(つみ)をゆるし、けがれをきよめることでした。

神さまの御心(みこころ)を知(し)り、神さまとともに生きるためには、まずイエス様を信(しん)じることから始(はじ)まります。このお方(かた)が人間のすべての苦(くる)しみをご存知(ぞんじ)で、人間の罪(つみ)をゆるすために、十字架(じゅうじか)で死(し)んでよみがえられたのです。

あなたはひとりぼっちではありません。イエス様があなたを知(し)っておられ、いつも共(とも)におられます。

ダビデの賛歌(さんか)


【主(しゅ)】は私の羊飼(ひつじか)い。私は、乏(とぼ)しいことがありません。
主(しゅ)は私を緑(みどり)の牧場(ぼくじょう)に伏(ふ)させ、いこいの水のほとりに伴(ともな)われます。
主(しゅ)は私のたましいを生き返らせ、御名(みな)のために、私を義(ぎ)の道(みち)に導(みちび)かれます。
たとい、死(し)の陰(かげ)の谷(たに)を歩くことがあっても、私はわざわいを恐(おそ)れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖(つえ)、それが私の慰(なぐさ)めです。
私の敵(てき)の前で、あなたは私のために食事(しょくじ)をととのえ、私の頭に油(あぶら)をそそいでくださいます。私の杯(さかずき)は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限(かぎ)り、いつくしみと恵(めぐ)みとが、私を追(お)って来(く)るでしょう。私は、いつまでも、【主(しゅ)】の家に住(す)まいましょう。

(詩篇23篇)

過去にとらわれない。赦されて生きる

ヨハネの福音書21章14-22節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月10日

<聖書>

イエスが、死人(しにん)の中からよみがえってから、弟子(でし)たちにご自分を現(あらわ)されたのは、すでにこれで三度目である。
彼らが食事(しょくじ)を済(す)ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主(しゅ)よ。私があなたを愛(あい)することは、あなたがご存(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊(こひつじ)を飼(か)いなさい。」
イエスは再(ふたた)び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(あい)しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主(しゅ)よ。私があなたを愛(あい)することは、あなたがご存(ぞん)じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊(ひつじ)を牧しなさい。」
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛(あい)しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛(あい)しますか」と言われたので、心を痛(いた)めてイエスに言った。「主(しゅ)よ。あなたはいっさいのことをご存(ぞん)じです。あなたは、私があなたを愛(あい)することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊(ひつじ)を飼(か)いなさい。
まことに、まことに、あなたに告(つ)げます。あなたは若(わか)かった時には、自分で帯(おび)を締(し)めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸(の)ばし、ほかの人があなたに帯(おび)をさせて、あなたの行きたくない所に連(つ)れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現(あらわ)すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従(したが)いなさい。」
ペテロは振(ふ)り向(む)いて、イエスが愛(あい)された弟子(でし)があとについて来るのを見た。この弟子(でし)はあの晩餐(ばんさん)のとき、イエスの右側(みぎがわ)にいて、「主(しゅ)よ。あなたを裏切(うらぎ)る者はだれですか」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主(しゅ)よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望(のぞ)むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従(したが)いなさい。」

(ヨハネの福音書21章14-22節)

<説教>

人間にはどうしても変(か)えられないことがあります。人生に「もしも…」はないと言われますが、過去(かこ)の失敗(しっぱい)や過(あやま)ちをやり直(なお)すことはできません。
ペテロはイエス様が十字架(じゅうじか)に付(つ)けられる前に、自分(じぶん)可愛(かわい)さにイエス様を裏切(うらぎ)って見捨(みす)てました。彼はそれから故郷(ふるさと)のガリラヤへ帰り、もとの漁師(りょうし)の仕事(しごと)に戻(もど)りました。しかし、何か大切(たいせつ)なものを失(うしな)ったようでした。

人は過去(かこ)の罪(つみ)をいくら悔(く)やんでも責(せ)めても元に戻(もど)りません。何かに没頭(ぼっとう)して過去(かこ)を忘(わす)れようとしたり、善(よ)いことをして、自分を満足(まんぞく)させようとしても、それは一時的(いちじてき)で根本的(こんぽんてき)な解決(かいけつ)にはならないのです。ましてや、苦(くる)しみ、悲(かな)しみ、不安(ふあん)や恐(おそ)れから逃(に)げるために死を選(えら)ぶことは、解決(かいけつ)どころか、もっとも大きな罪(つみ)を犯(おか)すことになるのです。聖書(せいしょ)は言います。

わたしは、だれが死ぬのも喜(よろこ)ばないからだ。──神である主(しゅ)の御告(みつ)げ──だから、悔(く)い改(あらた)めて、生(い)きよ。

(エゼキエル書18:32)

もし、あなたがもう今までの罪深(つみぶか)い生(い)き方(かた)をやめたい。私は人間らしく正しく、真実(しんじつ)に生(い)きていきたいと願(ねが)っても、具体的(ぐたいてき)にどうすればいいのかわからないかもしれません。
あなたの過去(かこ)の過(あやま)ちを責(せ)める人がいても、また自分で自分を責(せ)めて、過去(かこ)から新しく始めることができないとしても、神さまはあなたの罪(つみ)を責(せ)めることはありません。あなたの罪(つみ)を赦(ゆる)したいと、ひとり子のイエス様を十字架(じゅうじか)につけてくださったのです。

あなたは今まで誰(だれ)に従(したが)ってきましたか。ペテロは十字架(じゅうじか)で死なれよみがえられたイエス様を愛しているか問われます。誰(だれ)よりもペテロは自分を愛し、自分に従(したが)ってきたのです。

次の聖書(せいしょ)のみことばを信(しん)じて、あなたの罪(つみ)の身代(みが)わりのためにイエス様が十字架(じゅうじか)で死なれたことを信(しん)じるなら、あなたの罪(つみ)はすべて赦(ゆる)されます。神さまとの正しい関係(かんけい)に生(い)きる者に新しく変えられます。

そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの罪(つみ)をその身(み)に負(お)われました。それは、私たちが罪(つみ)を離(はな)れ、義(ぎ)のために生(い)きるためです。キリストの打(う)ち傷(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊(ひつじ)のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者(ぼくしゃ)であり監督者(かんとくしゃ)である方(かた)のもとに帰(かえ)ったのです。

(ペテロの手紙第一2:24-25)

あなたの人生(じんせい)はみじめで、どうでもいい偶然(ぐうぜん)なものではありません。どうか誰(だれ)かの人生(じんせい)と比(くら)べないでください。神さまが用意(ようい)された、かけがえのないあなたのための祝福(しゅくふく)の人生(じんせい)なのです。

あなたが過去(かこ)の罪(つみ)の苦(くる)しみで人生(じんせい)をあきらめないために、イエス様はあなたを愛し、十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。その愛の意味(いみ)を信(しん)じるなら、誰(だれ)とも比(くら)べられないあなたの人生(じんせい)の大切な意味(いみ)が必ずわかります。

あなたは生まれてから死ぬまでの間に、イエス様を信(しん)じて、神さまと和解(わかい)して、罪(つみ)赦(ゆる)された者として新しく生(い)きてゆけるのです。

ただ一つわかること。今、私は見える

ヨハネの福音書9章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年7月3日

またイエスは道(みち)の途中(とちゅう)で、生(う)まれつきの盲人(もうじん)を見(み)られた。

弟子(でし)たちは彼(かれ)についてイエスに質問(しつもん)して言(い)った。「先生(せんせい)。彼(かれ)が盲目(もうもく)に生(う)まれついたのは、だれが罪(つみ)を犯したからですか。この人ですか。その両親(りょうしん)ですか。」

イエスは答えられた。「この人が罪(つみ)を犯(おか)したのでもなく、両親(りょうしん)でもありません。神(かみ)のわざがこの人(ひと)に現(あらわ)れるためです。

わたしたちは、わたしを遣(つか)わした方(かた)のわざを、昼(ひる)の間(あいだ)に行(おこな)わなければなりません。だれも働(はたら)くことのできない夜(よる)が来(き)ます。

わたしが世(よ)にいる間(あいだ)、わたしは世(よ)の光(ひかり)です。」

イエスは、こう言(い)ってから、地面(じめん)につばきをして、そのつばきで泥(どろ)を作(つく)られた。そしてその泥(どろ)を盲人(もうじん)の目(め)に塗(ぬ)って言(い)われた。

「行(い)って、シロアム(訳(やく)して言(い)えば、遣(つか)わされた者(もの))の池(いけ)で洗(あら)いなさい。」そこで、彼(かれ)は行(い)って、洗(あら)った。すると、見(み)えるようになって、帰って行(い)った。

(ヨハネの福音書9章1-7節)

【説教】

【生まれつきという人間の運命(うんめい)】

私は盲目(もうもく)であったのに、今は見えるということです。

(ヨハネの福音書9:25)

この生まれつきの盲人(もうじん)はイエス様によって目が開かれました。彼は生きとし生けるものや自然(しぜん)の風景(ふうけい)が見えるようになりました。信仰(しんこう)が与(あた)えられ、見えないものを信じる者になったのです。イエス様が神さまだとわかって、また自分の以前(aいぜん)の罪深(つみぶか)い姿を知ったのです。イエス様を信じる前の古い自分と、信じた後、新しく変えられた自分がわかったのです。

この反対(はんたい)の記事(きじ)が聖書(せいしょ)の創世記(そうせいき)3章の人間に罪(つみ)が入った出来事です。

それ以来(いらい)すべての人間は罪(つみ)人(びと)として生まれてきます。見えない神がわからず、自分の罪(つみ)がわからない状態(じょうたい)で生まれます。

生まれつきの盲人(もうじん)がイエス様の塗(ぬ)った泥(どろ)で目がふさがれ、池まで歩いている姿は人から見れば愚(おろ)かで笑(わら)われるかも知れません。しかし、信仰(しんこう)とは一見(いっけん)、愚(おろ)かに見えるのです。しかし、人からどう見られようとも、心から疑(うたが)わずにまっすぐに信じなければなりません。

キリストが十字架(じゅうじか)にかけられて殺(ころ)されるときもそうでした。しかし、罪(つみ)の生き方から救(すく)い出され、生まれ変わり、目が見えるようになるには、この愚(おろ)かにも思われるキリストの十字架(じゅうじか)の事実(じじつ)を信(しん)じる以(い)外(がい)ないのです。多くの人が十字架(じゅうじか)など何の意味もない、今の進化(しんか)した科学(かがく)万能(ばんのう)の時代(じだい)に何の力もない、ただの聖書(せいしょ)のお話しだと終わらせている、この十字架(じゅうじか)にこそ唯一の救(すく)いがあるのです。

【運命(うんめい)、血のつながり、弱さやハンディキャップからの解放(かいほう)】

先祖(せんぞ)の呪(のろ)いで生まれつきの盲人(もうじん)として生まれ、乞食(こじき)以外(いがい)生きる道はなく、彼はその人生を受け入れていたかもしれません。その自分の運命(うんめい)は誰(だれ)にも変えられないとなかばあきらめていたかも知れません。

しかし、イエス様は言います。「あなたの、どうしようもない運命(うんめい)は、あなたの罪(つみ)でも、両親の罪(つみ)のせいでもない。神さまの栄光(えいこう)の奇蹟(きせき)が現(あらわ)れるためだ」と。

またイエスは道の途中(とちゅう)で、生まれつきの盲人(もうじん)を見られた。

(ヨハネの福音書9:1)

目が見えない盲人(もうじん)にはこのイエス様のまなざしは気付きません。しかし、私たちにはわからなくても、全知全能(ぜんちぜんのう)のイエス様はあなたを見ておられます。

いかなる運命(うんめい)があなたを縛(しば)っていたとしても、あなたの血筋(ちすじ)がどうであろうと、誰(だれ)もあなたの価値(かち)を認めてくれなくても、自分の力ではどうしても暗闇(くらやみ)の中からどうして光の射(さ)す場所へ出ることができないとしても、そのあなたの運命(うんめい)に神さまは働かれるのです。奇蹟(きせき)を起こされるのです。

生まれつきの盲人(もうじん)の目を開くことなど聞いたことがない。前代(ぜんだい)未聞(みもん)でありえない奇蹟(きせき)を彼は体験したのです。本当の奇蹟(きせき)は今、彼が神を信じて礼拝(れいはい)していることです。

これは説明(せつめい)のつかない根拠(こんきょ)のない奇蹟(きせき)ではありません。キリストが2000年前にカルバリの十字架(じゅうじか)で死んでよみがえり、あなたの運命(うんめい)を変えてくださったのです。

神さまから遠く離(はな)れて、闇(やみ)の中を罪(つみ)深(ぶか)く生きて、やがて死んでしまう運命(うんめい)から、キリストを信じて生まれ変わり、イエスのふところに帰り、光の中に生きる者に変えてくださったのです。

まことに、まことに、あなたがたに告(つ)げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣(つか)わした方を信じる者は、永遠(えいえん)のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

(ヨハネの福音書5:24)

放蕩息子のたとえ話~罪人を愛する子として迎えてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2022年6月26日

この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話は、神さまから離(はな)れた罪人(つみびと)である人間の姿(すがた)です。そして神さまのもとに愛する子どもとして帰ることができる希望(きぼう)です。

息子(むすこ)は生きている父に相続(そうぞく)財産(ざいさん)の分け前をもらい、荷物(にもつ)をまとめて遠い国に旅立ちました。父の手の届かない外国で遊女(ゆうじょ)におぼれ、放蕩(ほうとう)の結果、一文(いちもん)無(な)しになります。また予想(よそう)しない大ききんが起こり、食べるのに困(こま)りますが、誰も彼を助けることはありません。ひとりぼっちの彼は、彼の故郷(ふるさと)ユダヤでは恥(は)ずべき忌(い)み嫌(きら)う豚(ぶた)の世話(せわ)をすることになりました。すべては彼が父にとった態度(たいど)、姿勢(しせい)こそが、彼の悲惨(ひさん)な運命(うんめい)の始(はじ)まりでした。 そんな中で彼は優(やさ)しい父のもとで暮(く)らした平和で幸せな愛の生活を身をもって思い出します。今の自分は父の息子(むすこ)ではなく、豚(ぶた)の世話(せわ)をする奴隷(どれい)です。このまま、父と二度と会うことなく、関係が壊(こわ)れたままで、永遠に離(はな)れ離(ばな)れになってしまうかも知れません。

その時、彼はふと我(われ)に返(かえ)ります。父から遠く離(はな)れ、堕落(だらく)した自分の姿(すがた)に気付(きづ)いたのです。そして父のもとに帰(かえ)ろうと決めます。やりたい放題(ほうだい)してもう帰(かえ)ることなどできないとは思わなかったのです。なぜでしょうか。それは彼が父の愛(あい)を完全に忘(わす)れなかったからです。決して変(か)わらない父の愛(あい)を心に信じたからです。

もう人生(じんせい)は終わりだ。もうどうにでもなれ。絶望(ぜつぼう)だ。自殺(じさつ)しかないと彼は考えずに彼はカッコつけないで情(なさ)けない自分を生きようとしたのです。正直(しょうじき)に父に謝(あやま)ろうと思ったのです。自分の正しさで責任(せきにん)を取(と)らなくていいのです。彼はただ、父の家に帰(かえ)ろうとしました。もう父の息子(むすこ)として甘(あま)えるのではなく、父に仕(つか)えようとしました。これが悔(く)い改(あらた)めなのです。

神(かみ)のみこころに添(そ)った悲(かな)しみは、悔(く)いのない、救(すく)いに至(いた)る悔(く)い改(あらた)めを生(しょう)じさせますが、世(よ)の悲(かな)しみは死(し)をもたらします。

(コリント人への手紙(てがみ)第二7章10節)

どんなにあなたが、神(かみ)さまから離(はな)れて、自分勝手(じぶんかって)に生きて、ゆるされる資格(しかく)などないと思っても、どれだけ変(か)わり果(は)てて落ちぶれても、罪(つみ)に汚(けが)れても、この世(よ)では何の価値(かち)がないと思っても、あなたが今までの生き方を悔(く)い改(あらた)めて、神(かみ)さまに立ち帰(かえ)ろうとするなら、神(かみ)さまはあなたを探(さが)して見つけ出して、罪人(つみびと)としてではなく、愛(あい)する子どもとして歓迎(かんげい)してくださいます。神(かみ)さまはあなたの罪(つみ)を責(せ)めたてるのではなく、ゆるしたいのです。

どんなに生きるのが苦(くる)しくて、まったく希望(きぼう)を失(うしな)ったとしても、あなたには、帰(かえ)るべき場所があるのです。喜(よろこ)んで迎え入れてくれる愛(あい)の神(かみ)さまがいてくださるのです。

しかし、あわれみ豊(ゆた)かな神(かみ)は、私たちを愛(あい)してくださったその大きな愛(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死(し)んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救(すく)われたのは、ただ恵(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙(てがみ)2章4-5節)

徒労の中で~罪の深みから引き上げられ、信仰の深みへ漕ぎ出す

ルカの福音書5章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年6月12日

群衆(ぐんしゅう)がイエスに押(お)し迫(せま)るようにして神(かみ)のことばを聞(き)いたとき、イエスはゲネサレ湖(こ)の岸(きし)べに立(た)っておられたが、
岸(きし)べに小舟(こぶね)が二そうあるのをご覧(らん)になった。漁師(りょうし)たちは、その舟(ふね)から降(お)りて網(あみ)を洗(あら)っていた。
イエスは、そのうちの一つの、シモンの持(も)ち舟(ぶね)に乗(の)り、陸(りく)から少(すこ)し漕(こ)ぎ出(だ)すように頼(たの)まれた。そしてイエスはすわって、舟(ふね)から群衆(ぐんしゅう)を教(おし)えられた。
話(はなし)が終(お)わると、シモンに、「深(ふか)みに漕(こ)ぎ出(だ)して、網(あみ)をおろして魚(うお)をとりなさい」と言われた。
するとシモンが答えて言った。「先生(せんせい)。私(わたし)たちは、夜通(よどお)し働(はたら)きましたが、何一(なにひと)つとれませんでした。でもおことばどおり、網(あみ)をおろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、たくさんの魚(うお)が入り、網(あみ)は破(やぶ)れそうになった。
そこで別(べつ)の舟(ふね)にいた仲間(なかま)の者(もの)たちに合図(あいず)をして、助(たす)けに来(き)てくれるように頼(たの)んだ。彼(かれ)らがやって来(き)て、そして魚(うお)を両方(りょうほう)の舟(ふね)いっぱいに上げたところ、二そうとも沈(しず)みそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足(あし)もとにひれ伏(ふ)して、「主(しゅ)よ。私(わたし)のような者(もの)から離(はな)れてください。私(わたし)は、罪深(つみぶか)い人間(にんげん)ですから」と言(い)った。
それは、大漁(たいりょう)のため、彼(かれ)もいっしょにいたみなの者(もの)も、ひどく驚(おどろ)いたからである。
シモンの仲間(なかま)であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同(おな)じであった。イエスはシモンにこう言(い)われた。「こわがらなくてもよい。これから後(のち)、あなたは人間(にんげん)をとるようになるのです。」
彼(かれ)らは、舟(ふね)を陸(りく)に着(つ)けると、何(なに)もかも捨(す)てて、イエスに従(したが)った。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)5章(しょう)1-11節(せつ))

📖 メッセージ

【徒労の後で】
夜通しの漁で成果が上がらず、疲れ切っていたペテロたち。そんなペテロに主は深みへ漕ぎ出すように言われる。最悪の状況の中で網は魚で一杯になる。
なぜ、主は魚を与えたのか。失望していた弟子たちから元気を取り戻せるのは舟いっぱいの収穫であった。主は今、私たちに必要なものをご存知です。主はすべての人の労苦をご存知です。網を洗って次の漁のために備えていた弟子たちの姿を主はご存知だった。
また、主に従うかどうかをテストされた。ベテラン漁師が、どう考えても無理な状況で、神に従えるかどうか。ペテロは主に従った。

【罪の中で】
魚いっぱいの網を見てペテロは神を信じた。彼は同時に自分の罪を見た。人からは見えない深く隠れた罪汚れを見た。主が海の中を見透かされるように、ペテロの罪もすべてご存知であると思った(ヘブル4:13)。そう、自分の罪は、網いっぱいの魚そのものなのだ。それはひとりではどうすることもできない。だから、なすすべもなく、ただ罪の深みに失望していたのだ。主を恐れることが知恵の始まり、この世の知恵者にない知恵(箴言1:7)。
神はうわべではなく、人の心を見られる。しかし、主はペテロの罪を知ってそれを責めるお方ではない。神は愛なるお方です。
罪の深みから引き上げて、救い出される。そのときペテロの人生は変わった。
そのとき、網一杯の巨大な罪が、なんと莫大な恵み、救いに変わったのだ。

【罪赦され、神のために生きる】
ペテロが素晴らしいから救われたのではない。聖書は言う。主はこの世では取るに足らない者、役に立たない者、弱い者を主は選ばれる。この世でうまく仕事ができなくても、主を賛美し救いを伝える。主のために働くことができる。
ペテロは依然として、罪人として生き続ける。しかし、いかなる時も、十字架の前に主を否んで大泣きしたときも、罪赦された者として、信仰の深みに進んでいくのだ。
すべてを捨てて、船を置いて、海から陸へと生き方を変えた。
まったく成果の上がらない世通しの漁。この世の徒労は、ずっしりと重く、疲れさせる。この世の徒労は欲、野望、見栄、忙しさ、人との比較、競争…心を失ってしまう。罪の世の中では、徒労に失望させられる。
しかし、主と共に負うくびき、主の十字架を負って生きることは、決して重くなく、あなたを休ませ、平安を与える。魂に安らぎがある。信仰があなたに希望を与え続ける。

私の救いの神

ミカ書7章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年6月5日

紀元前(きげんぜん)8世紀(せいき)前半(ぜんはん)、イスラエルの国は物質的(ぶっしつてき)にたいへん豊(ゆた)かでした。しかし、神(かみ)さまの存在(そんざい)を忘(わす)れて、自分たちの心の欲(よく)のままに生きます。その結果、道徳(どうとく)や倫理(りんり)は乱れて社会の秩序(ちつじょ)は失われていきました。神(かみ)さまは、外国のアッシリアの武力(ぶりょく)によってイスラエルを苦しめて神(かみ)さまの刑罰(けいばつ)を与えました。

イスラエルの人々は、昔、エジプトで過酷(かこく)な労働(ろうどう)に苦しめられていました。しかし、神(かみ)さまは彼らを奇跡的(きせきてき)にそこから救(すく)い出されました。それから間もなく、彼らは天地を創(つく)られて、すべてを支配する神(かみ)さまに従(したが)わずに異国(いこく)の神(かみ)に従(したが)うようになりました。神(かみ)さまから遣わされた預言者を迫害して、殺害しました。神(かみ)さまの言葉がなくなり、イスラエルの人々は正しく生きるための光を失いました。その結果、性的(せいてき)に堕(だ)落(らく)し、力あるものが弱い者を苦しめ、不正がはびこり、戦争が起(お)こり、地は荒れ果て、食糧難になり、国は滅亡の危険に直面しました。神(かみ)さまが愛したイスラエルの国は、他の国から、あざけられるようになりました。

イスラエルの国が滅亡しそうなとき、神(かみ)の刑罰(けいばつ)が敵(てき)国にくだり、イスラエルは救(すく)い出されます。それは、この世界が終るときに神(かみ)さまがすべての人をさばかれることも表わしています。

正しい人も、善人(ぜんにん)も神(かみ)さまから見(み)るとすべての人には罪(つみ)があります。その罪の刑罰(けいばつ)は神(かみ)さまから捨(す)て去られる永遠の苦しみです。しかし、キリストがあなたの罪(つみ)の身代わりに十字架で死んでくださったことを信じる者は、「私の神(かみ)さま」と呼べる神(かみ)さまとの関係に生きることができます。

まことの神(かみ)さまを信じない者は、大変な危険にあったときに助けられずに、そこに捨(す)て去られてしまいます。しかし、まことの神(かみ)さまを信じる者は、苦しみの中で助け出されます。

いくら良いことをしても決して罪(つみ)から救(すく)われません。神(かみ)さまが定(さだ)められた方法に従(したが)い、キリストを信じることによってしか人は救(すく)われないのです。その理由は、ただ、神(かみ)さまのお定(さだ)めになった契約(けいやく)があるからなのです。キリストが来られた新約(しんやく)聖書(せいしょ)がその契約書(けいやくしょ)です。

イエス様を信じる者の祈りはきかれる

ヨハネの手紙 第一5章14-21節より

土山みことばキリスト教会

2022年5月29日

イエス様を信(しん)じる者(もの)は素晴(すば)らしいプレゼントをたくさんもらえます。その一つは、父(ちち)なる神(かみ)さまにお祈(いの)りできることです。イエス様のお名前(なまえ)によって祈(いの)るなら、どんな小さな祈(いの)りも神(かみ)さまは聞(き)いてくださいます。ぜひ、どんな時でもお祈(いの)りしましょう。祈(いの)りが聞(き)かれたことを感謝(かんしゃ)しましょう。

聖書(せいしょ)の中にある詩篇(しへん)は、神(かみ)さまを信(しん)じる人たちの祈(いの)り集(しゅう)です。イエス様の時代(じだい)の人たちもこの詩篇(しへん)を祈(いの)り、詩篇(しへん)の歌詞(かし)を賛美(さんび)しました。今(いま)も昔(むかし)も人間(にんげん)の悩(なや)み苦(くる)しみは変(か)わりません。聖書(せいしょ)は今(いま)も世界中(せかいじゅう)の人をはげまし、勇気(ゆうき)を与(あた)えています。

イエス様は父(ちち)なる神(かみ)さまに、十字架(じゅうじか)に架(か)かる前(ぜん)の苦(くる)しい思(おも)いを正直(しょうじき)にお祈(いの)りしました。しかし、父(ちち)なる神(かみ)さまがなさろうとしていることを、私が行(おこな)えますようにと祈(いの)り、十字架(じゅうじか)で死(し)なれました。

また、イエス様は死(し)んでよみがえられたあと天にのぼり、父(ちち)なる神(かみ)さまの右で、すべての人が神(かみ)さまを信(しん)じて救(すく)われるように祈(いの)っています。

イエス様を信(しん)じる者(もの)は、罪(つみ)を犯(おか)し続(つづ)けることができません。それは、父(ちち)なる神(かみ)さまのお祈(いの)りがわかるからです。たとえ悪(わる)いことをしてしまっても、神(かみ)さまがそこから、助(たす)け出(だ)してくれます。イエス様を信(しん)じて正直(しょうじき)に祈(いの)るなら、どんな罪(つみ)もゆるされます。

聖書(せいしょ)の言(い)う罪(つみ)とは悪(わる)い行(おこな)いだけではありません。父(ちち)なる神(かみ)さまの願(ねが)いに従って生(い)きないこと、自分(じぶん)のしたいように生(い)きることが罪(つみ)なのです。

しかし、神(かみ)さまを信(しん)じる者(もの)は、お祈(いの)りして、聖書(せいしょ)を読(よ)んで神(かみ)さまの願(ねが)いがわかります。そのとき神(かみ)さまはいつも助(たす)けてくださり、あなたの祈(いの)りを神(かみ)さまは聞(き)いて下(くだ)さいます。

この世界の目的はイエス様をあらわすこと

ヨハネの手紙 第一5章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年5月22日

子どもが悪(わる)い犯罪(はんざい)組織(そしき)に連(つ)れ去(さ)られて、そこで間違(まちが)った悪(わる)いことを教(おし)えられ、そこから一(いっ)生(しょう)抜(ぬ)け出(だ)せなくなったとします。そのとき、子どもの親(おや)はどうするでしょうか。きっと自分(じぶん)が危険(きけん)な目(め)にあっても、その悪(わる)い組織(そしき)から子どもを助(たす)け出(だ)そうとします。

イエス様がこの世界(せかい)に人として来(こ)られて、十字架(じゅうじか)で死(し)なれたのも同(おな)じです。神(かみ)さまから離(はな)れて、この世(よ)の悪(わる)い間違(まちが)った教(おし)えを信(しん)じて罪(つみ)の生き方(かた)から人間を救(すく)い出(だ)すためなのです。

神(かみ)さまを信(しん)じないで、自分(じぶん)勝手(かって)に生(い)きることを罪(つみ)といいます。聖書(せいしょ)によると、神(かみ)さまから離(はな)れている人間(にんげん)は、体(からだ)は生(い)きていても魂(たましい)は死(し)んでいます。

しかし、イエス様があなたの罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死(し)なれたと信(しん)じるなら、あなたは神(かみ)さまの子どもとなり、いつまでも共(とも)に生(い)きることができます。あなたが何(なに)をしていても神(かみ)さまのことがわかるようになるのです。それは、神(かみ)さまがあなたに聖霊(せいれい)様(さま)を与えてくださるからです。それが永遠(えいえん)のいのちです。

2000年前のイエス様の十字架(じゅうじか)の歴史的(れきしてき)な事実(じじつ)は、今(いま)も続(つづ)いています。花(はな)も、鳥(とり)も、犬(いぬ)も、大きな宇宙(うちゅう)も、小さなアメーバ―も、そして人間(にんげん)も、このキリストが今(いま)も生(い)きていることをあらわす存在(そんざい)なのです。神(かみ)さまはそのためにこの世界(せかい)を造(つく)られたのです。

人間(にんげん)の目的(もくてき)は、神(かみ)さまの素晴(すば)らしさを、人生(じんせい)のすべてであらわして、永遠(えいえん)に神(かみ)さまを喜(よろこ)ぶことです。あなたの生(い)き方(かた)が神(かみ)さまをあらわすのです。あなたの生(い)き方(かた)を見て、誰(だれ)かが神(かみ)さまを信(しん)じるのです。アーメン。