十字架の祈り

ルカの福音書23章32-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年8月6日

<聖書>

32 ほかにもふたりの犯罪人(はんざいにん)が、イエスとともに死刑(しけい)にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と()ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人(はんざいにん)とを十字架(じゅうじか)につけた。犯罪人(はんざいにん)のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆(みんしゅう)はそばに立ってながめていた。指導者(しどうしゃ)たちもあざ(わら)って言った。「あれは他人を(すく)った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を(すく)ってみろ。」
36 兵士(へいし)たちもイエスをあざけり、そばに()って()て、()いぶどう(しゅ)()()し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を(すく)え」と言った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた(ふだ)もイエスの頭上(ずじょう)(かか)げてあった。
39 十字架(じゅうじか)にかけられていた犯罪人(はんざいにん)のひとりはイエスに悪口(あっこう)を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを(すく)え」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが(こた)えて、彼をたしなめて言った。「おまえは(かみ)をも(おそ)れないのか。おまえも同じ刑罰(けいばつ)を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの(むく)いを()けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国(みくに)(くらい)にお()きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに()げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地(ぜんち)(くら)くなって、三時まで続いた。
45 太陽は光を(うしな)っていた。また、神殿(しんでん)(まく)()(ぷた)つに()けた。
46 イエスは大声で(さけ)んで、言われた。「父よ。わが(れい)御手(みて)にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

(ルカの福音書23章32-46節)

<説教>

「どくろ」と()ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人(はんざいにん)とを十字架(じゅうじか)につけた。犯罪人(はんざいにん)のひとりは右に、ひとりは左に。

(ルカの福音書23:33)

イエスの死が極悪(ごくあく)犯罪人(はんざいにん)刑罰(けいばつ)である印象(いんしょう)を人々に持たせようとしました。イエスは悪人として処刑(しょけい)されました。イエスの着物は()がされ、着物はローマ兵がくじで分け合いました。
あざけり、からかい、(にく)しみとねたみに満ちた人々…
イエスを殺害(さつがい)しようとしたユダヤ宗教家(しゅうきょういえ)は、十字架(じゅうじか)に付けられたイエスを目の前に、自分たちの勝利(しょうり)確信(かくしん)しました。

「父よ。彼らをお(ゆる)しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

(ルカの福音書23:34)

そんな彼らにイエスは祈られました。
イエス様の十字架(じゅうじか)受難(じゅなん)は、ルカの福音書の中で、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)が多く引用(いんよう)されています(詩篇22、詩篇69)。
どれだけ知恵(ちえ)をこらして、策略(さくりゃく)を建てて、イエスを十字架(じゅうじか)(ほうむ)()ろうとしても、神さまはすべてご存知(ぞんじ)で、はるか昔に聖書ではっきり預言(よげん)していたのです。
そんな人間の(おろ)かさ、罪深(つみぶか)さ、神から(はな)れて(ほろ)びへ向かう姿に、イエスは彼らの、いえ人間すべてに対して父なる神さまに(ゆる)しを()うて祈ったのです。
すべての人のために、今もイエス様は(つみ)(ゆる)しを祈っておられます。
十字架(じゅうじか)の上の左右の犯罪人(はんざいにん)の一人は、神を(おそ)れず、自分の罪深(つみぶか)さがわからず、自分がわかりません。ただ今の状況からの(すく)いだけを願います。彼が信じるのは自分の心だけです。
しかし、もう一人の犯罪人(はんざいにん)は、自分の罪深(つみぶか)さを知り、()(あらた)めて、神を(おそ)れ、今の(すく)いだけでなく、永遠の(すく)いを祈ったのです。
彼は間もなく死を(むか)えるでしょう。しかし、たとえ死の間際(まぎわ)でも(おそ)くはないのです。イエス様の十字架(じゅうじか)は私の(つみ)身代(みが)わりであると信じて、()(あらた)めて、(つみ)に背を向けて、神さまに心を向けて生きようとする者を神は「きょう」(すく)ってくださいます。

「イエスさま。あなたの御国(みくに)(くらい)にお()きになるときには、私を思い出してください。」                                                

    (ルカの福音書23:42)

彼の祈りは正直でした。自分のことを(おぼ)えていてください。私を(わす)れないでくださいでした。私は愛されているのでしょうか?私は何のために生まれたのでしょうか?私の人生これでよかったのですか?
すべての人間には(つみ)があり、神さまとの関係を失いました。この不安と(おそ)れが人生を支配(しはい)しています。
競争きょうそう)に勝っても、欲しいものを手に入れても、どんなに頑張(がんば)っても、その不安と(おそ)れは消えません。
その解決(かいけつ)のためには、失われた神さまとの関係を回復(かいふく)和解(わかい)するしかありません。
この犯罪人(はんざいにん)は、自分が受けている十字架(じゅうじか)刑の()(がた)い苦しみ(いた)みを、静かに受けられ、自分を苦しめる人々のために静かに祈られるイエスを神さまであると信じました。自分の十字架(じゅうじか)刑罰(けいばつ)をイエス様は代わりに受けてくださっているとわかったのです。
そして、(みじ)めな十字架(じゅうじか)刑で人生を終わろうとする自分の罪深(つみぶか)さを()(あらた)めて、イエス様を受け入れたのです。
その瞬間(しゅんかん)、イエス様が彼と共におられ、神さまとの関係が回復(かいふく)しました。彼の絶望(ぜつぼう)後悔(こうかい)、すべての(つみ)(ゆる)され、彼の心は開かれ、(おそ)れは祈りとなりました。
イエス様はあなたを決して(わす)れることはありません。あなたがすべての人間の(てき)だとしても、すべての人があなたを(わす)れたとしても。
イエス様はあなたを愛されています。十字架(じゅうじか)の上であなたの(つみ)(ゆる)しを祈って、それを()()げてくださいました。

そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの(つみ)をその()()われました。それは、私たちが(つみ)(はな)れ、()のために生きるためです。キリストの()(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者(ぼくしゃ)であり監督者(かんとくしゃ)である方のもとに帰ったのです。

(Ⅰペテロ2:24-25)

悪魔の力に打ち勝つ

マルコの福音書5章1-20節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月30日

<聖書>

1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
2 イエスが舟から上がられると、すぐに、(けが)れた(れい)につかれた人が墓場(はかば)から出て来て、イエスを(むか)えた。
3 この人は墓場(はかば)に住みついており、もはやだれも、(くさり)をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
4 彼はたびたび足かせや(くさり)でつながれたが、(くさり)を引きちぎり、足かせも(くだ)いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである。
5 それで彼は、夜昼となく、墓場(はかば)や山で(さけ)び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
6 彼はイエスを遠くから見つけ、()()って来てイエスを(はい)し、
7 大声で(さけ)んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名(みな)によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
8 それは、イエスが、「(けが)れた(れい)よ。この人から出て行け」と言われたからである。
9 それで、「おまえの名は何か」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と言った。
10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願(こんがん)した。
11 ところで、そこの山腹に、(ぶた)大群(たいぐん)()ってあった。
12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを(ぶた)の中に送って、彼らに()(うつ)らせてください。」
13 イエスがそれを(ゆる)されたので、(けが)れた(れい)どもは出て行って、(ぶた)()(うつ)った。すると、二千匹ほどの(ぶた)の群れが、(けわ)しいがけを()け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。
14 (ぶた)()っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。
15 そして、イエスのところに来て、悪霊(あくれい)につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
16 見ていた人たちが、悪霊(あくれい)につかれていた人に起こったことや、(ぶた)のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
17 すると、彼らはイエスに、この地方から(はな)れてくださるよう願った。
18 それでイエスが舟に()ろうとされると、悪霊(あくれい)につかれていた人が、お(とも)をしたいとイエスに願った。
19 しかし、お(ゆる)しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、(しゅ)があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな(おどろ)いた。

(マルコの福音書5章1-20節)

<説教>

湖の向こう岸はゲラサ人の地でした。まことの神さまから(はな)れた異邦人(いほうじん)の世界です。
そこに(けが)れた(れい)に取りつかれた男が次のような姿でいました。

① 家に住まないで墓場(はかば)に住んでいた。
(人から(はな)れて社会性を失っている状態でした)
②    何度も(くさり)と足かせでつながれたが、(くさり)を引きちぎり足かせを(くだ)いていた。
(非常に狂暴(きょうぼう)な姿でした。誰も彼を押さえつけることはできませんでした)
③    夜も昼もずっと墓場(はかば)や山で(さけ)び続けていた。
(彼の(たましい)は助けを(もと)めていました)
④    石で自分のからだを(きず)つけていた。
(自分の価値(かち)(わす)れて、自分を健全(けんぜん)に愛せずにいました)
⑤    長い間、着物も着ず裸でした。
理性(りせい)、人間性を(うしな)っている状態でした)
彼は自分の中に悪霊(あくれい)が働いていることを知っていました。レギオンという名前の悪霊(あくれい)は、ローマ軍の6千人で編成(へんせい)される軍団(ぐんだん)のように多数で強い力で男を(しば)ってしました。誰も彼を助け出すことはできませんでした。彼も自分の力ではこの悪霊(あくれい)をどうすることもできませんでした。それはユダヤが圧倒的(あっとうてき)な力でローマに支配されて、ローマの軍隊が、悪事(あくじ)を働き、人々を苦しめている状態でした。
イエス様が舟から上がってきたのを見た時、男はイエス様を(むか)えにいきます。どんなに悪霊(あくれい)の力が強くても、まことの(かみ)さまの力を信じることが大切です。イエス様がこの地上に来られたのは、悪魔(あくま)を打倒すためなのです。

(かみ)の子が現れたのは、悪魔(あくま)のしわざを打ちこわすためです。(Ⅰヨハネ3:8)

イエス様を信じる者は、いたずらに悪魔(あくま)(おそ)れることはありません。しかし、悪魔(あくま)の力を(あなど)ってはいけません。(たし)かに(つみ)(おか)させようとする力は存在(そんざい)するのです。キリスト者生活を最後までやり()げることは、悪魔(あくま)との戦いでもあると言えるからです。
悪霊(あくれい)たちは(かみ)の子イエス様に自分たちを追い出さないでくださいと願いました。堕落(だらく)した道徳の(みだ)れたこの世界は悪霊(あくれい)にとって住みよい環境(かんきょう)なのです。聖書は、毎日が邪悪(じゃあく)な日であり、今は悪い時代だと言います。
悪霊(あくれい)はサタン(悪魔(あくま))の手下(てした)で、この世で大勢(おおぜ)い活動しています。人や動物に入り、(かみ)の働きや、計画を(さまた)げようとします。サタンは、24時間365日ずっと、破滅(はめつ)させることができる人々を(さが)して歩き回っています。

()(つつし)み、目をさましていなさい。あなたがたの(てき)である悪魔(あくま)が、ほえたける獅子(しし)のように、()()くすべきものを(さが)(もと)めながら、歩き回っています。

(Ⅰペテロ5:7

この御言葉(みことば)の記者ペテロにとって、「目をさましていなさい」は(わす)れることのできないイエス様のことばです。悪魔(あくま)がペテロを征服(せいふく)して、イエス様を(こば)ませたことを(わす)れませんでした。
悪魔(あくま)()えたけるライオンのような凶暴性(きょうぼうせい)破壊性(はかいせい)によって、イエス様を信じる信仰(しんこう)(うしな)わせようとします。
しかし、イエス様によって信仰(しんこう)を守られたペテロは初代(しょだい)教会(きょうかい)で力強くイエス様を(あかし)する者に変えられます。彼は(かく)(しん)して言います。

(かた)信仰(しんこう)に立って、この悪魔(あくま)に立ち向かいなさい。ご承知(しょうち)のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

(Ⅰペテロ5:8

イエス様の(かみ)権威(けんい)あるみことばによって、このゲラサ人の男に取りついた(けが)れた(れい)は追い出されました。彼は正気(しょうき)に返り、家に帰り、着物を着て、(かみ)の救いを言い広め始めます。それはゲラサ人の地、デカポリス、ギリシャの植民地(しょくみんち)異邦人(いほうじん)の地でキリストの救いのみわざはこの男性から広がっていくのです。

問 人の主な目的(もくてき)はなんであるか?
答 人の主な目的(もくてき)(かみ)栄光(えいこう)をあらわし、(かみ)永遠(えいえん)に喜ぶことである。

ウエストミンスター小教理問答の第一問目
(プロテスタンキリスト教会の信仰(しんこう)基準(きじゅん)

心配しないで生きる

マタイの福音書6章25-34節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月23日

<聖書>

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配(しんぱい)したり、また、からだのことで、何を()ようかと心配(しんぱい)したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物(きもの)よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔(たねま)きもせず、()()れもせず、(くら)(おさ)めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを(やしな)っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配(しんぱい)したからといって、自分のいのちを少しでも()ばすことができますか。なぜ着物(きもの)のことで心配(しんぱい)するのですか。野のゆりがどうして(そだ)つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、(つむ)ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華(えいが)(きわ)めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾(きかざ)ってはいませんでした。きょうあっても、あすは()()()まれる野の草さえ、神はこれほどに(よそお)ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の(うす)い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を()るか、などと言って心配(しんぱい)するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人(いほうじん)が切に(もと)めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要(ひつよう)であることを知っておられます。だから、神の国とその()とをまず第一に(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて(あた)えられます。だから、あすのための心配(しんぱい)無用(むよう)です。あすのことはあすが心配(しんぱい)します。労苦(ろうく)はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書6章25-34節)

<説教>

神を信じない異邦人(いほうじん)は食べ物のこと、着物のことを心配(しんぱい)します。将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)します。

しかし、どれだけ心配(しんぱい)しても決して問題の解決(かいけつ)にはなりません。かえって体や精神的に悪いことさえあります。ほとんどの病気はストレスが原因だと言われています。

人間の心配(しんぱい)は、完全に信頼(しんらい)する存在、神を信じないことが原因です。神さまを(みと)めないならば、すべての起こりうる心配(しんぱい)は自分でどうにかしなくてはいけないのです。それは(つみ)(おか)して神様から(はな)れてしまった人間の生き方となってしまいました。

では心配(しんぱい)しないためにどうすればいいのでしょうか。

①     自然の生きものの姿を見て学ぶ。

イエス様は働かなくていいとは言っていません。鳥も働いています((すずめ)などは働き者で有名です)。しかし将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)する鳥や花はいません。しかし、神さまはそんな鳥を毎日(やしな)い、一日で()れてしまう花でさえも、最高の美しさで(よそお)ってくださいます。鳥や花より(すぐ)れた人間を神さまが(やしな)ってくださらないはずがありません。

②    神さまがすべてを支配(しはい)して(まも)ってくださることをいつも(おぼ)えて、そこに自分を()いて生活する。

イエス様は一番大切な(まも)るべきことは自分を愛するように隣人(となりびと)を愛することだと言われます。愛の心を持って(だれ)かを思いやって生きる。(だれ)かのために生きるとき自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。信仰(しんこう)をもって神さまのことばを実践(じっせん)するとき、自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。

③    今日を精一杯生きて、明日の心配(しんぱい)はしない。

いくら明日を心配(しんぱい)しても私たちが生きることができるのは今日だけです。今日という日を(つみ)から(はな)れて正しく、感謝して生きることに(つと)めましょう。

もし、あなたが今までの人生をすべて、事前(じぜん)に知らされていたら、今日まで生きてこられたでしょうか。今までたくさんの苦労(くろう)試練(しれん)があったことでしょう。しかし、あなたは、何が起こるか知らないで、心配(しんぱい)せずに生きてきましたが、今日まで生きて来られたのです。

神さまはあなたを(まも)(やしな)ってくださったのです。

だから、神の国とその()とをまず第一に(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて(あた)えられます。

マタイの福音書6:33

このみことばは聖書の中でも、とても素晴(すば)らしい約束の一つです。神の国とは神の支配(しはい)される領域(りょういき)をあらわします。神さまのご支配(しはい)される御国(みくに)の中で生活しようと(つと)め、神さまのみことばに(したが)って生きることを何より第一に(もと)(つづ)けるなら、必ず、神さまがあなたの必要を(そな)えてくださいます。

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりを自分の(つみ)身代(みが)わりと信じる者は、そのような生き方に変えられます。あらゆることを心配(しんぱい)しながら単独(たんどく)で生きる人生から、神さまと心が(むす)()けられるのです。

あなたのすべての(つみ)(ゆる)してくださった神さまは、愛をもって、あなたのすべての心配(しんぱい)もご自身の心配(しんぱい)事として引き受けてくださいます。

あなたがたの(おも)(わずら)いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配(しんぱい)してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7

神の祝福に生きよう

創世記25章19-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月16日

<聖書>

これはアブラハムの子イサクの歴史(れきし)である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの(むすめ)で、アラム人ラバンの妹であるリベカを(つま)にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の(つま)のために【(しゅ)】に祈願(きがん)した。彼女が不妊(ふにん)の女であったからである。【(しゅ)】は彼の(いの)りに答えられた。それで彼の(つま)リベカはみごもった。子どもたちが彼女の(はら)の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして【(しゅ)】のみこころを求めに行った。すると【(しゅ)】は彼女に(おお)せられた。「二つの国があなたの胎内(たいない)にあり、二つの国民(くにたみ)があなたから分かれ出る。一つの国民(くにたみ)は他の国民(くにたみ)より強く、兄が弟に仕える。」出産(しゅっさん)の時が()ちると、見よ、ふたごが胎内(たいない)にいた。最初(さいしょ)に出て来た子は、赤くて、全身(ぜんしん)()(ころも)のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

創世記(そうせいき)25章19-26節)

<説教>

(かみ)さまは、ご自身の国をつくることによって、祝福(しゅくふく)をご計画(けいかく)されました。それは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)のイスラエルから始まり、今はキリストを信じる者が集められた教会(きょうかい)です。イスラエルは、アブラハムから始まり、その子イサクはリベカによってエサウとヤコブが生まれます。

しかし、二人は外見(がいけん)性格(せいかく)もまるで違っていました。エサウは猟師(りょうし)で野の人で、ヤコブは天幕(てんまく)(かみ)さまに心を向けて生きる羊飼(ひつじか)いでした。

この双子(ふたご)兄弟(きょうだい)はイサク夫婦(ふうふ)(かみ)さまに(いの)(もと)めて20年目に(あた)えられた子どもでした。しかし、生まれる前から、リベカの(はら)の中でぶつかり合っていました。(かみ)さまは、エサウとヤコブからそれぞれ国が生まれ、兄が弟に(つか)えると、リベカに預言(よげん)します。ヤコブの家系(かけい)から、(かみ)の国をおこそうと計画(けいかく)されていました。

そして、あるとき兄のエサウが(りょう)からお(なか)()らして帰ったとき、弟のヤコブは美味(おい)しそうな(まめ)料理(りょうり)を作っていました。そのごちそうを欲しがるエサウに、ヤコブは長子(ちょうし)権利(けんり)(もと)めます。

エサウは空腹(くうふく)()たすために、よく考えることもなく、自分の長子(ちょうし)権利(けんり)をヤコブに売ってしまいます。

当時のイスラエルは、長子(ちょうし)は他の子どもたちより2倍の相続(そうぞく)財産(ざいさん)をもらえました。人も家畜(かちく)初子(ういご)(最初に母から生まれたもの)は(かみ)さまのものとされ、特別な価値(かち)があったのです。それと同時に(かみ)命令(めいれい)を守り、(かみ)の道に(つか)えて生きる責任(せきにん)義務(ぎむ)があったのです。

ヤコブも親の財産(ざいさん)をたくさんもらいたいと思いました。しかし、長子(ちょうし)権利(けんり)はそれよりも、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)意味(いみ)していたのです。

(かみ)さまの祝福(しゅくふく)とは、何となくありがたい気分がすることではありません。(かみ)さまを(しん)じる者は、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(あた)えられます。それは、(しん)じる者に変化を(あた)えるものです。次のようなものです。

1. 数量的に()えること
2. 力が(あた)えられること
3. 必要(ひつよう)な物が(そな)えられること
4. 生きる使命(しめい)任務(にんむ)(あた)えられること
5. 他の人に(かみ)(めぐ)みを分け(あた)えること

お金や(とみ)()(くわ)えられるのも(かみ)さまの祝福(しゅくふく)だと、聖書(せいしょ)にあります。

(しゅ)祝福(しゅくふく)そのものが人を()ませ、人の苦労(くろう)は何もそれに(くわ)えない。

箴言10:22

また、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(あた)えられるだけでなく、()けた(めぐ)みを、他の人に(あた)えることでもあります。

悪をもって悪に(むく)いず、侮辱(ぶじょく)をもって侮辱(ぶじょく)(むく)いず、かえって祝福(しゅくふく)(あた)えなさい。あなたがたは祝福(しゅくふく)()()ぐために()されたのだからです。                                       

Ⅰペテロ3:9

ヤコブも人をだまして、自分の利得に生きる者でしたが、その生涯(しょうがい)にわたり(かみ)さまのあわれみと訓練(くんれん)()け、まことの(かみ)さまを知っていきます。やがてヤコブは(さず)かった12人の子どもに(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(いの)り、祝福(しゅくふく)(あた)える者に変えられていきます。 この12人の子ども(後のイスラエル12部族)からダビデが生まれ、やがてその子孫からイエス・キリストがお生まれになります。

今はイエス様を信じる者は、(かみ)さまの長子(ちょうし)とされます。(かみ)さまの子が()けるすべての霊的(れいてき)祝福(しゅくふく)(あた)えられます。

(よく)や目先のこと、物質的(ぶっしつてき)なこと、この地上のことを求めるだけでは人は幸せになることはできません。(かみ)さまを信じて、(つみ)(ゆる)しいただき、(かみ)さまの子どもとされ家族として生きる時、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)()けて、まことの豊かな人生をおくることができるのです。

イエス様の十字架(じゅうじか)によって(あた)えられる祝福(しゅくふく)感謝(かんしゃ)しましょう。

このことは、アブラハムへの祝福(しゅくふく)が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を()けるためなのです。

ガラテヤ書3:14

愛に生きる

ヨハネの手紙第一 4章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月9日

<聖書>

(あい)する者たち。私たちは、(たが)いに(あい)し合いましょう。(あい)(かみ)から出ているのです。(あい)のある者はみな(かみ)から生まれ、(かみ)を知っています。(あい)のない者に、(かみ)はわかりません。なぜなら(かみ)(あい)だからです。(かみ)はそのひとり子を世に(つか)わし、その方によって私たちに、いのちを()させてくださいました。ここに、(かみ)(あい)が私たちに(しめ)されたのです。私たちが(かみ)(あい)したのではなく、(かみ)が私たちを(あい)し、私たちの(つみ)のために、なだめの(そな)(ぶつ)としての御子(みこ)(つか)わされました。ここに(あい)があるのです。(あい)する者たち。(かみ)がこれほどまでに私たちを(あい)してくださったのなら、私たちもまた(たが)いに(あい)し合うべきです。いまだかつて、だれも(かみ)を見た者はありません。もし私たちが(たが)いに(あい)し合うなら、(かみ)は私たちのうちにおられ、(かみ)(あい)が私たちのうちに(まっと)うされるのです。

(ヨハネの手紙第一4章7-12節)

<説教>

1902年にカナダで生まれたアルフレッド・ラッセル・ストーンは(おさな)(ころ)から農業(のうぎょう)(あい)しました。24歳から日本の長野(ながの)北海道(ほっかいどう)農村(のうそん)伝道(でんどう)生涯(しょうがい)(ささ)げた宣教師(せんきょうし)でした。

1920年生まれのディーン・リーパーは25歳から戦後(せんご)()野原(のはら)東京(とうきょう)宣教師(せんきょうし)として来日(らいにち)します。日本人になろうと銭湯(せんとう)に行っては日本人と背中(せなか)(なが)()うリーパー宣教師(せんきょうし)は、プロ級の手品師(てじなし)でもありました。

1954年9月26日に大型の台風(たいふう)15号が接近(せっきん)する中、函館(はこだて)から青森(あおもり)出航(しゅっこう)した青函(せいかん)連絡船(れんらくせん)洞爺(とうや)丸号(まるごう)」にこの2人の宣教師(せんきょうし)乗船(じょうせん)していました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)は約4時間後の22時45分に沈没(ちんぼつ)し、死者(ししゃ)行方(ゆくえ)不明者(ふめいしゃ)あわせて1155人におよぶ、日本(にほん)海難(かいなん)史上(しじょう)最悪(さいあく)事故(じこ)となりました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)台風(たいふう)()って、船が大きく真横(まよこ)(かたむ)いたとき、

リーパー宣教師(せんきょうし)恐怖(きょうふ)におびえる乗客(じょうきゃく)に、やさしく(かた)りかけ、自慢(じまん)手品(てじな)披露(ひろう)、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜(おおよろこ)びします。一時(いちじ)船室(せんしつ)()()きがもどりますが、やがて船は大きく(かたむ)き、船室(せんしつ)に水が(なが)れこみます。リーパー宣教師(せんきょうし)は、同乗(どうじょう)していたストーン宣教師(せんきょうし)、オース宣教師(せんきょうし)と力をあわせ、悲鳴(ひめい)(うず)のなかで()げまどう乗客(じょうきゃく)救命(きゅうめい)()(くば)り、着用(ちゃくよう)手間取(てまど)る子どもや女性を(たす)けました。ストーン宣教師(せんきょうし)は、救命(きゅうめい)()のない学生を見つけ「あなたの前途(ぜんと)は長いから」といって救命(きゅうめい)()をゆずりました。リーパー宣教師(せんきょうし)は女性や子どもたちに救命(きゅうめい)()()せてやり、最後まで(はげ)ましの言葉をかけ(つづ)けたと(つた)えられています。

後日、七重(ななえ)(はま)救命(きゅうめい)()のない二人の宣教師(せんきょうし)(はだか)遺体(いたい)発見(はっけん)されました。また台風(たいふう)荒波(あらなみ)の中では、ほとんどの人が救命(きゅうめい)()()ていても(たす)かりませんでしたが、彼らの救命(きゅうめい)()をもらった若者と子どもは奇跡的(きせきてき)(たす)かりました。

他人のために命をすてた洞爺(とうや)丸号(まるごう)宣教師(せんきょうし)。自分の命を犠牲(ぎせい)にして人々を救った宣教師(せんきょうし)

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな(あい)はだれも持っていません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)15章13節)

(かみ)(あい)なり

(ヨハネの手紙第一4章8節)

(かみ)さまの(あい)をアガペーと言います。無条件(むじょうけん)(あい)価値(かち)なき者を(あい)する(あい)です。

その(かみ)(あい)があらわされたのが十字架(じゅうじか)です。

イエス・キリストは、(つみ)の中で死んでいる私たち人間に、いのちを(あた)えるために十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

私たちは生まれたままの状態(じょうたい)では、(かみ)()らず、(かみ)から(ばな)れ、罪深(つみぶか)自己(じこ)中心(ちゅうしん)(かみ)敵対(てきたい)する罪人(つみびと)でした。

しかし、十字架(じゅうじか)のもとで(かみ)(はか)()れない(あい)()り、そのいのちにあずかった者は(こころ)(よく)のままの生活に(もど)ることは出来ません。(たが)いに(あい)し合うべきなのです。

その姿(すがた)によって、(かみ)がおられると人は()るのです。

イエス様はすべての人に言われています。

(たが)いに(あい)し合いなさい。わたしがあなたがたを(あい)したように、あなたがたも(たが)いに(あい)し合いなさい。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章34節)

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)はすべての人を(すく)うことができます。その(すく)いを()けたいとあなたが決心(けっしん)するかどうかだけです。

さあ、(つみ)()()り、新しく、(あい)に生きようではありませんか。

イエスは道

ヨハネの福音書13章36節-14章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月2日

<聖書>

シモン・ペテロがイエスに言った。「(しゅ)よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「(しゅ)よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも()てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも()てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに()げます。(にわとり)()くまでに、あなたは三度(さんど)わたしを知らないと言います。」
「あなたがたは心を(さわ)がしてはなりません。(かみ)を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、()まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を(そな)えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を(そな)えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに(むか)えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「(しゅ)よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが(みち)であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを(とお)してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章36節-14章11節)

<説教>

イエスが十字架(じゅうじか)()かって死ぬときが近づいていました。しかし弟子(でし)たちは、イエスがどこへ行こうとしているのかわかりませんでした。弟子(でし)たちはイエスが自分たちから(とお)(はな)れてしまうことを(おそ)れて、心が(さわ)いでいたのです。

イエスはそんな弟子(でし)たちに次のことを約束(やくそく)されます。

  1. イエスを信じる者は、かならず天国(てんごく)用意(ようい)された「住まい」それも大邸宅(だいていたく)()むことができる。
  2. イエスは弟子(でし)たちのついていけない所に行くが、(かなら)ずもう一度(もど)って来る。

私たちが第一に心配(しんぱい)すること、心(さわ)ぐことは将来(しょうらい)どうなるかということです。イエスを信じる者はこの神の約束(やくそく)(しん)じなければなりません。イエスはあなたを(かなら)(むか)えに来て、天国(てんごく)()まわせてくださいます。

それでも、イエスの言われることがわからない弟子(でし)たちに言われます。

「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

(ヨハネの福音書14:6

「イエスは道」とはどういう意味でしょうか。

()(のぼ)(ふもと)の道は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」

という()があります。これはどんな宗教(しゅうきょう)も、結局(けっきょく)、最後は(すく)われて天国(てんごく)へ行けるのだからどの宗教(しゅうきょう)も同じだという意味です。

しかし、聖書(せいしょ)はイエスを(しん)じなければ、父なる神のもとへはいけないと明らかにしています。

はじめて行く場所への道を(だれ)かに聞いた場合、どんなに丁寧(ていねい)に行き方を(おし)えてもらっても、本当にそこへたどり()けるかわかりません。

一番確実(かくじつ)な方法は、その目的地(もくてきち)への道を知っている人が、一緒(いっしょ)案内(あんない)してくれることです。

私たちは一度切りの人生の中でどうやって生きていいのか(まよ)います。何が正しいのかわからなくなります。じっさい聖書(せいしょ)は次のように書いています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言(しんげん)14:12)

私たちをゴールに案内(あんない)してくれるのはイエスご自身(じしん)です。イエスとともに生きる時、安全(あんぜん)です。

イエスの言うことをよく聞いて、イエスを知ることが大切です。

道は()みつけられて道となります。

イエスは人間の(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。イエスの十字架(じゅうじか)犠牲(ぎせい)によって、(しん)じる者は神と和解(わかい)することができます。イエスが神への道を開いてくださいました。

人が(すく)われるためにイエスが道となってくださいました。このイエスを(しん)じて、いつも、このお方の聖書(せいしょ)のみことばに(したが)うとき、(いつわ)りの(ほろ)びへの道から(のが)れて、天国に()まうことができるのです。

この道は、人間の力で見つけて入れる道ではありません。

自分の(つみ)(ぶか)さを知り、イエスを(しん)じて、()(あらた)めて生きようとする者だけが見出すことのできる小さい門、(せま)い道なのです。そのときイエスが道となってくださるのです。

イエスを(しん)じて、このお方に(したが)う者は(けっ)して、(まよ)って()(づま)ったりせず、イエスが(むか)えに来てくださり、神の用意(ようい)された天国の()まいに必ずたどり()くことができます。

何より大切なのはこの道に入ることです。他の道では(けっ)して天国につながることはありません。この道に入る者は(さいわ)いです。

(せま)い門から入りなさい。(ほろ)びに(いた)る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに(いた)る門は小さく、その道は(せま)く、それを見いだす者はまれです。

(マタイ7:13-14

日々の信仰が与える勝利

サムエル記第一17章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月25日

<聖書>

ペリシテ人は(たたか)いのために軍隊(ぐんたい)召集(しょうしゅう)した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに(じん)()いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に(じん)()き、ペリシテ人を(むか)()つため、(たたか)いの(そな)えをした。ペリシテ人は()こう(がわ)の山の上に、イスラエル人はこちら(がわ)の山の上に、谷を(へだ)てて相対(あいたい)した。ときに、ペリシテ人の陣営(じんえい)から、ひとりの代表(だいひょう)戦士(せんし)が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その()の高さは六キュビト半。頭には青銅(せいどう)のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅(せいどう)で五千シェケル。足には青銅(せいどう)のすね当て、背中には青銅(せいどう)()(やり)(やり)()機織(はたお)りの()(ぼう)のようであり、(やり)穂先(ほさき)は、(てつ)で六百シェケル。(たて)()ちが彼の先を歩いていた。ゴリヤテは立って、イスラエル人の(じん)()かって(さけ)んで言った。「おまえらは、なぜ、(なら)んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷(どれい)ではないのか。ひとりを(えら)んで、おれのところによこせ。おれと勝負(しょうぶ)して()ち、おれを()(ころ)すなら、おれたちはおまえらの奴隷(どれい)となる。もし、おれが()って、そいつを(ころ)せば、おまえらがおれたちの奴隷(どれい)となり、おれたちに(つか)えるのだ。」そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの(じん)をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負(しょうぶ)をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈(いきしょうちん)し、非常(ひじょう)(おそ)れた。

(サムエル記第一17章1-11節)

<説教>

イスラエル人は宿敵(しゅくてき)ぺリシテ人との(たたか)いに(くる)しんでいました。谷をはさんでお互いに緊迫(きんぱく)状態(じょうたい)でした。そこでぺリシテからは3メートルもある巨人(きょじん)でベテランの戦士(せんし)ゴリヤテがイスラエルに一対一の(たたか)いを(もう)()ます。イスラエル人はゴリヤテの巨体(きょたい)武器(ぶき)を見て、(おそ)れて(たたか)勇気(ゆうき)(うしな)ってしまいます。そんな時、8人兄弟の(すえ)()(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがゴリヤテを石一つで()(ころ)したのです。

戦士(せんし)でもない(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがなぜゴリヤテに勝利(しょうり)したのでしょうか。

① ダビデは(おそ)れに支配(しはい)されなかった

ゴリヤテは自分の巨体(きょたい)武器(ぶき)を見せつけて、おどし文句(もんく)を言ってイスラエル人を(おそ)れさせました。(たたか)う時に(おそ)れは最大の(てき)です。多くの場合、(たたか)う前の心理戦(しんりせん)勝敗(しょうはい)は決定します。

聖書(せいしょ)に中に「(おそ)れるな」という命令(めいれい)は約365回出ています。それだけ人は(おそ)れてしまうものなのです。

しかし、ダビデはゴリヤテを自分と比較(ひかく)せずに全能(ぜんのう)の神さまと比較(ひかく)したのです。すべてを支配(しはい)される神さまと比べたらゴリヤテは()るに()りない小さい者です。

見える状況(じょうきょう)ではなく神さまに信頼(しんらい)するとき信仰(しんこう)大胆(だいたん)さが(あた)えられます。

② ダビデは普段(ふだん)の生活の中で神さまに(つか)えていた

ダビデは普段(ふだん)から神さまと共に羊飼(ひつじか)いの仕事に(つか)えていました。(ひつじ)をライオンや(くま)(おそ)われたときも、神さまが共におられ信仰(しんこう)勇気(ゆうき)により(たたか)っていました。

ダビデは、普段(ふだん)からみことばを(おも)いめぐらし、(いの)り、賛美(さんび)して神さまと共にいました。

ダビデはいきなりゴリヤテに勝利(しょうり)したのではありません。ダビデはどんな時も神さまに(つか)えて、信仰(しんこう)勇気(ゆうき)(あた)えられ、普段(ふだん)の生活の中で訓練(くんれん)され下地(したじ)が作られていたのです。

羊飼(ひつじか)いは決してきれいな仕事では、末っ子のダビデは父からまったく注目(ちゅうもく)されていませんでした。しかし、神さまのご計画(けいかく)(だれ)も知らないところで準備(じゅんび)されていました。目立たない普段(ふだん)何気(なにげ)ないところでの神さまとの関わりがやがて、目に見える形となって(あらわ)されるのです。

③ ダビデは神さまが勝利(しょうり)(あた)えてくださることを知っていた

ダビデは勝利(しょうり)秘訣(ひけつ)を知ってしました。神さまに忠実(ちゅうじつ)であるなら、あとは神さまが(かなら)(たす)けて(みちび)いてくださいます。

ダビデはたった一つの石で巨人ゴリヤテを()(たお)しました。しかしダビデの本当の武器(ぶき)万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)(生けて働かれる神の力)です。すべての(たたか)いに勝利(しょうり)をもたらすのは万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)です。神さまご自身が(たたか)いに出て(いど)まれるのです。

石とはメシヤ(キリスト)の象徴(しょうちょう)です。この石(キリスト)が巨人(悪魔(あくま))を()(たお)すのです。

悪魔(あくま)はキリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりにより、完全に()(たお)されました。私たちがイエス様の御名(みな)(いの)り、みことばを信じて(したが)う時、悪魔(あくま)は何も手を出すことは出来ません。

私たちの(たたか)いとは、(つるぎ)(たて)によるのではなく、人間の内にあります。(つみ)に対して神のことばと信仰(しんこう)によって(たたか)いに勝利(しょうり)できるのです。

ダビデの勝利(しょうり)によって、イスラエルに神さまがおられることをすべての国に知らしめました。

今もキリスト者は信仰(しんこう)によって(つみ)勝利(しょうり)して、()にイエス・キリストを(あかし)するのです。

なぜなら、神によって生まれた者はみな、()に勝つからです。私たちの信仰(しんこう)、これこそ、()()ち勝った勝利(しょうり)です。()に勝つ者とはだれでしょう。

イエスを神の御子(みこ)と信じる者ではありませんか。

(ヨハネの手紙第一5:4-5

山上の垂訓‐心の貧しい者は喜びなさい

マタイの福音書5章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月18日

<聖書>

この群衆(ぐんしゅう)を見て、イエスは山に(のぼ)り、おすわりになると、弟子(でし)たちがみもとに来た。そこで、イエスは口を(ひら)き、彼らに(おし)えて、言われた。

「心の(まず)しい者は(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。
(かな)しむ者は(さいわ)いです。その人たちは(なぐさ)められるから。
柔和(にゅうわ)な者は(さいわ)いです。その人たちは地を()()ぐから。
()()(かわ)く者は(さいわ)いです。その人たちは()()りるから。
あわれみ(ふか)い者は(さいわ)いです。その人たちはあわれみを()けるから。
心のきよい者は(さいわ)いです。その人たちは(かみ)を見るから。
平和をつくる者は(さいわ)いです。その人たちは(かみ)の子どもと()ばれるから。
()のために迫害(はくがい)されている者は(さいわ)いです。天の御国(みくに)はその人たちのものだから。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)5章1-10節)

<説教>

マタイの福音書(ふくいんしょ)の5章から7章は「山上(さんじょう)垂訓(すいくん)」と言われる長い説教(せっきょう)です。これはイエス様が語られたいろいろな説教(せっきょう)をまとめたものです。イエス様はこのような(おし)えを弟子(でし)たちに()えず、習慣的(しゅうかんてき)(おし)えられました。

内容(ないよう)はとても高い(かみ)道徳(どうとく)基準(きじゅん)であり、人間が(まも)ろうとして(まも)れるものではありません。

たとえば、「人を(にく)んではならない」、「情欲(じょうよく)をもって異性(いせい)を見てはならない」、「人前(ひとまえ)善行(ぜんこう)してはならない」、「人をゆるしなさい」、「自分の(たから)(てん)にたくわえなさい」、「何を食べるか心配(しんぱい)してはいけない」、「人をさばいてはならない」「自分の(てき)(あい)しなさい」など。

これらの(おし)えによって、人は自分が(つみ)(おか)したことを知ります。(かみ)さまは自分が(けっ)して正しくないことを気付(きづ)かせてくれるのです。これらの(おし)えは本来(ほんらい)の人間の姿(すがた)(かみ)さまが(つく)られた人間の姿(すがた)を表わしています。(かみ)さまを信じて生きる時に、(かみ)さまがそのような人間、イエス様に()た者に(つく)り変えてくださるのです。

「心が(まず)しい人」とはどういう意味(いみ)でしょうか。

それは、あまりにも(まず)しくて、力も地位(ちい)(だす)けもなく、人や社会(しゃかい)から()められ見放(みはな)されて、すべての希望(きぼう)(かみ)にかける人のことです。

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)詩篇(しへん)にも、次のようにあります。

「この(なや)む者が()ばわったとき、【(しゅ)】は聞かれた。こうして、(しゅ)はすべての(くる)しみから彼を(すく)われた。」
詩篇(しへん)34:6)

(まず)しい者は(けっ)して(わす)れられない。(なや)む者の(のぞ)みは、いつまでもなくならない。」
詩篇(しへん)9:18)

詩篇(しへん)の中の(まず)しく(なや)む者とは、(かみ)に近づいて(かみ)(よろこ)ばれる人のことです。

私たちは財産(ざいさん)貯金(ちょきん)がたくさんあれば、人生が安全(あんぜん)保障(ほしょう)されると思っていました。(しあわ)せの多くがそのようなものだと考えていたかもしれません。

しかし、自分が人からある意味(いみ)見放(みはな)された存在(そんざい)であると知り、心から全力(ぜんりょく)(かみ)さまに信頼(しんらい)する者は次のことを知るのです。

  • 物への執着(しゅうちゃく)がなくなっていく。物質(ぶっしつ)が人間に幸福(こうふく)安全(あんぜん)(あた)えるのではない。
  • (かみ)さまだけが自分を(たす)け、(のぞ)みと力を(あた)えることができる。

私たちの本当の問題(もんだい)は、貧乏(びんぼう)でみじめか、お金や物があって裕福(ゆうふく)かどうかなのではありません。それらは第一ではなく、実は自分(じぶん)自身(じしん)の内には、生きる希望(きぼう)(すく)いがまったくないと知ることなのです。

人間は(よわ)く、小さく、罪深(つみぶか)い者なのです。(かみ)さまを必要(ひつよう)とする存在(そんざい)なのです。(かみ)さまを(たよ)って、(たす)けられなければ、罪深(つみぶか)い生き方から本当の人間として生きることはできません。

自分のありのままを()け入れてくださる(かみ)さまを信頼(しんらい)しましょう。そのとき本当の自分のすべてを(あい)して生きていけるのです。「(かみ)さまと自分を知る」とき本当の人生が始まるのです。

「心の(まず)しい者は(さいわ)いです。」は原文のアラム語では、単調(たんちょう)な文ではありません。「ああ、(さいわ)いなるかな、心の(まず)しき者!」という感動(かんどう)()ちた意味(いみ)です。

この()(よろこ)びは、健康(けんこう)(うしな)われた時、計画(けいかく)失敗(しっぱい)した時、希望(きぼう)がかなえられなかった時にはかなく()っていきます。

しかし、イエス・キリストを(しん)じる者は(ふか)(しず)かな(よろこ)び、なにものにも変えられない(よろこ)びをもっています。

苦痛(くつう)の中、損失(そんしつ)(かな)しみ、(いた)み、(なみだ)の中にも心に()ち、()すことのできない(よろこ)び、それは()さえも(うば)()ることのできない(よろこ)びです。(つみ)(ゆる)しを()け、(すく)われた者の勝利(しょうり)(さけ)びです。

これはイエス・キリストと共に歩む者だけが持っているのです。

イエス様があなたの(つみ)のために十字架(じゅうじか)()んでくださいました。このお方に何も心配(しんぱい)せずにおゆだねして、(したが)っていきましょう。

神さまは心の動機を見られる

マタイの福音書20章1-16節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月11日

<聖書>

天の御国(みくに)は、自分のぶどう(えん)(はたら)労務者(ろうむしゃ)(やと)いに朝早く出かけた主人(しゅじん)のようなものです。彼は、労務者(ろうむしゃ)たちと一日一デナリの約束(やくそく)ができると、彼らをぶどう(えん)にやった。それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場(いちば)に立っており、何もしないでいた。そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう(えん)に行きなさい。相当(そうとう)のものを上げるから。』彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中(いちにちじゅう)仕事もしないでここにいるのですか。』彼らは言った。『だれも(やと)ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう(えん)に行きなさい。』こうして、夕方になったので、ぶどう(えん)主人(しゅじん)は、監督(かんとく)に言った。『労務者(ろうむしゃ)たちを()んで、最後(さいご)に来た者たちから(じゅん)に、最初(さいしょ)に来た者たちにまで、賃金(ちんぎん)(はら)ってやりなさい。』そこで、五時ごろに(やと)われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。最初(さいしょ)の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。そこで、彼らはそれを()()ると、主人(しゅじん)文句(もんく)をつけて、言った。『この最後(さいご)連中(れんちゅう)は一時間しか(はたら)かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中(いちにちじゅう)労苦(ろうく)()けるような(あつ)さを辛抱(しんぼう)したのです。』しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当(ふとう)なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束(やくそく)をしたではありませんか。自分の分を()って(かえ)りなさい。ただ私としては、この最後(さいご)の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという(ほう)がありますか。それとも、私が気前(きまえ)がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』このように、あとの者が(さき)になり、(さき)の者があとになるものです。」

(マタイの福音書20章1-16節)

<説教>

ぶどうは雨季(うき)になる前に急いで収穫(しゅうかく)します。雨にぬれるとぶどうが(くさ)ってだめになるからです。そのために多くの働き人が必要となります。イスラエルでは実際(じっさい)に、ぶどう(えん)主人(しゅじん)は朝の市場(いちば)労働者(ろうどうしゃ)募集(ぼしゅう)しました。

朝早く(6時)から一日中(いちにちじゅう)労苦(ろうく)()けるような(あつ)さの中を働いた人たち、9時、12時、午後3時、そして午後5時に一時間だけ働いた人たちがいます。どちらも賃金(ちんぎん)は1デナリでした。

朝早くから仕事を(あた)えられた人たちは、一日(12時間)1デナリの約束(やくそく)をしました。しかし、それ以外(いがい)の人たちは、(とく)労働(ろうどう)条件(じょうけん)があったわけではありません。ただ「それ相応(そうおう)報酬(ほうしゅう)」があると言われただけでした。

また、午後5時に市場(いちば)に立っていた人たちは「(だれ)(やと)ってくれない」と言っています。

しかし、一日の終わりに最後に1時間しか(はたら)かなかった者から順番(じゅんばん)賃金(ちんぎん)支払(しはら)われます。それも1デナリです。12時間(はたら)いた者は不平(ふへい)を言いました。

(あさ)(はや)くから(はたら)いた者たちは、自分たちは労働(ろうどう)契約(けいやく)()わした特別(とくべつ)存在(そんざい)だと過信(かしん)しました。そして、彼らは義務的(ぎむてき)報酬(ほうしゅう)のために(はたら)いのです。

しかし、午後5時からの労働者は、いくら報酬(ほうしゅう)があるかも気にせず、(やと)ってくれた主人(しゅじん)信頼(しんらい)して、お金のために義務的(ぎむてき)(はたら)くのではなく、(よろこ)び、感謝(かんしゃ)姿勢(しせい)がありました。

このたとえ話は、神さまに(つか)えて生きる姿勢(しせい)をあらわしています。神さまを第一にして生きるとき、ただ報酬(ほうしゅう)のためだけに(つか)えるのではなく、神さまに(よろこ)んでいただきたいという姿勢(しせい)が大切です。()()めや、条件(じょうけん)約束(やくそく)だけに(しば)られて(はたら)くのではなく、どのような心の姿勢(しせい)で、また動機(どうき)を神さまは()われるのです。

心が正しければ、(はたら)きも正しくされます。心が利己的(りこてき)貪欲(どんよく)であるなら、(はたら)きも悪いものとなります。わたしたちと神様との関係がどうであるかが大切なのです。

イエス様を信じる者、イエス様のために生きていこうとする者は、自分が思う以上の報酬(ほうしゅう)(あた)えられることでしょう。人間にはその人の(はたら)きを見た目や結果(けっか)でしか判断(はんだん)できません。それは、心の動機(どうき)や心の状態(じょうたい)理解(りかい)することができないからです。 しかし、この地上(ちじょう)の、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)順序(じゅんじょ)や、この世から(みと)められる優劣(ゆうれつ)は、神さまによってすべて反対にされます。神さまは、物事の結果(けっか)だけでなく、そのプロセス、心を見られるからです。

神さまを(しん)じて(つか)えたら、いくら報酬(ほうしゅう)があるのか、どんな利益(りえき)があるのか。そんなことは何も心配(しんぱい)しなくてよいのです。神さまは、それ相応(そうおう)のよいものをくださいます。

あなたの人生(じんせい)が今までどうであったかは大した問題ではありません。大切なのは、見返(みかえ)りを(もと)めてイエス様を(しん)じるのではなく、イエス様という人格(じんかく)を心から信頼(しんらい)する者を神さまは(よろこ)ばれます。

この地上(ちじょう)人生(じんせい)を終えた後、天の御国(みくに)(むか)()れていただき、神の子どもとしての財産(ざいさん)()()ぎます。もちろんこの地上(ちじょう)の歩みも神様とつながり祝福(しゅくふく)(そそ)がれます。

罪と赦し

詩篇(しへん)51(ぺん)1-12(せつ)より

土山みことばキリスト教会

2023年6月4日

<聖書>

指揮者(しきしゃ)のために。ダビデの賛歌(さんか)。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言(よげん)者ナタンが彼のもとに来たとき

(かみ)よ。御恵(みめぐ)みによって、私に(なさ)けをかけ、あなたの(ゆた)かなあわれみによって、私のそむきの(つみ)をぬぐい()ってください。どうか私の(とが)を、私から(まった)(あら)()り、私の(つみ)から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの(つみ)を知っています。私の(つみ)は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、(つみ)(おか)し、あなたの御目(おんめ)(あく)であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告(せんこく)されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は(とが)ある者として生まれ、(つみ)ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実(しんじつ)を喜ばれます。それゆえ、私の心の(おく)知恵(ちえ)(すく)えてください。ヒソプをもって私の(つみ)(のぞ)いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を(あら)ってください。そうすれば、私は(ゆき)よりも白くなりましょう。私に、(たの)しみと(よろこ)びを、()かせてください。そうすれば、あなたがお(くだ)きになった(ほね)が、(よろこ)ぶことでしょう。 御顔(みかお)を私の(つみ)から(かく)し、私の(とが)をことごとく、ぬぐい()ってください。(かみ)よ。私にきよい心を(つく)り、ゆるがない(れい)を私のうちに(あたら)しくしてください。私をあなたの御前(みまえ)から、()()てず、あなたの聖霊(せいれい)を、私から()()らないでください。あなたの(すく)いの(よろこ)びを、私に(かえ)し、(よろこ)んで(つか)える(れい)が、私をささえますように。

詩篇(しへん)51(ぺん)1-12(せつ)

<説教>

「あなた」と「わたし」と聞いて、何を連想(れんそう)しますか?

聖書(せいしょ)はずばり「神」と「私」の関係です。この詩篇(しへん)51篇の19節中で原語(げんご)では「私」が38回、「あなた」が47回出てきます。

(つみ)(ゆる)しは、たんに懺悔(ざんげ)のような自分一人の独白(どくはく)ではなく、気分的に楽になるのでもありません。神との親密(しんみつ)な関係の中に(たし)かな(ゆる)しが与えられるのです。

この詩篇(しへん)の中で、信仰者(しんこうしゃ)であったダビデはひたすら(つみ)(ゆる)しを(ねが)います。神を信じる者を神は決して見捨(みす)てない「御恵(みめぐ)み」(ヘブル語のヘセドで契約(けいやく)にもとづく愛の意味)、「あわれみ」(ヘブル語ラーハムで母の(たい)、子への生命の愛の意味)にすがります。

そして彼は、自分が(つみ)ある者であることを正直(しょうじき)告白(こくはく)します。ダビデが自分の(つみ)を知ったのは、彼に語った預言者(よげんしゃ)ナタンの言葉によってでした。ダビデ王の権力(けんりょく)によって、ナタンを消しさることもできました。しかし、ダビデは神のことばを真実(しんじつ)なものとして(つみ)(ゆる)しを乞いました。

(つみ)とはそれが発覚(はっかく)するかどうかはまったく関係ありません。神はすべての(つみ)をご存知(ぞんじ)だと聖書(せいしょ)は言うのです。(つみ)とは神を信じる者が、神の知恵(ちえ)によって(みと)めることができるのです。

しかし同時にその神だけが(つみ)解決(かいけつ)をお持ちです。ダビデは9節で「御顔(みかお)を私の(つみ)から(かく)し」てくださいと(いの)ります。すべての(つみ)をご存知(ぞんじ)の神に対して無意味(むいみ)にも思えます。しかし、すべての(つみ)をご存知(ぞんじ)の神が、人間の(つみ)(おお)(かく)してくださる。これは、新約(しんやく)聖書(せいしょ)のイエス・キリストの十字架(じゅうじか)(つみ)(あがな)いへとつながっていくのです。

さらに、ダビデはただ儀式的(ぎしきてき)(つみ)(ゆる)されるのではなく、彼の内の(つみ)性質(せいしつ)が変えられ、きよめられ、新しく(つく)り変えられることを(ねが)(もと)めるのです。

人間の(ゆる)しとは大目(おおめ)に見ること、我慢(がまん)することでしょう。しかし、神の(ゆる)しは、完全(かんぜん)であるだけでなく、()なる(正しい)者に内側(うちがわ)から刷新(さっしん)することを言うのです。

聖書(せいしょ)の最初は

「初めに、神が天と地を創造(そうぞう)した。」(創世記(そうせいき)1:1)

です。ここの「創造(そうぞう)した」はヘブル原語でバーラーという言葉です。これは主語(しゅご)が「神」の時だけに使われる特別な言葉です。

本編(ほんぺん)の10節の「私にきよい心を(つく)り」の「(つく)り」に使われているのがこのバーラーです。神を信じる者は、(つみ)(ゆる)され、神によってその心が雪よりも白く(つく)り変えられるのです。

そのためにいかなる(ささ)げものや犠牲(ぎせい)必要(ひつよう)ありません。その犠牲(ぎせい)はイエス・キリストが十字架(じゅうじか)でその(とうと)い命すべてを(ささ)げてくださいました。

人間の側で必要(ひつよう)なのは、次の聖書(せいしょ)の言葉にあらわされています。

神へのいけにえは、(くだ)かれたたましい。(くだ)かれた、()いた心。

神よ。あなたは、それをさげすまれません。       詩篇(しへん)51篇17節)

どんな(つみ)を犯したとしても、絶望(ぜつぼう)してはいけません。イエス・キリストはあなたの(つみ)のために死んでくださいました。告白(こくはく)だけが人を(つみ)から(すく)ってくれます。

いかなる(つみ)であっても、()(あらた)めるなら、あなたは神から(うしな)われることなく、神とともに生き続けることができます。そして神だけがあなたの大切な人生を、いつも新しく切り開き、(つく)られるお方なのです。この地上だけでなく永遠にです。