教会に来てみて
~お話を聞いて帰られるだけでも大歓迎~
私がキリスト教に初めて接したのは、ミッションスクールの大学に入ってからでした。それまでは、とくに宗教には興味がなく、キリスト教に関しても良い教えがあったら聞くけど、深入りするのは危険だと思っていました。
大学では50人の学生寮で寮生活をしていましたが、寮の近くに宣教師のご家族が住んでおられて、宣教師の先生が私によく声をかけて下さいました。「先日の英語の試験はどうだった?」それに対して「全然ダメでした。」と答えると、「我が家に遊びに来なさい。教えてあげるから。」とよく誘われました。
しかし、私は彼が私をうまく説得してキリスト教に入れようとしているなと思って、その誘いをいつも断っていました。今から考えたらもったいないことをしたなと思います。それは私が主なる神を信じるまで、その後6~7年待たなければならなかったからです。そして信じた時、もっと早く信じていたら良かったとつくづく思わされたからです。
不安、恐れ、思い煩い、悩み、苦しみ等々は、私たちが生きていく上で常に抱えざる得ない問題です。しかし、これらの問題はすべて主なる神様から離れたがゆえに起こってきたことでした。それはあたかも羊の群れからはぐれてしまった羊飼いのいない羊のようです。
したがって、私が主なる神様を受け入れ、問題の渦中で神に祈れるようになったら、それらの問題が軽減され、心に平安が戻ってくるようになったからです。
それで、私たちの教会の壁にはマタイによる福音書の11:28にある、次のことばが掲げてあります。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 聖書の言葉
問題を抱えて苦しんでおられる方はたくさんおられます。車で信号を待ちながら教会の壁に書かれたこのみ言葉をジーっと見ておられる方をよく見かけます。しかし、教会にはなかなか来ていただけません。それは、私がクリスチャンになる前に持っていた、キリスト教に勧誘され、半ば強引に信者にされるかもしれないとの危うさを感じておられるからだと思います。
しかし例え、1年間毎週礼拝に通っていたとしても、本人が洗礼を望まなければ、信者になることはできません。また、数年通っていても信仰がしっかり認められなければ、本人が洗礼を願っても受けられません。したがって、本人が信じていないのに強引に信者にされることは決してありません。そこらの事に関しては全く心配ご無用です。
また、教会での礼拝には献金の時間があります。献金は自由ですが、基本的に信者でない人からは頂きません。献金自体が神様の恵みに対するものですから、例え、神を信じていない人が多額の献金をしても、それは全く意味のないものになります。
ただ、礼拝や集会で喜びや平安を感じて、献金したいと自主的に思われた場合は、この限りではありません。したがって、強制的に捧げざる得ないようなことにはならないです。
皆さんに申し上げたいことは、教会は暗くて堅い窮屈な場所ではないという事です。誰でも気軽に集まれて楽しい場所ですし、あなたの人生で最も大切なことをお伝えしているつもりでおります。
とにかく一度こちらの教会に来て見られて、どういうところか確認していただけたら嬉しいです。お話を聞いて帰られるだけでも大歓迎です。
【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。詩篇23:1~3
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