探して近づいてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月23日

<聖書>

またこう話された。「ある人に息子(むすこ)がふたりあった。(おとうと)が父に、『お父さん。私に財産(ざいさん)の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代(しんだい)をふたりに分けてやった。それから、幾日(いくにち)もたたぬうちに、(おとうと)は、何もかもまとめて遠い国に旅立(たびだ)った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水(ゆみず)のように財産(ざいさん)使(つか)ってしまった。何もかも使(つか)()たしたあとで、その国に大ききんが()こり、彼は食べるにも(こま)(はじ)めた。それで、その国のある人のもとに()()せたところ、その人は彼を畑にやって、(ぶた)世話(せわ)をさせた。彼は(ぶた)の食べるいなご(まめ)(はら)()たしたいほどであったが、だれひとり彼に(あた)えようとはしなかった。しかし、(われ)(かえ)ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり(あま)っている(やと)(にん)が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、()()にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して(つみ)おか)し、またあなたの前に(つみ)(おか)しました。もう私は、あなたの子と()ばれる資格(しかく)はありません。(やと)(にん)のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは(とお)かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り()って彼を()き、口づけした。息子(むすこ)は言った。『お父さん。私は天に対して(つみ)(おか)し、またあなたの前に(つみ)(おか)しました。もう私は、あなたの子と()ばれる資格(しかく)はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『(いそ)いで一番()着物(きもの)()って来て、この子に()せなさい。それから、手に指輪(ゆびわ)をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして()えた子牛(こうし)()いて()てほふりなさい。食べて(いわ)おうではないか。この息子(むすこ)は、()んでいたのが()(かえ)り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴(しゅくえん)(はじ)めた。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)15章11-24節)

<説教>

有名(ゆうめい)放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話です。正確(せいかく)には、(うしな)われた子どもたち・父の(あい)物語(ものがたり)と言えます。

父の存命中(ぞんめいちゅう)相続(そうぞく)財産(ざいさん)()()り、父のもとから(とお)(はな)れて放蕩(ほうとう)のすえ、友も(うしな)孤独(こどく)となり、食べるのにも(こま)()て、ユダヤ人にとって(けっ)してあってはならない(ぶた)世話(せわ)をするまで()ちぶれてしまいます…

人間の(つみ)とは一体(いったい)(なん)でしょうか。それは人間は(あい)に対して反逆(はんぎゃく)する存在(そんざい)だということです。それは、(あい)するために子に(いのち)(あた)えた(かみ)にとっては(かんが)えられないことでした。(けっ)してあってはならないことでした。

子の(つみ)は、親のお金を自分の(よく)のために浪費(ろうひ)したことではありません。この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)が父親の(あい)から独立(どくりつ)して生活したいと、なぜか(かんが)えたことなのです。それは親を(うやま)っての自立(じりつ)ではありませんでした。父親の意志(いし)(したが)うことが窮屈(きゅうくつ)と感じて、父から(はな)れて生きようとすることでした。また人生の主導権(しゅどうけん)は自分であって自分のしたいように生きようとすることでした。家庭(かてい)(あい)の中で生きることは、自分の自由な人生を(さまた)げると(かんが)えて、その家族から(はな)れて生きようとすることでした。

(じつ)はそれこそが、人類(じんるい)最初(さいしょ)(つみ)最初(さいしょ)の人アダムが(かみ)(したが)わず、(かみ)から(はな)れて生きることと同じなのです。それ以来(いらい)(つづ)人類(じんるい)物語(ものがたり)歴史(れきし)です。

(つみ)とは、自分を(つく)った(かみ)の最高の(あい)のもとで被造物(ひぞうぶつ)として(したが)わずに、(かみ)がくださる素晴(すば)らしい賜物(たまもの)(かみ)のために使わずに、(かみ)のもとから(はな)れて生きることです。しかし、(かみ)から(はな)れて自由に生きようとするとき、人間は(かなら)(つみ)奴隷(どれい)になると聖書(せいしょ)は教えています。

しかし父の(あい)熱心(ねっしん)(うしな)われた息子(むすこ)(さが)すのです。息子(むすこ)が家にいたときも、父の財産(ざいさん)をもって(とお)(はな)れたときも、すべてを(うしな)って(ぶた)世話(せわ)をしていたときも、父の(あい)は変わることはありませんでした。

ただ、(つみ)が父と息子(むすこ)の間にあるために、和解(わかい)には息子(むすこ)(こころ)変化(へんか)()たねばなりませんでした。自分と向き合い(つみ)悲惨(ひさん)(みと)め、(かみ)に立ち返ろうと(ねが)うこと、それは本人(ほんにん)以外(いがい)(だれ)にもできません。

人間は(かみ)から(はな)れて(さか)らっている間は、本当の自分から(はな)れています。(かみ)に立ち返るとき人間ははじめて本当の自分を見つけることができるのです。

(われ)(かえ)ったとき、息子(むすこ)は父に(したが)わなかった(つみ)の生き方を止めて父に(したが)(やと)(にん)になることで満足(まんぞく)します。もう(あい)される子どもの資格(しかく)はないと考えるかも知れません。

しかし、(かみ)の前に()(あらた)めるなら、父なる(かみ)は、(よろこ)んで彼を(むか)えてくださり、完全(かんぜん)なこども以上の存在(そんざい)(あた)えてくださいます。

あなたがたは自分の罪過(ざいか)(つみ)との中に()んでいた者であって、そのころは、それらの(つみ)の中にあってこの世の(なが)れに(したが)い、空中(くうちゅう)権威(けんい)()支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に(はたら)いている(れい)(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の(にく)(よく)の中に生き、(にく)(こころ)(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを()けるべき子らでした。しかし、あわれみ(ゆた)かな(かみ)は、私たちを(あい)してくださったその大きな(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に()んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが(すく)われたのは、ただ(めぐ)みによるのです── 

(エペソ人への手紙2:1-5

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