キリストに似た者へ変えられる希望

ヨハネの手紙 第一3章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月27日

この世には血のつながった実の父と、育ての父があります。それは父なる神と人との関係にも当てはまります。

すべての人は父なる神さまの命を受けて創造されました。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(創世記1:26)

もう一つは日々の関係で私たちを愛と命の祝福で満たし、永遠に続く父の存在です。その父の子どもは天地創造の前から愛をもって定められた者です。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ人への手紙1:4—5)

その神さまの愛の招き(福音‐キリストの救いの知らせ)に信仰によって応えることにより、神の子どもの特権が与えられます。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:12)

神の子とは単にそう呼ばれるだけでなく、事実なのです。神の子であるかどうかが今の現実と未来を決定します。

この世はキリストを信じた者が神の子であることを体験としてわかりません。罪から離れ、愛と正義を表わすことにより神の子の存在を世に現すのです。

事実、神の子どもは与えられた御霊によって神の性質に変えられ続け、キリストが再び来られるときに、キリストに似た者に変えられます。それはキリストをありのまま見るからです。

今、神様はすべての人間を完全にご存知です。人間はと言えば、一部分しか知りません。しかしやがて、神様がご存知のように私たちも完全に知るのです。それを現実にするのが信仰です。信仰が救いの完成、天の御国を実現に果たしてくれます。

信仰の中心はイエス・キリストの十字架の死があなたの罪の身代わりであることを信じることによる救いです。この世にあって望みもなく、神もない人たちが、キリストの十字架の血により、神の子とされる希望です。

「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ人への手紙2:13-14)

この希望を信じて生きる者はこの滅びゆく世界の中で自分をきよく保ち、新しく造り変えられ続け、愛の父である神の戒めと助けにより最後まで守られます。 神さまの目的は、あなたを神の子とすること、それは神に創造された本当の人間の姿への回復です。あなたが神に形取り造られた尊い存在で、善と愛を行うことのできる、人となったイエス・キリストの姿に変えられるためです。

「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトスの手紙2:11-14)

終わりの時、真理のキリストにとどまる

ヨハネの手紙 第一2章18-29節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月20日

イエスは世の終わりの兆候の一つにキリストを名のる者が大勢現れると預言しました。今、世界では私こそがキリストの再来(臨)だという者が大勢います。

しかし、キリストを信じて聖霊を受けた者は、真理か偽者かを見分けることができるのです。反キリスト、偽教師はイエスを人となったキリストだと認めません。またイエスが神のキリストであることも認めません。イエスを認めないことは、世界最大の嘘です。嘘の嘘です。なぜなら、イエスを信じることなく、まことの父なる神を知ることは決してないからです(マタイ11:27)。

イエスを信じるとは、キリストの十字架の死があなたの罪のためであったこと(福音)を信じることです。この福音を信じる者は神の力によって救いを受けます。しかし、キリストの十字架を愚かなでたらめとして受け入れないなら、神はその者は世の終わりに滅びに入れられます。

この世は必ず終わります。その終わりとは、今の世が終わり、新しい世界が始まることです。その世とは神が完全に支配する、罪も死も涙も苦しみもない世界です。

また終わりは、すべての者が滅び去って、死の静寂が訪れることでもありません。神の前に罪の歩みをした滅びるべきものだけが滅びるのです(Ⅱペテロ3:7)。 今、キリストを自分の罪からの救い主と信じる者は、欲のまま、心のままの生き方から信仰により生きる者です。罪から離れて神に対して正しく生きる者です。今をキリストと共に永遠の命の中に生きる者です。そして、終わりの時、キリストが来られる時に新天新地に迎えられる希望の約束に生きる者です。

キリストを掲げよ、旗印は十字架

ヨハネの手紙 第一2章12-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月13日

この世界は神が創造された素晴らしい世界です。けれども、人間が神に対して罪を犯した時から、堕落した世界に変わりました。

それは神の存在を無視した誤った価値観、感覚に支配された享楽の奴隷状態、金銭が幸福である物欲と自慢、見えるものがすべてで精神的な世界は無関心、所有物の用途は利己的…

しかし、神はその世界が創造される前から、この罪の世には属さない神の子ども(キリスト者・クリスチャン)を選んでいました。天国の民とされたキリスト者は、この地上では旅人です。外国の旅人は、その国の市民権を持ちません。キリスト者はこの地上の制度、規則にだけに縛られず、天国の原則に従うのです。

この世は危険を生みます。この世の愚かな知恵、堕落した世の肉の欲を避けて、分別をもって自分をきよく保つことが必要です。肉の欲が私たちの中にあるなら戦いと混乱を引き起こします。キリスト者は肉の欲に支配され続けてはなりません。

確かにこの世にあっては艱難があります。しかし、神はこの世を愛され、そのひとり子を人間の罪のために十字架に渡されました。神はこの世界の罪による誤りを明らかにされました。

確かにこの世は魅力的です。しかしキリストの十字架にまさって誇るべきものはありません。罪なき神キリストが身代わりに死んでくださったのです。いかなるこの世のものも罪赦される恵みと比べられません。

自分の罪を悔い改めて、キリストを罪からの救い主と信じる者は神の子とされ、天国の民です。キリストを救い主と信じる者は、この世にあって勝利する者です。

この世の目的に執着する者は永遠に続くことのない過ぎ行くものに身を任せているのです。若さも権力も必ず衰えます。しかし、神を生きる中心にする者は、人生を永久不変のものに託した者です。

滅びゆくこの世を愛するか、永遠の神を愛するか。神を信じる者は幸いです。

あなたの心に光はあるか

ヨハネの手紙 第一2章7-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月6日

罪の闇とは人間の心の中の闇です。それは、心の中からわいてくる、悪い考え、結婚以外の性行為、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさです。

生まれた人間は罪により、知性が暗くされ、罪に対して盲目です。あなたの心の中を照らす光が絶対に必要なのです。そのためには、光である神様とともに生きることです。あなたの心を開いて、イエス様に入っていただくことです。

クリスマスにキリストは罪の闇の世界に来られました。闇である人間の内には愛も光もありません。キリストの十字架のみわざによって、人は暗闇の支配からキリストの光の中に移されるのです。心の中の罪と死の支配原理が、キリストの命と御霊の原理に変えられるのです。

聖書のメッセージは互いに愛し合いなさいです。この命令はキリストが十字架で死んでくださったことにより、今、すべての人に対して神様の愛が明らかにされています。

キリストを信じて、愛する者は光の中に、神とともにいるのです。

罪の現実は、キリストの光によって、滅びつつあります。キリストの命令である、互いに愛することだけが、唯一である新しい世界はもう始まっていて、やがて完成します。

人間は神さまと人格的な交わりをもつ存在として創造されました。それは親子の関係であり、夫婦の関係と言えます。愛と信頼のつながりです。

キリストがあなたと神様の関係を回復してくださいます。すべての罪を捨て去り、闇ではなく、光に向かって、キリストとともに生きようではありませんか。

神を知るにはどうすればいい?

ヨハネの手紙 第一2章3-6節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月30日

神を知るにはどうすればいいのでしょうか。キリストの時代は、宇宙や自然のように、哲学や知識によって神をも知ることできると考える人たちがいました。また、不思議な宗教的な儀式の神秘的体験により神と共にいると考える人たちもいました。しかし、彼らの宗教は道徳的にも行いにも、模範となる善いもの、愛の交わりもありませんでした。

人間が神を知るとは、聖書を通してご自身を明らかにされる神のことばによるの

です。人となられた神であるキリストにより神を知るのです。神を知るに至るには、神の言葉の聖書を聞き、守り従うことです。その時、神の愛の中に生き、自分の罪深さや、愛のなさ、弱さ、至らなさを教えられます。

神の言葉を聞いて、従って、守っていくとき、人は神を知ること、愛することよりも、さらに強い密接な関係とされます。

夫婦でも、自分より相手を尊重して、話す言葉をよく聴き、仕えていくとき、心も身体も一つにされ、まことの夫婦とされ続けていきます。親子も同じです。親は子を愛するが故に、嫌われても言うべきことを言い、しつけ、子も親の愛を受け、素直に聞き従い、成長して世の中に仕え、年老いても親に感謝をし、いつまでも愛し敬い続け、まことの親子とされていきます。

すべての人は、完全な必要が満たされていたにも関わらず、神の信頼を裏切り、言葉(命令)を守れずに罪に堕落しました。その時から、神の愛から離れた人間は愛を求め、愛することを願っています。

神に対して罪を犯したすべての人は永遠の死の刑罰を受けるしかありません。しかし、神はキリストを十字架につけ、すべての罪人を神の愛する子どもとして迎えてくださいます。

あなたは、愛された者なのです。それは、神の言葉に従って十字架で死なれたキリストを信じて救い出された愛される者なのです。あなたは、神の言葉を守って従っていける者と言う意味で愛されているのです。神はあなたを完全に信頼しておられるのです。

あなたはキリストが歩まれたように、すべてのことにおいて、まったく同じように歩む者です。それは、あなたが目の前の困難から簡単に逃げ出さないことだったり、以前よりも誰かを非難することよりも、自分が未熟だと悲しむことかも知れません。それはキリストを愛し、健全に自分を愛する姿です。あなたはキリストの中におり、あなたの中にキリストがおられます。あなたは神を知っているのです。今までひとりだったあなたに、いつもインマニュエルの(ともにおられる)神がおられます。アーメン。

神が用意されたキリストの十字架

ヨハネの手紙 第一2章1-2節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月23日

世界には昔から、様々な宗教があります。一時、世に影響を与えた宗教も、やがて消えていきます。そんな中でキリスト教は、歴史と共に存在し、今も益々世界で広がっています。いわば、キリスト教は海へと流れ込む大河の本流で、他の教えはやがて、細く狭まり渇れていく支流に過ぎません。

キリスト教とは何なのでしょうか。

それは、神が人間に働きかけるまことの救いです。神がご自身を明らかにされる聖書のメッセージは、神に造られた人間(神との関係によって存在できる)への愛と平和の回復です。それを明らかにしてくださったのはキリストの十字架です。

聖書の教えを守れない人間に、行ないではなく、信仰による神との和解をキリストにより用意してくださったのです。そのキリストの義(神と人間の正しい関係)を誰もが受けることができるのです。

その手段が信仰です。例えるなら、洗濯された清潔な服は用意されています。その服に袖を通して着ることが信仰です。美味しい食べ物はあります。それに手を伸ばして食べる、手が信仰です。

人間に神の正しさはありません。しかし、神の用意してくださった正しさ~罪なきキリストが十字架で死なれたことによる正しさ~を受ける者は、神にとって、正しい者とみなされるのです。

信仰がキリストの十字架の意味とあなたを結びつけるのです。

すべての人は罪人であり、罪の刑罰は死、永遠の滅びです。この現実を、まったく変えるメッセージが十字架の福音です。

義なる神は人間の罪をあいまいに赦すことできません。しかし、ひとり子のキリストをその刑罰の十字架に架けることにより、ご自身の義(正しさ)と愛を現されたのです(ローマ人への手紙3章21-30節)。

人間の喜びは交わり(コミュニケーション)にあります。時代が変わっても、手段が変わっても、人は関係を求めているのです。宗教とは何でしょうか。実は人格の交わりなのです。人間と神との関係(コミュニケーション)なのです。人間が神の前に心から喜び生きることなのです。

それを断絶するものが罪です。その罪の罪責に苦しむ人間をキリストは父なる神の前にいつも弁護してくださいます。その弁護は完全に力あるものです。なぜならキリストが十字架で罪の代価を支払ってくださったからです。

罪により、死の刑罰に絶望した人間の取りうる選択を信仰と言います。神の恵みに応答することです。

今日キリストの十字架の救いをお受けしましょう。

闇から光へ

ヨハネの手紙 第一1章5-10節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月16日

すべての人間は罪人であり、人は罪を犯すから罪人なのではなく、罪人なので罪を犯すのです。

神と言われるものを信じている人はたくさんいます。しかし、天地を創造して、あなたの命を造られた聖書で明らかにされる唯一の神を信じなければ、まことの神との交わりの喜びはありません。神を信じていると言っても、なお罪の闇の中にいる人は、神との関係に生まれる命がないのです。

神は光であり、完全に聖く、正しく、愛なるお方です。この神と交わり、真理の歩みをするためには、人間は罪のない光の中を歩まなければなりません。

その光の中に入ろうとする者には、イエス・キリストの十字架の血が、罪汚れをきよめ続けて下さいます。キリストが罪のきよめのために流された血こそが、驚くべき神の罪の赦しの根拠なのです(ヘブル人への手紙9章14節)。

神の光の中に生きることは、あなたのすべてを神の御手にお委ねすることです。罪深さも汚れも、誰も知らない苦しみ、悲しみも、人知れず流した涙も労苦も神はすべてご存知です。何も飾らずありのままの姿でキリストを信頼するなら、神はすべての赦しと癒しをくださり、まことの喜びに生きる者としてくださいます。

この神の光は、罪の闇の中にいる者を照らします。神に背を向け、自分自身の暗い影を見つめ続けて生きてはいけないのです。神の光に罪を示されたなら、あなたがすべきことは180度方向転換して、神に従う生き方に態度を変えることです。

そのとき、神の光があなたのすべての影、闇を消し去ってくださいます。

神の御子キリストが十字架で死んでくださったのはあなたへの愛の証しです。

この神の光の中を生きようではありませんか。

イエス・キリストの福音はまことの喜びを与える

ヨハネの手紙 第一1章1-4節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月9日

「人生には何か真実な意味があるのか。この世には本物らしく見えても、偽物がある。清らかで正直に人生を送ることは、重要なことなのか。他の人たちを愛そうが、愛すまいが、結果としてその人々に違いはあるのか。神(特にイエス・キリストを通して明らかにされている神)を信じたとして、その信仰が実際にどのように人生や物事を変えるのか…」

これらは、いつの時代も変わらない人間の問いかけです。その答えとして、間違った思想がキリストの時代からありました。

しかし、誤った教えが、どんなに魅力的であっても、それは本当の幸福をもたらすのではありません。しかし間違った教えの中で、誰も思いもしない、消し去ることのできない偉大な教えがありました。

それは、神が人となられて、私たちが生きているこの世界に来られたことです(ヨハネの福音書1:14)。人間は神になれませんが、神は人間になることができるのです。著者のヨハネは、イエスがその神のキリストであることを、実際に見て、聞いて、触れ合って知りました。

永遠の昔から存在した福音(キリストが十字架で死んでくださり人間を罪から救ってくださるよい知らせ)が人間イエスの言葉により、私たちに示されたのです。もう、人間の知識から真理を必死に探し求める必要はありません。

この福音により、人間は罪赦され、罪に打ち勝つ勇気と力を受け、神との関係を回復し、神の愛を受け、悪の力から解放され、死から命に変えられます。

イエスが十字架で死んでくださり、私たちへの愛を示してくださったので、私たちは愛し合うのです。イエスにより罪赦されたので、赦し合うのです。

このイエスとの交わり、喜びは他のいかなるものからも決して得られません。

あなたの人生を新しくするイエス・キリストを救い主としてお迎えしませんか。

人がいかに罪深くとも、はるかに大きい神の恵み

エペソ人への手紙2章1-10節より

2021年11月21日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には決定的な死生観があります。それはキリストなき人生がどれほど恐ろしいかです。罪とは殺人や窃盗、詐欺などを考えますが、聖書の言う罪とは「的を外す」こと意味します。人間として本来あるべき姿からかけ離れていること、人生の道を大きく踏み外して本来の目標に到達できないことです。

罪によって遠い将来、死後にさばきが下るのではありません。罪は今、現在、人間を殺す力があるのです。人は罪を犯した後と以前ではまったく同じ状態ではいられません。決して罪は消えることはなく、忘れても気づかなくても、いつまでも残るのです。罪により人は初めの純潔を失っていきます。また、罪は最初は恐れ震えながら犯します。しかし、次回はより平気に犯します。罪は感覚を麻痺させます。そして罪の後悔だけでなく、罪の最中にも、もはや楽しみは失われます。罪は人生の大切な価値を失わせます。そして、罪は習慣となり、いつしか罪の奴隷状態になります。罪をやめる人間の意志は無力で、以前の罪のためにさらなる罪を求めるようになります。罪の代償はあまりにも大きいのです。罪の代価は死です。

キリストなき人生のしるしは、この世の基準や価値に生きることです。神が与えた本来の価値を無視して、この世の物事や利潤に人間を合わることです。また悪魔に支配されて生きることです。悪魔は本来の神のよい計画から人間を離れさせ、人間の魂を破滅させます。また、欲望のなすがままの生活、悪いこと、禁じられていることに対する欲望で人生を破滅させます。神なき人生の本性、人間の内にある肉の性質に罪を犯すように働きかけます。神の怒りを受ける価値しかない生活です。

しかし、そんな絶望しかない人間を神は愛し、あわれみ、キリストと共に生かし、よみがえらせてくださいます。なぜでしょうか。それは神の偉大な恵みが世界に、後の世代に永遠に示されるためです。キリストを信じる信仰は個人の幸福や、ご利益ではなく、神さまの愛と赦しの偉大さが明らかにされるためです。本当に人間の素晴らしさを人々が喜んで生きるためです。

救いは努力や行いではなく、神の一方的な恵みによります。神が人を罪の中から救う恵みは誰にでも、ばらまかれるのではありません。信仰によって、救うべき者に確実に渡されるのです。「恵み」とは莫大な水の貯水池であり、その水を有効に、正確に実際に配給する水道管が「信仰」です。

神との関係が回復した者は、今まで思いも及ばない良い行いを思いつき、それを行うことができるに至るのは、キリストとともに新しく創造されたからです。救いに始まった、神の再創造はキリストに似た者に変え続けます。 恵みはただで受けることができます。それはキリストがあなたの罪の贖いの代価を十字架で支払ってくださったからです。このキリストの愛、命をかけた尊い救いにより人は必ず罪から離れきよめられ、愛のわざ、よい行いをする者に変えられます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

(コリント人への手紙第二5章17節)

罪のおぞましさを認めて悲しむ者は幸い

マタイの福音書5章4節より

2021年11月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

なぜ悲しむ者が幸いな者なのでしょうか。悲しみによって物事の見た目だけでなく、人生の深い意味や、人との関わりの大切さを知ります。また悲しみに絶望して、人の力を超えた神への信仰に導かれることもあります。もう一つは悲しむ者に寄り添って一緒に悲しむ者は幸いなのです。この世の物への執着はよくありませんが、人に対して無関心であってはならず、人を愛することは一番大切な人間本来の生き方なのです。かつては自分のために集める生き方から、キリストを信じた者は、キリストが歩まれたように、誰かのために与える生き方に変えられるのです。あなたの人生はむなしいものではなく神の前に宝が積まれるのです。

人生の悲しみの原因を聖書は①罪 ②死 ③金銭を愛すること ④知識と言います。これらはいずれも人間が神様から離れた結果生じたものです。それを聖書は罪と言います。

イエス様が言われる「悲しむ者は幸い」の一番大事な意味は、自分の罪と自分の無価値を絶望して悲しむ者は幸いと言う意味です。

悲しみは、「この世の悲しみ」と「神からの悲しみ」があります。「この世の悲しみ」は、罪自身ではなく、罰を受けたことや罪が見つかったことや面倒になったことの恨みです。

しかし「神からの悲しみ」は罪を認め告白させ、罪と自分さえも憎み悲しむことです。罪を二度と繰り返さないと神への心の姿勢です。これを悔い改めと呼びます。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

(コリント人への手紙第二 7章10節)

あなたは、あなたを愛して信じる者や家族をだまして、ばれなかったら罪ではないと思いますか。一度犯した罪はなかったことにはできません。あなたの良心を痛め続けます。罪は自分を偽ることができないのです。罪は神に対して犯すのです。

また罪は大切な関係を破壊します。罪とは単にその行為ではないのです。罪とは関係が死ぬことです。すべての人間の祖先アダムが神に背いて堕落して以来、人間は生まれ持って神との関係を失った罪人です。その罪責の結果あるのは人間の内面の恐れと不安とパニックです。

しかし罪に苛まれ苦しみ続けなくても大丈夫です。神の愛の故に、キリストが人間の罪の罰を身代わりに十字架で受けてくださいました。その罪の赦しを信じる者は罪責の重荷から解放されます。神との関係を回復され、自由を取り戻し平安と喜びを受けて生きることができます。その慰めは、現在の祝福ですが、世の終わりに罪と死、悲しみ、苦しみが取り去られ、神の国の到来の時に完全に実現するのです。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

(ヨハネの黙示録21章3-4節)