何で分かったの?

公開済み 1月 19, 2015 by 管理人 in アドナイ・エレ

〜「おじちゃん、Ⅿ君はまだ来てないの。」〜

朝の安全登校指導をしていると、7時前まだ薄暗い中を最初の小学生が2人で登校して来るのが見えました。何時も早く通る6年生のJ君とⅯ君のように見えます。その内の一人は帽子を深く被り、ネックウォーマーを鼻の上まで押し上げ、かろうじて目が見える程度の重装備で歩いて来ました。

私が二人にお早うと声をかけると、J君が「おじちゃん、Ⅿ君通らなかった。」と聞いてきました。私が「隣にいるじゃない?」と言うと、「違うよ。彼は○○君だよ。おじちゃん、Ⅿ君はまだ来てないの。」と再び問い返してきました。

私が「隣にいるのがⅯ君じゃないか、ほらネームが見えてるよ。」と言うと、「しまった。そこを隠すの忘れた。」と、作戦失敗を認めて、残念がります。私は6年生もまだ子供だな、肝心なところは隠さないで、騙そうとしたりしてと笑いました。

 

それから数日後、私たちは福岡の集会に出席するために車で出掛けました。会場に着くとひとりひとりネームプレートが準備されていて、お互いが分かり合えるようにされていました。懐かしい人々との再会を喜びつつ、恵まれた集会を満喫しておりました。そして、2日目の昼食時間になり、夫婦で会場から車で20分ぐらいの所にある小さな食堂に入りました。

私たちの注文を取りに来られたウエートレスが、「鹿児島からいらっしゃったのですか。」と話しかけて来られたので「はい、そうです。」と答えましたが、その後私が妻に「何で、私たちが鹿児島から来たってわかったんだろうね。中から車のナンバーが見えたのかな~。」と言うと、妻は私の胸を指さし、「ネームプレート」と笑いました。

なるほど、私の胸には〈鹿児島リバイバルチャーチ○○〉と大きな字で教会名と名前が書かれてありました。それで簡単に分かったんだな。それにしても、私も6年生と同じレベルだったのかと自分の精神の幼さを思い苦笑しました。

 

さて、例えば私たちが自分の名前や姿を隠しおおそうとして、それがうまくできたとしても、神の前にはすべてが明らかであり、私たちはやがて、神の前にありのままの姿で立つことになるのです。

神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。ローマ2:6~8

私たちは自分の名前をけがれた名前にすることも、尊敬される名前にすることも可能です。それは、普段の私たちの心掛け次第だと思います。

また、それがだれにも知られずに行った良い行為であって、誰からも認められなくても、神様はすべてをご存じで、正しく報いてくださいます。

ただ、私たちは正しく生きようと決心し、努力してもなかなか思うようにいかないことが多々あり、落胆し失望を繰り返してしまいます。しかし、主なる神様により頼むとき、主はあなたを助けてくださいます。

主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。詩篇19:7~9

だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。詩篇19:12~14

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