キリストの十字架~本当に生きるために死ぬ

ローマ人への手紙6章4-14節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月29日

<聖書>

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(みちち)栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活(ふっかつ)とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架(じゅうじか)につけられたのは、(つみ)のからだが(ほろ)びて、私たちがもはやこれからは(つみ)奴隷(どれい)でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、(つみ)から解放(かいほう)されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配(しはい)しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度(つみ)に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は(つみ)に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを(つみ)支配(しはい)にゆだねて、その情欲(じょうよく)(したが)ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義(ふぎ)()として(つみ)にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身(じしん)とその手足を()()として神にささげなさい。
というのは、(つみ)はあなたがたを支配(しはい)することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法(りっぽう)の下にはなく、(めぐ)みの下にあるからです。

(ローマ人への手紙6章4-14節)

<説教>

イエス・キリストを(しん)じて(すく)われたクリスチャンには何が()こったのか?クリスチャンとは何者でしょうか。

人間の内面(うちめん)で次のような事実(じじつ)()こった人のことだと言えます。

①古い自分の葬式(そうしき)

(つみ)性質(せいしつ)支配(しはい)された古い人は死んでいる。

②キリストとの結婚式(けっこんしき)

キリストとつながって一つに結合(けつごう)されている。

①生きるために死ななければならない

夏から朝顔(あさがお)がきれいに()いています。しかし秋になると花の()時期(じき)を終えます。花は()れて死にますが、その後には(たね)が出来て、また来年の夏にはきれいな花を()かせます。人間も(かみ)の毛、()(ほね)、からだは死んで新しく生まれ変わっています。生きるためにどんどん古い細胞(さいぼう)は死んで新しく作られるのです。 生まれ持っての人間の(つみ)(ぶか)性質(せいしつ)は、勉強(べんきょう)道徳(どうとく)教育(きょういく)善行(ぜんこう)修行(しゅぎょう)をしても、わずかでも()()ることはできません。ただ、人間の(つみ)のために十字架(じゅうじか)で流されたキリストも()しおによってのみきよめられるのです。キリストを(しん)じる者は、キリストが十字架(じゅうじか)(つみ)(たい)して死なれたように、(ふる)(つみ)性質(せいしつ)に死にます。神の力によっていかなる人も変えられます。

主人しゅじんが変わらなければならない

キリストを(しん)じる前は、私たちは(つみ)奴隷(どれい)状態(じょうたい)でした。死のもう一つの意味(いみ)は、分離(ぶんり)することです。(わか)れることです。キリストを(しん)じた者は、(つみ)支配(しはい)から(はな)れて、神のご支配(しはい)(うつ)されます。これも人間の努力(どりょく)頑張(がんば)りでは不可能(ふかのう)です。クリスチャンとは、すでに(つみ)支配(しはい)から自由にされている者です。これが事実(じじつ)です。

だから、キリスト者は、このイエス様が十字架(じゅうじか)(つみ)(たい)して一度死なれ、神に(たい)して永遠(えいえん)に生きることを、自分の人生で実際(じっさい)に生きる者であることを(おぼ)えなければなりません。

それは、あなたが(つみ)自我(じが)とこの()(たい)して死んだ者として、神さまの栄光(えいこう)素晴(すば)らしさ)のために、神と共に生きることです。

しかしクリスチャンも(ふる)性質(せいしつ)がこの地上(ちじょう)で生きる(かぎ)(のこ)っています。

ですから、地上(ちじょう)のからだの諸部分(しょぶぶん)、すなわち、不品行(ふひんこう)(けが)れ、情欲(じょうよく)(わる)(よく)、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)なのです。

(コロサイ人への手紙3:5)

また、現実(げんじつ)存在(そんざい)する(つみ)の力が私たちに24時間365日、(おそ)いかかってきます。

()(つつし)み、目をさましていなさい。あなたがたの(てき)である悪魔(あくま)が、ほえたける獅子(しし)のように、()()くすべきものを(さが)(もと)めながら、(ある)(まわ)っています。(かた)信仰(しんこう)に立って、この悪魔(あくま)に立ち(むか)かいなさい。

(Ⅰペテロ5:8-9)

(つみ)(ほろ)ぶべき肉体(にくたい)支配(しはい)して、情欲(じょうよく)(したが)わせることがないようにしなさい」

(ローマ6:12(べつ)(やく)

人間のからだを(つみ)支配(しはい)(まか)せてはいけません。不義(ふぎ)(うつわ)(ローマ6:13)とは「(するど)不義(ふぎ)武器(ぶき)」の意味(いみ)です。

しかし、(つみ)はもはや絶対(ぜったい)に私たちの主人(しゅじん)になることはない(ローマ6:14)のです。だから、キリスト者はからだの各部(かくぶ)()武器(ぶき)として神様に(ささ)げるのです。自分のために使うのではなく、神さまのために(もち)いるのです。

なぜ、そんなことができるのでしょうか。それは、イエス様を(しん)じた者は、もう(ふる)律法(りっぽう)(よい行いをしなければ正しい人間でないという生き方)に生きる者ではないからです。

頑張(がんば)りや、社会的(しゃかいてき)地位(ちい)才能(さいのう)仕事(しごと)ができる・できない、人の評価(ひょうか)がすべてであった生き方、

それらから解放(かいほう)されて、十字架(じゅうじか)のみわざによって、イエス様を(しん)じて、神さまの(めぐ)みによって生かされた(しん)意味(いみ)で自由な者だからです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は(あたら)しく(つく)られた者です。(ふる)いものは()()って、見よ、すべてが(あたら)しくなりました。

(Ⅱコリント人への手紙5:17

神がくださる最高の福音に、私も生きる

ヨナ書3章10節-4章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月15日

<聖書>

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力(どりょく)していることをご(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)不愉快(ふゆかい)にさせた。ヨナは(おこ)って、
(しゅ)】に祈って言った。「ああ、【(しゅ)】よ。私がまだ国にいたときに、このことを(もう)()げたではありませんか。それで、私は(はじ)めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが(なさ)(ぶか)くあわれみ(ぶか)い神であり、(おこ)るのにおそく、(めぐ)(ゆた)かであり、わざわいを思い(なお)されることを知っていたからです。
(しゅ)】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
(しゅ)】は(おお)せられた。「あなたは当然(とうぜん)のことのように(おこ)るのか。」
ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋(かりごや)を作り、町の中で何が()こるかを見きわめようと、その(かげ)の下にすわっていた。
神である【(しゅ)】は一本のとうごまを(そな)え、それをヨナの上をおおうように()えさせ、彼の頭の上の(かげ)として、ヨナの不きげんを(なお)そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常(ひじょう)(よろこ)んだ。
しかし、神は、翌日(よくじつ)夜明(よあ)けに、一匹の虫を(そな)えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは()れた。
太陽が上ったとき、神は()けつくような東風を(そな)えられた。太陽がヨナの頭に()りつけたので、彼は(おとろ)()て、自分の死を(ねが)って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
すると、神はヨナに(おお)せられた。「このとうごまのために、あなたは当然(とうぜん)のことのように(おこ)るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど(おこ)るのは当然(とうぜん)のことです。」
(しゅ)】は(おお)せられた。「あなたは、自分で骨折(ほねお)らず、(そだ)てもせず、一夜(いちや)()え、一夜(いちや)(ほろ)びたこのとうごまを()しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを()しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜(かちく)とがいるではないか。」

(ヨナ書3章10節-4章11節)

<説教>

ヨナの宣教(せんきょう)でニネベの人々は(つみ)()(あらた)めて、ニネベは(ほろ)びから(すく)われました。ニネベはヨナたちの国をひどい目にあわせる敵国(てきこく)です。異邦(いほう)の神を信じる邪悪(じゃあく)な国でした。ヨナはこの神の大きな愛に(いか)ります。

ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)不愉快(ふゆかい)にさせた。
ヨナは(いか)って、【主】に(いの)って言った。

(ヨナ書4:1-2)

人間は偉大(いだい)な神のあわれみ、いつくしみを完全に理解(りかい)できません。

しかし、神はそのひとり子のキリストを十字架(じゅうじか)につけて、私たちの(つみ)(ゆる)しを()()げてくださいました。ここに神の愛がすべての人に明らかにされました。

しかし私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身(じしん)の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙5:8)

神の愛に()れ、私たちの(こおり)の心が()かされ、愛を持つ者に変えられていきます。少しずつ、神がおられる交わりの中でキリストの愛を家族で知っていきます。

キリストの愛によって(すく)われ、新しく生まれた者の愛とは、このイエス様を(だれ)かに紹介(しょうかい)することです。

人生の中で、私たちの(もっと)も大きな出来事、それはイエス様と出会って素晴(すば)らしい人生に変えられたことなのですから。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界(ぜんせかい)に出て行き、すべての(つく)られた者に、福音(ふくいん)()(つた)えなさい。

(マルコの福音書(ふくいんしょ)16:15)

ヨナは神のことばを、ニネベの人々に(つた)えました。そこに神の力が(はたら)かれて、人も家畜(かちく)()(あらた)めて、(すく)われたのです。

私は福音(ふくいん)(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、(しん)じるすべての人にとって、(すく)いを(とく)させる神の力です。

(ローマ人への手紙1:16

神はご自分の子どもたちを(えら)ばれています。しかし、福音(ふくいん)()(つた)える人が(つか)わされ、その人々が福音(ふくいん)を聞いて(しん)じなければ(すく)われません。

人々は目的がわからずさまよっています。何が正しいのか、どう生きるべきなのかを(なや)んでいます。

この世が提供(ていきょう)する者は、真実(しんじつ)な人生の()いから(はな)れさせ、人を堕落(だらく)させるようなものが多くあります。

この世界には、私たちを真理(しんり)(みちび)くものはありません。

財産(ざいさん)健康(けんこう)(ゆめ)肩書(かたが)き、恋人、趣味(しゅみ)娯楽(ごらく)、どれも大切です。しかし、どれも一番になり(とく)ません。(つみ)(おか)した刑罰(けいばつ)である死後の永遠(えいえん)(ほろ)びには何の助けにもなりません。いえ、今現在の生き方がイエス様の豊かな命と愛に満たされます。

すべての人に福音(ふくいん)が必要です。それは他のなにものにも(くら)べることはできません。

福音(ふくいん)(しん)じて(あた)えられる永遠(えいえん)のいのちは神の(あた)えてくれる賜物(たまもの)(プレゼント)です。お金では決して手に入れることはできません。

神の愛は大きすぎて、私たちの愛ではときに嫉妬(しっと)するかも知れません。人間関係ではよくなくても、神への嫉妬(しっと)は、神への愛です。

ヨナは、自分の預言者(よげんしゃ)の立場や、自分の信仰(しんこう)がありました。

しかし、私たちの、どんな自己(じこ)実現(じつげん)も、神のご計画された(かみ)実現(じつげん)にまさるものではありません。

(だれ)かのために、(だれ)かを愛するなら、福音(ふくいん)紹介(しょうかい)することにまさる愛はないと気付きます。

イエス様を愛して、イエス様と共に生きることは、自分にとって素晴(すば)らしいだけでなく、あなたの愛する大切な人にとっても素晴(すば)らしいことなのです。

最後に祈れる神をもつ幸い

ヨナ書2章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月8日

<聖書>

ヨナは魚の(はら)の中から、彼の神、【主】に(いの)って、
言った。「私が(くる)しみの中から【主】にお(ねが)いすると、主は答えてくださいました。私がよみの(はら)の中から(さけ)ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真ん中の(ふか)みに投げ込まれました。(しお)(なが)れが私を(かこ)み、あなたの(なみ)大波(おおなみ)がみな、私の上を()えて行きました。
私は言った。『私はあなたの目の前から()われました。しかし、もう一度、私はあなたの(せい)なる(みや)(あお)ぎ見たいのです』と。
水は、私ののどを()めつけ、深淵(しんえん)は私を()(かこ)み、海草(かいそう)は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元(ねもと)まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに(おとろ)()てたとき、私は【主】を思い出しました。私の(いの)りはあなたに、あなたの(せい)なる(みや)(とど)きました。
むなしい偶像(ぐうぞう)に心を()める者は、自分への(めぐ)みを()てます。
しかし、私は、感謝(かんしゃ)の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の(ちか)いを()たしましょう。(すく)いは主のものです。」
【主】は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

(ヨナ書2章1-10節)

<説教>

暴風(ぼうふう)と荒れる海‐そこに投げ込まれるのをヨナは恐れていました。

ヨナは(しお)の流れに(かこ)まれ、大きな波がヨナを飲みこみ、水で窒息(ちっそく)しそうになり、暗い海の中の不気味(ぶきみ)()け目の中に深く(しず)んでいきます。海藻(かいそう)がヨナに(から)み付き、海底近くまで(しず)み、そこでがんじがらめになります。

ヨナは死を恐れます。死の苦しみを恐れます。

しかし、死の寸前でヨナは死の苦しみより恐ろしいことに気付きました。それは、神から(はな)れて死んでしまうことでした。永遠に神の愛から(はな)れてしまうことでした。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの(せい)なる宮を(あお)ぎ見たいのです』と。

(ヨナ書2:4

人間は誰も必ず死にます。その時、家族も友も、愛する誰も一緒に死ぬことはできません。正確には死後のさばきを一緒に受けてくれる人は誰もいません。しかし、イエス様は、あなたが死ぬ時も共にいていくださいます。

たとい、死の(かげ)の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

(詩篇23:4)

ヨナは苦しみの中で神に(いの)ります。神は(いの)りに答えてくださいます。大きな魚がヨナを飲みこみ、魚の腹の中で守ってくださったのです。そこで、かつて神の御顔(みかお)から(はな)れようとしたヨナは、死の苦しみの中で、神の御顔(みかお)を求めて、(すく)い出されるのです。ヨナは死の直前で、まことの神を思い出して(いの)ったのです。

死の前で、信頼(しんらい)して祈れる神は、イエス・キリストだけです。この方にまことのいのちがあります。

イエス・キリストを信じる者は、決して(ほろ)びの死に入ることはありません。

それは、この魚の中にヨナが三日(みっか)三晩(みばん)いたことは、実は十字架(じゅうじか)で死んで(ほうむ)られ、三日目によみがえられたイエス・キリストの(すく)いを表わしているからです。

イエス様は次のように言われました。

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫(かんいん)の時代はしるしを求めています。だが預言者(よげんしゃ)ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日(みっか)三晩(みばん)大魚(たいぎょ)の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日(みっか)三晩(みばん)、地の中にいるからです。

(マタイの福音書12:39-40)

イエス様は十字架(じゅうじか)で死なれて三日間、(つみ)刑罰(けいばつ)の死の支配(しはい)の中にとどまられました。

しかし神は、この方を死の苦しみから()(はな)って、よみがえらせました。

(使徒2:24

この苦しみとは「陣痛(じんつう)」の意味です。(すく)いとは、三位(さんみ)一体(いったい)の父の神の愛と、子なるキリストの犠牲(ぎせい)従順(じゅうじゅん)によって生み出されるのです。いのちを生み出す営みなのです。苦しみにまさる喜びがそこにあるのです。

人間が造った神と呼ばれるもの(偶像(ぐうぞう))には、そのような愛も命も存在しません。神から(はな)れる永遠の死の苦しみから人間を(すく)うことはできません。

むなしい偶像(ぐうぞう)に心を()める者は、自分への(めぐ)みを()てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の(ちか)いを()たしましょう。(すく)いは(しゅ)のものです。」 

(ヨナ書2:8-9)

反逆する人間に呼びかける神

ヨナ書1章より

土山みことばキリスト教会

2023年10月1日

<聖書>

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
しかしヨナは、【主】の御顔(みかお)()けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃(ふなちん)(はら)ってそれに()り、【主】の御顔(みかお)()けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
さて、【主】は大風を海に()きつけられた。それで海に(はげ)しい暴風(ぼうふう)が起こり、船は難破(なんぱ)しそうになった。
水夫(すいふ)たちは(おそ)れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって(さけ)び、船を軽くしようと船の積荷(つみに)を海に投げ()てた。しかし、ヨナは船底(ふなぞこ)()りて行って横になり、ぐっすり寝込(ねこ)んでいた。
船長(せんちょう)が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込(ねこ)んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を()めてくださって、私たちは(ほろ)びないですむかもしれない。」

(ヨナ書1章1-6節)

<説教>

1.人間の(つみ)とは神への反逆(はんぎゃく)

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」                          (ヨナ書1:1-2)

まことの神は、人間に語られます。神を(おそ)れて(つみ)から(はな)れなさいと神は語られます。アッシリアの大都市ニネベの人間の(つみ)に対して神はさばきを下されようとします。

預言者(よげんしゃ)ヨナは、その神の言葉を(あず)かった(伝えるよう(たく)された)のです。

アッシリアは神を(おそ)れず、神を(あなど)り、(つみ)()(らく)して不道徳、殺戮(さつりく)略奪(りゃくだつ)が満ちて、ヨナの国イスラエルを攻め取ろうとしていました。

そんなアッシリアが神に()(あらた)めて、滅亡(めつぼう)から(すく)われることがヨナは我慢(がまん)できませんでした。

人間は自分の考えや都合(つごう)によって、神に素直(すなお)(したが)えないのです。

人間は神に対して(かたく)なで強情(ごうじょう)なのです。聖書によると人間の(つみ)の中心は神への反逆(はんぎゃく)です。

ヨナは神に(したが)わず、神から(はな)れようとします。主の御顔(みかお)を避けようとします。神が命じたニネベへ行かず、タルシシュへ(のが)れようとします。人間は何処へ(のが)れても、神から()げることなどできません。

神はいつも人間がどこにいるのかご存知(ぞんじ)です。

神である【主】は、人に呼びかけ、彼に(おお)せられた。「あなたは、どこにいるのか。」  

(創世記3:9)

神から(はな)れようとすればするほど、人間の状況(じょうきょう)はますます最悪になっていきます。

大風と暴風(ぼうふう)がヨナの船を(おそ)い、ヨナは船の底に下って行き、寝てしまうのです。神から(はな)れるとき、人間は怠慢(たいまん)になり、神に与えられた本当の素晴らしい人生をなかなか生きられないのです。

2.神は人間の応答(おうとう)を求められる

大風や暴風(ぼうふう)で船が難破(なんぱ)しそうになり、人々は命の危険を感じます。そして死を前に、(つみ)を知り、神を恐れるのです。くじを通して、神はこの大嵐はヨナの(つみ)原因(げんいん)だと明らかにします。

(つみ)は単にひとりの悪では終わりません。人と人との関係に深刻(しんこく)影響(えいきょう)を与えます。そして神との関係を引き(はな)します。神から(はな)れるほど、人間にとって恐ろしいことはありません。

イエス様も、十字架に()かられる前に父なる神から(はな)れることに()えられず祈りました。

ヨナは天地を造られた神を信じて恐れていました。

ヨナが神に対して逃げようと反逆(はんぎゃく)した理由は、神の真実を知っていたからでもありました。

神は(つみ)()(あらた)めたニネベの人たちを(ゆる)されることをヨナは知っていたのです。

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

(ヨナ書3:10)

この世界を創られた唯一(ゆいいつ)の神は、すべての国の人を愛して救うことがおできになります。そして、ヨナは神の前に、自己中心の愛を()(あらた)めます。

ヨナは彼らに言った。「私を()らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この(はげ)しい暴風(ぼうふう)は、私のためにあなたがたを(おそ)ったのです。」

(ヨナ書1:12)

人々は自分の国の神を信じていました。しかし、ヨナの信じる聖書の神は、ヨナの(つみ)を明らかにして、ヨナに苦難(くなん)を与え、ヨナに()(あらた)めを導き、まことの救いを与えられます。

無神論者(むしんろんしゃ)は大きく二つに分かれます。ひとつは、天地を造られた神、唯一(ゆいいつ)の神を否定(ひてい)する無神論者(むしんろんしゃ)です。もうひとつは、否定(ひてい)する神を持たない無神論者(むしんろんしゃ)です。

創造(そうぞう)(しゅ)であるただお一人の神を知っている無神論者(むしんろんしゃ)は、いつでも、まことの神に立ち返るべき神をもっています。

日本は特に、八百万(やおよろず)の神と言って、キツネや大木、石、お天道(てんとう)(さま)など何でも神にします。神道(しんとう)仏教(ぶっきょう)檀家(だんか)制度(せいど)など独特の風土(ふうど)があり、まことの神を知らない人が大勢います。聖書の神こそが、まことの唯一(ゆいいつ)の神です。天地を造られ、今生きて働いて、すべての命を(たも)っておられます。

父なる神は、そのひとり子のイエス・キリストを人間として、この地上に下し、十字架で人間の(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりとしてくださいました。

このキリストの十字架に対して、すべての人間はどう答えるかを神は問われています。

すべての人間は神の前に罪人(つみびと)です。しかし、キリストを信じて(つみ)()(あらた)めるなら、神はあなたの(つみ)(ゆる)して、神の子どもとしてくださいます。まことの神は、あなたの心からの祈りに必ず(こた)えてくださいます。

空の空。すべては空。神なき人生の虚しさ

伝道者の書1章1-14節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月24日

<聖書>

エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者(でんどうしゃ)のことば。
(くう)(くう)伝道者(でんどうしゃ)は言う。(くう)(くう)。すべては(くう)
日の下で、どんなに労苦(ろうく)しても、それが人に何の(えき)になろう。
一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は(しず)み、またもとの上る所に帰って行く。
風は南に()き、(めぐ)って北に()く。(めぐ)(めぐ)って風は()く。しかし、その(めぐ)る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は()ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て()きることもなく、耳は聞いて()ち足りることもない。
(むかし)あったものは、これからもあり、(むかし)起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
先にあったことは記憶(きおく)(のこ)っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶(きおく)されないであろう。
伝道者(でんどうしゃ)である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵(ちえ)を用いて、一心(いっしん)(たず)ね、(さぐ)り出そうとした。これは、人の子らが労苦(ろうく)するようにと神が(あた)えたつらい仕事だ。
私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を()うようなものだ。

伝道者(でんどうしゃ)の書1章1-14節)

<説教>

(くう)(くう)。すべては(くう)。」(伝道者(でんどうしゃ)の書1:2)

これは、賢者(けんじゃ)ソロモンの言葉です。ソロモンはイスラエルの王様で、(とみ)知恵(ちえ)において地上のどの王よりもまさっていました。

神さまはソロモンに(とみ)(ほま)れ、知恵(ちえ)英知(えいち)(あた)えられました。しかし、ソロモンは次第(しだい)に神さまから(はな)れて、700人の妻と300人のそばめを持ち、快楽(かいらく)事業(じぎょう)、世の宝を求めるようになりました。

しかし、どんなに栄華(えいが)(きわ)めてもソロモンの心は(むな)しかったのです。

人間とはいったい何でしょうか。この世が考える人間とは一般的(いっぱんてき)に次のように考えられています。

①社会のために働く。

歯車(はぐるま)のような存在(そんざい)

②寝て食べて、子を産む。

(動物的な存在(そんざい)

異性(いせい)との関わりを楽しむ。

(性的な存在(そんざい)

④お金や物質(ぶっしつ)があれば満足(まんぞく)する。

経済的(けいざいてき)存在(そんざい)

⑤世の中の力や運命(うんめい)影響(えいきょう)される小さな存在(そんざい)

宇宙(うちゅう)(こま)

⑥自由な意思(いし)、心がある。

(自由な存在(そんざい)

⑦社会の中で生きる。

(社会的な存在(そんざい)

しかし、これらが十分あっても人間は(むな)しさがあるのです。なぜなら、人間とは神さまに()せて、神さまによって(つく)られた存在(そんざい)だからです。

「神は人をご自身(じしん)のかたちとして創造(そうぞう)された。神のかたちとして彼を創造(そうぞう)し、男と女とに彼らを創造(そうぞう)された。」

      (創世記(そうせいき)1:27)

神さまの意志(いし)によって目的(もくてき)をもって、あなたはこの世に存在(そんざい)しているのです。何かの偶然(ぐうぜん)であなたが今、生きているのではないのです。

神さまに()ているとはどういう意味(いみ)でしょうか。それは、神さまのことがわかり、心の中で神さまと(かた)ったり、お(いの)りしたり、神さまの思いや(ねが)いを知り、それに(したが)うことができる存在(そんざい)なのです。神さまを愛して、礼拝(れいはい)するとき、人間は神さまの目的(もくてき)に生きる者として、本当の(よろこ)びと平安(へいあん)(あた)えられるのです。

たくさんの被造物(ひぞうぶつ)の中で人間だけが、活字(かつじ)(あた)えられ、聖書(せいしょ)を読み、神さまを信じることができるのです。

人間のすべての楽しみや(よろこ)びは神さまが(あた)えてくれるものです。神さまから(はな)れて、それらだけを求めても本当の(よろこ)びはありません。

「実に神はすべての人間に(とみ)財宝(ざいほう)(あた)え、これを楽しむことを(ゆる)し、自分の()ける分を()け、自分の労苦(ろうく)(よろこ)ぶようにされた。これこそが神の賜物(たまもの)である。こういう人は、自分の生涯(しょうがい)のことをくよくよ思わない。神が彼の心を(よろこ)びで()たされるからだ。」  

伝道者(でんどうしゃ)の書5:19-20)

また、神さまは永遠(えいえん)存在(そんざい)されるお方で、人間を永遠(えいえん)存在(そんざい)とされました。だから、この地上のすべての一時(いっとき)の楽しみだけでは、人間は(けっ)して()たされることはないのです。

(くう)(くう)。すべては(くう)。」(伝道者(でんどうしゃ)の書1:2)

ソロモンの(むな)しさは神さまに(したが)わず、神さまから(はな)れたことが原因(げんいん)でした。

(たし)かに人生には(むな)しさと(かな)しみがあります。しかし、それは人間的な視点(してん)に立った人生(じんせい)(かん)です。イエス様の(すく)いの約束(やくそく)福音(ふくいん))を知らない人の人生の真理(しんり)です。神なき人生の(むな)しさです。罪深(つみぶか)い自分を知ったソロモンの結論(けつろん)がこれです。

結局(けっきょく)のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を(おそ)れよ。神の命令(めいれい)(まも)れ。これが人間にとってすべてである。神は、(ぜん)であれ(あく)であれ、すべての(かく)れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

伝道者(でんどうしゃ)の書12:13-14)

(つみ)()(あらた)めて、イエス様を信じる者は(つみ)(ゆる)されて、神さまと和解(わかい)して新しく生きることができます。そのとき人間は、(はじ)めて(むな)しさから解放(かいほう)されます。

あなたは神さまの()姿(すがた)に神さまによって創造(そうぞう)された高価(こうか)(とうと)存在(そんざい)です。

「わたしの目には、あなたは高価(こうか)(たっと)い。わたしはあなたを愛している。」

(イザヤ書43:4

イエスのように神様に謙遜に生きる

ピリピ人への手紙2章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月17日

<聖書>

こういうわけですから、もしキリストにあって(はげ)ましがあり、愛の(なぐさ)めがあり、御霊(みたま)(まじ)わりがあり、愛情(あいじょう)とあわれみがあるなら、
私の(よろこ)びが()たされるように、あなたがたは一致(いっち)(たも)ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、(こころざし)を一つにしてください。
何事(なにごと)でも自己(じこ)中心(ちゅうしん)虚栄(きょえい)からすることなく、へりくだって、(たが)いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも(かえり)みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構(こころがま)えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは神の御姿(みすがた)である方なのに、神のあり方を()てられないとは考えず、
ご自分を()にして、(つか)える者の姿(すがた)をとり、人間と同じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって(あらわ)れ、
自分を(いや)しくし、死にまで(したが)い、(じつ)十字架(じゅうじか)の死にまでも(したが)われました。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお(あた)えになりました。
それは、イエスの御名(みな)によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは(しゅ)である」と告白(こくはく)して、父なる神がほめたたえられるためです。

(ピリピ人への手紙2章1-11節)

<説教>

ピリピの教会(きょうかい)の中には、不一致(ふいっち)不調和(ふちょうわ)があり、自分の野心(やしん)満足(まんぞく)させようとする者、また自分が人々から注目(ちゅうもく)されたいと(ねが)う人々がいました。

パウロは、謙遜(けんそん)でありなさい。自分のことだけでなく、他の人のことを気遣(きづか)うように注意します。自己(じこ)中心(ちゅうしん)自慢(じまん)するために何かをしてはいけませんと教えます。

教会(きょうかい)に集うキリスト者、神さまを信じる者は神さまに従っていかなくてはなりません。そのためには自分の心の中にイエス様の平安がなくてはなりません。しかし、私たちの注目(ちゅうもく)するものが神さまではなくて、自分の欲や高ぶりが心の中にいっぱいであるなら、神さまに(したが)うことは出来ません。

イエス様は、神さまであるのに、人間の姿を取って、この世に来られました。イエス様は、人間として、(くる)しみ、(いた)み、(とぼ)しさ、(まず)しさ、()え、また愛する者から裏切(うらぎ)られ、拒絶(きょぜつ)され、見捨(みす)てられる苦悩(くのう)落胆(らくたん)経験(けいけん)されました。すべてのことを父に(したが)い通されました。

そのすべての(はたら)きの原動力(げんどうりょく)は父なる神さまにお(いの)りしてお話しすることでした。父の御心(みこころ)(したが)うことが出来るように父に(たの)(いの)りました。

そして、(まも)るべきことを(まも)り、(つみ)を犯さず、(つみ)(おか)した者が()けるべき刑罰(けいばつ)の死である十字架(じゅうじか)までも()けてくださりました。十字架(じゅうじか)に付けられたイエス様は人々からあざけられ、からかわれ、さげすまれました。完全(かんぜん)聖書(せいしょ)の言葉を(まも)(したが)われたのです。

そして、死んで三日目に父なる神さまはイエス様をよみがえらせられ、天の父のもとに上げられました。

それは、すべての人がイエス様を信じて、神さまの素晴(すば)らしさを、(よろこ)(たた)えるためです。

神さまを知る前は、人間はむなしいもの、かなしいもの、罪深(つみぶか)いものを見ていました。しかし、神さまはそんな人間に、神さまを見上げてほしいと(ねが)っておられます。

イエス様が父なる神さまに(したが)(いの)って生きる姿(すがた)は、私たちの生き方でもあらねばなりません。

イエス様こそが、本来(ほんらい)の人間の姿(すがた)を私たちに教えてくださっているのです。それは神さまにを信頼(しんらい)して(したが)い、愛を()けて(いの)りながら生きることです。

私たちは、どんな時でも、自分のしたいように(よく)のままに生きることはできます。神さまが私たちの心に(しめ)されることを無視(むし)して生きる選択(せんたく)もあります。しかし、そこには神さまの祝福(しゅくふく)はなく、本当の(よろこ)びはなく、(むな)しさがあり、死の(ほろ)びへつながった道です。自分のことを愛せない生き方です。

しかし、自分を神さまの前に(ひく)く、謙遜(けんそん)に、(まず)しく(むな)しくする者を神さまは(すく)ってくださいます。神さまの前に、(つみ)()(あらた)め、自分を(ひく)くする者、神さまの言われることに(したが)う者は、必ず、神さまが素晴(すば)らしい高みへと引き上げてくださいます。

イエス様を信じて祝福(しゅくふく)()けるために大切なのは、何より素直(すなお)さです。神さまの前にも人に対して謙遜(けんそん)でありましょう。他の人のことを心から(やさ)しく大切に親切(しんせつ)にしましょう。それだけが、イエス様を知る方法です。

イエス様はいのちを与える羊飼い

ヨハネの福音書10章7-15節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月10日

<聖書>

そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに()げます。わたしは(ひつじ)の門です。
わたしの前に来た者はみな、盗人(ぬすびと)強盗(ごうとう)です。(ひつじ)は彼らの言うことを聞かなかったのです。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、(すく)われます。また(やす)らかに出入(でい)りし、牧草(ぼくそう)を見つけます。
盗人(ぬすびと)が来るのは、ただ(ぬす)んだり、(ころ)したり、(ほろ)ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、(ひつじ)がいのちを()、またそれを(ゆた)かに持つためです。
わたしは、良い牧者(ぼくしゃ)です。良い牧者(ぼくしゃ)(ひつじ)のためにいのちを()てます。
牧者(ぼくしゃ)でなく、また、(ひつじ)所有者(しょゆうしゃ)でない(やと)(にん)は、(おおかみ)が来るのを見ると、(ひつじ)()()りにして、()げて行きます。それで、(おおかみ)(ひつじ)(うば)い、また()らすのです。
それは、彼が(やと)(にん)であって、(ひつじ)のことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者(ぼくしゃ)です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様(どうよう)です。また、わたしは(ひつじ)のためにわたしのいのちを()てます。

(ヨハネの福音書10章7-15節)

<説教>

(ひつじ)は、イスラエル人が(もっと)(あい)した動物です。その歴史(れきし)はとても古く、神さまに(つく)られた最初(さいしょ)の人アダムの子どものアベルは(ひつじ)()う者でした。

(ひつじ)は、おとなしく、素直(すなお)従順(じゅうじゅん)です。しかし、(おろ)かで(よわ)く、(まよ)いやすい動物でした。そんな(ひつじ)が生きていくためには、彼らを(みちび)羊飼(ひつじか)い(牧者(ぼくしゃ))が必要(ひつよう)でした。

羊飼(ひつじか)いは(ひつじ)()れを(ぼく)草地(そうち)(みちび)いて食料と水を飲ませます。また、羊飼(ひつじか)いは大切な(ひつじ)たちを(くま)獅子(しし)といった野獣(やじゅう)から(まも)ってくれるのです。

聖書(せいしょ)は、この羊飼(ひつじか)いと(ひつじ)の関係は、神さまと人間の関係であると教えています。

イエス様は、(おろ)かで(よわ)く、(まよ)いやすい人間を正しく(みちび)いてくださいます。そしていのちを(ゆた)かに(あた)えてくださいます。そのいのちとは、イエス様と共に生きる者に(あた)えられる(よろこ)びと平安(へいあん)です。感謝(かんしゃ)して(あい)をあらわして生きることです。

どんなに立派(りっぱ)教師(きょうし)指導者(しどうしゃ)の言うことを聞いても、イエス様が(あた)えるようないのちをいただくことはできません。

(ひつじ)は、羊毛(ようもう)(ウール)、凝乳(ぎょうにゅう)(チーズ)、食肉、天幕(てんまく)(おお)う皮、(かわ)(ぶくろ)角笛(つのぶえ)聖油(せいゆ)を入れる角などいろいろなものに使われます。しかし、代表的(だいひょうてき)用途(ようと)は、神さまに(ささ)げられる、いけにえ((ささ)げもの)です。

イエス様は、羊飼(ひつじか)いでありながら、神さまに(ささ)げられる小羊として、十字架(じゅうじか)で、まことの人間の(つみ)身代(みが)わりの(ささ)げものとして死んでくださいました。

わたしは、良い牧者(ぼくしゃ)です。良い牧者(ぼくしゃ)(ひつじ)のためにいのちを()てます。

(ヨハネ10:10

イエス様は、(つみ)のないきよいご自分のいのちを、お()てになって、(つみ)に死んでいる人間にいのちを(あた)えてくださったのです。

ベテランの羊飼(ひつじか)いは、自分の愛する羊たちの顔と名前を全部(おぼ)えています。50匹ほどの自分の羊たちが全部そろっているか、一目見てわかると言います。

イエス様は、ご自分の愛する子どもたちを知っておられます。その名前をご存知(ぞんじ)です。あなたは名前で()ばれたら嬉しいでしょう。イエス様は、あなたを名前で()んでくださいます。

イエス様は、あなたのすべてを知っておられます。イエス様が、あなたの心の中の秘密(ひみつ)までご存知(ぞんじ)なのはちょっと都合(つごう)が悪いでしょうか。本当の親友や家族とは、自分のいい面だけでなく、そうでない面も知ってもらうことではないでしょうか。

イエス様は、ありのままのあなたを()け入れてくれるお方です。その時、安心と本当の自由と(よろこ)びが湧いてくるのではないでしょうか。それがイエス様が与えてくれるいのちです。

イエス様は、あなたが心から本当に(よろこ)んで、(やさ)しく愛をいっぱいあらわして人生を楽しむことを(ねが)っておられるのです。

イエス様の(ねが)いは、あなたがイエス様を知ることです。

あなたがイエス様を愛して生きることです。この方から(はな)れないで生きることなのです。

聖書(せいしょ)の中にこのことを、(よろこ)んで感謝(かんしゃ)しているみことばがあります。

しゅ】は私の羊飼ひつじかい。私は、乏しいことがありません。
しゅは私をみどり牧場まきばさせ、いこいの水のほとりにともなわれます。
しゅは私のたましいを生き返らせ、御名みなのために、私をの道にみちびかれます。
たとい、死のかげの谷を歩くことがあっても、私はわざわいをおそれません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたのづえ、それが私のなぐさめです。
私のてきの前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私のさかずきは、あふれています。
まことに、私のいのちの日のかぎり、いつくしみとめぐみとが、私をって来るでしょう。私は、いつまでも、【しゅ】の家に住まいましょう。

(詩篇23篇1-6節)

苦難に対して生きる~キリストがくださる人生

ペテロの手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月3日

<聖書>

承知(しょうち)のように、あなたがたが父祖(ふそ)伝来(でんらい)のむなしい生き方から(あがな)()されたのは、銀や金のような()ちる物にはよらず、
(きず)もなく(よご)れもない小羊のようなキリストの、(たっと)い血によったのです。
キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。
あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光(えいこう)を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰(しんこう)希望(きぼう)は神にかかっているのです。
あなたがたは、真理(しんり)(したが)うことによって、たましいを(きよ)め、(いつわ)りのない兄弟愛を(いだ)くようになったのですから、(たが)いに心から熱く愛し合いなさい。
あなたがたが新しく生まれたのは、()ちる(たね)からではなく、()ちない(たね)からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
「人はみな草のようで、その(さか)えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに()(つた)えられた福音(ふくいん)のことばがこれです。

(ペテロの手紙第一1章18-25節)

<説教>

神さまに(つく)られた最初(さいしょ)の人アダムは神さまに(そむ)き、神さまから(はな)れて生きるようになりました。神さまの言われることに(したが)うことができず、正しいことも、悪いことも自分で決めて生きようとしたのです。

聖書(せいしょ)にある通り、これが(つみ)の始まりです((つみ)堕落(だらく)と言います)。

それ以来(いらい)、すべての人間はこのアダムの(つみ)影響(えいきょう)(ふか)()けています。(だれ)もこの(つみ)から(のが)れて生きることができないのです。

しかし、聖書(せいしょ)約束(やくそく)(どお)りにイエス・キリストがお生まれになりました。約2000年前に、キリストが十字架(じゅうじか)()かって死なれ、三日目によみがえり、人間が(つみ)から(すく)われる道を(あた)えてくださいました。

今日読んだペテロの手紙第一という聖書(せいしょ)書簡(しょかん)は、この罪深(つみぶか)い世界の中で生きるクリスチャンに対しての手紙です。

イエス様を信じるキリスト者は、神さまに(したが)って生きようとする時、必ず試練(しれん)迫害(はくがい)があります。

それは、ただイエス様を信じるという理由(りゆう)によるのです。(つみ)の世は(やみ)なので光であるイエス様、クリスチャンを(こば)みます。

しかし、手紙の作者であるペテロはどのように生きるべきかを(つた)えて(はげ)まします。

① どれだけ頑張(がんば)っても()()せなかった罪深(つみぶか)い生き方から(すく)い出されたことを思い出しなさい。

すべての人は、(つみ)を犯したので、神からの栄誉(えいよ)()けることができず、ただ、神の(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる(あがな)いのゆえに、(あたい)なしに()(みと)められるのです。 

(ローマ3:23-24)

(あがな)いとは、(つみ)支配(しはい)から自由にされることです。そのためにキリストが十字架(じゅうじか)で私たちの(つみ)の身代わりとなられました。キリストがあなたの(つみ)の代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことを信じる者は、(つみ)から(すく)われます。人間が(すく)わるのはこれ以外(いがい)方法(ほうほう)はありません。

② キリストに(したが)うことによる試練(しれん)や苦しみは、やがて神さまに必ず(むく)いられる。

あなたがたの信仰(しんこう)試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(たっと)く、イエス・キリストの(あらわ)れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。

(Ⅰペテロ1:7

神さまは、すべてをご存知(ぞんじ)です。特にあなたがキリストを信じて、(したが)った生き方に称賛(しょうさん)(あた)えてくださいます。キリストのために生きる者は、必ず神さまが正しく(むく)いてくださると信じて生きることができます。

そして、この世の終わりの日にキリストがもう一度、来られることを信じます(これを再臨(さいりん)と言います)。

(あがな)いとは、(つみ)支配(しはい)から自由にされることです。そのためにキリストが十字架(じゅうじか)で私たちの(つみ)の身代わりとなられました。キリストがあなたの(つみ)の代わりに十字架(じゅうじか)で死なれたことを信じる者は、(つみ)から(すく)われます。人間が(すく)わるのはこれ以外(いがい)方法(ほうほう)はありません。

③ キリストに(したが)うことによる試練(しれん)や苦しみは、やがて神さまに必ず(むく)いられる。

あなたがたの信仰(しんこう)試練(しれん)は、火で精錬(せいれん)されつつなお()ちて行く金よりも(たっと)く、イエス・キリストの(あらわ)れのときに称賛(しょうさん)光栄(こうえい)栄誉(えいよ)になることがわかります。

(Ⅰペテロ1:7

神さまは、すべてをご存知(ぞんじ)です。特にあなたがキリストを信じて、(したが)った生き方に称賛(しょうさん)(あた)えてくださいます。キリストのために生きる者は、必ず神さまが正しく(むく)いてくださると信じて生きることができます。

そして、この世の終わりの日にキリストがもう一度、来られることを信じます(これを再臨(さいりん)と言います)。

神のいのちは死に打ち勝つ

ヨハネの福音書11章17-27節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月27日

<聖書>

17 それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは(はか)の中に入れられて四日もたっていた。
18 ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど(はな)れた所にあった。
19 大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて(なぐさ)めるためであった。
20 マルタは、イエスが来られたと聞いて(むか)えに行った。マリヤは家ですわっていた。
21 マルタはイエスに向かって言った。「(しゅ)よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
22 今でも私は知っております。あなたが神にお(もと)めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを(しん)じる者は、死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを(しん)じる者は、決して死ぬことがありません。このことを(しん)じますか。」
27 彼女はイエスに言った。「はい。(しゅ)よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と(しん)じております。」

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)11章17-27節)

<説教>

<ラザロの死>

イエスにとって、ラザロとその姉妹マルタ、マリヤは家族のようにゆっくりとやすめる故郷(ふるさと)のようでした。その愛するラザロが死んだことは、家族にとって大きな(かな)しみでした。
イエスご自身もラザロの死を(かな)しみ、家族や()()いの人たちと同じように(なみだ)を流されました。
イエスは神でありながら、人としてこの世に(つか)わされました。神に泣いたりする感情があるのはおかしいでしょうか。聖書(せいしょ)に書かれる、まことの神は、人間を愛され、(かな)しまれたり、(よろこ)ばれるお方なのです。

<イエスはラザロをよみがえらせた>

死の(かな)しみに()れる家族の前で、イエスはラザロを死からよみがえらせました。
死の恐怖(きょうふ)におびえる人たちに、神は死に()()つことができることを知ってもらいたかったのです。
イエスは愛する者を死からよみがえらせることがお出来になるのです。愛する者とは、すべての人間です。神はすべての人を愛して、イエスを信じていのちを(あた)えたいのです。
死んでから4日()ったラザロのよみがえりは、イエスが人間の(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれて、3日目によみがえることの「しるし」です。
神だけが、人類(じんるい)最後(さいご)(てき)である「死」も(ほろ)ぼされるお方です。

キリストの支配(しはい)は、すべての(てき)をその足の下に()くまで、と(さだ)められているからです。最後の(てき)である死も(ほろ)ぼされます。

(Ⅰコリント15:25-26

<イエスはなぜよみがえったのか> 

1.人間を死の支配(しはい)から解放(かいほう)するため

すべての人間にとって死は不気味(ぶきみ)()けることのできない(わざわ)いです。人間はこの死を()()ろうと努力してきました。医療(いりょう)(いた)みを()(のぞ)いたり、不気味(ぶきみ)墓地(ぼち)のイメージを○○○メモリアルという名前で明るく、楽しい雰囲気(ふんいき)にしたりします。
しかし、それは死の(おそ)ろしさの裏返しです。いくら目をそらしても死が(おそ)ろしい証拠(しょうこ)です。死は人間から希望(きぼう)()()り、人生に大きな(かげ)()げかけ、そのため人間は正しく、きよく、愛をもって生きることができません。どうせ、死んだら終わりだと考えて、欲望(よくぼう)のまま生きてしまうのです。
イエスはよみがえりであり、いのちです。神だけが人間を死から解放(かいほう)して、いのちを(あた)えることができるのです。イエスは死んで、よみがえりました。それは決して死ぬことはない、神のいのちです。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔(あくま)という、死の力を持つ者を(ほろ)ぼし、(いっ)生涯(しょうがい)死の恐怖(きょうふ)につながれて奴隷(どれい)となっていた人々を解放(かいほう)してくださるためでした。

(へブル人への手紙2:14-15)

2. (ふる)い人、(つみ)性質(せいしつ)が死んで、神のいのちを()けて新しく生まれるため

イエスを信じる者は、十字架(じゅうじか)で死なれたイエスとともに、(ふる)い人も死に、よみがえられたイエスとともに、永遠(えいえん)のいのちを(あた)えられて新しく生まれ変わることができるのです。
イエスの死は、私たち人間の死とは(ちが)います。人間の(つみ)身代(みが)わりに死なれたのです。これは人間にはできません。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく(つく)られた者です。(ふる)いものは()()って、見よ、すべてが新しくなりました。

(Ⅱコリント5:17)

 3.日々、(つみ)に打ち勝って生きる力が(あた)えられるため

(つみ)に対して弱く、(つみ)奴隷(どれい)であった私たちが、イエスの復活(ふっかつ)のいのちが私たちの内で(はたら)かれて、(つみ)に打ち勝つ力によって日々歩めるようになります。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(おちち)栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

(ローマ6:4

すべての人間にはやがて肉体(にくたい)の死を(むか)えます。しかし、すべての人間は神に()を向けて生きた(つみ)によって刑罰(けいばつ)の死があるのです(永遠(えいえん)の死、第二の死)。これは永遠(えいえん)(ほろ)びであり、愛の神から永遠(えいえん)(はな)れてしまう(おそ)ろしい永遠(えいえん)孤独(こどく)です。
イエスを信じるなら、この永遠(えいえん)(ほろ)びの死から(すく)い出されます。イエスを信じる者の肉体(にくたい)の死は、永遠(えいえん)のいのちが始まるための、一瞬(いっしゅん)()()る入口に()ぎません。

どんなに生きることが(くる)しくても、死は(すく)いではありません。イエスを信じることだけが(すく)いの道です。

苦しみから与えられる慰め

コリント人への手紙第二1章4-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月20日

<聖書>

4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを(なぐさ)めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける(なぐさ)めによって、どのような苦しみの中にいる人をも(なぐさ)めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難(くなん)があふれているように、(なぐさ)めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの(なぐさ)めと救いのためです。もし私たちが(なぐさ)めを受けるなら、それもあなたがたの(なぐさ)めのためで、その(なぐさ)めは、私たちが受けている苦難(くなん)と同じ苦難(くなん)()()く力をあなたがたに与えるのです。
7 私たちがあなたがたについて抱いている(のぞ)みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、(なぐさ)めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。
8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に(はげ)しい、()えられないほどの圧迫(あっぱく)を受け、ついにいのちさえも(あやう)くなり、
9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟(かくご)しました。これは、もはや自分自身を(たの)まず、死者をよみがえらせてくださる神により(たの)む者となるためでした。
10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという(のぞ)みを、私たちはこの神に置いているのです。

(コリント人への手紙第二1章4-10節)

<説教>

キリストを信じる前のパウロは、自分自身により(たの)み、キリスト者たちを迫害(はくがい)して苦しめて暴力(ぼうりょく)をふるう者でした。パウロは神を信じていても、現実は自分の力を(ほこ)って生きていたのです。現実の生活では神に従っていなかったのです。
(つみ)とは神から(はな)れて、自分に(たよ)って生きる状態です。人生が自分のためにあると思うことです。そこから現実にあらわれる罪深(つみぶか)言動(げんどう)によって、私たちは苦しみ、それは解決することなく、(ほろ)びへと向かいます。たとえ自分で苦しみを解決しても、自分の力を(ほこ)り、高ぶるようになることも多くあります。
しかし、神を信じる者の苦しみは、キリストがお受けになった苦しみを共にすることです。みことばに従って、愛に生きる者の苦しみです。苦しみによって自分の弱さを教えられます。
神はその苦しむ者を(なぐさ)め、ますます神をより(たの)む者へと(つく)り変えて、キリストに()た者へと内から変えてくださいます。
そして、苦しみの中にあるパウロは、苦しみの中にある教会の人々を(なぐさ)め、ともに成長する家族のように生きていきます。苦しみも(なぐさ)めもキリストにあって一つなのです。以前のキリストを迫害していたパウロもまた、兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)たちの(なぐさ)めと愛によって、キリスト者として(むか)()れられたのです。
パウロは自分の意思によって使徒になったのではなく、神の御心(みこころ)によって使徒になったという確信がありました。これが、どんな苦境(くきょう)困難(こんなん)に出会っても、めげることのない理由だったのです。

私たちの大祭司(だいさいし)は、私たちの弱さに同情(どうじょう)できない方ではありません。(つみ)は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、(こころ)みに会われたのです。                                                             

(ヘブル人への手紙4:15)

キリストの十字架(じゅうじか)を信じて、(つみ)(ゆる)しを与えられた者の特徴(とくちょう)は、素直(すなお)さ、謙虚(けんきょ)さです。
表面的な良い人ではありません。キリストを愛して生きようとする時、自分をごまかしたり、いかなる言い訳もむなしく感じられるのです。キリストは私たちの心の中を気付かせてくださいます。そして、愛することだけが、神を信じて(したが)うことだと教えてくださいます。
そのように生きようとする時、私たちはキリストの苦しみを共にするのです。
苦しみを経験した者は、他の誰かが受けた同じ苦しみを理解することができます。苦しみを経験した者は(なぐさ)めることができるのです。
キリストは父なる神様に(したが)われ、(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)に架かられました。(つみ)を犯すこと以外は、すべての人間の受ける苦しみを経験されました。
このキリストは、あなたの苦しみを経験され、あなたを理解して(なぐさ)めてくださる方です。そして、その苦しみを通して、愛とまことの人にあなたを変えてくださります。喜びと平安、人を愛する価値ある人生を与えてくださいます。
パウロは言います。

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒(しと)パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒(せいと)たちへ。                             (Ⅱコリント1:1)

キリストを信じて生きるあなたは、神の教会の、使徒(しと)聖徒(せいと)なのです。いつも神はあなたと共におられます。