ガタが来た会堂と私

公開済み 8月 4, 2014 by 管理人 in アドナイ・エレ

〜会堂がある喜びをもう一度噛み締めて〜

喜入町のJR駅の近くに会堂を建設してから早20年になります。少しずつあちこちにガタが来始め、先日は遂に2階のトイレの水が1日中ちょろちょろと流れ続けるようになってしまいました。

先日、皆が寝静まって誰もトイレを使わない夜中に水槽の蓋をあけ、ドライバーで、色々修理を試みましたが、良くなるどころか、以前より流れる水が多くなって来たように感じたので、修理を断念して寝てしまいました。

あくる日、近くの水道屋さんに来て戴き、見てもらうと、「部品が悪くなっているので、取り代えないといけないですね」と言われました。そして、30分ほどで元通りにして、帰って行かれました。

ガタが来たのは、トイレだけでなくドアノブも最近硬くなったり、利かなくなったりするところが出てきました。「しょうがないか20年も経つと耐用年数を過ぎた部品も増えてくるんだろうな。」と思い、半ば諦めています。

しかし、多少問題があっても、会堂建築以前に公民館を借りたり、貸家で礼拝をしたりして、会堂のないことの悲哀を嫌と言うほど味わってきた身としては、会堂があるだけでとっても幸せで、感謝しています。

当時は会堂のあるなしに関わらず、心を込めた礼拝をしているかどうかが大切なのだと考えて(今も確かにそうなのですが)、頑張りました。しかし、世間はその様には理解してくれませんでした。

教会を訪ねてこられた方が、思っていた教会のイメージと全く違う、普通の家の玄関にテーブルを置いて受付をしている姿を見て、中に入らないでそのまま帰って行かれたり、勇気をもって中に入られても、畳に座って礼拝している姿に幻滅を感じて再び来て下さらなくなったりと、残念な思いを沢山してきました。

そこで、会堂のある教会に行くたびに、羨ましさを感じ、私たちにも会堂があったらもっとたくさんの人々を教会に誘えるし、もっとたくさんの人々が集まる教会になるのにと思っていました。

そして、念願かなって礼拝堂が建設された時は飛び上がって喜びました。喜びのあまり、日に何度も会堂に入り、祈り、賛美し神をほめたたえました。しかし、日が経つにつれて会堂があることがいつの間にか当たり前になってきて、最初の感動が薄れてきてしまっていることに気付かされました。

会堂に少しガタが来ているだけでなく、私の信仰にもガタが来ていたことを改めて認識させられ、悔い改めさせられました。そこで、今一度初心に返って会堂があることに感謝し、神の恵みの方に目を向けて、会堂で感謝の祈りと賛美をして神をほめたたえ、喜びをもって日々を過ごし、たくさんの方々に神の愛を伝えて行きたいと思っています。

 

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。黙示録2:~5a

 

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。詩篇103:~

No Response to “ガタが来た会堂と私”

Leave a Comment