福音は信じる者に優しく働く

コリント人への手紙第一1章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月9日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たち。私は、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)によって、あなたがたにお願(ねが)いします。どうか、みなが一致(いっち)して、仲間割(なかまわ)れすることなく、同じ心、同じ判断(はんだん)を完全(かんぜん)に保(たも)ってください。実(じつ)はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟(きょうだい)たち。あなたがたの間には争(あらそ)いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割(ぶんかつ)されたのですか。あなたがたのために十字架(じゅうじか)につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受(う)けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授(さず)けたことがないことを感謝(かんしゃ)しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受(う)けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授(さず)けましたが、そのほかはだれにも授(さず)けた覚(おぼ)えはありません。キリストが私をお遣(つか)わしになったのは、バプテスマを授(さず)けさせるためではなく、福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)えさせるためです。それも、キリストの十字架(じゅうじか)がむなしくならないために、ことばの知恵(ちえ)によってはならないのです。

(コリント人への手紙第一1章10-17節)

<説教>

使徒(しと)パウロは福音(ふくいん)を世界に伝(つた)える者として神様(かみさま)に召(め)されました。福音(ふくいん)は人種(じんしゅ)、社会(しゃかい)、経済(けいざい)、教育(きょういく)の壁(かべ)を越(こ)えます。

私は福音(ふくいん)を恥(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信(しん)じるすべての人にとって、救(すく)いを得(え)させる神(かみ)の力です。(ローマ1:16)

福音(ふくいん)とは、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死が、あなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりであると信(しん)じるなら罪(つみ)が赦されて神(かみ)の子どもとされるというよい知らせ(グッドニュース)です。

この世界にはまことの希望(きぼう)はありません。しかし教会(きょうかい)には唯一の救(すく)いの道、まことの希望(きぼう)の福音(ふくいん)があります。これは世にはないキリストの教会(きょうかい)だけがもっている希望(きぼう)です。

キリストが生まれる500年も前の黄金(おうごん)時代(じだい)のギリシャの哲学者(てつがくしゃ)は、人間にとってもっとも良いことは、生まれないことだと説(と)きました。もうずっと昔(むかし)に神(かみ)は死んだと言われて、それを人々は信(しん)じています。神(かみ)を捨(す)て去(さ)り、すべての善(ぜん)も真理(しんり)も人間にあるという思想(しそう)はおそるべき出口のない死の世界です。人間がサルから偶然(ぐうぜん)生まれたと唱(とな)える進化論(しんかろん)はすべての存在(そんざい)には意味(いみ)も目的(もくてき)も価値(かち)もない、すべてはむなしいという絶望(ぜつぼう)の虚無(きょむ)の人生に追(お)い込(こ)みます。

ジャンクフード(冷凍(れいとう)食品(しょくひん)、ファーストフード、インスタント食品など)はカロリーだけが高く栄養価(えいようか)はあまりありません。これを食べ続(つづ)けると体を害(がい)し、精神(せいしん)や心の成長(せいちょう)にも悪(わる)い影響(えいきょう)が出ると言われています。

この世の哲学(てつがく)、思想(しそう)はとても難(むずか)しく、喜(よろこ)びも希望(きぼう)もがなく、たんに頭の知識(ちしき)、理論(りろん)であり、霊(れい)的(てき)に成長(せいちょう)することはできません。

しかし、福音(ふくいん)~イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の救(すく)いは、聞く者の心とからだにやさしく、希望(きぼう)を与(あた)えるよい知らせです。子どもでも理解(りかい)して信(しん)じて救(すく)われるのです。国も年齢(ねんれい)も習慣(しゅうかん)も関係(かんけい)なく、どんな人生であったとしても、いかなる境遇(きょうぐう)にある人にも、求(もと)める人の心に福音(ふくいん)は届(とど)きます。誰(だれ)であっても信(しん)じるなら救(すく)われます。

兄弟(きょうだい)たち。私は今、あなたがたに福音(ふくいん)を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣(の)べ伝(つた)えたもので、あなたがたが受(う)け入(い)れ、また、それによって立っている福音(ふくいん)です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信(しん)じたのでないなら、私の宣(の)べ伝(つた)えたこの福音(ふくいん)のことばをしっかりと保(たも)っていれば、この福音(ふくいん)によって救(すく)われるのです。私があなたがたに最(もっと)もたいせつなこととして伝(つた)えたのは、私も受(う)けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(せいしょ)の示すとおりに、私たちの罪(つみ)のために死なれたこと、また、葬(ほうむ)られたこと、また、聖書(せいしょ)の示すとおりに、三日目(みっかめ)によみがえられたこと、           (Ⅰコリント15:1-4)

これが聖書(せいしょ)にある福音(ふくいん)です。福音(ふくいん)は、知識(ちしき)や理論(りろん)でなく、実際(じっさい)にあなたに関わるよい知らせです。それを信(しん)じた者には希望(きぼう)と平安(へいあん)が現実(げんじつ)のものとなります。キリストはあなたの罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれました。すべての人(あなたも含まれる)がよみがえる、その最初(さいしょ)(初穂(はつほ))としてキリストは三日目(みっかめ)によみがえられました。死後(しご)にすべての人は神(かみ)のさばきを受(う)けますが、あなたが、この福音(ふくいん)にどう答(こた)えて生きたかによって神(かみ)の子どもとされるか、そうでないかが決定(けってい)します。

神(かみ)は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者(ししゃ)の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望(のぞ)みを持(も)つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)

自分の言葉(ことば)や行(おこな)いのいかなることも、福音(ふくいん)をさえぎることがないようにすることがパウロの哲学(てつがく)であり思想(しそう)でした。キリストを信(しん)じた者はこの福音(ふくいん)をそのように宝(たから)のように愛(あい)する者です。あなたもイエス様の福音(ふくいん)を信(しん)じてみませんか。

シジフォスは死んで黄泉(よみ)に行った。ところが地上に戻(もど)されたのであった。黄泉(よみ)に呼(よ)び返(かえ)されたとき、彼は帰(かえ)ることを拒(こば)んだ。人生の快楽(かいらく)を満喫(まんきつ)したからである。罰(ばつ)として彼は連(つ)れ戻(もど)され、丘(おか)のいただきまで大きな岩(いわ)を押(お)し上げる刑(けい)を宣告(せんこく)された。しかし岩(いわ)をそこまで押(お)し上げると、転(ころ)げ落(お)ちてしまう。彼はふもとまで苦労(くろう)して降(お)りていき、もう一度岩(いわ)を押(お)し上げるが、再(ふたた)び転(ころ)げ落(お)ちるだけであった。
『シジフォスの神話(しんわ)』アルベール・カミュ

シジフォスはこの工程(こうてい)を果(は)てしなく繰(く)り返(かえ)すように運(うん)命(めい)づけられた。

彼の努力(どりょく)は、意味(いみ)ある結果(けっか)をまったく生(う)み出さない。

存在(そんざい)するものに意味(いみ)も目的(もくてき)も価値(かち)もないという実存(じつぞん)主義(しゅぎ)、虚無(きょむ)主義(しゅぎ)、神は死んだ思想(しそう)を代表(だいひょう)する文学(ぶんがく)の一つ。

わたしの行く手は平安(へいあん)だ。
死へのあらゆる働(はたら)きかけに対しても、ひそかなる守護(しゅご)がなされている。
すべての安定性(あんていせい)が失(うしな)われても、なお平安(へいあん)だ。たおされても平安(へいあん)だ。
たとえ、このあわれな肢体(したい)が滅んでも、なおまさって平安(へいあん)だ。
『平安(へいあん)』ルーパート・ブルック
たとえわたしが暗闇(くらやみ)の恐(おそ)ろしい雲海(うんかい)に入ったとしても、それはひと時だ。
わたしは神(かみ)の灯(ともしび)を胸(むね)に抱(だ)く。
その輝(かがや)きは早晩(そうばん)、暗闇(くらやみ)を貫(つらぬ)く。
わたしはいつしか脱出(だっしゅつ)する。
『パラサルサス』ブラウニング

イエス様の福音が与える平安をぜひあなたもお受けください。

キリストとの関係が、あなたを最後の日から守る

コリント人への手紙第一1章4-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月2日

<聖書>

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与(あた)えられた神(かみ)の恵(めぐ)みのゆえに、あなたがたのことをいつも神(かみ)に感謝(かんしゃ)しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識(ちしき)といい、すべてにおいて、キリストにあって豊(ゆた)かな者(もの)とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確(たし)かになったからで、その結果(けっか)、あなたがたはどんな賜物(たまもの)にも欠(か)けるところがなく、また、熱心(ねっしん)に私たちの主(しゅ)イエス・キリストの現(あらわ)れを待(ま)っています。主(しゅ)も、あなたがたを、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの日に責(せ)められるところのない者(もの)として、最後(さいご)まで堅(かた)く保(たも)ってくださいます。神(かみ)は真実(しんじつ)であり、その方(かた)のお召(め)しによって、あなたがたは神(かみ)の御子(みこ)、私たちの主(しゅ)イエス・キリストとの交(まじ)わりに入れられました。

(コリント人への手紙第一1章4-9節)

<説教>

キリストを信(しん)じて救(すく)われた者は、神(かみ)の計画(けいかく)によって召(め)されて(選(えら)ばれて呼(よ)び出されて)応答(おうとう)した者です。救(すく)いは聖霊(せいれい)の働(はたら)きによって始(はじ)まります。聖霊(せいれい)によってまず初(はじ)めに、自分の罪(つみ)を認(みと)め、キリストの十字架(じゅうじか)の救(すく)いがわかります。そして聖霊(せいれい)により、罪(つみ)の悔(く)い改(あらた)めに導(みちび)かれて、信仰(しんこう)が与(あた)えられます。

この瞬間(しゅんかん)に、義(ぎ)と認(みと)められ(罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の放免(ほうめん))、神(かみ)との和解(わかい)が与(あた)えられ、神(かみ)の子とされます。この救(すく)いの根底(こんてい)にあるのは、信(しん)じた者がキリストとひとつにされることです(キリストとの結合(けつごう))。キリストがあなたの中に生きて働(はたら)き、またあなたもキリストの中に入り、霊的(れいてき)、生命的(せいめいてき)な命(いのち)を共にします。別々(べつべつ)の人間だった夫婦(ふうふ)が肉体的(にくたいてき)にも精神的(せいしんてき)にもひとつされ、時間をかけて理解(りかい)し合い、理想(りそう)も一つとされるように、信者(しんじゃ)はキリストとすべての営(いとな)み(喜(よろこ)び、苦(くる)しみ、十字架(じゅうじか)、復活(ふっかつ))を共有(きょうゆう)していきます。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷(どれい)も自由人(じゆうじん)も、一つのからだとなるように、一つの御霊(みたま)によってバプテスマを受(う)け、そしてすべての者が一つの御霊(みたま)を飲(の)む者とされたからです。

(Ⅰコリント12:13)

キリスト者は聖霊(せいれい)により賜物(たまもの)(神(かみ)に仕(つか)えるために与(あた)えられる能力(のうりょく))が与(あた)えられ、キリストの体である教会(きょうかい)につながり、互(たが)いに仕(つか)えて、教会(きょうかい)を建(た)て上げ、聖霊(せいれい)のみわざにより、キリストに似(に)た者に変(か)えられていきます(聖化(せいか)・きよめ)。

それは、からだの中に分裂(ぶんれつ)がなく、各部分(かくぶぶん)が互(たが)いにいたわり合うためです。もし一つの部分(ぶぶん)が苦(くる)しめば、すべての部分(ぶぶん)がともに苦(くる)しみ、もし一つの部分(ぶぶん)が尊(たっと)ばれれば、すべての部分(ぶぶん)がともに喜(よろこ)ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官(かくきかん)なのです。

(Ⅰコリ12:25-27)

一度、キリストを信(しん)じて救(すく)われた者の救(すく)いは決(けっ)して失(うしな)われることはありません。信(しん)じた瞬間(しゅんかん)に神(かみ)の子とされた身分(みぶん)と立場(たちば)は永遠(えいえん)に変(か)わることがなく、聖霊(せいれい)により、そのような者としてふさわしい生き方に生涯(しょうがい)かけて変(か)えられ続(つづ)けます。

外面(がいめん)や表面(ひょうめん)でなく、すべてがキリストの似(に)姿(すがた)に作(つく)り変(か)えられていくのです。キリスト者は見える現実(げんじつ)はどうであっても、見えない希望(きぼう)の約束(やくそく)を聖書(せいしょ)により信(しん)じるのです。

あなたがたのうちに良(よ)い働(はたら)きを始(はじ)められた方(かた)は、キリスト・イエスの日が来(く)るまでにそれを完成(かんせい)させてくださることを私は堅(かた)く信(しん)じているのです。

(ピリピ1:6)

そして、地上(ちじょう)生活(せいかつ)が終(お)わる死(し)の後、神(かみ)の臨在(りんざい)の中に入るときに、神(かみ)の計画(けいかく)に始(はじ)まった救(すく)いは、完全(かんぜん)に完成(かんせい)します。あなたは完全(かんぜん)に神(かみ)の子となり、子が受(う)ける財産(ざいさん)を相続(そうぞく)します。その素晴(すば)らしさは今は、ぼんやりとしかわかりませんが、やがて完全(かんぜん)に知ることができます。神(かみ)によって始(はじ)まった救(すく)いのご計画(けいかく)は必(かなら)ず完成(かんせい)します。

けれども、私たちの国籍(こくせき)は天(てん)にあります。そこから主(しゅ)イエス・キリストが救(すく)い主(ぬし)としておいでになるのを、私たちは待(ま)ち望(のぞ)んでいます。キリストは、万物(ばんぶつ)をご自身(じしん)に従(したが)わせることのできる御力(みちから)によって、私たちの卑(いや)しいからだを、ご自身(じしん)の栄光(えいこう)のからだと同(おな)じ姿(すがた)に変(か)えてくださるのです。

(ピリピ3:21-22)

あなたにあって完全(かんぜん)! 私(わたし)のわざではなく。
親愛(しんあい)なる主(しゅ)よ、あなたの場所(ばしょ)をお取(と)りくださるように。
あなたの血潮(ちしお)が私(わたし)に赦(ゆる)しをもたらしました。
そして今やあなたにあって完全(かんぜん)な者です。
そうです、義(ぎ)とされている!祝福(しゅくふく)された思想(しそう)よ!
そして聖化(せいか)されている!救(すく)いがなされた!
あなたの血潮(ちしお)が私(わたし)に赦(ゆる)しをもたらしました、
そして栄化(えいか)される、私(わたし)も!

(ジェイムズ・M・グレイ)

神の教会、召された聖徒

コリント人への手紙第一1章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月25日

<聖書>

神(かみ)のみこころによってキリスト・イエスの使徒(しと)として召(め)されたパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神(かみ)の教会へ。すなわち、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)を、至(いた)る所で呼(よ)び求めているすべての人々とともに、聖徒(せいと)として召(め)され、キリスト・イエスにあって聖(せい)なるものとされた方々へ。主(しゅ)は私たちの主(しゅ)であるとともに、そのすべての人々の主(しゅ)です。私たちの父なる神(かみ)と主(しゅ)イエス・キリストから、恵(めぐ)みと平安(へいあん)があなたがたの上にありますように。

(コリント人への手紙第一1章1-3節)

<説教>

コリントは大都市(だいとし)マケドニアとアテネの間にあり、エーゲ海とアドリヤ海を結(むす)ぶ貿易(ぼうえき)の要衝(ようしょう)の地でもあり経済(けいざい)、文化(ぶんか)がいちじるしく発達(はったつ)しました。いろんな人種(じんしゅ)の人が行(ゆ)き交(か)い、宗教(しゅうきょう)が多くあふれていました。その中でも、女神(めがみ)アフロディトを祭(まつ)るアクロ・コリントの山頂の神殿(しんでん)には1千人の巫女(みこ)が宮(みや)に仕(つか)えていましたが、彼女らは夜になると売春婦(ばいしゅんふ)として町に下るのでした。コリントの町は経済(けいざい)的(てき)発展(はってん)と宗教(しゅうきょう)的(てき)混乱(こんらん)と不道徳(ふどうとく)のつるぼでした。その当時、コリント人というと「堕落(だらく)した汚(けが)れた者」を意味しました。コリント人のようにふるまうとは、「みだらな行為(こうい)を行うこと」を意味しました。

そのような中でパウロが精力的(せいりょくてき)に伝道(でんどう)した結果(けっか)、コリント教会(きょうかい)が建て上げられました。彼らはたかぶり、敵対(てきたい)して分派(ぶんぱ)をつくったり、不品行(ふひんこう)、みだらな行為(こうい)が教会(きょうかい)内にも見られました。

しかし、パウロはコリント教会(きょうかい)を神(かみ)の教会(きょうかい)と呼(よ)びます。教会(きょうかい)は神(かみ)によって召(め)し出された者の集まりです。コリントの教会(きょうかい)がいかに不完全でどうしようもない者の集まりであっても、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)のあがないによって、洗(あら)われ、きよめられ、神(かみ)の義(ぎ)が与(あた)えられた者なのです。イエス・キリストを信(しん)じて生きるにふさわしい者へとキリストの復活(ふっかつ)の命が働(はたら)くのです。

キリストは十字架(じゅうじか)で私たちの罪(つみ)のために死んでくださいました。十字架(じゅうじか)はもっともひどい罪(つみ)を犯した罪人に課せられた刑罰です。あなたの罪(つみ)がどれだけひどくても、その罪(つみ)のためにキリストは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

クリスチャンとは罪(つみ)の中から神(かみ)によって呼(よ)び出され、それに応答(おうとう)して、イエス・キリストを罪(つみ)からの救(すく)い主(しゅ)と信(しん)じた者です。世(よ)の罪(つみ)の現実(げんじつ)から、選(えら)ばれて分離(ぶんり)された者です。現実(げんじつ)の姿はまだ未完成(みかんせい)ですが、信(しん)じる者に働(はたら)く聖霊(せいれい)により、日々、御子(みこ)イエス・キリストに似(に)た者に変えられ続(つづ)けています。

「神(かみ)を愛する人々、すなわち、神(かみ)のご計画(けいかく)に従(したが)って召(め)された人々のためには、神(かみ)がすべてのことを働(はたら)かせて益(えき)としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神(かみ)は、あらかじめ知っておられる人々を、御子(みこ)のかたちと同じ姿にあらかじめ定(さだ)められたからです。それは、御子(みこ)が多くの兄弟たちの中で長子(ちょうし)となられるためです。」

(ローマ人への手紙8章28-29節)

失格者

コリント人への手紙第一10章8-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月18日

<聖書>

また、私たちは、彼らのある人たちが姦淫(かんいん)をしたのにならって姦淫(かんいん)をすることはないようにしましょう。彼らは姦淫(かんいん)のゆえに一日に二万三千人死(し)にました。私たちは、さらに、彼らの中のある人たちが主(しゅ)を試(こころ)みたのにならって主(しゅ)を試(こころ)みることはないようにしましょう。彼らは蛇(へび)に滅(ほろ)ぼされました。また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅(ほろ)ぼす者に滅(ほろ)ぼされました。これらのことが彼らに起(お)こったのは、戒(いまし)めのためであり、それが書かれたのは、世(よ)の終わりに臨(のぞ)んでいる私たちへの教訓(きょうくん)とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒(たお)れないように気をつけなさい。あなたがたの会った試練(しれん)はみな人の知らないものではありません。神(かみ)は真実(しんじつ)な方ですから、あなたがたを、耐(た)えられないほどの試練(しれん)に会わせることはなさいません。むしろ、耐(た)えられるように、試練(しれん)とともに脱出(だっしゅつ)の道(みち)も備(そな)えてくださいます。

(コリント人への手紙第一10章8-13節)

<説教>

パウロを通して、神さまが世の終わりに生きる私達への教訓(きょうくん)が語られています。それは神の歴史(れきし)の中で実際(じっさい)に起こった出来事です。

①姦淫(かんいん)(結婚以外のみだらな性行(せいこう)為(い))② 神を疑(うたが)う事③ 神に不平(ふへい)不満(ふまん)を言う事

これはパウロが福音(ふくいん)を宣(の)べ伝えていながら、自分自身が失格者(しっかくしゃ)にならないために自分を打ちたたいて従(したが)わせていることです。

エジプトから救(すく)い出されたイスラエルはシティムの娘(むすめ)たちと、みだらな行為(こうい)を行い、異国(いこく)の神にいけにえを捧(ささ)げ、拝(おが)むようになります。この手紙が書き送られたコリントの町(教会)は偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)はと不品行(ふひんこう)(結婚以外の性(せい)行為(こうい))が密接(みっせつ)に関係していました。今の時代は、誰にでも性的(せいてき)な誘惑(ゆうわく)があります。神を認(みと)めないなら、簡単に罪(つみ)意識(いしき)さえ持たずに、性的(せいてき)な堕落(だらく)に陥(おちい)ります。性の問題は、道徳(どうとく)や倫理(りんり)、安全(あんぜん)衛生(えいせい)の問題ではなく信仰(しんこう)、宗教(しゅうきょう)の問題なのです。

神の奇蹟(きせき)により、紅海(こうかい)を渡(わた)ったイスラエルの民は、三日後に水が飲めず渇(かわ)いて神を疑(うたが)いつぶやきます。奇跡(きせき)も肉の弱さに勝てません。

「ただし、少しも疑(うたが)わずに、信じて願いなさい。疑(うたが)う人は、風に吹かれて揺(ゆ)れ動(うご)く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心(ふたごころ)のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠(か)いた人です。」

ヤコブの手紙1:6-8

神を信じても人間は信仰(しんこう)と不信仰(しんこう)の間を行ったり来たりしています。自分も神も信じ切れない人間の弱さがあります。しかし、そのことさえも信仰(しんこう)の道の途中(とちゅう)にある証拠(しょうこ)です。信仰(しんこう)は知識(ちしき)だけではありません。「少しも疑(うたが)わずに、信じて願う」ことを実践(じっせん)して行うことです。

神は人間を祝福(しゅくふく)されようとしています。その神の恵(めぐ)みを受けないなら、人は不平(ふへい)不満(ふまん)をつぶやきます。しかし、神の恵(めぐ)みを体験せずに、一生つぶやき続けてはいけないのです。

試練(しれん)とは誘惑(ゆうわく)の意味でもあります。試練(しれん)はそれを通して、信仰(しんこう)が成長して、さらに神に信頼(しんらい)して頼(たよ)るようにしてくださいます。しかし誘惑(ゆうわく)は、神を疑(うたが)い、自分の方法でその問題を解決(かいけつ)させようとします。自分の力を誇(ほこ)り神からは離(はな)れさせます。

人間が弱く愚(おろ)かな存在(そんざい)であるという自覚(じかく)は大切です。神はそんな弱い私たちに同情(どうじょう)してくださいます。あなたの試練(しれん)がどのようなものでも、それは決してあなただけの特別(とくべつ)な試練(しれん)ではありません。その試練(しれん)の苦しみによって自分は特別(とくべつ)でおかしいのかも知れないと思わないでいいのです。誰かも同じ試練(しれん)にあり、罪(つみ)以外の試(こころ)みはイエス様も体験されたのです。その試練(しれん)は無意味(むいみ)ではなく、いつまでも続きません。神自身が脱出(だっしゅつ)の道です。イエス様が神であり、このお方を信じる者は、最大の試練(しれん)の死から勝利します。イエス様がよみがえられた命があなたにも働かれます。いかなる試練(しれん)も神の愛からあなたを引き離(はな)すものはありません。

しかし、あなたは試練(しれん)、誘惑(ゆうわく)に負けそうになるかもしれません。もう負けていると感じるかも知れません。けれども、そんな中にあってイエス様はあなたを愛されています。あなたに力を与え守ってくださいます。罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めるように導(みちび)いて下さいます。信仰(しんこう)の結果である自制(じせい)を与えてくださいます。

「あなたがたは、信仰(しんこう)により、神の御力(みちから)によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救(すく)いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜(よろこ)んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練(しれん)の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰(しんこう)の試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお朽(く)ちて行く金よりも尊(とうと)く、イエス・キリストの現れのときに称賛(しょうさん)と光栄(こうえい)と栄誉(えいよ)になることがわかります。」

Ⅰペテロの手紙1:5-7

福音があなたの人生を変える

ローマ人への手紙1章1-4節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月11日

<聖書>

神かみ)の福音(ふくいん)のために選(えら)び分けられ、使徒(しと)として召(め)されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
──この福音(ふくいん)は、神(かみ)がその預言者(よげんしゃ)たちを通(とお)して、聖書(せいしょ)において前(まえ)から約束(やくそく)されたもので、
御子(みこ)に関することです。御子(みこ)は、肉(にく)によればダビデの子孫(しそん)として生(う)まれ、
聖(きよ)い御霊(みたま)によれば、死者(ししゃ)の中(なか)からの復活(ふっかつ)により、大能(たいのう)によって公(おおやけ)に神(かみ)の御子(みこ)として示(しめ)された方(かた)、私たちの主(しゅ)イエス・キリストです。

(ローマ人への手紙1章1-4節)

<説教>

使徒(しと)パウロは、ローマの領土(りょうど)であったキリキア州(しゅう)のタルソ(今(いま)のトルコあたり)でユダヤ人として生(う)まれ、ギリシャ文化(ぶんか)の影響(えいきょう)を受(う)け、教養(きょうよう)と才能(さいのう)に恵(めぐ)まれました。彼(かれ)は、ユダヤ教(きょう)の中でも厳格(げんかく)な律法(りっぽう)学者(がくしゃ)、宗教家(しゅうきょうか)として生(い)きようと志(こころざ)します。やがて彼(かれ)は、ユダヤ教(きょう)から生(う)まれたキリスト教(きょう)の教(おし)えに激(はげ)しく反対(はんたい)して、彼(かれ)らを迫(はく)害(がい)しました。

けれども、神(かみ)さまはパウロの人生(じんせい)に別(べつ)のご計画(けいかく)をお持(も)ちでした。それは、パウロがイエス・キリストを信(しん)じて、キリスト教(きょう)を広(ひろ)く世界(せかい)に宣(の)べ伝(つた)えることでした。それは彼(かれ)がぜったいに思(おも)いもしなかった人生(じんせい)です。

神(かみ)さまは、イエス様(さま)を信(しん)じる前(まえ)のパウロの人生(じんせい)を大いに用(もち)いられます。パウロは異国(いこく)文化(ぶんか)から広(ひろ)い国際(こくさい)感覚(かんかく)を養(やしな)い、豊(ゆた)かな自然(しぜん)の中でギリシャ語(ご)や豊(ゆた)かな教養(きょうよう)を身(み)につけます。それらは後の世界(せかい)宣教(せんきょう)への必要(ひつよう)な備(そな)えでした。

パウロの人生(じんせい)を変えたのは、キリスト教(きょう)が伝(つた)えている最(もっと)も大切(たいせつ)なこと、福音(ふくいん)です。福音(ふくいん)とはキリストの十字架(じゅうじか)のあがない(もともとは奴隷(どれい)が身代金(みのしろきん)を払(はら)って自由(じゆう)の身分(みぶん)に買(か)い戻(もど)される意味(いみ))を信(しん)じるなら、罪(つみ)の刑罰(けいばつ)を赦(ゆる)されて、キリストに似(に)た者に日々(ひび)新(あたら)しく変えられ、天国(てんごく)に入る者として希望(きぼう)が与(あた)えられることです。

その福音(ふくいん)の中心(ちゅうしん)はイエス・キリストです。キリストは聖書(せいしょ)の預言(よげん)のとおりに、ダビデの子孫(しそん)として、2000年前(まえ)にクリスマスに聖霊(せいれい)によってマリアから人間として生(う)まれました。その目的(もくてき)は、十字架(じゅうじか)で死(し)に、すべての人の罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりとなることです。しかし、神(かみ)の全能(ぜんのう)の力により、三日目(みっかめ)によみがえられて、罪(つみ)と死(し)を解(かい)決(けつ)された今(いま)も生(い)きておられるまことの神(かみ)さまです。

キリストを信(しん)じる者は、思(おも)いもしなかった人生(じんせい)に変えられます。寺(てら)の住職(じゅうしょく)がキリスト教(きょう)の牧師(ぼくし)に、暴力団(ぼうりょくだん)組員(くみいん)が愛(あい)を説(と)く者に、死刑囚(しけいしゅう)が他(た)の受刑者(じゅけいしゃ)にキリストの愛(あい)を伝(つた)える者に、大病や大けがをした人が絶望の中から、人々に希望(きぼう)を与(あた)える者に…数(かぞ)え上(あ)げたらいつまでも終(お)わりません。

それは神(かみ)さまが、準備(じゅんび)していた思(おも)いもしない人生(じんせい)です。それを可能(かのう)にするのは、あなたの内面(うちめん)(罪(つみ)の性質)が変えられることから始(はじ)まります。神(かみ)さまはあなたの個性(こせい)や特徴(とくちょう)、才能(さいのう)などを豊(ゆた)かに用(もち)いて、さらに喜(よろこ)びと希望(きぼう)を与(あた)える人生(じんせい)に導(みちび)こうと今日もあなたを招(まね)いておられます。

御免なさいと有り難う

申命記30章1-6節より

土山みことばキリスト教会

2022年9月4日

<聖書>

私があなたの前に置(お)いた祝福(しゅくふく)とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨(のぞ)み、あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】があなたをそこへ追(お)い散(ち)らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心(こころ)に留(と)め、
あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】に立(た)ち返(かえ)り、きょう、私があなたに命(めい)じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心(こころ)を尽(つ)くし、精神(せいしん)を尽(つ)くして御声(みこえ)に聞(き)き従(したが)うなら、
あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】は、あなたの繁栄(はんえい)を元(もと)どおりにし、あなたをあわれみ、あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】がそこへ散(ち)らしたすべての国々の民(たみ)の中から、あなたを再(ふたた)び、集(あつ)める。
たとい、あなたが、天(てん)の果(は)てに追(お)いやられていても、あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】は、そこからあなたを集(あつ)め、そこからあなたを連(つ)れ戻(もど)す。
あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】は、あなたの先祖(せんぞ)たちが所有(しょゆう)していた地にあなたを連(つ)れて行き、あなたはそれを所有(しょゆう)する。主(しゅ)は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖(せんぞ)たちよりもその数を多くされる。 あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】は、あなたの心(こころ)と、あなたの子孫(しそん)の心(こころ)を包(つつ)む皮(かわ)を切(き)り捨(す)てて、あなたが心(こころ)を尽(つ)くし、精神(せいしん)を尽(つ)くし、あなたの神(かみ)、【主(しゅ)】を愛(あい)し、それであなたが生きるようにされる。

                                         (申(しん)命記(めいき)30章1-6節)

<説教>

神(かみ)さまはシナイ山でモーセによりイスラエルの民(たみ)に律法(りっぽう)(神(かみ)が決めた人間が守(まも)るべき教え)を与(あた)えました(モーセ契約(けいやく))。

この十戒(じっかい)に代表(だいひょう)される律法(りっぽう)は、守(まも)るなら祝福(しゅくふく)が与(あた)えられ、破(やぶ)るなら災(わざわ)いを受(う)けます。けれども、むしそ、この律法(りっぽう)は神(かみ)の愛(あい)のあらわれであり、神(かみ)の民(たみ)、イスラエルがこの世から聖別(せいべつ)されることが目的(もくてき)でした。

いよいよ約束(やくそく)の地、カナンに入る前にモアブの地で神(かみ)さまは、もう一度、イスラエルの民(たみ)と契約(けいやく)を交(か)わします(モアブ契約(けいやく))。それは、もし彼らが、律法(りっぽう)に従(したが)わず、不信仰(ふしんこう)で、災(わざわ)いや呪(のろ)いを受(う)けても、神(かみ)さまに立ち返るなら、祝福(しゅくふく)、繁栄(はんえい)が与(あた)えられるというものでした。

神(かみ)さまは、彼らが、やがて異国(いこく)の神々(かみがみ)を慕(した)い拝(おが)むことをご存知(ぞんじ)でした。事実(じじつ)、すでに彼らは外国の女たちと淫(みだ)らな礼拝(れいはい)に堕(だ)落(らく)して、神罰(しんばつ)を受(う)けていたのです。いえ、エジプトの奴隷(どれい)の苦役(くえき)から救(すく)い出(だ)されたあとも、不平(ふへい)と文句(もんく)の連続(れんぞく)だったのです。

天地(てんち)を創(つく)られた神(かみ)さまの約束(やくそく)は、すべての人を祝福(しゅくふく)することです(アブラハム契約(けいやく))。その約束(やくそく)を守(まも)るために、たとえ罪(つみ)を犯して、神(かみ)さまから遠(とお)く離(はな)されても、神(かみ)さまに立ち返る(悔(く)い改(あらた)める)なら、その罪(つみ)を赦し、神(かみ)さまのもとに集められ、祝福(しゅくふく)を回復(かいふく)してくださいます。

この約束(やくそく)は、イエス様によって完全(かんぜん)に成就(じょうじゅ)しました(新しい契約(けいやく))。イスラエルには必ず悔(く)い改(あらた)めが起こる、悔(く)い改(あらた)めは神(かみ)さまの恵(めぐ)みです。キリストの十字架(じゅうじか)がなければ、悔(く)い改(あらた)めによる救(すく)いはありません。

「次のように書いてあります。キリストは苦(くる)しみを受(う)け、三日目(みっかめ)に死人(しにん)の中からよみがえり、その名によって、罪(つみ)の赦(ゆる)しを得(え)させる悔(く)い改(あらた)めが、エルサレムから始(はじ)まってあらゆる国の人々に宣(の)べ伝(つた)えられる。」

(ルカの福音書(ふくいんしょ)24:46-47)

あなたがイエス様を信(しん)じた後、もう決して罪(つみ)を犯さないことを知った上で、神(かみ)さまは、あなたを救(すく)ってくださったのではありません。神(かみ)さまはご自身(じしん)に立ち返って、神(かみ)の愛(あい)を知る者を、この上なく喜(よろこ)ばれるのです。

悔(く)い改(あらた)めはギリシャ語で「メタノイア」です。反対から読むと「愛のため」です。

悔(く)い改(あらた)めは、神(かみ)の愛を受けるため、また神(かみ)の愛によって悔(く)い改(あらた)めに導(みちび)かれるのです。

人間関係でも、壊(こわ)れた関係を回復(かいふく)するためにできる方法はひとつだけです。それは人間にとって一番難(むずか)しいことでもあります。それは素直(すなお)に「御免(ごめん)なさい」と心からあやまることです。そのとき、赦(ゆる)しが生まれ、壊(こわ)れた関係が新しくされるのです。罪(つみ)が赦(ゆる)されることは、有(あ)り得(え)ないことです。その根拠(こんきょ)は神(かみ)さまの恵(めぐ)み、イエス様の十字架(じゅうじか)によります。だから、「有(あ)り難(がと)う」と心から感謝(かんしゃ)して受け取りましょう。

イエス様に「有(あ)り難(がと)う」と感謝(かんしゃ)して生きることを信仰(しんこう)と言います。

あなたの中にある神様のかたち

創世記1章24-28節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月28日

<聖書>

神(かみ)は仰(おお)せられた。「地が、種類(しゅるい)にしたがって、生(い)き物(もの)を生(しょう)ぜよ。家畜(かちく)や、はうもの、野の獣(けもの)を、種類(しゅるい)にしたがって。」そのようになった。
神(かみ)は、種類(しゅるい)にしたがって野の獣(けもの)を、種類(しゅるい)にしたがって家畜(かちく)を、種類(しゅるい)にしたがって地のすべてのはうものを造(つく)られた。神(かみ)はそれを見て良(よ)しとされた。
神(かみ)は仰(おお)せられた。「さあ人を造(つく)ろう。われわれのかたちとして、われわれに似(に)せて。彼らが、海(うみ)の魚(うお)、空(そら)の鳥(とり)、家畜(かちく)、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(しはい)するように。」
神(かみ)は人をご自身(じしん)のかたちとして創造(そうぞう)された。神(かみ)のかたちとして彼を創造(そうぞう)し、男と女とに彼らを創造(そうぞう)された。
神(かみ)は彼らを祝福(しゅくふく)された。神(かみ)は彼らに仰(おお)せられた。「生(う)めよ。ふえよ。地を満(み)たせ。地を従(したが)えよ。海(うみ)の魚(うお)、空(そら)の鳥(とり)、地をはうすべての生(い)き物(もの)を支配(しはい)せよ。」

<説教>

天地(てんち)創造(そうぞう)の第六日に動物(家畜(かちく)・けもの・地をはうもの)、そして人間が造(つく)られ

ました。動物は「種類(しゅるい)」に従って造(つく)られました。しかし、人間は「神(かみ)さまのかたち」として、神(かみ)さまに似(に)せて造(つく)られました。

「神(かみ)である【主】は土地のちりで人を形造(かたちづく)り、その鼻(はな)にいのちの息(いき)を吹(ふ)き込(こ)まれた。そこで人は生きものとなった。」                                                 (創世記(そうせいき)2:7)

神(かみ)さまのかたちとは何でしょうか。

1.人は理性(りせい)ある存在(そんざい)

人は決(けっ)して欲望(よくぼう)のままに生きる存在(そんざい)ではありません。何が悪(あく)で、何が善(ぜん)であるかを判断(はんだん)できます。私たちは自分の行動(こうどう)に責任(せきにん)を持っています。自分の生き方がなげやりであってはならないのです。人はいくら欲望(よくぼう)を満(み)たしても満足(まんぞく)できない存在(そんざい)なのです。

与(あた)えられた命(いのち)、家族(かぞく)、すべてを感謝(かんしゃ)して大切にしましょう。

他の動物と違(ちが)い、悪(あく)を行わないだけでなく、すすんで善(ぜん)を行うことができる存在(そんざい)なのです。

「私たちは神(かみ)の作品(さくひん)であって、良(よ)い行いをするためにキリスト・イエスにあって造(つく)られたのです。神(かみ)は、私たちが良(よ)い行いに歩むように、その良(よ)い行いをもあらかじめ備(そな)えてくださったのです。」               (エペソ人への手紙2:10)

2.人はこの地上の生きものを管理(かんり)する存在(そんざい)

この地上の被造物(ひぞうぶつ)を正しく管理(かんり)するべき存在(そんざい)です。神(かみ)さまが造(つく)られたすべての生きものに対して、人間は思いやりをもち、彼らの幸福(こうふく)のためにも寄(よ)り添(そ)うべきなのです。

しかし、人間の勝手(かって)により、自然(しぜん)破壊(はかい)や、生きものは絶滅(ぜつめつ)の危機(きき)にあります。その結果(けっか)、人間は天災(てんさい)や異常(いじょう)気象(きしょう)や食糧難(しょくりょうなん)、病気(びょうき)などのわざわいを招(まね)いています。 人間は何かを創造(そうぞう)して生み出したいという意志(いし)があります。芸術(げいじゅつ)、文化(ぶんか)、言葉、生き方など。神(かみ)さまが良(よ)いものを創造(そうぞう)されたように、人間の創造(そうぞう)の命(いのち)を生み出す存在(そんざい)なのです。

3.人は関係が必要(ひつよう)な存在(そんざい)

人間が神(かみ)さまに創造(そうぞう)されたということは、孤立(こりつ)して生きる存在(そんざい)ではないということです。人は人間との関(かか)わりの中でしか成長(せいちょう)できません。社会(しゃかい)の中で生きるとき本当の人間となることができます。すべての人は親戚(しんせき)、身内(みうち)です。競争(きょうそう)相手(あいて)としてではなく、仲間(なかま)なのです。愛(あい)し合うように聖書(せいしょ)は教えています。

人間は神(かみ)様に造(つく)られた有限(ゆうげん)の被造物(ひぞうぶつ)でもあります。人は自分が独立(どくりつ)して自分の力により存在(そんざい)していると思うかもしれませんが、一つ一つの呼吸(こきゅう)さえ神(かみ)さまによって与(あた)えられています。

有限(ゆうげん)の存在(そんざい)であるということは、不完全(ふかんぜん)でいいということです。自分の弱(よわ)さ、あやまりをおそれずに、かえって間違(まちが)っているかも知れないという謙遜(けんそん)な姿勢(しせい)で生きるべきです。

神(かみ)さまが必要(ひつよう)な被造物(ひぞうぶつ)であることを認(みと)めて生きるなら、満足(まんぞく)と幸福(こうふく)があり、認(みと)めないなら失望(しつぼう)と挫折(ざせつ)があります。

人間は他の被造物(ひぞうぶつ)とは比較(ひかく)できない素晴(すば)らしい存在(そんざい)です。しかし、それは、神(かみ)さまが人間を創(つく)られたから素晴(すば)らしいのです。ヴァイオリンにストラディバリウスという名器(めいき)があります。素晴(すば)らしい音色(ねいろ)を奏(かな)でるこの楽器(がっき)を通(とお)して、その製(せい)作者(さくしゃ)を称(たた)えているように、素晴(すば)らしい人間の存在(そんざい)を通(とお)して、神(かみ)さまをほめたたえるのです。人間は神(かみ)さまを礼拝(れいはい)するために造(つく)られて存在(そんざい)しています。教会(きょうかい)で礼拝(れいはい)を守りましょう。

人間は、神(かみ)さまのことばを聞いて答えることができます。それは聖書(せいしょ)に書いてある以下の事実(じじつ)です。

人間が自分勝手(かって)な罪深(つみぶか)い間違(まちが)った生き方をして滅(ほろ)びに向(む)かっていること。しかし、神(かみ)さまがその悲惨(ひさん)な生き方から救(すく)い出すために、ひとり子のイエス・キリストを人として十字架(じゅうじか)につけてくださったこと。キリストの死とよみがえりを信じるなら、その者は罪赦(つみゆる)されて、新しい神(かみ)のかたちにふさわしく生きることができること。

いかなる人であっても神(かみ)さまのかたちは決(けっ)して失(うしな)われてはいません。あなたが神(かみ)さまに造(つく)られたことが、何より神(かみ)さまからの祝福(しゅくふく)なのです。

「光(ひかり)が、やみの中から輝(かがや)き出よ」と言われた神(かみ)は、私たちの心を照(て)らし、キリストの御顔(みかお)にある神(かみ)の栄光(えいこう)を知る知識(ちしき)を輝(かがや)かせてくださったのです。私たちは、この宝(たから)を、土(つち)の器(うつわ)の中に入れているのです。それは、この測(はか)り知れない力が神(かみ)のものであって、私たちから出たものでないことが明(あき)らかにされるためです。                                     (コリント人への手紙第二4:6-7)

豊かさとは「もつ」ことでなく「生きる」こと

ルカの福音書12章13-21節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月21日

<聖書>

群衆(ぐんしゅう)の中のひとりが、「先生(せんせい)。私と遺産(いさん)を分けるように私の兄弟(きょうだい)に話(はな)してください」と言った。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁(さい)判官(ばんかん)や調停者(ちょうていしゃ)に任命(にんめい)したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲(どんよく)にも注意(ちゅうい)して、よく警戒(けいかい)しなさい。なぜなら、いくら豊(ゆた)かな人でも、その人のいのちは財産(ざいさん)にあるのではないからです。」
それから人々にたとえを話(はな)された。「ある金持(かねも)ちの畑(はたけ)が豊作(ほうさく)であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物(さくもつ)をたくわえておく場所(ばしょ)がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉(くら)を取(と)りこわして、もっと大きいのを建(た)て、穀物(こくもつ)や財産(ざいさん)はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先(さき)何年分(なんねんぶん)もいっぱい物がためられた。さあ、安心(あんしん)して、食(た)べて、飲(の)んで、楽(たの)しめ。」』
しかし神(かみ)は彼に言われた。『愚(おろ)か者(もの)。おまえのたましいは、今夜おまえから取(と)り去(さ)られる。そうしたら、おまえが用意(ようい)した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神(かみ)の前に富(と)まない者(もの)はこのとおりです。」

(ルカの福音書12章13-21節)

<説教>

この金持(かねも)ちは、穀物(こくもつ)も倉(くら)も財産(ざいさん)も、すべて自分のものだと考えました。そして命(いのち)までも自分のものだと思ったのです。金銭(きんせん)や世(よ)の富(とみ)は海水のようなものです。飲めば飲むほど渇(かわ)くのです。いくら持っても満足(まんぞく)することはないのです。

この世(よ)の富(とみ)に対しては次のような姿勢(しせい)でいるべきです。

  • 第一としない② 頼(たの)みとしない③ いつまでも続(つづ)かないもの(永遠(えいえん)のものではない)

この金持(かねも)ちはこの世(よ)の富(とみ)で命(いのち)までも保証(ほしょう)されると考えました。富(とみ)は決して万能(ばんのう)ではありません。死後(しご)の保証(ほしょう)には何の役にも立ちません。

おのれの財産(ざいさん)に信頼(しんらい)する者どもや、豊(ゆた)かな富(とみ)を誇(ほこ)る者どもを。人は自分の兄弟をも買(か)い戻(もど)すことはできない。自分の身代金(みのしろきん)を神(かみ)に払(はら)うことはできない。──たましいの贖(あがな)いしろは、高価(こうか)であり、永久(えいきゅう)にあきらめなくてはならない──

(詩篇(しへん)49:6-8)

富(とみ)を与(あた)えるのは神(かみ)さまです。すべてを創造(そうぞう)された神(かみ)さまは、この世(よ)の見えるもの(物質(ぶっしつ)世界(せかい))、見えないもの(霊的(れいてき)世界(せかい))の主権者(しゅけんしゃ)です。この金持(かねも)ちを豊作(ほうさく)にしたのは神(かみ)さまなのです。そして命(いのち)を取(と)り去(さ)られたのも神(かみ)さまです。

この「取(と)り去(さ)られた」の原語(げんご)には貸(か)していたものを返(かえ)すように求(もと)める意味(いみ)があります。

人は貧(まず)しさには耐(た)え抜(ぬ)く強(つよ)さがあっても豊(ゆた)かさの中では快楽(かいらく)にふけりたいという弱(よわ)さがあります。豊(ゆた)かさの中で、その人の正しさの基準(きじゅん)や生きる目的(もくてき)が明(あき)らかになります。一時的(いちじてき)な喜(よろこ)びに生きるか。それとは比(くら)べることのできない永遠(えいえん)の喜(よろこ)びを信(しん)じるかです。

聖書(せいしょ)のザアカイという人物(じんぶつ)は巨万(きょまん)の富(とみ)を手にしましたが、その心は孤独(こどく)でした。

豊(ゆた)かな人生(じんせい)は「持(も)つ」ことではなく「関係(かんけい)に生きる」ことにあるのです。

聖書(せいしょ)の中でパウロは、貧(まず)しさの中でも、豊(ゆた)かさの中でも生きる秘訣(ひけつ)は、神(かみ)さまに感謝(かんしゃ)することだと言います。

神(かみ)さとの関係(かんけい)こそが、その人の生き方の豊(ゆた)かさを決定(けってい)するのです。

この金(かね)持(も)ちも、ザアカイも財産(ざいさん)を自分のためだけに使いました。誰(だれ)かのために使うことができませんでした。

神(かみ)さまは、イエス・キリストを私たちのために十字架(じゅうじか)に遣(つか)わされました。それは、財産(ざいさん)も命(いのち)も自分のものだと考える自己(じこ)中心(ちゅうしん)な私たちの罪(つみ)のためです。神(かみ)さまよりも金銭(きんせん)を神(かみ)として追(お)い求(もと)める私たちの生き方を正すためです。

「あなたがたは、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの恵(めぐ)みを知っています。すなわち、主(しゅ)は富(と)んでおられたのに、あなたがたのために貧(まず)しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧(まず)しさによって富(と)む者(もの)となるためです。」

(コリント人への手紙 第二8:9)

イエス様を信じる者(もの)は、神(かみ)の愛とあわれみを受(う)けて変(か)えられます。受(う)けるよりも与(あた)える生き方に変(か)えられます。誰(だれ)かのために生きる、愛と感謝(かんしゃ)の心を持(も)つことこそ、豊(ゆた)かな生き方です。そのとき、あなたはもちろん、神(かみ)さまが喜んでいることが必ずわかります。あなたの人生(じんせい)には喜びの関係(かんけい)が溢(あふ)れることでしょう。

「神(かみ)は喜んで与(あた)える人を愛してくださいます。神(かみ)は、あなたがたを、常(つね)にすべてのことに満(み)ち足(た)りて、すべての良(よ)いわざにあふれる者(もの)とするために、あらゆる恵(めぐ)みをあふれるばかり与(あた)えることのできる方です。」

(コリント人への手紙 第二9:7-8)

アメイジンググレイス~驚くべき神の恵み

ローマ人への手紙5章12-21節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月14日

<聖書>

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪(つみ)が世界に入り、罪(つみ)によって死が入り、こうして死が全人類(ぜんじんるい)に広がったのと同様(どうよう)に、──それというのも全人類(ぜんじんるい)が罪(つみ)を犯したからです。
というのは、律法(りっぽう)が与えられるまでの時期にも罪(つみ)は世にあったからです。しかし罪(つみ)は、何かの律法(りっぽう)がなければ、認(みと)められないものです。
ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反(いはん)と同じようには罪(つみ)を犯(おか)さなかった人々をさえ支配(しはい)しました。アダムはきたるべき方のひな型(がた)です。
ただし、恵(めぐ)みには違反(いはん)の場合(ばあい)とは違(ちが)う点(てん)があります。もしひとりの違反(いはん)によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神(かみ)の恵(めぐ)みとひとりの人イエス・キリストの恵(めぐ)みによる賜物(たまもの)とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
また、賜物(たまもの)には、罪(つみ)を犯(おか)したひとりによる場合(ばあい)と違(ちが)った点(てん)があります。さばきの場合(ばあい)は、一つの違反(いはん)のために罪(つみ)に定(さだ)められたのですが、恵(めぐ)みの場合(ばあい)は、多くの違反(いはん)が義(ぎ)と認(みと)められるからです。
もしひとりの違反(いはん)により、ひとりによって死が支配(しはい)するようになったとすれば、なおさらのこと、恵(めぐ)みと義(ぎ)の賜物(たまもの)とを豊(ゆた)かに受(う)けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配(しはい)するのです。
こういうわけで、ちょうどひとりの違反(いはん)によってすべての人が罪(つみ)に定(さだ)められたのと同様(どうよう)に、ひとりの義(ぎ)の行為(こうい)によってすべての人が義(ぎ)と認(みと)められ、いのちを与(あた)えられるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順(ふじゅうじゅん)によって多くの人が罪(つみ)人とされたのと同様(どうよう)に、ひとりの従順(じゅうじゅん)によって多くの人が義人(ぎじん)とされるのです。
律法(りっぽう)が入って来たのは、違反(いはん)が増(ま)し加(くわ)わるためです。しかし、罪(つみ)の増(ま)し加(くわ)わるところには、恵(めぐ)みも満(み)ちあふれました。
それは、罪(つみ)が死によって支配(しはい)したように、恵(めぐ)みが、私たちの主(しゅ)イエス・キリストにより、義(ぎ)の賜物(たまもの)によって支配(しはい)し、永遠(えいえん)のいのちを得(え)させるためなのです。

(ローマ人への手紙(てがみ)5章12-21節)

<説教>

最初の人アダムが神さまの命令を守(まも)らず罪(つみ)を犯したときに世界に罪(つみ)と死が入りました。それ以来すべて生まれる人間は罪(つみ)の性質(せいしつ)と、罪(つみ)の刑罰(けいばつ)である死刑(しけい)判決(はんけつ)を言い渡(わた)されています。この世界全体も罪(つみ)と死の支配(しはい)にあり、罪(つみ)に誘惑(ゆうわく)する力が働いています。

罪(つみ)は律法(りっぽう)(規則(きそく)やルール)がなければ自覚(じかく)できません。この地上には法律(ほうりつ)やルールがあるので、罪(つみ)を犯すと刑罰(けいばつ)を受けます。しかし、神さまの法律(ほうりつ)(聖書(せいしょ)の十戒(じっかい)など)に違反(いはん)しても人間は気付きません。神さまは聖書(せいしょ)(守(まも)るべき戒(いまし)め)を与(あた)えて、それが守(まも)れないことにより、罪(つみ)を教えてくださいます。

ネットで匿名(とくめい)の投書(とうしょ)や誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)により、人の心を傷(きず)つけます。性(せい)のモラルが低下(ていか)して、欲望(よくぼう)のままに本来(ほんらい)の大切な性(せい)(結婚(けっこん)関係(かんけい)にだけ限られる)がおかされています。法律(ほうりつ)では処罰(しょばつ)されなくても、神さまに対しては有罪(ゆうざい)です。当然(とうぜん)、地上と同様(どうよう)罪(つみ)の刑罰(けいばつ)があります。罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は死です。

人間だけが、他の被造物(ひぞうぶつ)と違(ちが)って、空想(くうそう)や心や思いの中で知らない場所を訪(おとず)れたり、誰(だれ)かと同伴(どうはん)することができます。心の中での罪(つみ)深(ぶか)いこと、誰(だれ)かを憎(にく)んだり、人をよこしまな思いで見るならば、神さまの基準(きじゅん)では、現実(げんじつ)にそれを行ったと扱(あつか)われます。罪(つみ)はまず心の中から始まり、そして現実(げんじつ)に起こるのです。

そのとき、すべてのだれも自分の罪(つみ)を認(みと)めないわけにいきません。そして罪(つみ)とは、神(かみ)さまの前で自分を正しいとすることなのです。神(かみ)さまとの正しい関係から離(はな)れて自分勝手(じぶんかって)に生きることなのです。神(かみ)さまの言葉に従(したが)わないことです。

子どもが悪いことをして親に叱(しか)られて、ゆるされることは、ただ恵(めぐ)み(親の大きな愛(あい))によるのです。

人の違反(いはん)(罪(つみ)を犯(おか)す)は決してなかったことにはできません。違反(いはん)に対しては恵(めぐ)みしかないのです。恵(めぐ)みとは本来(ほんらい)は働(はたら)いた者が受(う)けるべき報酬(ほうしゅう)を、働(はたら)きのない受(う)ける価値(かち)のない者がその報酬(ほうしゅう)を受(う)けることを言います。

聖書(せいしょ)(律法(りっぽう))の目的(もくてき)は、キリストによる救(すく)いを受(う)けるためです。

アダムは違反(いはん)を犯(おか)しました。しかし、キリストが違反(いはん)を完全に補(おぎな)う正しい行為(こうい)を示されました。罪(つみ)による死の支配(しはい)から、キリストは十字架(じゅうじか)で罪(つみ)と死に打ち勝ちよみがえり、いのちを与(あた)えてくださいました。自分の欲(よく)に従(したが)った罪(つみ)の生き方からキリストは父なる神(かみ)さまに従(したが)い十字架(じゅうじか)の死にまで従(したが)われました。

違反(いはん)(アダム)と恵(めぐ)み(キリスト)は比(くら)べることができないまったく異質(いしつ)なものです。人間には理解(りかい)できない、神(かみ)さまの大きなあわれみと愛(あい)です。罪(つみ)なき神(かみ)の子キリストが罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)できよい血を流してくださったのです。神(かみ)の愛(あい)が現されたのです。

罪(つみ)を重ねて絶望(ぜつぼう)の中にあるとき、その刑罰(けいばつ)を受(う)ける方が楽かもしれません。否、自分は満足かもしれません。自分を痛めつけて死んでしまう方が納得いくかもしれません。それは赦(ゆる)されない罪(つみ)と決めて、生きることより死しか方法がわからないからです。神(かみ)さまだけが罪(つみ)を赦(ゆる)す権威(けんい)をお持ちなのです。罪深(つみぶか)さを自覚(じかく)すればするほど、神さまの恵みを受けることができます。

ただ、あなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりを十字架(じゅうじか)で受(う)けて死なれたイエス様を信じることです。

キリストを信じて十字架(じゅうじか)の赦(ゆる)しを受(う)けるならば、世の中や自分の人生を憎(にく)むのではなく、愛(あい)して赦(ゆる)す者に変えられます。それがイエス様のいのちによって生きることです。死ぬのではなく、本当の「生きる」をくださいます。

「神(かみ)の恵(めぐ)みとは次のようにたとえることができます。莫大(ばくだい)な預金(よきん)残高(ざんだか)がある口座(こうざ)の通帳(つうちょう)があなたにプレゼントとして与(あた)えられている。あなたがすべきことは、それを持って、ただ銀行(ぎんこう)に行ってそれを自分のものにするだけである。」

讃美歌(さんびか)アメイジンググレイスの作詞者(さくししゃ)ジョン・ニュートンは82歳で神(かみ)の御許(みもと)へ旅立(たびだ)っていきました。晩年(ばんねん)、彼はこんな言葉を残(のこ)しています。

「薄(うす)れかける私の記憶(きおく)の中で、二つだけ確(たし)かに覚(おぼ)えているものがある。

一つは、私がおろかな罪人(つみびと)であること。もう一つは、キリストが偉大(いだい)なる救(すく)い主(ぬし)であること。」

「私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の肉(にく)の欲(よく)の中に生き、肉(にく)と心の望(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを受(う)けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊(ゆた)かな神(かみ)は、私たちを愛(あい)してくださったその大きな愛(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救(すく)われたのは、ただ恵(めぐ)みによるのです──」

(エペソ人への手紙2章3-5節)

聖書は信じる者を救う神のことば

テモテへの手紙第二3章12-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月7日

<聖書>

確(たし)かに、キリスト・イエスにあって敬虔(けいけん)に生(い)きようと願(ねが)う者(もの)はみな、迫害(はくがい)を受(う)けます。しかし、悪人(あくにん)や詐欺師(さぎし)たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪(あく)に落(お)ちて行(い)くのです。
けれどもあなたは、学(まな)んで確信(かくしん)したところにとどまっていなさい。あなたは自分(じぶん)が、どの人(ひと)たちからそれを学(まな)んだかを知(し)っており、
また、幼(おさな)いころから聖書(せいしょ)に親(した)しんで来(き)たことを知(し)っているからです。聖書(せいしょ)はあなたに知恵(ちえ)を与(あた)えてキリスト・イエスに対(たい)する信仰(しんこう)による救(すく)いを受(う)けさせることができるのです。
聖書(せいしょ)はすべて、神(かみ)の霊感(れいかん)によるもので、教(おし)えと戒(いまし)めと矯正(きょうせい)と義(ぎ)の訓練(くんれん)とのために有益(ゆうえき)です。
それは、神(かみ)の人(ひと)が、すべての良(よ)い働(はたら)きのためにふさわしい十分(じゅうぶん)に整(ととの)えられた者(もの)となるためです。

(テモテへの手紙(てがみ)第二 3章12-17節)

<説教>

この世界にあるものはすべていつかは消え去ります。罪(つみ)と死の力が滅(ほろ)びへと向かわせています。そのような現実の中で、あなたは何を信じて生きていますか。生きている限り、人は何かを信(しん)じているのです。あなたの信(しん)じているものは、あなたを永遠(えいえん)に生かすものでしょうか。何を信(しん)じているかが大切(たいせつ)なのです。

あなたが本当に幸せな人生を生きるために、言いかえるなら、あなたが本当にいのちをいただいて生きるために、神(かみ)さまを知ることが必要(ひつよう)なのです。人間は自分で神(かみ)さまを知ることはできません。

神(かみ)さまご自身(じしん)のことばによって、人間は神(かみ)さまを知ることができます。それが聖書(せいしょ)です。聖書(せいしょ)には旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)と新約(しんやく)聖書(せいしょ)があります。旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)にはキリストと言われる救(すく)い主(ぬし)についての預言(よげん)が書かれています。新約(しんやく)聖書(せいしょ)はその預言(よげん)が成就(じょうじゅ)して神(かみ)さまに遣(つか)わされたイエス・キリストについて書かれています。

聖書(せいしょ)は人に罪(つみ)をさとらせます。罪(つみ)とは神(かみ)さまとの正しい関係(かんけい)を失(うしな)っている死(し)の状態(じょうたい)です。神(かみ)さまを恐(おそ)れずに生きるならば、人間はたかぶり、自分の欲(よく)のままに生きても滅(ほろ)びます。人間は罪(つみ)のために神(かみ)さまから離(はな)れて、神(かみ)さまを知ることができません。その罪(つみ)の問題(もんだい)の解決(かいけつ)のためにキリストは、あなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死(し)なれたのです。

キリストを個人的(こじんてき)にあなたの罪(つみ)からの救(すく)い主(ぬし)と信(しん)じるならば、あなたは罪(つみ)赦(ゆる)され、神(かみ)さまと和解(わかい)することができます。神(かみ)さまとの関係(かんけい)を永遠(えいえん)のいのちと言います。神(かみ)さまの子どもとして、いつまでも神(かみ)さまと共に生きることができます。

家族(かぞく)を失(うしな)って、その代(か)わりの人を探(さが)しても、本当の幸(しあわ)せはありません。罪(つみ)とは(家族の)状態(じょうたい)や関係(かんけい)が絶(た)ち切(き)られることです。人が何よりも求めるのは家族の関係(かんけい)の回復(かいふく)です。永遠(えいえん)の喜(よろこ)びとは家族(かぞく)と生きることです。そこに試練(しれん)や問題(もんだい)があっても、そこに本当の喜(よろこ)びや平安(へいあん)があるのです。そこにいのちがあるのです。

信仰(しんこう)もこの地上(ちじょう)の家族(かぞく)と同じです。イエス・キリストを信(しん)じて、神(かみ)さまとの関係(かんけい)を回復(かいふく)することは、家族(かぞく)の関係(かんけい)の回復(かいふく)です。これなしに、人は決して幸(しあわ)せな人生を送ることはできません。滅(ほろ)びの世界の中で聖書(せいしょ)を信(しん)じる者は幸(さいわ)いです。