キリストにあってすべてが新しい

コリント人への手紙第二5章11-21節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月28日

<説教>

こういうわけで、私たちは、(しゅ)(おそ)れることを知っているので、人々を説得(せっとく)しようとするのです。私たちのことは、神の御前(みまえ)(あき)らかです。しかし、あなたがたの良心(りょうしん)にも(あき)らかになることが、私の(のぞ)みです。私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦(すいせん)しようとするのではありません。ただ、私たちのことを(ほこ)機会(きかい)をあなたがたに(あた)えて、心においてではなく、うわべのことで(ほこ)る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が(くる)っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気(しょうき)であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを()(かこ)んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後(こんご)、人間的な標準(ひょうじゅん)で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準(ひょうじゅん)でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく(つく)られた者です。古いものは()()って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解(わかい)させ、また和解(わかい)(つと)めを私たちに(あた)えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この()をご自分と和解(わかい)させ、違反(いはん)行為(こうい)()めを人々に()わせないで、和解(わかい)のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節(しせつ)なのです。ちょうど神が私たちを(とお)して懇願(こんがん)しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解(わかい)()()れなさい。神は、(つみ)を知らない方を、私たちの代わりに(つみ)とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の()となるためです。

(コリント人への手紙第二5章11-21節)

<説教>

あなたは新しく生まれ変わりたいですか。

人間の体の90%は生まれ変わっているのをご存知(ぞんじ)ですか。(ふる)細胞(さいぼう)が新しい細胞(さいぼう)に入れ替わるのです。約4か月前に食べたものが今の、あなたの血や肉や骨になっているのです。

(のう)細胞(さいぼう)(のう)みそ)と心筋(しんきん)細胞(さいぼう)心臓(しんぞう)筋肉(きんにく)以外(いがい)細胞(さいぼう)は、物質的(ぶっしつてき)にほとんど()()わっていると言われています。約1年半後、見た目は変わらなくてもあなたはほぼ別人になっているわけです。

(おどろ)きですね。しかし、この人間を(つく)られた神は、人の内面(うちめん)をも(つく)()えることができるのです。

その方法は、聖書(せいしょ)を読んで、自分の(つみ)気付(きづ)き、心を()()えて、神を信じて愛して生きることです。それ以外(いがい)に、人間は新しく生きることは(けっ)してできません。

イエスが自分の(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださったこと、また三日目によみがえられたことを信じるなら、その瞬間(しゅんかん)、あなたの(れい)(たましい)は新しくされます。あなたの中に、イエスが生き始めてくださいます。

外見(がいけん)は何も変わっていないように思えるかも知れません。しかし、その変化は時間が()つに(したが)って明らかにあらわれます。(つみ)に対して適当(てきとう)にごまかして生きることができなくされ、真実(しんじつ)に生きようという思いが(あた)えられます。自分の弱さを知り、イエス様を求めるようになります。人生の価値(かち)基準(きじゅん)が変えられます。生きる目的がはっきりし、自分を大切に健全(けんぜん)(あい)する者へと変えられます。

それは、すべてイエス・キリストに()た者へと変えられることであると聖書(せいしょ)は言っています。

イエスは(かみ)でありながら、人間としてこの地上に来られ、父なる(かみ)を大切に(あい)して(したが)い、人々を(あい)して、人間の本来(ほんらい)の生き方を(おし)えて下さいました。

人間は(あい)している者、信じている者に()ていきます。イエスを信じて(あい)して生きるとき、まったく新しい人生を始めることができるのです。

命とは不思議(ふしぎ)なものです。命の誕生(たんじょう)は人間には説明できません。

あなたは自分が生まれたときのことを(おぼ)えていますか。おそらく何も(おぼ)えていないでしょう。しかし、心を入れ()えてイエスを信じて生きようとするなら、もう一度新しく(たましい)が生まれ変わります。それは、あなたの(よろこ)びと希望(きぼう)となり、イエスこそがあなたの人生の目的になることでしょう。

信仰は神に答えるただ一つの手段

創世記11章27節-12章4節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月21日

<聖書>

これはテラの歴史(れきし)である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中(ぞんめいちゅう)、彼の生まれ故郷(こきょう)であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊(ふにん)の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。【主】はアブラムに(おお)せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷(こきょう)、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福(しゅくふく)し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福(しゅくふく)となる。あなたを祝福(しゅくふく)する者をわたしは祝福(しゅくふく)し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族(みんぞく)は、あなたによって祝福(しゅくふく)される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

(創世記11章27節-12章4節)

<説教>

創世記(そうせいき)は、「人類(じんるい)(はじ)め」について書かれています。宇宙(うちゅう)創造(そうぞう)、人間の創造(そうぞう)、人間の堕落(だらく)、ノアの洪水(こうずい)による神の審判(しんぱん)、バベルの(とう)の後、言葉が混乱(こんらん)して、人々は()()りにされました。

しかし、神に(そむ)き、自己(じこ)中心(ちゅうしん)に生きようとする罪深(つみぶか)い人間に、神はいつも語りかけてくださいます。

人間を(つみ)と死の(ほろ)びから、救い出そうとする神の(あがな)いの計画は、ひとりの人物、アブラハムから始まります。

神はアブラハムの心が神の御前(みまえ)真実(しんじつ)であるのをご(らん)になります。しかし、アブラハムは、異邦(いほう)の神、偶像(ぐうぞう)を神とするウルの町に住んでいました。神はアブラハムをそこから(すく)い出されます。神の語りかけに答えるならは、人は(つみ)の世から分離(ぶんり)(せい)(べつ))されていきます。

75歳で子供のないアブラハムにとって、自分の子孫(しそん)を通して祝福(しゅくふく)を与える神の約束(やくそく)は、常識(じょうしき)では(しん)じられないものでした。神の約束(やくそく)はかならず()たされますが、その中に信仰(しんこう)試練(しれん)が含まれています。

神は高齢(こうれい)のアブラハム夫婦(ふうふ)から星の数ほどの子孫(しそん)(あた)えることがおできになることをアブラハムは信仰(しんこう)によって(しん)じました。そうです。神は約束(やくそく)されたことを必ず実現(じつげん)されます。神の語りかけに、アブラハムはすぐに答えました。まったく未知(みち)の地へ新しく(すす)みだしたのです。

神の約束(やくそく)()()るただ一つの方法は「信仰(しんこう)」です。神のことばを間違(まちが)いのない真実(しんじつ)なものと(しん)じることです。

聖書(せいしょ)のいう信仰(しんこう)者とは、正しい行いを守ることによっていただくよりも深い、真実(しんじつ)な神との関係を知っていました。

聖書(せいしょ)(はじ)めから終わりまで信仰(しんこう)によって()()る神の約束(やくそく)です。

イエス・キリストを(すく)(しゅ)と信じる信仰(しんこう)特別(とくべつ)なものでなく、人間が創造(そうぞう)された(むかし)から神に対する人間ができる唯一(ゆいいつ)応答(おうとう)なのです。

アブラハムに約束された祝福(しゅくふく)は、イエス・キリストを通して完全(かんぜん)成就(じょうじゅ)しました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神を信じる者を()(つみ)のない者)と(みと)めてくださいます。

イエスに従う者の生き方

マルコの福音書10章35-45節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月14日

<聖書>

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの(たの)(ごと)をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光(えいこう)()で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を(もと)めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの()もうとする(さかずき)()み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの()(さかずき)()み、わたしの()けるべきバプテスマを()けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが(ゆる)すことではありません。それに(そな)えられた人々があるのです。」十人の(もの)がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで(はら)()てた。そこで、イエスは彼らを()()せて、言われた。「あなたがたも()っているとおり、異邦人(いほうじん)支配者(しはいしゃ)(みと)められた(もの)たちは彼らを支配(しはい)し、また、(えら)い人たちは彼らの上に権力(けんりょく)をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で(えら)くなりたいと思う(もの)は、みなに(つか)える(もの)になりなさい。あなたがたの間で人の先に()ちたいと思う(もの)は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、(つか)えられるためではなく、かえって(つか)えるためであり、また、多くの人のための、(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを(あた)えるためなのです。」

(マルコの福音書(ふくいんしょ)10章35-45節)

<説教>

イエスの弟子(でし)のヤコブとヨハネは他の弟子(でし)たちと同じように、すべてを()ててイエスに(したが)ってきました。しかし、心の中では人よりも自分が評価(ひょうか)されたいとも考えていました。

かつて弟子(でし)たちは天国(てんごく)で一番(えら)い者とはどのような人かをイエスに質問(しつもん)しました。人間とはそもそも(えら)くなりたい、(みと)められたいと(ねが)うものなのです。

キリスト者とはイエスに(したが)って生きる者です。そこには自分のためだけに生きる者が経験(けいけん)しない試練(しれん)(くる)しみがあることでしょう。

けれども、たとえイエスと(くる)しみをともに()けても天国(てんごく)()ける(むく)いの確約(かくやく)()ることはできません。究極的(きゅうきょくてき)にはすべての最後の権限(けんげん)はキリストの父である(かみ)にあります。私たちが(もと)めるべきは、いかに(むく)いを()けるかよりも、いかにイエスに(したが)って(つか)えていくかなのです。

イエスを(しん)じて生きる者は、この世の権力者(けんりょくしゃ)のようであってはなりません。(かみ)の前では、そのような権力(けんりょく)や力はまったく通用(つうよう)しません。(かみ)の前では人に(つか)える者こそ(たっと)ばれる生き方です。(つか)える給仕(きゅうじ)、しもべのように役に立つ、謙遜(けんそん)姿勢(しせい)がキリスト者の根本的(こんぽんてき)姿勢(しせい)です。

イエスは、その(すく)(ぬし)(メシヤ)としての生涯(しょうがい)(とお)して(つか)えるしもべの生き方を(しめ)されました。その十字架(じゅうじか)こそが完全(かんぜん)模範(もはん)でした。

(あがな)いの代価(だいか)(ギリュトゥトロン)」とは、自分の力ではどうしても()け出せない(つみ)奴隷(どれい)状態(じょうたい)から人間を(すく)い出すためにイエスが十字架(じゅうじか)支払(しはら)われた(いのち)です。

十字架(じゅうじか)の死にまで(したが)ったイエスのお姿を知って、私たちがイエスを(しん)じて(あい)するとき、私たちもまた(だれ)かに(つか)えることによってイエスの(あい)十字架(じゅうじか)を本当に体験(たいけん)します。その生き方によって私たちはイエスに()真実(しんじつ)な人間に変えられていきます。

この世で人々から称賛(しょうさん)されるのは、さまざまな勝者(しょうしゃ)といわれる人たちかも知れません。しかし、(かみ)天国(てんごく)(かんむり)をかぶらせてくれる者とは、(だれ)にも知られないような人生の中で、小さきものに(つか)えた者なのです。

驚くべき恵み~キリストと共に生かす

エペソ人への手紙2章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月7日

<聖書>

あなたがたは自分の罪過(ざいか)(つみ)との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの(つみ)の中にあってこの()(なが)れに(したが)い、空中(くうちゅう)権威(けんい)を持つ支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に(はたら)いている(れい)(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の(にく)(よく)の中に生き、(にく)と心の(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを()けるべき子らでした。しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙2章1-5節)

<説教>

(かみ)(おどろ)くべき、(しん)じがたい(めぐ)みを知るには、人間がいかにひどい状態(じょうたい)なのかを知る必要(ひつよう)があります。

死とはやがて(むか)える未来(みらい)のことではなく、今現在(げんざい)の人間の姿(すがた)こそが()であると聖書(せいしょ)ははっきりと示しています。すなわち、()とは、人間の生命(せいめい)(みなもと)である(かみ)との関係を(うしな)った状態(じょうたい)を言うのです。人間の(れい)は「()んでいる」とか「(よわ)っている」とかではなく、「()んでいる」のです。

人間は(つみ)と共に生まれてきます。その人間は(つみ)支配(しはい)され、奴隷(どれい)とされて、(かみ)(したが)うことができません。人間とは生まれながら(かみ)御怒(みいか)りを()けるべき子どもなのです。この御怒(みいか)りとはすべての人間が死後(しご)()ける審判(しんぱん)のことです。

しかし、(かみ)(あい)は、人間に次のような(しん)じられない(めぐ)みを(あた)えてくださいます。

  • (かみ)への(とびら)(ひら)かれています

道を外れて家出した子どもは、もう帰る家の()はかたく()ざされていると考えるかも知れません。キリストの十字架(じゅうじか)(つみ)(あがな)いによって、(しん)じる者はいつでも(かみ)への和解(わかい)の道が用意(ようい)されています。(かみ)()(あらた)めて(もど)ってくる人間を(よろこ)んで待っておられます。

  • (つみ)によって()んだ理想(りそう)()をともしてくださいます

人間は(つみ)()(かえ)すことによって、人生の気高(けだか)理想(りそう)(うしな)ってしまいます。しかしキリストの(めぐ)みは、()()った理想(りそう)にふたたび()をともします。人生はふたたび生きる価値(かち)あるものとされます。

  • (つみ)によって(うしな)われた意志(いし)に命を()()み新しく(つく)()えてくださいます

(つみ)徐々(じょじょ)に、しかし確実(かくじつ)に人間の(とうと)意志(いし)()(めつ)させてしまいます。(きん)じられた悪いことがやめられなくなり、人間の正しい自由(じゆう)意志(いし)の力を(うば)()ります。そしてまったくなす(すべ)もなく(つみ)(くさり)(しば)られてしまうのです。しかし、キリストは(うしな)われた意志(いし)を新しく(つく)られます。(あい)は人に新しい力を(あた)えるのです。人間の真実(しんじつ)(あい)が人に生きる力を(あた)えるとしたら(かみ)(あい)ははるかにそれ以上です。人はキリストを(あい)するとき、まさに、その(あい)が私たちの意志(いし)(ぜん)()けて新しく(つく)()えるのです。

この素晴(すば)らしい(かみ)(めぐ)み(プレゼント)はすべて無料(むりょう)です。(ゆる)しは、ただ(かみ)一方的(いっぽうてき)(あい)の行いです。人間の(がわ)出来(でき)ることは何一つないのです。

キリストの十字架(じゅうじか)()を、自分の(つみ)身代(みが)わりであると感謝(かんしゃ)して、ただ()()るならば、あなたはこの(めぐ)みをご自分のものとすることができるのです。

信仰によってイエスと生きる

マタイの福音書14章22-33節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月30日

<聖書>

それからすぐ、イエスは弟子(でし)たちを()いて(ふね)()()ませて、自分より先に()こう(きし)へ行かせ、その間に群衆(ぐんしゅう)(かえ)してしまわれた。群衆(ぐんしゅう)(かえ)したあとで、(いの)るために、ひとりで山に(のぼ)られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、(ふね)は、(りく)からもう何キロメートルも(はな)れていたが、風が()かい風なので、(なみ)(なや)まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは(みずうみ)の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子(でし)たちは、イエスが(みずうみ)の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊(ゆうれい)だ」と言って、おびえてしまい、(おそ)ろしさのあまり、(さけ)(ごえ)を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。(おそ)れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「(しゅ)よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお(めい)じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは(ふね)から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、(しず)みかけたので(さけ)び出し、「(しゅ)よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を()ばして、彼をつかんで言われた。「信仰(しんこう)(うす)い人だな。なぜ(うたが)うのか。」そして、ふたりが(ふね)()(うつ)ると、風がやんだ。そこで、(ふね)の中にいた者たちは、イエスを(おが)んで、「(たし)かにあなたは(かみ)の子です」と言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)14章22-33節)

<説教>

このお話しは、イエスが5つのパンと2匹の魚から5千人に食事(しょくじ)(あた)えた奇蹟(きせき)の後の出来事(できごと)です。

弟子(でし)たちは、真夜中(まよなか)の海で向かい風と強い(なみ)悪戦苦闘(あくせんくとう)していました。そんな弟子(でし)たちを(なぐさ)めるためにイエスは海の上を歩いて弟子(でし)たちに近づきました。

(つか)()った弟子(でし)たちは、昼間の奇蹟(きせき)を忘れて、イエスを幽霊(ゆうれい)()間違(まちが)って(おそ)れます。イエスは弟子(でし)たちに言われます

「しっかりしなさい。わたしだ。(おそ)れることはない」

これは現実(げんじつ)問題(もんだい)(おそ)れてしまう私たちへのイエスのおことばです。どんな状況(じょうきょう)の中であってもイエスを(しん)じることだけがあなたを(まも)ってくれるのです。

イエスのことばを(しん)じたときペテロの(おそ)れは()え、イエスだけを()()ぐに見て水の上を歩くことができました。しかし、その直後(ちょくご)に風と(なみ)を見たとき彼の心に(おそ)れが生まれ、海に(しず)みそうになります。(しん)(つづ)けることが(むずか)しいのです。

科学(かがく)では人間は絶対(ぜったい)に水の上を歩けません。重力(じゅうりょく)浮力(ふりょく)法則(ほうそく)(さか)らうことができないからです。この天地(てんち)万物(ばんぶつ)(つく)られた(かみ)を信じる者は(さいわ)いです。(かみ)は見えるものだけでなく、時間や光、力やあらゆる物理(ぶつり)法則(ほうそく)(さだ)められました。

しかしイエスを(しん)じる信仰(しんこう)は、重力(じゅうりょく)浮力(ふりょく)(さか)らって水の上を歩くより(おどろ)くべきことです。それは人間にはどうすることもできない(つみ)の力、人間をがんじがらめにしている(つみ)(くさり)からの解放(かいほう)です。イエスが十字架(じゅうじか)で死んでくださり、よみがえられたことで、(つみ)の力はもう()()られたのです。イエスを(しん)じるなら、(つみ)の力はもうあなたを(ふか)(やみ)(しず)めることはできません。

水の上を歩くよりも不思議(ふしぎ)な道です。それは目には見えない、どこを(さが)しても見つからない信仰(しんこう)という小さい門、イエスと共にしか歩めない真理(しんり)という(せま)い道を生きることです。

そのようにイエスを信じて(すく)われた者も何度(なんど)何度(なんど)失敗(しっぱい)します。しかしイエスに(したが)う者は(かなら)(たす)けられ、そこから立ち上り、前へ前へと進んでいくことができるのです。その道は天国につながっています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書14:6)

探して近づいてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月23日

<聖書>

またこう話された。「ある人に息子(むすこ)がふたりあった。(おとうと)が父に、『お父さん。私に財産(ざいさん)の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代(しんだい)をふたりに分けてやった。それから、幾日(いくにち)もたたぬうちに、(おとうと)は、何もかもまとめて遠い国に旅立(たびだ)った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水(ゆみず)のように財産(ざいさん)使(つか)ってしまった。何もかも使(つか)()たしたあとで、その国に大ききんが()こり、彼は食べるにも(こま)(はじ)めた。それで、その国のある人のもとに()()せたところ、その人は彼を畑にやって、(ぶた)世話(せわ)をさせた。彼は(ぶた)の食べるいなご(まめ)(はら)()たしたいほどであったが、だれひとり彼に(あた)えようとはしなかった。しかし、(われ)(かえ)ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり(あま)っている(やと)(にん)が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、()()にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して(つみ)おか)し、またあなたの前に(つみ)(おか)しました。もう私は、あなたの子と()ばれる資格(しかく)はありません。(やと)(にん)のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは(とお)かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り()って彼を()き、口づけした。息子(むすこ)は言った。『お父さん。私は天に対して(つみ)(おか)し、またあなたの前に(つみ)(おか)しました。もう私は、あなたの子と()ばれる資格(しかく)はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『(いそ)いで一番()着物(きもの)()って来て、この子に()せなさい。それから、手に指輪(ゆびわ)をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして()えた子牛(こうし)()いて()てほふりなさい。食べて(いわ)おうではないか。この息子(むすこ)は、()んでいたのが()(かえ)り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴(しゅくえん)(はじ)めた。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)15章11-24節)

<説教>

有名(ゆうめい)放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話です。正確(せいかく)には、(うしな)われた子どもたち・父の(あい)物語(ものがたり)と言えます。

父の存命中(ぞんめいちゅう)相続(そうぞく)財産(ざいさん)()()り、父のもとから(とお)(はな)れて放蕩(ほうとう)のすえ、友も(うしな)孤独(こどく)となり、食べるのにも(こま)()て、ユダヤ人にとって(けっ)してあってはならない(ぶた)世話(せわ)をするまで()ちぶれてしまいます…

人間の(つみ)とは一体(いったい)(なん)でしょうか。それは人間は(あい)に対して反逆(はんぎゃく)する存在(そんざい)だということです。それは、(あい)するために子に(いのち)(あた)えた(かみ)にとっては(かんが)えられないことでした。(けっ)してあってはならないことでした。

子の(つみ)は、親のお金を自分の(よく)のために浪費(ろうひ)したことではありません。この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)が父親の(あい)から独立(どくりつ)して生活したいと、なぜか(かんが)えたことなのです。それは親を(うやま)っての自立(じりつ)ではありませんでした。父親の意志(いし)(したが)うことが窮屈(きゅうくつ)と感じて、父から(はな)れて生きようとすることでした。また人生の主導権(しゅどうけん)は自分であって自分のしたいように生きようとすることでした。家庭(かてい)(あい)の中で生きることは、自分の自由な人生を(さまた)げると(かんが)えて、その家族から(はな)れて生きようとすることでした。

(じつ)はそれこそが、人類(じんるい)最初(さいしょ)(つみ)最初(さいしょ)の人アダムが(かみ)(したが)わず、(かみ)から(はな)れて生きることと同じなのです。それ以来(いらい)(つづ)人類(じんるい)物語(ものがたり)歴史(れきし)です。

(つみ)とは、自分を(つく)った(かみ)の最高の(あい)のもとで被造物(ひぞうぶつ)として(したが)わずに、(かみ)がくださる素晴(すば)らしい賜物(たまもの)(かみ)のために使わずに、(かみ)のもとから(はな)れて生きることです。しかし、(かみ)から(はな)れて自由に生きようとするとき、人間は(かなら)(つみ)奴隷(どれい)になると聖書(せいしょ)は教えています。

しかし父の(あい)熱心(ねっしん)(うしな)われた息子(むすこ)(さが)すのです。息子(むすこ)が家にいたときも、父の財産(ざいさん)をもって(とお)(はな)れたときも、すべてを(うしな)って(ぶた)世話(せわ)をしていたときも、父の(あい)は変わることはありませんでした。

ただ、(つみ)が父と息子(むすこ)の間にあるために、和解(わかい)には息子(むすこ)(こころ)変化(へんか)()たねばなりませんでした。自分と向き合い(つみ)悲惨(ひさん)(みと)め、(かみ)に立ち返ろうと(ねが)うこと、それは本人(ほんにん)以外(いがい)(だれ)にもできません。

人間は(かみ)から(はな)れて(さか)らっている間は、本当の自分から(はな)れています。(かみ)に立ち返るとき人間ははじめて本当の自分を見つけることができるのです。

(われ)(かえ)ったとき、息子(むすこ)は父に(したが)わなかった(つみ)の生き方を止めて父に(したが)(やと)(にん)になることで満足(まんぞく)します。もう(あい)される子どもの資格(しかく)はないと考えるかも知れません。

しかし、(かみ)の前に()(あらた)めるなら、父なる(かみ)は、(よろこ)んで彼を(むか)えてくださり、完全(かんぜん)なこども以上の存在(そんざい)(あた)えてくださいます。

あなたがたは自分の罪過(ざいか)(つみ)との中に()んでいた者であって、そのころは、それらの(つみ)の中にあってこの世の(なが)れに(したが)い、空中(くうちゅう)権威(けんい)()支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に(はたら)いている(れい)(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の(にく)(よく)の中に生き、(にく)(こころ)(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを()けるべき子らでした。しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に()んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです── 

(エペソ人への手紙2:1-5

すべて疲れた人へ

マタイの福音書11章20-30節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月16日

<聖書>

それから、イエスは、数々(かずかず)の力あるわざの行われた町々が()(あらた)めなかったので、()(はじ)められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの(むかし)(あら)(ぬの)をまとい、(はい)をかぶって()(あらた)めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは(ばつ)(かる)いのだ。カペナウム。どうしておまえが(てん)に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで(のこ)っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは(ばつ)(かる)いのだ。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地(てんち)(おも)であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、(かしこ)(もの)知恵(ちえ)のある(もの)には(かく)して、幼子(おさなご)たちに(あらわ)してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに(わた)されています。それで、父のほかには、子を()(もの)がなく、子と、子が父を()らせようと(こころ)(さだ)めた人のほかは、だれも父を()(もの)がありません。すべて、(つか)れた人、重荷(おもに)()っている人は、わたしのところに()なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは(こころ)(やさ)しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを()って、わたしから(まな)びなさい。そうすればたましいに安らぎが()ます。わたしのくびきは()いやすく、わたしの()(かる)いからです。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

ツロ、シドンは旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)で、異邦(いほう)(かみ)(すう)(はい)して、栄華(えいが)快楽(かいらく)(たか)ぶりにより、ユダヤをあざけり(ほろ)ぼされた国です。ソドムは(けが)れた肉欲(にくよく)罪深(つみふか)い町であり、(つみ)(ばつ)代名詞(だいめいし)でした。けれども、そんな町々でさえ、イエスがなされる(かみ)奇蹟(きせき)を見るなら(つみ)()(あらた)めるので、ユダヤの町々よりも(つみ)は軽いとイエスは言われます。

イエスを信じて(つみ)()(あらた)めるなら、天国(てんごく)に入れる福音(ふくいん)(よい知らせ)は、(かしこ)い者や知恵(ちえ)ある者には(かみ)(かく)されるのです。(かみ)形式(けいしき)儀式(ぎしき)(きら)われます。(かみ)(あい)する心を(よろこ)ばれます。()からさげすまれ、価値(かち)なき者、無知(むち)な者、ただ素直(すなお)な者に(かみ)(すく)いの御国(みくに)(めぐみ)として(あた)えてくださるのです。

父なる(かみ)を知るのは子なるイエスだけです。またイエスを知るのは(かみ)だけです。父なる(かみ)と子なるイエスは特別な関係(かんけい)をもちます。天の御国(みくに)にまつわるすべては(かみ)からイエスに委ねられています。ただ、イエスによってのみ、人間は(かみ)を知ることができるのです。ここで言う「知る」とはたんなる知的(ちてき)知識(ちしき)ではなくて、いのちが(かよ)い合う存在(そんざい)関係(かんけい)です。

イエスは、すべての人に、わたしのもとに来るように(まね)いています。それは、(つみ)重荷(おもに)(くる)しむ者、人生の思いわずらい、(くる)しみ、問題(もんだい)(なや)む者です。この(まね)きにこたえてイエスのもとに来るものは重荷(おもに)をおろして休むことができると約束(やくそく)されています。

それはイエスのくびきを共にいただくことです。くびきとは人間が2(とう)(うし)(うま)(くび)(いた)ではさんで固定(こてい)して(あやつ)道具(どうぐ)です。

それは、気ままに歩む者には、束縛(そくばく)であり邪魔(じゃま)なものです。しかし、主人(しゅじん)(したが)おうとする者には必要(ひつよう)であり、また(ねが)うものです。イエスこそがすべての主権者(しゅけんしゃ)である(かみ)であり、この方を(みと)めて、信頼(しんらい)して生きるとき、人は(はじ)めてまことの平安(へいあん)をいただくことができるのです。そのとき、不安(ふあん)罪悪感(ざいあくかん)欲求(よっきゅう)不満(ふまん)からくる緊張(きんちょう)や、あせりから解放(かいほう)されます。

なぜなら、イエスが(あた)えるくびきは、あなたの体にぴったり合ったオーダーメイドのくびきだからです。(はだ)がすりむけるような苦痛(くつう)窮屈(きゅうくつ)なくびきではありません。(つみ)重荷(おもに)や、()(みと)められる労苦(ろうく)()わえつけられたくびきではないのです。

いつもイエスが共にいる歩みであり、決して重荷(おもに)にはなりません。イエスを知っていく、(つみ)重荷(おもに)()()れ、(けが)れからきよめらえる(あい)(よろこ)びと平安(へいあん)の歩みなのです。

   1.(しゅ)にすがるわれに (なや)みはなし
 十字架(じゅうじか)御許(みもと)()を下ろせば
 (うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
  
 2.(おそ)れは()わりて 祈りとなり
 (なげ)きは()わりて (うた)となりぬ
 (うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
   
 3.(しゅ)はいと(やさ)しく われと(かた)(とぼ)しき()()たし(たま)(うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
  
 4.(しゅ)御約束(みやくそく)()わりはなし
 御許(みもと)()くまで (ささ)(たま)わん
 (うた)いつつ(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 (うた)いつつ(あゆ)まん この()旅路(たびじ)を
  
 聖歌498番
 (うた)いつつ(あゆ)まん((しゅ)にすがる我に) 

十字架の上

マタイの福音書27章27-51節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月2日

<聖書>

それから、総督(そうとく)兵士(へいし)たちは、イエスを官邸(かんてい)の中に()れて行って、イエスの回りに全部隊(ぜんぶたい)(あつ)めた。そして、イエスの着物(きもの)()がせて、緋色(ひいろ)上着(うわぎ)()せた。それから、いばらで(かんむり)()み、(あたま)にかぶらせ、右手(みぎて)(あし)を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の(おう)さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、(あし)()り上げてイエスの(あたま)をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物(きもの)()がせて、もとの着物(きもの)()せ、十字架(じゅうじか)につけるために()れ出した。そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架(じゅうじか)を、むりやりに背負(せお)わせた。ゴルゴタという(ところ)(「どくろ」と言われている場所(ばしょ))に来てから、彼らはイエスに、(にが)みを()ぜたぶどう(しゅ)()ませようとした。イエスはそれをなめただけで、()もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架(じゅうじか)につけてから、彼らはくじを()いて、イエスの着物(きもの)を分け、そこにすわって、イエスの見張(みは)りをした。また、イエスの(あたま)の上には、「これはユダヤ人の(おう)イエスである」と書いた罪状(ざいじょう)()きを(かか)げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗(ごうとう)が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架(じゅうじか)につけられた。(みち)を行く人々は、(あたま)()りながらイエスをののしって、言った。「神殿(しんでん)を打ちこわして三日(みっか)()てる人よ。もし、神の子なら、自分を(すく)ってみろ。十字架(じゅうじか)から()りて()い。」(おな)じように、祭司(さいし)(ちょう)たちも律法(りっぽう)学者(がくしゃ)(ちょう)(ろう)たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人(たにん)(すく)ったが、自分は(すく)えない。イスラエルの(おう)だ。今、十字架(じゅうじか)から()りてもらおうか。そうしたら、われわれは(しん)じるから。彼は(かみ)により(たの)んでいる。もし(かみ)のお気に入りなら、いま(すく)っていただくがいい。『わたしは(かみ)の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架(じゅうじか)につけられた強盗(ごうとう)どもも、(おな)じようにイエスをののしった。さて、十二時(じゅうにじ)から、全地(ぜんち)(くら)くなって、三時(さんじ)まで(つづ)いた。三時(さんじ)ごろ、イエスは大声(おおごえ)で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と(さけ)ばれた。これは、「わが(かみ)、わが(かみ)。どうしてわたしをお見捨(みす)てになったのですか」という意味(いみ)である。すると、それを()いて、そこに()っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを()んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ(はし)って行って、海綿(かいめん)()り、それに()いぶどう(しゅ)(ふく)ませて、(あし)(ぼう)につけ、イエスに()ませようとした。ほかの(もの)たちは、「私たちはエリヤが(たす)けに()るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう一度(いちど)大声(おおごえ)(さけ)んで、(いき)()()られた。すると、見よ。神殿(しんでん)(まく)が上から下まで()(ぷた)つに()けた。そして、()()(うご)き、(いわ)()けた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

十字架刑(じゅうじかけい)は、特別(とくべつ)犯罪(はんざい)にしか使われませんでした。それは主人(しゅじん)裏切(うらぎ)った者、逃亡(とうぼう)した者、最も低い身分(みぶん)の者が重い(つみ)(おか)した場合でした。

(けが)れた罪人(つみびと)が地上に()れないように、十字架(じゅうじか)の上で()から()てられた存在(そんざい)として、苦痛(くつう)と、さげすみと、はずかしめを()けるのです。

そして、イエスは(くる)しみの十字架(じゅうじか)の上で、父なる(かみ)にも見()てられました。

なぜでしょうか。(かみ)完全(かんぜん)に正しいお(かた)で、きよく、(あい)なるお(かた)です。(かみ)全能(ぜんのう)で何でもできます。しかし、(かみ)のご性質(せいしつ)(はん)することはできません。(かみ)(つみ)をそのままにしておくことはできないのです。

イエスが十字架(じゅうじか)()ななければならないほど、人間の(つみ)(おも)いのです。十字架(じゅうじか)の上で、すべての人間の(つみ)身代(みが)わりとなり、父なる(かみ)の目には、イエスが完全(かんぜん)罪人(つみびと)として見えたのです。そして、罪人(つみびと)としての刑罰(けいばつ)を、すべてお()けになったのです。(つみ)(かみ)との関係(かんけい)を失わせます。(かみ)(つく)られた者にとって、(かみ)(こた)えがないことは何よりも苦痛(くつう)なのです。

イエスの右と左には強盗(ごうとう)十字架(じゅうじか)に付けられていました。一人の強盗(ごうとう)は、自分の(くる)しみを(さけ)び、(かみ)(のろ)っています。しかし、もう一人の強盗(ごうとう)は、自分の罪深(つみぶか)い人生に気付(きづ)きます。(かみ)がいないため、どうしようもない人生になったとわかったのです。しかし、彼はイエスが(かみ)であり、自分の罪深(つみぶか)さに(こた)えて下さると(しん)じたのです。

しかし、彼は、もう十字架(じゅうじか)の上で()ぬのをただ()つだけです。(のこ)された時間で彼にいったい何が出来(でき)るとういうのでしょうか。もう絶望(ぜつぼう)なのでしょうか。

いいえ。人はいつでも自分と()き合い、自分の(つみ)やけがれを心から、()(あらた)めるなら、イエスを(しん)じるだけで、その瞬間(しゅんかん)(すく)われ、(つみ)(ゆる)されます。

すべての人は、イエスの右と左の強盗(ごうとう)のどちらかです。それ以外の人はひとりもいません。すべての人間は罪人(つみびと)です。イエスが必要(ひつよう)なのです。

(かみ)は人間の(つみ)を決してあいまいにはできません。しかし、(かみ)同時(どうじ)に、その(つみ)刑罰(けいばつ)をご自分でお()けになったのです。

十字架(じゅうじか)は、(かみ)完全(かんぜん)な正しさと、完全(かんぜん)(あい)(あらわ)された()をいのちに()える(ちから)です。

(つみ)重荷(おもに)は、あまりに(おも)く、(だれ)背負(せお)うことなどできません。イエスはあなたを自由(じゆう)解放(かいほう)するために「完了した」と言われ()んでくださいました。

この(とうと)いイエスの犠牲(ぎせい)()、しかし、あなたのために(よろこ)んで十字架(じゅうじか)()んでくださったイエスを(しん)じませんか。

十字架と罪

マタイの福音書27章15-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月26日

<聖書>

ところで総督(そうとく)は、その(まつ)りには、群衆(ぐんしゅう)のために、いつも(のぞ)みの囚人(しゅうじん)をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人(しゅうじん)()らえられていた。それで、彼らが(あつ)まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(しゃくほう)してほしいのか。バラバか、それともキリストと()ばれているイエスか。」ピラトは、彼らがねたみからイエスを()(わた)したことに気づいていたのである。また、ピラトが裁判(さいばん)(せき)()いていたとき、彼の(つま)が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は(ゆめ)で、あの人のことで(くる)しいめに会いましたから。」しかし、祭司(さいし)(ちょう)長老(ちょうろう)たちは、バラバのほうを(ねが)うよう、そして、イエスを死刑(しけい)にするよう、群衆(ぐんしゅう)()きつけた。しかし、総督(そうとく)は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放(しゃくほう)してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架(じゅうじか)につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな(わる)い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます(はげ)しく「十字架(じゅうじか)につけろ」と叫び続けた。そこでピラトは、自分(じぶん)では手の(くだ)しようがなく、かえって暴動(ぼうどう)になりそうなのを見て、群衆(ぐんしゅう)の目の前で水を()()せ、手を(あら)って、言った。「この人の()について、私には責任(せきにん)がない。自分(じぶん)たちで始末(しまつ)するがよい。」すると、民衆(みんしゅう)はみな(こた)えて言った。「その人の()は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放(しゃくほう)し、イエスをむち()ってから、十字架(じゅうじか)につけるために()(わた)した。  

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章15-26節)

<説教>

ローマの支配下(しはいか)のユダヤ(りょう)総督(そうとく)ポンテオ・ピラトによる、イエスの裁判(さいばん)が行われます。ユダヤ国は十字架刑(じゅうじかけい)執行(しっこう)する権限(けんげん)がなかったので、イエスを政治犯(せいじはん)としてローマの権限(けんげん)十字架刑(じゅうじかけい)にしようとしたのです。

裁判(さいばん)の中で、ピラトはイエスは無実(むじつ)であり、十字架刑(じゅうじかけい)にする理由(りゆう)はないと判断(はんだん)しました。ピラトはイエスを何とか釈放(しゃくほう)しようと努力(どりょく)します。しかし、イエスを(にく)むユダヤ指導者(しどうしゃ)や、彼らに扇動(せんどう)された群衆(ぐんしゅう)(くる)ったように、「イエスを十字架(じゅうじか)に付けろ!」と(さけ)(つづ)けます。その力を(おそ)れて、自分の身を守るために、ついにピラトはイエスを十字架(じゅうじか)へと()(わた)します。

しかし、実はピラトの本当の姿(すがた)堕落(だらく)していました。彼は不正(ふせい)を行い、残忍(ざんにん)で、不法(ふほう)裁判(さいばん)で人を(ころ)し、人間として(みち)(はず)していたのです。ピラトはイエスがこれまで裁判(さいばん)で見てきた罪人(つみびと)とはまったく(ちが)存在(そんざい)であることに気付(きづ)きます。いつしか、ピラト本人(ほんにん)がイエスに(さば)かれていました。無実(むじつ)のイエスをさばくことなどできない自分の罪深(つみぶか)姿(すがた)をピラトは苦しみます。

ピラトは、イエスの無実(むじつ)を知りながら、ユダヤ人たちに自分の過去(かこ)悪行(あくぎょう)を知られていたため、自分の判断(はんだん)や正しさを行えず、ユダヤ人の言いなりになったのです。

しかし、イエスは、そんなピラトの罪深(つみぶか)姿(すがた)をご存知(ぞんじ)でした。

人間は自分の(ねが)いをかなえるためには、少しの(あく)不正(ふせい)はかまわないと思うかも知れません。いえ、(あく)(ぜん)()()つと本気で考える人たちもいるかも知れません。

しかし、ヘロデ、カヤパ、ピラト、ヒットラー、スターリン、その他すべての悪人(あくにん)たちは(かみ)から(とお)(ほろ)()りました。しかし、イエスは今も生きておられる()なるお方です。

ピラトは社会的(しゃかいてき)立場(たちば)問題(もんだい)がなくても、すべてをご存知(ぞんじ)(かみ)の目には罪深(つみふか)姿(すがた)がありました。それはすべての人間の姿(すがた)でもあります。すべての人は十字架(じゅうじか)を王座とする血まみれのイエスという王によって裁かれるのです。人は十字架(じゅうじか)によってはじめて自分の(つみ)を知るのです。

バラバは(ごく)悪人(あくにん)罪人(つみひと)でしたが、イエスの十字架(じゅうじか)()()えに無罪(むざい)放免(ほうめん)となりました。バラバは(ねが)っていた自由(じゆう)を手に入れました。しかし、そのとき、彼は自分の()わりにイエスがむち()たれ血まみれの姿(すがた)十字架(じゅうじか)背負(せお)って、ついに十字架(じゅうじか)の上で()なれたことを知ったことでしょう。彼はたとえ釈放(しゃくほう)されても、(おか)した(つみ)(けっ)して(ゆる)されません。

しかし、イエスの()がただの()ではなく、自分のために()なれたことがわかったとき、彼は(つみ)(ゆる)されるのです。

すべての人は、(つみ)(おか)したので、(かみ)からの栄誉(えいよ)()けることができず、ただ、(かみ)(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる(あがな)いのゆえに、(あたい)なしに()(みと)められるのです。

(ローマ人への手紙3:23-24)

イエスに従う者

マタイの福音書26章69-27章5節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月19日

<聖書>

ペテロが外の中庭(なかにわ)にすわっていると、女中(じょちゅう)のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを()()して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中(じょちゅう)が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを()()し、(ちか)って、「そんな人は知らない」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄(ちかよ)って来て、「(たし)かに、あなたもあの仲間(なかま)だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて(ちか)(はじ)めた。するとすぐに、(にわとり)()いた。そこでペテロは、「(にわとり)()く前に三度(さんど)、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、(はげ)しく()いた。さて、夜が明けると、祭司(さいし)(ちょう)(たみ)長老(ちょうろう)たち全員は、イエスを死刑(しけい)にするために協議(きょうぎ)した。それから、イエスを(しば)って()()し、総督(そうとく)ピラトに()(わた)した。そのとき、イエスを()ったユダは、イエスが(つみ)(さだ)められたのを知って後悔(こうかい)し、銀貨(ぎんか)三十枚を、祭司(さいし)(ちょう)長老(ちょうろう)たちに(かえ)して、「私は(つみ)(おか)した。(つみ)のない人の()()ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末(しまつ)することだ」と言った。それで、彼は銀貨(ぎんか)神殿(しんでん)()()んで()()った。そして、外に()て行って、(くび)をつった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章69-27章5節)

<説教>

(すぎ)()しの(まつ)りが近づく中、イエスを十字架(じゅうじか)(けい)にしようとユダヤ宗教(しゅうきょう)議会(ぎかい)(サンヘドリン)の裁判(さいばん)が行われます。そんなイエスの受難(じゅなん)の時、弟子(でし)のペテロはイエスを知らないと(いな)み、イスカリオテのユダは銀貨(ぎんか)30枚でイエスを()(わた)した(つみ)後悔(こうかい)して、(くび)()自殺(じさつ)します。

わずか前まではペテロはイエスが()ぬなら一緒(いっしょ)()ぬと言い、またイエスを逮捕(たいほ)しにきた大勢(おおぜい)群衆(ぐんしゅう)兵士(へいし)()かって(つるぎ)(たたか)おうとしました。勇敢(ゆうかん)に見えたペテロはイエスの十字架(じゅうじか)につまづいたのです。

ペテロはイエス出会ったとき、イエスが(かみ)であり、自分が罪人(つみびと)であることを告白(こくはく)しました。そしてすべてを()ててイエスを(あい)して、彼につき(したが)おうとしました(ルカの福音書(ふくいんしょ)5:1-11)。

しかし、十字架(じゅうじか)の前で彼は自分が(にぎ)っている(よわ)さを知りました。

イエスは

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を()て、自分の十字架(じゅうじか)()い、そしてわたしについて来なさい。(マルコの福音書(ふくいんしょ)8:34)」

と言われました。

イエスは十字架(じゅうじか)により、()から(くる)しみを()けて()てられました。イエスに(したが)おうとする者もまた、同じ(くる)しみを()けるのです。(かみ)を知らない()のただ中で生きるキリスト者の(くる)しみがあるのです。

すべての人の人生の中にある(くる)しみ、試練(しれん)(おそ)れ、不安(ふあん)ではなく、イエスを(しん)じることによって()ける(くる)しみです。

ペテロはイエスに(したが)う者が()ける(くる)しみを(こば)んだのでした。それは人間には()えない十字架(じゅうじか)です。しかし、イエスは「わたしについて来たいなら」と言われます。それは強制(きょうせい)されてでも、期待(きたい)されてでもなく、自分の意志(いし)によってイエスと一緒(いっしょ)に生きようとするまことのイエスの弟子(でし)です。そのいばらの(みち)への(もん)は小さく、十字架(じゅうじか)へと(つづ)(みち)(せま)いですが、その(みち)(かみ)栄光(えいこう)がまぶしく(かがや)いています。日々の生活の中で、みことばに(したが)い、(かみ)の力を()けて生きることができます。

(かみ)は、そのようなイエスの弟子(でし)()け入れてくださり、まことの(かみ)のご計画(けいかく)の中で使命(しめい)を与え、人生の目的(もくてき)(あた)えてくださいます。そこにイエスと共に()けるまことの(よろこ)び、(あい)祝福(しゅくふく)があります。

ユダは自分の力で人生をつかもうとして(つみ)(おか)しました。彼は自分の(つみ)後悔(こうかい)しましたが、祭司(さいし)(ちょう)(ちょう)(ろう)たちのもとに(つみ)のゆるしを()けようとしました。すべての(つみ)(かみ)の前に(おか)しているのです。一度(おか)した(つみ)は決して()()すことは出来ません。自分で始末(しまつ)することはできないのです。たとえ自殺(じさつ)して(いのち)と引き()えにしでも(つみ)(ゆる)しにはならないのです。

(つみ)(ゆる)しはただ一つです。(きよ)(かみ)のイエスの血の代価(だいか)(はら)われた十字架(じゅうじか)にあるのです。いかなる(つみ)もイエスのもとに()(あらた)めるなら(ゆる)され、(かみ)との和解(わかい)(あた)えられ、新しく生きる者ときよめ、つくり変えられます。

「もし、私たちが自分の(つみ)を言い(あらわ)すなら、(かみ)真実(しんじつ)で正しい方ですから、その(つみ)(ゆる)し、すべての(あく)から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一1:8)

十字架じゅうじかのかげに いずみわきて
いかなるつみも きよめつくす
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげに ゆきし時に
みかみあいを さとりえたり
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを もとつづけん
けわしきさかを のぼるときも
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを いかで離れん
御国みくにの門に 入る日までは
おらせたまえ このしゅ十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
「十字架じゅうじかのかげに」聖歌 396番