キリスト信仰という土台

コリント人への手紙第一3章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月4日

<聖書>

(あた)えられた(かみ)(めぐ)みによって、私は(かしこ)建築家(けんちくか)のように、土台(どだい)()えました。そして、ほかの人がその上に(いえ)()てています。しかし、どのように()てるかについてはそれぞれが注意(ちゅうい)しなければなりません。というのは、だれも、すでに()えられている土台(どだい)のほかに、ほかの(もの)()えることはできないからです。その土台(どだい)とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台(どだい)の上に、(きん)(ぎん)宝石(ほうせき)(もく)(くさ)、わらなどで()てるなら、各人(かくじん)(はたら)きは明瞭(めいりょう)になります。その日がそれを(あき)らかにするのです。というのは、その日は()とともに(あらわ)れ、この()がその(ちから)各人(かくじん)(はたら)きの真価(しんか)をためすからです。もしだれかの()てた建物(たてもの)(のこ)れば、その人は(むく)いを()けます。もしだれかの()てた建物(たてもの)()ければ、その人は損害(そんがい)()けますが、自分(じぶん)自身(じしん)は、()の中をくぐるようにして(たす)かります。あなたがたは(かみ)神殿(しんでん)であり、(かみ)御霊(みたま)があなたがたに宿(やど)っておられることを()らないのですか。もし、だれかが(かみ)神殿(しんでん)をこわすなら、(かみ)がその人を(ほろ)ぼされます。(かみ)神殿(しんでん)(せい)なるものだからです。あなたがたがその神殿(しんでん)です。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章10-17節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ((すく)(ぬし))は(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「()ける(いし)」として今も()きて(はたら)かれてるのです。

(いえ)()てる(もの)たちの()てた(いし)。それが(いしずえ)(いし)になった。

詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)使徒(しと)たち(キリストのからだ)を(とお)して(はたら)(かみ)言葉(ことば)()きるキリスト信仰(しんこう)土台(どだい)として()て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)()て上げ、また教会(きょうかい)()て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)()きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)基礎(きそ)(何を(しん)じるか)も大切(たいせつ)問題(もんだい)です。(かみ)なき()き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を()け入れる(もの)(かみ)(あい)()安心(あんしん)して、(かみ)から人生(じんせい)目的(もくてき)(あた)えられます。(うち)なる人である(れい)基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに()まれる、(かみ)から()けた聖霊(せいれい)(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、()らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って()()られたのです。ですから自分のからだをもって、(かみ)栄光(えいこう)(あらわ)しなさい。

(Ⅰコリント6:19-20)

キリストがあなたの(つみ)(よご)れのために、十字架(じゅうじか)()なれ復活(ふっかつ)されたことを(しん)じる(もの)は、その信仰(しんこう)によって人生(じんせい)のすべてで(かみ)さまが(はたら)かれ、あなたはキリスト(教会(きょうかい))をあらわす存在(そんざい)とされるのです。

あなたの()きる姿(すがた)でキリストはこの世に()きて(はたら)かれることが(あき)らかにされます。

信仰(しんこう)による(あゆ)みには、(はたら)きや功績(こうせき)結果(けっか)大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな(はたら)きはできなくても、(すく)いは完全(かんぜん)であり、(けっ)して()わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)(ひょう)()してくださる方は(かみ)さまです。

しかし、(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の()っている(もっと)(きよ)信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって(いの)り、(かみ)(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを()(のぞ)みなさい。

(ユダの手紙20-21

信仰の成長を目指して

コリント人への手紙第一3章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月27日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たちよ。私は、あなたがたに()かって、御霊(みたま)(ぞく)する人に(たい)するようには(はな)すことができないで、(にく)(ぞく)する人、キリストにある幼子(おさなご)(たい)するように(はな)しました。私はあなたがたには(ちち)(あた)えて、(かた)食物(しょくもつ)(あた)えませんでした。あなたがたには、まだ無理(むり)だったからです。(じつ)は、(いま)でもまだ無理(むり)なのです。あなたがたは、まだ(にく)(ぞく)しているからです。あなたがたの(あいだ)にねたみや(あらそ)いがあることからすれば、あなたがたは(にく)(ぞく)しているのではありませんか。そして、ただの人のように(あゆ)んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と()えば、(べつ)の人は、「私はアポロに」と()う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは(なん)でしょう。パウロとは(なん)でしょう。あなたがたが信仰(しんこう)に入るために(もち)いられたしもべであって、(しゅ)がおのおのに(さず)けられたとおりのことをしたのです。私が()えて、アポロが水を(そそ)ぎました。しかし、成長(せいちょう)させたのは(かみ)です。それで、たいせつなのは、()える(もの)でも水を(そそ)(もの)でもありません。成長(せいちょう)させてくださる(かみ)なのです。()える(もの)と水を(そそ)(もの)は、一つですが、それぞれ自分(じぶん)自身(じしん)(はたら)きに(したが)って自分(じぶん)自身(じしん)報酬(ほうしゅう)()けるのです。私たちは(かみ)協力者(きょうりょくしゃ)であり、あなたがたは(かみ)(はたけ)(かみ)建物(たてもの)です。

(コリント(じん)への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章1-9節)

<説教>

コリント教会(きょうかい)信徒(しんと)たちは、キリストを信じて御霊(みたま)()けていましたが、御霊(みたま)(ぞく)するのではなく、(にく)(ぞく)していました。つまり、御霊(みたま)に従ってではなく、自分の人間的な力によって、神の(ねが)う人になろうとしていたのです。

コリント教会(きょうかい)分裂(ぶんれつ)して、分派(ぶんぱ)をつくって(たが)いに敵対(てきたい)していました。パウロはそのことによって、彼らが御霊(みたま)ではなく、自分の(にく)(ぞく)しているとわかりました。御霊(みたま)によって生きるなら、一致(いっち)和合(わごう)があります。しかし、(にく)に従うなら、分裂(ぶんれつ)分派(ぶんぱ)敵対(てきたい)(しょう)じます。

(にく)の行いは明白(めいはく)であって、次のようなものです。不品行(ふひんこう)(けが)れ、好色(こうしょく)

偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)魔術(まじゅつ)敵意(てきい)(あらそ)い、そねみ、(いきどお)り、党派(とうは)(しん)分裂(ぶんれつ)分派(ぶんぱ)、」

(ガラテヤ5:19-20

キリストを(しん)じて(すく)われた後も信仰(しんこう)成長(せいちょう)必要(ひつよう)です。信仰(しんこう)成長(せいちょう)とはどういうことを言うのでしょうか。みことばを(おぼ)え、祈りに励み、奇跡や癒しを行い、奉仕や献金を多く捧げることでしょうか。コリント教会(きょうかい)信徒(しんと)はまさにそのようでした(Ⅰコリント12)。

しかし、信仰(しんこう)成長(せいちょう)は、(あい)することにおいて成長(せいちょう)しているかどうかなのです。キリストを(しん)じて、信仰(しんこう)の歩みを始めて、あなたは去年より(あい)する者に変えられているでしょうか。御霊(みたま)によって神を(あい)して、人を(あい)する者とされることこそが、信仰(しんこう)成長(せいちょう)なのです。

様々の御霊(みたま)賜物(たまもの)()けても、そこに(あい)がないならまったく価値(かち)がないのです。

「たとい、私が人の異言(いげん)や、御使(みつか)いの異言(いげん)で話しても、(あい)がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言(よげん)賜物(たまもの)を持っており、またあらゆる奥義(おうぎ)とあらゆる知識(ちしき)とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰(しんこう)を持っていても、(あい)がないなら、何の()うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を(まず)しい人たちに()(あた)え、また私のからだを()かれるために(わた)しても、(あい)がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:1-3)

兄弟(きょうだい)たち。あなたがたは、自由(じゆう)(あた)えられるために()されたのです。ただ、その自由(じゆう)(にく)(はたら)機会(きかい)としないで、(あい)をもって(たが)いに(つか)えなさい。」(ガラテヤ5:13)

キリストの十字架(じゅうじか)(ゆる)しをいただいて、神の(あい)感謝(かんしゃ)して、父なる神を見上げ、人を(てき)競争(きょうそう)相手(あいて)としてではなく、(あい)する存在(そんざい)として生きる者に変えられていきます。

(ふる)い自分を十字架(じゅうじか)に付けて、御霊(みたま)支配(しはい)にゆだねるなら、み言葉を通して御霊(みたま)(はたら)らかれ、(つみ)(けが)れがきよめられ、キリストに()た者に変えられていきます。それは御霊(みたま)()として(むす)ばれていきます。

「しかし、御霊(みたま)の実は、(あい)(よろこ)び、平安(へいあん)寛容(かんよう)親切(しんせつ)善意(ぜんい)誠実(せいじつ)柔和(にゅうわ)自制(じせい)です。このようなものを(きん)ずる律法(りっぽう)はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の(にく)を、さまざまの情欲(じょうよく)欲望(よくぼう)とともに、十字架(じゅうじか)につけてしまったのです。

もし私たちが御霊(みたま)によって生きるのなら、御霊(みたま)(みちび)かれて、(すす)もうではありませんか。」(ガラテヤ5:22-25)

キリストの十字架の奥義

コリント人への手紙第一2章6-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月13日

<聖書>

しかし私たちは、成人(せいじん)(あいだ)で、知恵(ちえ)を語ります。この知恵(ちえ)は、この()知恵(ちえ)でもなく、この()()()って行く支配者(しはいしゃ)たちの知恵(ちえ)でもありません。私たちの(かた)るのは、(かく)された奥義(おくぎ)としての(かみ)知恵(ちえ)であって、それは、(かみ)が、私たちの栄光(えいこう)のために、世界(せかい)(はじ)まる前から、あらかじめ(さだ)められたものです。この知恵(ちえ)を、この()支配者(しはいしゃ)たちは、だれひとりとして(さと)りませんでした。もし(さと)っていたら、栄光(えいこう)(しゅ)十字架(じゅうじか)につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書(せいしょ)に書いてあるとおりです。「()()たことのないもの、(みみ)()いたことのないもの、そして、人の(こころ)(おも)()かんだことのないもの。(かみ)(あい)する(もの)のために、(かみ)(そな)えてくださったものは、みなそうである。」(かみ)はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示(けいじ)されたのです。御霊(みたま)はすべてのことを探り、(かみ)(ふか)みにまで(およ)ばれるからです。いったい、人の(こころ)のことは、その人のうちにある(れい)のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、(かみ)のみこころのことは、(かみ)御霊(みたま)のほかにはだれも知りません。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章6-11節)

<説教>

(かみ)のみ言葉(ことば)(かみ)のご計画(けいかく)(かみ)御心(みこころ)は、生まれたままの人間にはわかりません。

キリストの福音(ふくいん)(あなたの(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)()なれたキリストを(しん)じるなら(すく)われる)は(かく)された奥義(おくぎ)なのです。

イザヤ書の40-66章は聖書中(せいしょちゅう)(もっと)卓越(たくえつ)したメッセージであると言えます。(つみ)からの解放(かいほう)新天(しんてん)新地(しんち)永遠(えいえん)希望(きぼう)(かた)られています。その中の重要(じゅうよう)箇所(かしょ)が、「第4のしもべの歌」と言われるイザヤ書52章13節から53章12節です(ちなみに第1のしもべの歌はイザヤ42:1-9、第2のしもべの歌はイザヤ49:1-6、第3のしもべの歌はイザヤ50:4-9です)。

ここには、新約(しんやく)聖書(せいしょ)福音書(ふくいんしょ)以上(いじょう)に、苦難(くなん)のしもべのキリストの十字架(じゅうじか)受難(じゅなん)(しる)されています。そして、またキリストの十字架(じゅうじか)意味(いみ)は誰もわからないと書かれています。

「私たちの()いたことを、だれが(しん)じたか。

(しゅ)】の御腕(みうで)は、だれに(あらわ)れたのか。」  (イザヤ書53:1)

(しゅ)】の御腕(みうで)とは、(かみ)の力を(あら)わしています。この(かみ)の力によって、人は(かみ)言葉(ことば)(しん)じることができるのです。(かみ)啓示(けいじ)(かみ)がご自身(じしん)(あき)らかされる)によってのみ、人は回心(かいしん)して、(つみ)()(あらた)めて、(すく)われるのです。

聖書(せいしょ)によると人間の本質(ほんしつ)(あなたがあなたであること)は(れい)にあります。(れい)(たましい)をもち、(からだ)()んでいるのです。

(からだ)感覚(かんかく))や(たましい)感情(かんじょう))でなく、(れい)(かみ)()るのです。(れい)によって(かみ)との(まじ)わりを持つのです。(からだ)はこの地上(ちじょう)一時的(いちじてき)なものであり、やがて()ちていきます。(れい)こそが(いや)され、(やしな)われることを(おぼ)えなければならないのです。

(にく)によって()まれた者は(にく)です。御霊(みたま)によって()まれた(もの)(れい)です。」

(ヨハネ3:6

キリストを(しん)じるなら、霊的(れいてき)(あたら)しく()まれ()わることができます((からだ)()まれ()わりではありません)。外から見ただけでは、その人の内側(うちがわ)(なに)()こったかわかりません。しかし、(とき)()つとはっきり(あらわ)れてくるのです。

(かみ)(しん)じるとは(かみ)言葉(ことば)(しん)じることです。(かみ)言葉(ことば)(とお)して、(うち)なる(れい)の人は(つみ)からきよめられ、(いや)され、(あい)に生きる者へと()えられ(つづ)けます。イエス様を(しん)じるなら、いつしか(こころ)()えられていることに気付(きづ)くでしょう。また言葉(ことば)(やさ)しく()えられるでしょう。きっと、表情(ひょうじょう)笑顔(えがお)も。そして、自分のことを(あい)することができ、どんな小さなことも大切(たいせつ)(いと)おしく思え、人生(じんせい)はかけがえのない宝物(たからもの)とされます。イエス様はどんな時もあなたを(あい)されています。

あなたもイエス様を(むか)えいれて、この素晴(すば)らしい祝福(しゅくふく)()()ってください。

(かみ)は、(じつ)に、そのひとり()をお(あた)えになったほどに、()(あい)された。それは御子(みこ)(しん)じる(しゃ)が、ひとりとして(ほろ)びることなく、永遠(えいえん)のいのちを()つためである。」

(ヨハネ3:16)

くりかえせない人生(じんせい)だから
(かがや)瞬間(とき)(のが)さないで
かけがえのないものを見つけ
できれば(あい)()べる(いえ)に住み
微笑(ほほえ)みながら
自由(じゆう)という(まち)(ある)
(いた)みと言う歩道(ほどう)(すわ)
(やさ)しさが(よわ)さではなくて
(つか)えることに(みち)(さが)
むやみに言葉(ことば)(なら)べず
(あい)することを(まな)びながら
ゆるせる(こころ)(そだ)てながら
言葉(ことば)(あそ)びにならぬように
真実(しんじつ)()ばれる小径(こみち)をずっと
(ある)いて()きたい
それが(ねが)
(「(ねが)い」岩渕(いわぶち)まこと)

信仰により神と共に生きる

コリント人への手紙第一2章1-5節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月6日

<聖書>

さて兄弟(きょうだい)たち。(わたし)があなたがたのところへ()ったとき、(わたし)は、すぐれたことば、すぐれた知恵(ちえ)(もち)いて、(かみ)のあかしを()(つた)えることはしませんでした。なぜなら(わたし)は、あなたがたの(あいだ)で、イエス・キリスト、すなわち十字架(じゅうじか)につけられた(かた)のほかは、(なに)()らないことに決心(けっしん)したからです。あなたがたといっしょにいたときの(わたし)は、(よわ)く、(おそ)れおののいていました。そして、(わたし)のことばと(わたし)宣教(せんきょう)とは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)のことばによって(おこな)われたものではなく、御霊(みたま)御力(みちから)(あらわ)れでした。それは、あなたがたの()信仰(しんこう)が、人間(にんげん)知恵(ちえ)にささえられず、(かみ)(ちから)にささえられるためでした。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章1-5節)

<説教>

パウロはコリントへ来る前にアテネで宣教(せんきょう)しましたが、そこでは、ギリシャ哲学(てつがく)に対して、哲学(てつがく)(てき)にイエスの(すく)いを(つた)えようとしました。その結果(けっか)失敗(しっぱい)し、(よわ)さと(おそ)れを(おぼ)えていました。パウロは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)知識(ちしき)によらず、まっすぐに十字架(じゅうじか)につけられたキリストを()(つた)えることに立ち返ったのです。

(かみ)さまが用意(ようい)された福音(ふくいん)(イエスの十字架(じゅうじか)を信じるなら(すく)われる)が語られる時、聞く者に(かみ)さまが(はたら)かれて、人は(すく)われます。

(すく)われた者は、(かみ)に与えられた信仰(しんこう)によって生きていきます。信仰(しんこう)とはイエス・キリストを信じることだけでなく、積極的(せっきょくてき)に自分を(かみ)さまにお(まか)せしていくことが必要(ひつよう)です。自分の信念(しんねん)だけでは()りないのです。

聖書(せいしょ)が言う(つみ)とは、(わる)い行いや、邪悪(じゃあく)な考えだけではありません。むしろ、それらにつながる人間の本質(ほんしつ)(つみ)(ぶか)(けが)れている状態(じょうたい)を言います。また、この()は人を(つみ)誘惑(ゆうわく)する(つみ)の力が(はたら)いています。

この(つみ)治療(ちりょう)方法(ほうほう)には人間の本質(ほんしつ)(つく)()える力が必要(ひつよう)です。その力は人間の内側(うちがわ)にはなく、(かみ)の力によるのです。誘惑(ゆうわく)の力に()()かう(かみ)(だす)けが必要(ひつよう)です。クリスチャンとして生きるということは、自分の努力や頑張りだけでなく、この(かみ)の力と(だす)けが必要(ひつよう)です。

バルーン(熱気球(ねつききゅう))は空高く、(とお)くまで人を(はこ)ぶことができます。しかし、あなたがこのバルーンから()()がったロープにつかまるとしたら、どうでしょうか。バルーンが地上(ちじょう)から徐々(じょじょ)()き上がっていきます。50cm、1m、2m…、次第(しだい)に高く地上(ちじょう)から5m、10mと上昇(じょうしょう)したら、もうあなたは(こわ)くて、もう地上(ちじょう)(もど)ってくれ!と(さけ)ぶことでしょう。しかし、バルーンからぶら()がった安全(あんぜん)なカゴに()るとしたら、高く()い上がっても恐怖(きょうふ)はないでしょう。あなたは人間の力では不可能(ふかのう)な高さから地上(ちじょう)景色(けしき)を楽しむことでしょう。

信仰(しんこう)もそのようなものと言えます。自分の力ではなく、(かみ)の力を()けて、自分の力では到達(とうたつ)できない人生を生きることができます。自我(じが)自己(じこ)中心(ちゅうしん)罪深(つみぶか)欲望(よくぼう)が、キリストの十字架(じゅうじか)(あい)(ゆる)しの中できよめられて、あなたはまったく新しい者に()えられて生きるのです。永遠(えいえん)(のこ)価値(かち)ある()いなき人生です。

「私は福音(ふくいん)(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、(しん)じるすべての人にとって、(すく)いを()させる(かみ)の力です。なぜなら、福音(ふくいん)のうちには(かみ)()(けい)()されていて、その()は、信仰(しんこう)(はじ)まり信仰(しんこう)(すす)ませるからです。『義人(ぎじん)信仰(しんこう)によって()きる』と()いてあるとおりです。」

(ローマ人への手紙1章16-17節)

最も小さき者が、偉大な存在につながるなら

コリント人への手紙第一1章26-31節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月23日

<聖書>

兄弟(きょうだい)たち、あなたがたの()しのことを考えてごらんなさい。この()知者(ちしゃ)は多くはなく、権力者(けんりょくしゃ)も多くはなく、身分(みぶん)の高い者も多くはありません。しかし(かみ)は、知恵(ちえ)ある者をはずかしめるために、この()(おろ)かな者を(えら)び、(つよ)い者をはずかしめるために、この()(よわ)い者を(えら)ばれたのです。また、この()()るに()りない者や見下(みくだ)されている者を、(かみ)(えら)ばれました。すなわち、()るものをない者のようにするため、()(ひと)しいものを(えら)ばれたのです。これは、(かみ)御前(みまえ)でだれをも(ほこ)らせないためです。しかしあなたがたは、(かみ)によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、(かみ)知恵(ちえ)となり、また、()(きよ)めと、(あがな)いとになられました。まさしく、「(ほこ)る者は(しゅ)(ほこ)れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)1章26-31節)

<説教>

(かみ)はこの()では価値(かち)のないような者を(えら)んで、信仰(しんこう)(あた)えられます。イエスを(しん)じた者は(しゅ)税人(ぜいにん)遊女(ゆうじょ)のような罪人(つみびと)でした。天国で一番(えら)い者とは、(おさな)い子どもだとイエスは言われました。

この()と天国では価値観(かちかん)はまったく(ちが)うのです。自分が無力(むりょく)価値(かち)のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を(ひく)くして、(よわ)い者を()け入れるへりくだった者です。

(かみ)は自分の価値(かち)()の中にアピールする者ではなく、小さな(よわ)き者を用いて、(かみ)存在(そんざい)(あらわ)されるのです。

人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙(うちゅう)(ひろ)さと(くら)べるときでしょうか。(あい)する人を(まも)れないときかも知れません。しかし人は罪深(つみぶか)い自分の姿(すがた)を見たとき、自分の小ささを知ります。()(ひと)しいような自分に絶望(ぜつぼう)します。(つみ)とは(かみ)から(はな)れて自分を(そこ)ない(うしな)っている状態(じょうたい)のことです。(かみ)の前にすべての人は罪人(つみびと)です。(かみ)の前に自分の小ささを()る者は(さいわ)いです。

(かみ)(つく)られた人間は有限(ゆうげん)である被造物(ひぞうぶつ)です。有限(ゆうげん)ですから、不完全(ふかんぜん)(あやま)りがあり、誘惑(ゆうわく)(よわ)く、失敗(しっぱい)もします。しかし聖書(せいしょ)は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと(おし)えてくれます。それを(かく)したり、(あきら)めたり、無理(むり)に大きく見せようとしないでいいのです。

自分の罪深(つみぶか)さ、(けが)れ、(よわ)さを(みと)めていいのです。自分には何の価値(かち)もなくていいのです。人間はそれを(みと)められず、また(おそ)ろしくもありましょう。それは(けっ)して人生(じんせい)敗北(はいぼく)ではないのです。かえって勝利(しょうり)人生(じんせい)のスタートです。

(だれ)よりも、自分を小さく、(まず)しく、むなしくしてくださった方がおられます。(かみ)のイエス・キリストです。

(もっと)偉大(いだい)存在(そんざい)である(かみ)はすべての所有者(しょゆうしゃ)で、宇宙(うちゅう)世界(せかい)歴史(れきし)(いのち)支配(しはい)しておられます。そのすべてに(ゆた)かな(かみ)が、もっとも小さい者の姿(すがた)になられたのです。(かみ)であるキリストが人間の(つみ)のために人となって十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。あなたの(つみ)身代(みが)わりの犠牲(ぎせい)となられました。あなたに(あい)(しめ)してくださいました。

キリストは(かみ)御姿(みすがた)である(かた)なのに、(かみ)のあり(かた)()てられないとは(かんが)えず、ご自分(じぶん)()にして、(つか)える(しゃ)姿(すがた)をとり、人間と(おな)じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって(あらわ)れ、自分(じぶん)(いや)しくし、()にまで(したが)い、(じつ)十字架(じゅうじか)()にまでも(したが)われました。          (ピリ2:6-8)

あなたは、()るに()りないさき者です。しかし大切(たいせつ)なことは(もっと)偉大(いだい)(かみ)につながることが出来(でき)るということです。自分の(つみ)(かみ)の前に正直(しょうじき)()(あらわ)すならすべての(つみ)(ゆる)されます。このとき、小さい人間が偉大(いだい)(かみ)とひとつとされる人の理解(りかい)()える奇跡(きせき)()こります。そのとき()(ひと)しい者が、永遠(えいえん)価値(かち)ある者に()えられます。

これからは(つみ)()()け、(かみ)()いて生きるのです。イエス・キリストを通して、(かみ)さまの大きな(あい)(めぐ)みを()けて、いつもあなたは、しっかりと存在(そんざい)して、自分の価値(かち)(よろこ)んで生きるのです。

あなたの(ゆび)のわざである(てん)()、あなたが(ととの)えられた(つき)(ほし)()ますのに、人とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを(こころ)()められるとは。(ひと)()とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを(かえり)みられるとは。あなたは、(ひと)を、(かみ)よりいくらか(おと)るものとし、これに栄光(えいこう)(ほま)れの(かんむり)をかぶらせました。

詩篇(しへん)8:3-5)

かつて、(てん)無数(むすう)(ほし)見上(みあ)げては
(わたし)(だれ)にも()られることのない
いてもいなくてもよい(ちい)さい存在(そんざい)だと
()()かせていた。
しかし(いま)は、(ちい)さい()のような(わたし)
完全(かんぜん)()ってくださる(かた)がいることを(しん)じている。
(わたし)存在(そんざい)(おぼ)えて、(あい)して(くだ)さるお(かた)を。
それは(ほし)(つく)られ、私を(つく)られたお(かた)
十字架(じゅうじか)(わたし)のために()なれたキリスト。
(作者不詳)

十字架は神の愛と命のメッセージ

コリント人への手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月16日

<聖書>

十字架(じゅうじか)のことばは、(ほろ)びに(いた)る人々には(おろ)かであっても、(すく)いを()ける私たちには、(かみ)の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵(ちえ)ある者の知恵(ちえ)(ほろ)ぼし、(かしこ)い者の(かしこ)さをむなしくする。」知者(ちしゃ)はどこにいるのですか。学者(がくしゃ)はどこにいるのですか。この()議論家(ぎろんいえ)はどこにいるのですか。(かみ)は、この()知恵(ちえ)(おろ)かなものにされたではありませんか。事実、この()が自分の知恵(ちえ)によって(かみ)を知ることがないのは、(かみ)知恵(ちえ)によるのです。それゆえ、(かみ)はみこころによって、宣教(せんきょう)のことばの(おろ)かさを(とお)して、(しん)じる者を(すく)おうと(さだ)められたのです。ユダヤ人はしるしを要求(ようきゅう)し、ギリシヤ人は知恵(ちえ)追求(ついきゅう)します。しかし、私たちは十字架(じゅうじか)につけられたキリストを()(つた)えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人(いほうじん)にとっては(おろ)かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、()された者にとっては、キリストは(かみ)の力、(かみ)知恵(ちえ)なのです。なぜなら、(かみ)(おろ)かさは人よりも(かしこ)く、(かみ)(よわ)さは人よりも(つよ)いからです。

(コリント人への手紙第一1章18-25節)

<説教>

十字架(じゅうじか)(けい)とは、(はだか)手首(てくび)足首(あしくび)を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛(げきつう)出血(しゅっけつ)多量(たりょう)呼吸(こきゅう)困難(こんなん)(すえ)心臓(しんぞう)破裂(はれつ)()(いた)ります。その期間(きかん)数日(すうじつ)から一週間(いっしゅうかん)以上(いじょう)と言われます。人々の前で(はずかし)められ、人間の尊厳(そんげん)(うば)われる残酷(ざんこく)死刑(しけい)方法(ほうほう)です。

イエスは(かみ)を名のった刑罰(けいばつ)で、むち打たれ、十字架(じゅうじか)(けい)により処刑(しょけい)されました。(すく)(ぬし)キリストを()(のぞ)んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨(ひさん)弱々(よわよわ)しい()に方をしたイエスが(かみ)(すく)(ぬし)キリストであるとは絶対(ぜったい)(しん)じられませんでした。

ギリシャ人にとっても(かみ)とは人間とはかけ(はな)れた崇高(すうこう)存在(そんざい)でした。人間としてこの()に来られ、よりによって(けが)らわしい十字架(じゅうじか)(かか)わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生(たんじょう)したことも()んで三日後の復活(ふっかつ)(おろ)かな話でした。

今もキリストの十字架(じゅうじか)の話を聞くと、いやな思いを()つ人がいます。(くら)不吉(ふきつ)な話に思うかも()れません。あなたの(つみ)やけがれの身代(みが)わりにキリストは十字架(じゅうじか)()なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。

人間の(つみ)とはとんでもなく邪悪(じゃあく)な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では(けっ)して(つみ)現実(げんじつ)から(すく)い出されない姿(すがた)を言っているのです。

人は自分の知恵(ちえ)によって(かみ)のことはわかりません。それが(かみ)知恵(ちえ)だと聖書(せいしょ)は言います。そうです。キリストの十字架(じゅうじか)(しん)じるなら(つみ)(ぶか)い生き方から(すく)われるということは人間の努力(どりょく)では(けっ)してわからないのです。

十字架(じゅうじか)は人間の(つみ)(ゆる)しをあらわすにふさわしいシンボルです。

十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)(あら)わしています。同時(どうじ)十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)(ゆる)しをあらわしています。

また十字架(じゅうじか)はあなたの(つみ)刑罰(けいばつ)をあらわしており、同時(どうじ)にその刑罰(けいばつ)身代(みが)わりに()けてくださる(かみ)(あい)をあらわすのです。

キリストの十字架(じゅうじか)によってしかあなたの(つみ)(ゆる)されません。(かみ)に対して(おか)した人間の(つみ)はそれほど(おも)いものなのです。(つみ)のない(きよ)いキリストの(いのち)だけが人間の(つみ)身代(みが)わりとなることができるのです。

このことをただ(しん)じて()()るなら、あなたは(すく)われます。それ以外(いがい)方法(ほうほう)はどこにもないのです。

十字架(じゅうじか)のことばは、(ほろ)びに(いた)人々(ひとびと)には(おろ)かであっても、
(すく)いを()ける(わたし)たちには、(かみ)の力です。(Ⅰコリント1:18)

そしてどうしてありえようか、(わたし)
(すく)(ぬし)血潮(ちしお)(えき)()るということが?
(しゅ)苦痛(くつう)()()こした(わたし)のために()なれたのか
(しゅ)()(いた)るまで(なや)ました(わたし)のために?
(おどろ)くべき(あい)!どうしてありえようか
わが(かみ)よ、なんじがわがために()にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)

福音は信じる者に優しく働く

コリント人への手紙第一1章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月9日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たち。私は、私たちの(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)によって、あなたがたにお(ねが)いします。どうか、みなが一致(いっち)して、仲間割(なかまわ)れすることなく、同じ心、同じ判断(はんだん)完全(かんぜん)(たも)ってください。(じつ)はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟(きょうだい)たち。あなたがたの間には(あらそ)いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割(ぶんかつ)されたのですか。あなたがたのために十字架(じゅうじか)につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを()けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを(さず)けたことがないことを感謝(かんしゃ)しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを()けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを(さず)けましたが、そのほかはだれにも(さず)けた(おぼ)えはありません。キリストが私をお(つか)わしになったのは、バプテスマを(さず)けさせるためではなく、福音(ふくいん)()(つた)えさせるためです。それも、キリストの十字架(じゅうじか)がむなしくならないために、ことばの知恵(ちえ)によってはならないのです。

(コリント人への手紙第一1章10-17節)

<説教>

使徒(しと)パウロは福音(ふくいん)を世界に(つた)える者として神様(かみさま)()されました。福音(ふくいん)人種(じんしゅ)社会(しゃかい)経済(けいざい)教育(きょういく)(かべ)()えます。

私は福音(ふくいん)(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、(しん)じるすべての人にとって、(すく)いを()させる(かみ)の力です。(ローマ1:16)

福音(ふくいん)とは、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死が、あなたの(つみ)刑罰(けいばつ)身代(みが)わりであると(しん)じるなら(つみ)が赦されて(かみ)の子どもとされるというよい知らせ(グッドニュース)です。

この世界にはまことの希望(きぼう)はありません。しかし教会(きょうかい)には唯一の(すく)いの道、まことの希望(きぼう)福音(ふくいん)があります。これは世にはないキリストの教会(きょうかい)だけがもっている希望(きぼう)です。

キリストが生まれる500年も前の黄金(おうごん)時代(じだい)のギリシャの哲学者(てつがくしゃ)は、人間にとってもっとも良いことは、生まれないことだと()きました。もうずっと(むかし)(かみ)は死んだと言われて、それを人々は(しん)じています。(かみ)()()り、すべての(ぜん)真理(しんり)も人間にあるという思想(しそう)はおそるべき出口のない死の世界です。人間がサルから偶然(ぐうぜん)生まれたと(とな)える進化論(しんかろん)はすべての存在(そんざい)には意味(いみ)目的(もくてき)価値(かち)もない、すべてはむなしいという絶望(ぜつぼう)虚無(きょむ)の人生に()()みます。

ジャンクフード(冷凍(れいとう)食品(しょくひん)、ファーストフード、インスタント食品など)はカロリーだけが高く栄養価(えいようか)はあまりありません。これを食べ(つづ)けると体を(がい)し、精神(せいしん)や心の成長(せいちょう)にも(わる)影響(えいきょう)が出ると言われています。

この世の哲学(てつがく)思想(しそう)はとても(むずか)しく、(よろこ)びも希望(きぼう)もがなく、たんに頭の知識(ちしき)理論(りろん)であり、(れい)(てき)成長(せいちょう)することはできません。

しかし、福音(ふくいん)~イエス・キリストの十字架(じゅうじか)(すく)いは、聞く者の心とからだにやさしく、希望(きぼう)(あた)えるよい知らせです。子どもでも理解(りかい)して(しん)じて(すく)われるのです。国も年齢(ねんれい)習慣(しゅうかん)関係(かんけい)なく、どんな人生であったとしても、いかなる境遇(きょうぐう)にある人にも、(もと)める人の心に福音(ふくいん)(とど)きます。(だれ)であっても(しん)じるなら(すく)われます。

兄弟(きょうだい)たち。私は今、あなたがたに福音(ふくいん)を知らせましょう。これは、私があなたがたに()(つた)えたもので、あなたがたが()()れ、また、それによって立っている福音(ふくいん)です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで(しん)じたのでないなら、私の()(つた)えたこの福音(ふくいん)のことばをしっかりと(たも)っていれば、この福音(ふくいん)によって(すく)われるのです。私があなたがたに(もっと)もたいせつなこととして(つた)えたのは、私も()けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(せいしょ)の示すとおりに、私たちの(つみ)のために死なれたこと、また、(ほうむ)られたこと、また、聖書(せいしょ)の示すとおりに、三日目(みっかめ)によみがえられたこと、           (Ⅰコリント15:1-4)

これが聖書(せいしょ)にある福音(ふくいん)です。福音(ふくいん)は、知識(ちしき)理論(りろん)でなく、実際(じっさい)にあなたに関わるよい知らせです。それを(しん)じた者には希望(きぼう)平安(へいあん)現実(げんじつ)のものとなります。キリストはあなたの(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれました。すべての人(あなたも含まれる)がよみがえる、その最初(さいしょ)初穂(はつほ))としてキリストは三日目(みっかめ)によみがえられました。死後(しご)にすべての人は(かみ)のさばきを()けますが、あなたが、この福音(ふくいん)にどう(こた)えて生きたかによって(かみ)の子どもとされるか、そうでないかが決定(けってい)します。

(かみ)は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者(ししゃ)の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける(のぞ)みを()つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)

自分の言葉(ことば)(おこな)いのいかなることも、福音(ふくいん)をさえぎることがないようにすることがパウロの哲学(てつがく)であり思想(しそう)でした。キリストを(しん)じた者はこの福音(ふくいん)をそのように(たから)のように(あい)する者です。あなたもイエス様の福音(ふくいん)(しん)じてみませんか。

シジフォスは死んで黄泉(よみ)に行った。ところが地上に(もど)されたのであった。黄泉(よみ)()(かえ)されたとき、彼は(かえ)ることを(こば)んだ。人生の快楽(かいらく)満喫(まんきつ)したからである。(ばつ)として彼は()(もど)され、(おか)のいただきまで大きな(いわ)()し上げる(けい)宣告(せんこく)された。しかし(いわ)をそこまで()し上げると、(ころ)()ちてしまう。彼はふもとまで苦労(くろう)して()りていき、もう一度(いわ)()し上げるが、(ふたた)(ころ)()ちるだけであった。
『シジフォスの神話(しんわ)』アルベール・カミュ

シジフォスはこの工程(こうてい)()てしなく()(かえ)すように(うん)(めい)づけられた。

彼の努力(どりょく)は、意味(いみ)ある結果(けっか)をまったく()み出さない。

存在(そんざい)するものに意味(いみ)目的(もくてき)価値(かち)もないという実存(じつぞん)主義(しゅぎ)虚無(きょむ)主義(しゅぎ)、神は死んだ思想(しそう)代表(だいひょう)する文学(ぶんがく)の一つ。

わたしの行く手は平安(へいあん)だ。
死へのあらゆる(はたら)きかけに対しても、ひそかなる守護(しゅご)がなされている。
すべての安定性(あんていせい)(うしな)われても、なお平安(へいあん)だ。たおされても平安(へいあん)だ。
たとえ、このあわれな肢体(したい)が滅んでも、なおまさって平安(へいあん)だ。
『平安(へいあん)』ルーパート・ブルック
たとえわたしが暗闇(くらやみ)(おそ)ろしい雲海(うんかい)に入ったとしても、それはひと時だ。
わたしは(かみ)(ともしび)(むね)()く。
その(かがや)きは早晩(そうばん)暗闇(くらやみ)(つらぬ)く。
わたしはいつしか脱出(だっしゅつ)する。
『パラサルサス』ブラウニング

イエス様の福音が与える平安をぜひあなたもお受けください。

キリストとの関係が、あなたを最後の日から守る

コリント人への手紙第一1章4-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月2日

<聖書>

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに(あた)えられた(かみ)(めぐ)みのゆえに、あなたがたのことをいつも(かみ)感謝(かんしゃ)しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識(ちしき)といい、すべてにおいて、キリストにあって(ゆた)かな(もの)とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で(たし)かになったからで、その結果(けっか)、あなたがたはどんな賜物(たまもの)にも()けるところがなく、また、熱心(ねっしん)に私たちの(しゅ)イエス・キリストの(あらわ)れを()っています。(しゅ)も、あなたがたを、私たちの(しゅ)イエス・キリストの日に()められるところのない(もの)として、最後(さいご)まで(かた)(たも)ってくださいます。(かみ)真実(しんじつ)であり、その(かた)のお()しによって、あなたがたは(かみ)御子(みこ)、私たちの(しゅ)イエス・キリストとの(まじ)わりに入れられました。

(コリント人への手紙第一1章4-9節)

<説教>

キリストを(しん)じて(すく)われた者は、(かみ)計画(けいかく)によって()されて((えら)ばれて()び出されて)応答(おうとう)した者です。(すく)いは聖霊(せいれい)(はたら)きによって(はじ)まります。聖霊(せいれい)によってまず(はじ)めに、自分の(つみ)(みと)め、キリストの十字架(じゅうじか)(すく)いがわかります。そして聖霊(せいれい)により、(つみ)()(あらた)めに(みちび)かれて、信仰(しんこう)(あた)えられます。

この瞬間(しゅんかん)に、()(みと)められ((つみ)刑罰(けいばつ)放免(ほうめん))、(かみ)との和解(わかい)(あた)えられ、(かみ)の子とされます。この(すく)いの根底(こんてい)にあるのは、(しん)じた者がキリストとひとつにされることです(キリストとの結合(けつごう))。キリストがあなたの中に生きて(はたら)き、またあなたもキリストの中に入り、霊的(れいてき)生命的(せいめいてき)(いのち)を共にします。別々(べつべつ)の人間だった夫婦(ふうふ)肉体的(にくたいてき)にも精神的(せいしんてき)にもひとつされ、時間をかけて理解(りかい)し合い、理想(りそう)も一つとされるように、信者(しんじゃ)はキリストとすべての(いとな)み((よろこ)び、(くる)しみ、十字架(じゅうじか)復活(ふっかつ))を共有(きょうゆう)していきます。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷(どれい)自由人(じゆうじん)も、一つのからだとなるように、一つの御霊(みたま)によってバプテスマを()け、そしてすべての者が一つの御霊(みたま)()む者とされたからです。

(Ⅰコリント12:13

キリスト者は聖霊(せいれい)により賜物(たまもの)(かみ)(つか)えるために(あた)えられる能力(のうりょく))が(あた)えられ、キリストの体である教会(きょうかい)につながり、(たが)いに(つか)えて、教会(きょうかい)()て上げ、聖霊(せいれい)のみわざにより、キリストに()た者に()えられていきます(聖化(せいか)・きよめ)。

それは、からだの中に分裂(ぶんれつ)がなく、各部分(かくぶぶん)(たが)いにいたわり合うためです。もし一つの部分(ぶぶん)(くる)しめば、すべての部分(ぶぶん)がともに(くる)しみ、もし一つの部分(ぶぶん)(たっと)ばれれば、すべての部分(ぶぶん)がともに(よろこ)ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官(かくきかん)なのです。

(Ⅰコリ12:25-27

一度、キリストを(しん)じて(すく)われた者の(すく)いは(けっ)して(うしな)われることはありません。(しん)じた瞬間(しゅんかん)(かみ)の子とされた身分(みぶん)立場(たちば)永遠(えいえん)()わることがなく、聖霊(せいれい)により、そのような者としてふさわしい生き方に生涯(しょうがい)かけて()えられ(つづ)けます。

外面(がいめん)表面(ひょうめん)でなく、すべてがキリストの()姿(すがた)(つく)()えられていくのです。キリスト者は見える現実(げんじつ)はどうであっても、見えない希望(きぼう)約束(やくそく)聖書(せいしょ)により(しん)じるのです。

あなたがたのうちに()(はたら)きを(はじ)められた(かた)は、キリスト・イエスの日が()るまでにそれを完成(かんせい)させてくださることを私は(かた)(しん)じているのです。

(ピリピ1:6)

そして、地上(ちじょう)生活(せいかつ)()わる()の後、(かみ)臨在(りんざい)の中に入るときに、(かみ)計画(けいかく)(はじ)まった(すく)いは、完全(かんぜん)完成(かんせい)します。あなたは完全(かんぜん)(かみ)の子となり、子が()ける財産(ざいさん)相続(そうぞく)します。その素晴(すば)らしさは今は、ぼんやりとしかわかりませんが、やがて完全(かんぜん)に知ることができます。(かみ)によって(はじ)まった(すく)いのご計画(けいかく)(かなら)完成(かんせい)します。

けれども、私たちの国籍(こくせき)(てん)にあります。そこから(しゅ)イエス・キリストが(すく)(ぬし)としておいでになるのを、私たちは()(のぞ)んでいます。キリストは、万物(ばんぶつ)をご自身(じしん)(したが)わせることのできる御力(みちから)によって、私たちの(いや)しいからだを、ご自身(じしん)栄光(えいこう)のからだと(おな)姿(すがた)()えてくださるのです。

(ピリピ3:21-22)

あなたにあって完全(かんぜん)! (わたし)のわざではなく。
親愛(しんあい)なる(しゅ)よ、あなたの場所(ばしょ)をお()りくださるように。
あなたの血潮(ちしお)(わたし)(ゆる)しをもたらしました。
そして今やあなたにあって完全(かんぜん)な者です。
そうです、()とされている!祝福(しゅくふく)された思想(しそう)よ!
そして聖化(せいか)されている!(すく)いがなされた!
あなたの血潮(ちしお)(わたし)(ゆる)しをもたらしました、
そして栄化(えいか)される、(わたし)も!

(ジェイムズ・M・グレイ)