神が定められたキリストの十字架

マタイの福音書26章14-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月12日

<聖書>

そのとき、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司(さいし)(ちょう)たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨(ぎんか)三十枚を彼に支払(しはら)った。そのときから、彼はイエスを()(わた)機会(きかい)をねらっていた。さて、(たね)なしパンの(いわ)いの第一日に、弟子(でし)たちがイエスのところに来て言った。「(すぎ)(こし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意(ようい)をしましょうか。」イエスは言われた。「(みやこ)に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子(でし)たちといっしょに、あなたのところで(すぎ)(こし)を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」そこで、弟子(でし)たちはイエスに言いつけられたとおりにして、(すぎ)(こし)の食事の用意(ようい)をした。さて、夕方になって、イエスは十二(じゅうに)弟子(でし)といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに()げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切(うらぎ)ります。」すると、弟子(でし)たちは非常(ひじょう)に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに(はち)に手を(ひた)した者が、わたしを裏切(うらぎ)るのです。(たし)かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、()って行きます。しかし、人の子を裏切(うらぎ)るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切(うらぎ)ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

(マタイの福音書ふくいんしょ26章14-25節)

<説教>

ユダヤの最大の(まつ)り、(すぎ)(こし)しが近づいています。

祭司(さいし)長老(ちょうろう)たちは、イエスをだまして(とら)えて死刑(しけい)にする陰謀(いんぼう)(くわだ)てますが、(まつ)りの間は民衆(みんしゅう)(さわ)ぎを(おそ)れていました。イエスの十字架(じゅうじか)背後(はいご)には人々のねたみがありました。

イエスの12弟子(でし)のひとりイスカリオテのユダは祭司(さいし)(ちょう)銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売り(わた)します。彼にサタンが入ったとありますから、イエスの十字架(じゅうじか)の出来事の背後(はいご)にはサタン(悪魔(あくま))の働きがありました。

ユダの裏切(うらぎ)りによって、祭司(さいし)長老(ちょうろう)たちの思惑(おもわく)とおりにいかず、イエスご自身(じしん)予告(よこく)(どお)り、(すぎ)(こし)しの(まつ)りにイエスは(とら)えられ、十字架(じゅうじか)(わた)されました。ユダ自身(じしん)もイエスが死ぬとは考えていなかったでしょう。

では、十字架(じゅうじか)の出来事は偶然(ぐうぜん)おこったことなのでしょうか。

いいえ、十字架(じゅうじか)の出来事は、イエスが主権的(しゅけんてき)に、イエスが十字架(じゅうじか)の道を(えら)()られました。聖書(せいしょ)預言(よげん)成就(じょうじゅ)するためでした。長いイスラエルの歴史(れきし)を通して、神は聖書(せいしょ)にはっきりと(さだ)めておられました。

ユダヤの歴史(れきし)で最も大きな出来事は、(しゅつ)エジプトと言われる、奴隷(どれい)からの解放(かいほう)新天地(しんてんち)約束(やくそく)でした。その救いは、小羊(こひつじ)犠牲(ぎせい)()による、(ほろ)びのわざわいからの(すぎ)(こし)し(救い)でした。

この(すぎ)(こし)しの犠牲(ぎせい)()(ひつじ)として、イエスは十字架(じゅうじか)で死なれました。

最後(さいご)晩餐(ばんさん)は、最期(さいご)(すぎ)(こし)しの食事でもありました。また、最初の聖餐式(せいさんしき)でした。

教会(きょうかい)で、今もこの聖餐式(せいさんしき)が守られ、2000年前の出来事であったイエスの十字架(じゅうじか)(つみ)のあがないが忘れられたことは一度もありません。

あなたもイエスを信じるならば、(すぎ)(こし)し(救い)があり、出エジプト(解放(かいほう))が起こります。あなたの(つみ)(ゆる)され、まことの自由が(あた)えられ、あなたの人生は神の御国(みくに)に入ります。

まことの救い、まことの解放(かいほう)が神の定められた十字架(じゅうじか)につけられたイエスにあります。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを()り、祝福(しゅくふく)して(のち)、これを()き、弟子(でし)たちに(あた)えて言われた。
()って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また(はい)()り、感謝(かんしゃ)をささげて(のち)、こう言って彼らにお(あた)えになった。
「みな、この(はい)から()みなさい。

これは、わたしの契約(けいやく)の血です。(つみ)(ゆる)すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国(みくに)で、あなたがたと新しく()むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で(つく)った物を()むことはありません。」(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章26-29節)

愛に生きる

マタイの福音書26章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月5日

<聖書>

さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに(おか)された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価(こうか)香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持ってみもとに来て、食卓(しょくたく)()いておられたイエスの(かしら)香油(こうゆ)を注いだ。弟子(でし)たちはこれを見て、憤慨(ふんがい)して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油(こうゆ)なら、高く売れて、(まず)しい人たちに(ほどこ)しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を(こま)らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。(まず)しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油(こうゆ)をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬(まいそう)用意(ようい)をしてくれたのです。まことに、あなたがたに()げます。世界中(せかいじゅう)のどこででも、この福音(ふくいん)()(つた)えられる(ところ)なら、この人のした(こと)(かた)られて、この人の記念(きねん)となるでしょう。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章6-13節)

<説教>

イエスの十字架(じゅうじか)の時が近づいていました。弟子(でし)たちは、イエスが間もなく死ぬという実感(じっかん)緊張感(きんちょうかん)もありませんでした。しかし、ある女はイエスと過ごす機会(きかい)はもうこれが最後(さいご)かも知れないと感じました。

彼女は、自分の持ち物の中で一番高価(こうか)なもの、女性にとって大切な香油(こうゆ)をイエスに()しみなく(ささ)げました。それが、彼女が大切な愛するイエスにできる最高のことでした。彼女はイエスに愛と信仰(しんこう)を表わしたのです。

愛とは愛することと愛されることによって完成します。愛されることだけを願う人生は干からびた人生です。あなたが誰かに愛を与えるとき、人生は豊かな愛と喜びの素晴らしいものとなるでしょう。

愛を与えるとは、あなたの大切なもの与えることです。一緒に時間を過ごすこと、聞いて理解してあげること、手助けする事。また、ゆるしを与える事、信用を与える事です。あなたの心の中でわかること、あなたが願うことを、他の誰かに、あなたから与えるのです。

あなたの笑顔(えがお)は素晴らしいです。微笑(ほほえ)みながら(やさ)しい言葉をかけてあげてください。その人はきっと(はげ)まされ、勇気(ゆうき)を与えられるでしょう。

人生には一回きりしかない機会(きかい)があります。その機会(きかい)(のが)せば、もう同じ場合、同じ人、同じ時、同じ感動(かんどう)は再び(もど)ってきません。多くの人は、よいことをする機会(きかい)を失ったために、人生を悲劇(ひげき)に終わらせているのです。

しかし、イエスを信じる者は、(つみ)(ゆる)されて、自分のかたくなさや自我、プライドから解放(かいほう)されて、心から素直に生きる者に変えられます。何度も失敗しながらです。イエスはあなたを絶対あきらめません。

イエスの愛に(ゆる)され、感動(かんどう)して生きる者は、愛だけがすべてであり、愛は無限であることを知るのです。弱かろうが、ちっぽけな存在であろうが、誰もが愛を与えることができます。イエスと共に生きる者はその素晴らしさを知り、体験していくのです。イエスに出会うなら、あなたはいかなるものも包み込み受け止める愛を、無尽蔵(むじんぞう)に与えることができます。あなたの愛はいつまでも残ります。

信仰は宝

マタイの福音書8章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月15日

<聖書>

イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)がみもとに来て、懇願(こんがん)して、言った。「主よ。私のしもべが中風(ちゅうぶう)で、家に()ていて、ひどく(くる)しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、(なお)してあげよう。」しかし、百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)(こた)えて言った。「主よ。あなたを私の屋根(やね)の下にお入れする資格(しかく)は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは(なお)ります。と申しますのは、私も権威(けんい)の下にある者ですが、(わたし)自身(じしん)の下にも兵士(へいし)たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、(べつ)の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて(おどろ)かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに()げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰(しんこう)を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国(みくに)で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓(しょくたく)に着きます。しかし、御国(みくに)の子らは外の(くら)やみに放り出され、そこで()いて()ぎしりするのです。」それから、イエスは百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)に言われた。「さあ行きなさい。あなたの(しん)じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)8章5-13節)

<説教>

この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、次の2つのことでイエスを(おどろ)かせました。①(あい)の人であった。②信仰(しんこう)の人であった。

当時のユダヤ社会は人種(じんしゅ)階級(かいきゅう)性別(せいべつ)教育(きょういく)信仰(しんこう)などの(ちが)いによるひどい差別(さべつ)がありました。奴隷(どれい)は人間として見なされず、使(つか)()ての道具(どうぐ)(あつか)われました。その命も主人(しゅじん)の自由にされていました。

そんな現実(げんじつ)の中にも(かか)わらず、この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)病気(びょうき)で死にそうな奴隷(どれい)を助けるために行動しました。(あく)罪深(つみぶか)い世の中で正しく生きるために、(かみ)は人に信仰(しんこう)(あた)えられます。

しかし、(けが)れた罪人(つみびと)とみなされた異邦人(いほうじん)百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、イエスに近づくことができませんでした。その(かべ)()(やぶ)ったのは彼の信仰(しんこう)でした。百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)はイエスと会わなくても、イエスが彼の瀕死(ひんし)のしもべに()れなくても、ただイエスのことばによって、しもべは(いや)されて生きると(しん)じました。

信仰(しんこう)は、(よわ)い者を(つよ)くし、現実(げんじつ)しか見えない者の目を開き、プライドを(くだ)(あい)の人と()え、(つみ)(けが)れた者をゆるし、きよめます。十字架(じゅうじか)で死なれたイエスを目撃(もくげき)しなくても、信仰(しんこう)によって(かみ)のみ言葉(ことば)真実(しんじつ)(しん)じる者は(すく)われます。

信仰(しんこう)はイエスによって(あた)えられ、完成(かんせい)されました。イエスは十字架(じゅうじか)でよみがえられ、(つみ)と死に()ち勝ち、よみがえられました。

信仰(しんこう)知識(ちしき)ではありません。(かみ)はありふれた人間関係の中に、(かみ)御心(みこころ)目的(もくてき)計画(けいかく)(おし)え、あなたがどう(こた)えるかを()っておられます。(かみ)信頼(しんらい)して、(かみ)を知り、体験(たいけん)して、無限(むげん)信頼(しんらい)へ…信仰(しんこう)者は神の莫大(ばくだい)(たから)勝利(しょうり)(あたえ)られています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:6)

恵みは神から

ピリピ人への手紙3章3-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月8日

<聖書>

(かみ)御霊(みたま)によって礼拝(れいはい)をし、キリスト・イエスを(ほこ)り、人間的(にんげんてき)なものを(たの)みにしない(わたし)たちのほうこそ、割礼(かつれい)(もの)なのです。ただし、(わたし)は、人間的(にんげんてき)なものにおいても(たの)むところがあります。もし、ほかの人が人間的(にんげんてき)なものに(たの)むところがあると(おも)うなら、(わたし)は、それ以上(いじょう)です。(わたし)八日目(ようかめ)割礼(かつれい)を受け、イスラエル民族(みんぞく)(ぞく)し、ベニヤミンの()かれの(もの)です。きっすいのヘブル人で、律法(りっぽう)についてはパリサイ人、その熱心(ねっしん)教会(きょうかい)(はく)(がい)したほどで、律法(りっぽう)による()についてならば非難(ひなん)されるところのない(もの)です。しかし、(わたし)にとって(とく)であったこのようなものをみな、(わたし)はキリストのゆえに、(そん)(おも)うようになりました。それどころか、(わたし)(しゅ)であるキリスト・イエスを()っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを(そん)(おも)っています。(わたし)はキリストのためにすべてのものを()てて、それらをちりあくたと(おも)っています。それは、(わたし)には、キリストを()、また、キリストの中にある(もの)(みと)められ、律法(りっぽう)による自分(じぶん)()ではなくて、キリストを(しん)じる信仰(しんこう)による()、すなわち、信仰(しんこう)(もと)づいて、(かみ)から(あた)えられる()を持つことができる、という(のぞ)みがあるからです。

(ピリピ人への手紙(てがみ) 3章3-9節)

<説教>

お金、美貌(びぼう)才能(さいのう)があっても、生きているのが(むな)しい人たちがいます。パウロは当時(とうじ)のユダヤ社会(しゃかい)では完璧(かんぺき)なエリートでした。完全(かんぜん)人生(じんせい)を歩んでいました。

しかし、パウロはイエス・キリストを(にく)んでいました。彼の生きる目的(もくてき)はクリスチャンを殺害(さつがい)してこの()から()()ることでした。そんな生き方に平安(へいあん)(よろこ)びもあるはずがありません。

パウロは(かみ)律法(りっぽう)十戒(じっかい)代表(だいひょう)される旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)命令(めいれい))に厳格(げんかく)(つか)えました。そういう意味(いみ)では、パウロは(かみ)(ただ)しいと(みと)められる、(すく)いを()けるに一番(いちばん)ふさわしい人物(じんぶつ)でした。

聖書(せいしょ)によると、すべての人は罪人(つみびと)です。それはキリストを(あい)さずに、いいえキリストに反抗(はんこう)していると言う意味(いみ)罪人(つみびと)なのです((つみ)とは(かみ)に対する意識的(いしきてき)反逆(はんぎゃく))。自分では、善人(ぜんにん)だと思っても、道徳的(どうとくてき)(ただ)しく生きても、この()では(ただ)しくても(かみ)(ただ)しさには(いた)らないのです。

()(ただ)しい関係(かんけい))には①道徳的(どうとくてき)()と②(かみ)()があります。道徳的(どうとくてき)(ただ)しさは素晴(すば)らしいことです。ぜひそのように生きるべきです。しかし(かみ)()をいただくには、キリストが十字架(じゅうじか)であなたの(つみ)のために()なれたことを(しん)じる()(がい)ありません。それだけが(すく)われて(かみ)和解(わかい)して(てん)御国(みくに)に入る方法(ほうほう)です。

キリストを(しん)じる(すく)いは、死後(しご)天国(てんごく)に行く時だけでなく、今の生き方すべてが(よろこ)びと平安(へいあん)希望(きぼう)()えられます。

(かみ)はあなたを(つく)られた方です。(かみ)はいつもあなたを(おぼ)えて(とも)にいてくださいます。(かみ)はあなたの問題(もんだい)解決(かいけつ)()っておられます。(かみ)はあなたの将来(しょうらい)祝福(しゅくふく)約束(やくそく)されています。

(つみ)(ゆる)し」とは(うす)っぺらい言葉ではありません。キリストの(あい)(まじ)わりによってあなたを内側(うちがわ)から(あい)(せい)()の人に()える(いのち)です。それは宗教(しゅうきょう)ではなく生き方です。(かみ)がくださる(のぞ)みです。(のぞ)みは(かみ)(そな)えたキリストの十字架(じゅうじか)にあります。

イエス・キリストは本当の救い主

ルカの福音書2章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月25日

<聖書>

そのころ、全世界(ぜんせかい)住民(じゅうみん)登録(とうろく)をせよという勅令(ちょくれい)が、皇帝(こうてい)アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督(そうとく)であったときの最初(さいしょ)住民(じゅうみん)登録(とうろく)であった。それで、人々はみな、登録(とうろく)のために、それぞれ自分(じぶん)の町に()かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。(かれ)は、ダビデの家系(かけい)であり血筋(ちすじ)でもあったので、身重(みおも)になっているいいなずけの(つま)マリヤもいっしょに登録(とうろく)するためであった。ところが、(かれ)らがそこにいる間に、マリヤは(つき)()ちて、男子(だんし)初子(しょこ)()んだ。それで、(ぬの)にくるんで、飼葉(かいば)おけに()かせた。宿屋(やどや)には(かれ)らのいる場所(ばしょ)がなかったからである。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)2章1-7節)

<説教>

ユダヤ人、また異邦人(いほうじん)旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)預言(よげん)されたメシヤ(すく)(ぬし)(なが)(あいだ)()(のぞ)んでいました。400年の(かみ)のことばの沈黙(ちんもく)、そして、ユダヤはローマに支配(しはい)され、世界(せかい)共通(きょうつう)原語(げんご)のギリシャ語、整備(せいび)されたローマの道路(どうろ)、まさに(すく)(ぬし)到来(とうらい)のよき知らせのための環境(かんきょう)(ととの)ったのです。しかし、表面的(ひょうめんてき)には(かがや)かしいローマの内部(ないぶ)は、すでに死の一歩(いっぽ)手前(てまえ)でした。人々の(たましい)霊的(れいてき)()(かわ)きは限界(げんかい)(たっ)していました。

そんなとき、約束(やくそく)のメシヤ・キリストは、この世界(せかい)歴史(れきし)の中に人間(にんげん)姿(すがた)をして来られたのです。(だれ)もが予想(よそう)もしなかった、飼葉(かいば)おけでお生まれになったのです。いったい(だれ)がそんなところに(かみ)の子がいると信じられるでしょう。

世界(せかい)覇者(はしゃ)権力(けんりょく)頂点(ちょうてん)のローマ皇帝(こうてい)カイザル・アウグスト。彼は自分を王、(かみ)(すく)(ぬし)として人々をひざまずかせました。しかし、人の心まで支配(しはい)はできませんでした。そのカイザルに対して、まことの(すく)(ぬし)は、もっともふさわしくない飼葉(かいば)おけで誕生されたのです。その知らせはカイザルではなく、野宿(のじゅく)夜番(よばん)をする羊飼(ひつじか)いでした。(かみ)(つみ)(くる)ったこの世界(せかい)秩序(ちつじょ)価値観(かちかん)をすべて正しくされます。

キリストと()ばれる(すく)(ぬし)は、この世界(せかい)では()け入れられません。行くべき場所は十字架(じゅうじか)です。キリストが飼葉(かいば)おけで生まれたのは十字架(じゅうじか)で死ぬためでした。

多くの人は(すく)(ぬし)必要(ひつよう)と考えないでしょう。このお(かた)(すく)(ぬし)としてお(むか)えする者とは、次のような失敗(しっぱい)をした人たちなのです。

それは、(かみ)に会って、何事(なにごと)もうまくいると言えなくなった人です。それは、(あく)の力の前に、自分の善意(ぜんい)のもろさと無力(むりょく)さを知っている人です。それは、(かみ)によって、()(あらた)め、(かな)しみの内に、自分の(つみ)(かみ)告白(こくはく)する人です。

つまり、(すく)(ぬし)キリストに()()んで、失敗(しっぱい)勝利(しょうり)()えていただこうとする人たちなのです。このお(かた)によってしか、人は(つみ)刑罰(けいばつ)の死と、その罪責(ざいせき)から(すく)われません。このクリスマスにあなたの(すく)(ぬし)として、イエス様を信じませんか。それは飼葉(かいば)おけの赤ちゃんを、(かみ)の子、(すく)(ぬし)のしるしであると信じることです。

一生に一度のできごと

ルカの福音書1章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月18日

<聖書>

ユダヤの(おう)ヘロデの(とき)に、アビヤの(くみ)(もの)でザカリヤという祭司(さいし)がいた。(かれ)(つま)はアロンの子孫(しそん)で、()をエリサベツといった。ふたりとも、(かみ)御前(みまえ)(ただ)しく、(しゅ)のすべての(いまし)めと(さだ)めを落度(おちど)なく()(おこな)っていた。エリサベツは不妊(ふにん)(おんな)だったので、(かれ)らには(c)がなく、ふたりとももう(とし)をとっていた。さて、ザカリヤは、自分(じぶん)(くみ)当番(とうばん)で、(かみ)御前(みまえ)祭司(さいし)(つと)めをしていたが、祭司(さいし)(しょく)習慣(しゅうかん)によって、くじを()いたところ、(しゅ)神殿(しんでん)に入って(こう)をたくことになった。(かれ)(こう)をたく(あいだ)(おお)ぜいの(たみ)はみな、(そと)(いの)っていた。ところが、(しゅ)使(つか)いが(かれ)(あらわ)れて、香壇(かおりだん)(みぎ)に立った。これを見たザカリヤは不安(ふあん)(おぼ)え、恐怖(きょうふ)(おそ)われたが、御使(みつか)いは(かれ)に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの(ねが)いが()かれたのです。あなたの(つま)エリサベツは(おとこ)()()みます。()をヨハネとつけなさい。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)1章5-13節)

<説教>

祭司(さいし)ザカリヤと(つま)エリサベツは、モーセの(あに)祭司(さいし)アロンの血筋(ちすじ)でした。彼らは(かみ)(みや)仕事(しごと)忠実(ちゅうじつ)(つか)えました。しかいザカリヤには長年(ながねん)(ねが)いがありました。それは、夫婦(ふうふ)の間に子どもが(あた)えられることでした。

その(ねが)いが少しずつあきらめに()わりそうなときに、ザカリヤに大きな仕事(しごと)(あた)えられました。それは祭司(さいし)の中でも、一生(いっしょう)一度(いちど)あるかないかという仕事(しごと)でした。(かみ)(みや)朝晩(あさばん)(ささ)げものの前に(こう)をたくこと大切(たいせつ)仕事(しごと)です。

そのことを(とお)して、(かみ)さまは長年(ながねん)のザカリヤの(いの)りに(こた)えられたのです。

一生(いっしょう)一番(いちばん)出来事(できごと)とは】

あなたにも人生(じんせい)でいろいろな大きな出来事(できごと)があったことでしょう。また、これからもあるかも知れません。しかしイエス様を(しん)じるよりも大きな出来事(できごと)はありません。そのことにより、あなたはまったく(あたら)しく()まれ()わり、どんなときもイエス様の(あい)(いのち)によって(とも)約束(やくそく)の希望により生きることができるのです。それは(かみ)さまが(あた)えてくださった最高(さいこう)のプレゼントです。

聖書(せいしょ)はあなたへの約束(やくそく)

(しゅ)によって(かた)られたことは(かなら)実現(じつげん)すると(しん)じきった人は、(なん)(さいわ)いなことでしょう。」

 (ルカの福音書1:45)

ザカリヤは最初(さいしょ)は、自分たちに子供(こども)(あた)えられるという(かみ)さまの言葉(ことば)(しん)じられませんでした。しかし、(つま)エリサベツがみごもったことにより、不信仰(ふしんこう)自分(じぶん)()(あらた)めました。そして、イエス様の(すく)いを()けることができました。

聖書(せいしょ)言葉(ことば)は、(ほか)でもないあなたへの約束(やくそく)なのです。(しん)じられない状況(じょうきょう)や、自分(じぶん)罪深(つみぶか)さや(よわ)さに()けそうでも、()(あらた)めて、(かみ)さまの言葉(ことば)告白(こくはく)して約束(やくそく)()()りましょう。あなたの人生(じんせい)(とお)して(かみ)さまの御業(みわざ)(あらわ)されていきます。

(かみ)には約束(やくそく)されたことを成就(じょうじゅ)する(ちから)があることを(かた)(しん)じました。だからこそ、それが(かれ)()とみなされたのです。しかし、「(かれ)()とみなされた」と書いてあるのは、ただ(かれ)のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中からよみがえらせた方を(しん)じる私たちも、その信仰(しんこう)()とみなされるのです。

(ローマ人への手紙4:21-24)

あなたを証明するもの

コリント人への手紙第一3章18-23節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月11日

<聖書>

だれも自分(じぶん)(あざむ)いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分(じぶん)(いま)()知者(ちしゃ)だと(おも)(しゃ)がいたら、知者(ちしゃ)になるためには(おろ)かになりなさい。なぜなら、この()知恵(ちえ)は、(かみ)御前(みまえ)では(おろ)かだからです。こう書いてあります。「(かみ)は、知者(ちしゃ)どもを(かれ)らの悪賢(わるがしこ)さの中で()らえる。」また、(つぎ)のようにも書いてあります。「(しゅ)は、知者(ちしゃ)論議(ろんぎ)無益(むえき)だと()っておられる。」ですから、だれも人間(にんげん)(ほこ)ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界(せかい)であれ、いのちであれ、()であれ、また現在(げんざい)のものであれ、未来(みらい)のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは(かみ)のものです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章18-23節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ((すく)(ぬし))は(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「()ける(いし)」として今も()きて(はたら)かれてるのです。

(いえ)()てる(もの)たちの()てた(いし)。それが(いしずえ)(いし)になった。(詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)使徒(しと)たち(キリストのからだ)を(とお)して(はたら)(かみ)言葉(ことば)()きるキリスト信仰(しんこう)土台(どだい)として()て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)()て上げ、また教会(きょうかい)()て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)()きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)基礎(きそ)(何を(しん)じるか)も大切(たいせつ)問題(もんだい)です。(かみ)なき()き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を()け入れる(もの)(かみ)(あい)()安心(あんしん)して、(かみ)から人生(じんせい)目的(もくてき)(あた)えられます。(うち)なる人である(れい)基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに()まれる、(かみ)から()けた聖霊(せいれい)(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、()らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って()()られたのです。ですから自分のからだをもって、(かみ)栄光(えいこう)(あらわ)しなさい。(Ⅰコリント6:19-20)

信仰(しんこう)による(あゆ)みには、(はたら)きや功績(こうせき)結果(けっか)大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな(はたら)きはできなくても、(すく)いは完全(かんぜん)であり、(けっ)して()わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)(ひょう)()してくださる方は(かみ)さまです。

しかし、(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の()っている(もっと)(きよ)信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって(いの)り、(かみ)(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを()(のぞ)みなさい。(ユダの手紙20-21)

キリスト信仰という土台

コリント人への手紙第一3章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月4日

<聖書>

(あた)えられた(かみ)(めぐ)みによって、私は(かしこ)建築家(けんちくか)のように、土台(どだい)()えました。そして、ほかの人がその上に(いえ)()てています。しかし、どのように()てるかについてはそれぞれが注意(ちゅうい)しなければなりません。というのは、だれも、すでに()えられている土台(どだい)のほかに、ほかの(もの)()えることはできないからです。その土台(どだい)とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台(どだい)の上に、(きん)(ぎん)宝石(ほうせき)(もく)(くさ)、わらなどで()てるなら、各人(かくじん)(はたら)きは明瞭(めいりょう)になります。その日がそれを(あき)らかにするのです。というのは、その日は()とともに(あらわ)れ、この()がその(ちから)各人(かくじん)(はたら)きの真価(しんか)をためすからです。もしだれかの()てた建物(たてもの)(のこ)れば、その人は(むく)いを()けます。もしだれかの()てた建物(たてもの)()ければ、その人は損害(そんがい)()けますが、自分(じぶん)自身(じしん)は、()の中をくぐるようにして(たす)かります。あなたがたは(かみ)神殿(しんでん)であり、(かみ)御霊(みたま)があなたがたに宿(やど)っておられることを()らないのですか。もし、だれかが(かみ)神殿(しんでん)をこわすなら、(かみ)がその人を(ほろ)ぼされます。(かみ)神殿(しんでん)(せい)なるものだからです。あなたがたがその神殿(しんでん)です。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章10-17節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ((すく)(ぬし))は(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「()ける(いし)」として今も()きて(はたら)かれてるのです。

(いえ)()てる(もの)たちの()てた(いし)。それが(いしずえ)(いし)になった。

詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)使徒(しと)たち(キリストのからだ)を(とお)して(はたら)(かみ)言葉(ことば)()きるキリスト信仰(しんこう)土台(どだい)として()て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)()て上げ、また教会(きょうかい)()て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)()きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)基礎(きそ)(何を(しん)じるか)も大切(たいせつ)問題(もんだい)です。(かみ)なき()き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を()け入れる(もの)(かみ)(あい)()安心(あんしん)して、(かみ)から人生(じんせい)目的(もくてき)(あた)えられます。(うち)なる人である(れい)基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに()まれる、(かみ)から()けた聖霊(せいれい)(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、()らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って()()られたのです。ですから自分のからだをもって、(かみ)栄光(えいこう)(あらわ)しなさい。

(Ⅰコリント6:19-20)

キリストがあなたの(つみ)(よご)れのために、十字架(じゅうじか)()なれ復活(ふっかつ)されたことを(しん)じる(もの)は、その信仰(しんこう)によって人生(じんせい)のすべてで(かみ)さまが(はたら)かれ、あなたはキリスト(教会(きょうかい))をあらわす存在(そんざい)とされるのです。

あなたの()きる姿(すがた)でキリストはこの世に()きて(はたら)かれることが(あき)らかにされます。

信仰(しんこう)による(あゆ)みには、(はたら)きや功績(こうせき)結果(けっか)大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな(はたら)きはできなくても、(すく)いは完全(かんぜん)であり、(けっ)して()わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)(ひょう)()してくださる方は(かみ)さまです。

しかし、(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の()っている(もっと)(きよ)信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって(いの)り、(かみ)(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを()(のぞ)みなさい。

(ユダの手紙20-21

信仰の成長を目指して

コリント人への手紙第一3章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月27日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たちよ。私は、あなたがたに()かって、御霊(みたま)(ぞく)する人に(たい)するようには(はな)すことができないで、(にく)(ぞく)する人、キリストにある幼子(おさなご)(たい)するように(はな)しました。私はあなたがたには(ちち)(あた)えて、(かた)食物(しょくもつ)(あた)えませんでした。あなたがたには、まだ無理(むり)だったからです。(じつ)は、(いま)でもまだ無理(むり)なのです。あなたがたは、まだ(にく)(ぞく)しているからです。あなたがたの(あいだ)にねたみや(あらそ)いがあることからすれば、あなたがたは(にく)(ぞく)しているのではありませんか。そして、ただの人のように(あゆ)んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と()えば、(べつ)の人は、「私はアポロに」と()う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは(なん)でしょう。パウロとは(なん)でしょう。あなたがたが信仰(しんこう)に入るために(もち)いられたしもべであって、(しゅ)がおのおのに(さず)けられたとおりのことをしたのです。私が()えて、アポロが水を(そそ)ぎました。しかし、成長(せいちょう)させたのは(かみ)です。それで、たいせつなのは、()える(もの)でも水を(そそ)(もの)でもありません。成長(せいちょう)させてくださる(かみ)なのです。()える(もの)と水を(そそ)(もの)は、一つですが、それぞれ自分(じぶん)自身(じしん)(はたら)きに(したが)って自分(じぶん)自身(じしん)報酬(ほうしゅう)()けるのです。私たちは(かみ)協力者(きょうりょくしゃ)であり、あなたがたは(かみ)(はたけ)(かみ)建物(たてもの)です。

(コリント(じん)への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章1-9節)

<説教>

コリント教会(きょうかい)信徒(しんと)たちは、キリストを信じて御霊(みたま)()けていましたが、御霊(みたま)(ぞく)するのではなく、(にく)(ぞく)していました。つまり、御霊(みたま)に従ってではなく、自分の人間的な力によって、神の(ねが)う人になろうとしていたのです。

コリント教会(きょうかい)分裂(ぶんれつ)して、分派(ぶんぱ)をつくって(たが)いに敵対(てきたい)していました。パウロはそのことによって、彼らが御霊(みたま)ではなく、自分の(にく)(ぞく)しているとわかりました。御霊(みたま)によって生きるなら、一致(いっち)和合(わごう)があります。しかし、(にく)に従うなら、分裂(ぶんれつ)分派(ぶんぱ)敵対(てきたい)(しょう)じます。

(にく)の行いは明白(めいはく)であって、次のようなものです。不品行(ふひんこう)(けが)れ、好色(こうしょく)

偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)魔術(まじゅつ)敵意(てきい)(あらそ)い、そねみ、(いきどお)り、党派(とうは)(しん)分裂(ぶんれつ)分派(ぶんぱ)、」

(ガラテヤ5:19-20

キリストを(しん)じて(すく)われた後も信仰(しんこう)成長(せいちょう)必要(ひつよう)です。信仰(しんこう)成長(せいちょう)とはどういうことを言うのでしょうか。みことばを(おぼ)え、祈りに励み、奇跡や癒しを行い、奉仕や献金を多く捧げることでしょうか。コリント教会(きょうかい)信徒(しんと)はまさにそのようでした(Ⅰコリント12)。

しかし、信仰(しんこう)成長(せいちょう)は、(あい)することにおいて成長(せいちょう)しているかどうかなのです。キリストを(しん)じて、信仰(しんこう)の歩みを始めて、あなたは去年より(あい)する者に変えられているでしょうか。御霊(みたま)によって神を(あい)して、人を(あい)する者とされることこそが、信仰(しんこう)成長(せいちょう)なのです。

様々の御霊(みたま)賜物(たまもの)()けても、そこに(あい)がないならまったく価値(かち)がないのです。

「たとい、私が人の異言(いげん)や、御使(みつか)いの異言(いげん)で話しても、(あい)がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言(よげん)賜物(たまもの)を持っており、またあらゆる奥義(おうぎ)とあらゆる知識(ちしき)とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰(しんこう)を持っていても、(あい)がないなら、何の()うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を(まず)しい人たちに()(あた)え、また私のからだを()かれるために(わた)しても、(あい)がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:1-3)

兄弟(きょうだい)たち。あなたがたは、自由(じゆう)(あた)えられるために()されたのです。ただ、その自由(じゆう)(にく)(はたら)機会(きかい)としないで、(あい)をもって(たが)いに(つか)えなさい。」(ガラテヤ5:13)

キリストの十字架(じゅうじか)(ゆる)しをいただいて、神の(あい)感謝(かんしゃ)して、父なる神を見上げ、人を(てき)競争(きょうそう)相手(あいて)としてではなく、(あい)する存在(そんざい)として生きる者に変えられていきます。

(ふる)い自分を十字架(じゅうじか)に付けて、御霊(みたま)支配(しはい)にゆだねるなら、み言葉を通して御霊(みたま)(はたら)らかれ、(つみ)(けが)れがきよめられ、キリストに()た者に変えられていきます。それは御霊(みたま)()として(むす)ばれていきます。

「しかし、御霊(みたま)の実は、(あい)(よろこ)び、平安(へいあん)寛容(かんよう)親切(しんせつ)善意(ぜんい)誠実(せいじつ)柔和(にゅうわ)自制(じせい)です。このようなものを(きん)ずる律法(りっぽう)はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の(にく)を、さまざまの情欲(じょうよく)欲望(よくぼう)とともに、十字架(じゅうじか)につけてしまったのです。

もし私たちが御霊(みたま)によって生きるのなら、御霊(みたま)(みちび)かれて、(すす)もうではありませんか。」(ガラテヤ5:22-25)