裏庭の夏ミカンの木
~食べる順番風に聞いて~
教会の裏庭に夏ミカンの木があり、今年も沢山の実をならせてくれました。この木は私がミカン好きだという事で、教会員のHさんご夫妻が植えてくれたものの一つです。
もう10年以上前、ご夫妻が裏庭に温州ミカンの木と夏ミカンの木、それに柿の木とを植えてくださったのですが、この夏ミカンだけが今でも頑張って沢山の実を結んでくれています。
温州ミカンの木は、私が庭で刈った草を焼いた時、その下に根を伸ばしていたらしく、わたしの不注意で数年で枯らしてしまいました。柿の木の方は辛うじて毎年10個程度の実を生らせてくれるのですが、食べごろになると必ず鳥が来て先に食べられてしまいます。
しかし、Hご夫妻が高齢でほとんど教会に来られなくなった今でも、この夏ミカンだけは肥料をほどこしてあげたこともないにもかかわらず、毎年50個程度の実を提供してくれています。
今私の毎朝の日課は、2階のカーテンを少し開けて裏庭の夏ミカンの木を見て、落ちた実を拾いに行くことです。できたら大きくおいしそうに実った実から取ってきて食べたいのですが、連日の強風で吹き落される実がたくさんあるので、こちらの意志に関係なく食べる順番は風に決められてしまいます。
昨年庭の草刈りをしてくださったSさんが、夏ミカンの木の無駄に広がった枝を見て、「ついでにこの木の無駄な枝をカットしましょうか。」と言われ、不必要な枝を剪定してくださいました。Sさん曰く「実を結んでない枝をそのままにしておかないで、養分が実に行くように、できるだけカットしたほうが良いですよ。」とのこと、そのせいか今年の夏ミカンは例年より出来が良く、おいしく感じます。
Sさんの言うことを聞きながら、イエス様が弟子たちに話した聖書の御言葉が浮かんできました。
わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。ヨハネ15:1~2
まさしく、これこそSさんが行っていた剪定のことを話しているんだなと思います。ただ、ここの例えで私とはだれか、枝とは何のことを言っているのかを知るためには続きを読む必要があります。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。ヨハネ15:5~6
ここで、私とは神なるイエス様ご自身のことで、私の父とは父なる神様、枝とは私たちのことです。私たちがイエス様の教えにとどまり、それを実践するならば、私たちは多くの良い働きをするようになります。しかし、神から離れて勝手に生きるなら、その最後は悲惨な結果になります。
悔いのない人生のために、聖書の御言葉を学び、み言葉を実践する者となりましょう。
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