思いを変える
~氷の板を素手で運ぶ子~
先々週から私たちの思いが、私たちの環境を作り、また人格を形成し、ひいては人生をも決定する重要な働きがあるという事について考えてきました。そこで、今回もまた具体例を引いて、考えて見たいと思います。
私たちが住む喜入町は、鹿児島市の南端で県本土の中でも比較的暖かいところに位置します。それでも寒い日は町の山間部とはかなりの温度差があるように感じられます。
先日寒い朝に、山間部からくる男の子が30センチ大の割れた窓ガラスを大切そうにもって登校してきました。私が「危ない、何持ってるの?」と聞くと、「氷だよ。」というのです。水たまりかどこかに張っていた氷を持ってきたのでしょう。
冷たい氷を素手で持っていて手は赤くなっています。「手が冷たいでしょうが、ここに置いていきなさい。」と言っても、「いや、学校までもっていくんだ。」と言います。
彼はここまで約30分、これから学校まで約10分、お友達に見せるために、この冷たい氷を嬉々として運んで行くのです。彼にとっては、手が冷たいなんてことより、お友達が喜んでくれることのほうが嬉しいんだろうなと思いました。
もし、私にこの冷たい氷を素手で学校まで持って行ってと頼まれたら、絶対嫌です。強制的に持たされたら、きっとぶつぶつ不平不満を言いながら運ぶことでしょう。
そのように、同じ行為をしながら、片方は喜んで出来、片方は苦痛に感じながらいやいやします。わたしたちの思いの持ちようでずいぶん違う精神状態になるものです。
また、来月千葉から孫たちが遊びに来てくれることになりました。そこで、先日から彼らが気持ちよくお風呂にはいれるように、お風呂の掃除を始めました。風呂のタイルの目地にたまったカビを落とし、普段より丁寧にお風呂掃除をします。
別に数日泊まるだけなので、そんなに綺麗にしなくて、近所の温泉を勧めても良いだろうし、孫たちも目地までは気にしないかもしれませんが、彼らのために喜んで取り組んでいます。しかし、もしこれが強制的にさせられるのだったら、きっと不平不満でいやいや適当に誤魔化しながらしたかもしれません。
そのように、私たちは思いが変わるだけで全然違う精神状態で過ごすことになります。私たちが幸せを得るために最も大切なことは、心の平安を乱されないことです。環境がどうあれ、どのような問題の中にいても、前向きに喜んで生活することが大切です。
天地の造り主なる神様は、神を信じる者を愛して下さり、私があなたを守り祝福するからどんな時でも喜んでいなさいと言われます。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。ローマ8:28
私たちは人生において様々な問題に遭遇します。しかし、すべては神様の許しの中であり、私たちに恵みを注ぐためのステップなのです。ですから、どんなことが起こっても必ず守ってくださり、すべてを恵みに変えて下さる神様に信頼して、心を惑わされないようにしていましょう。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5:1~5
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