人は死んで終わりではない
〜一つ一つが私の遺言〜
先日3月2日、頴娃町から教会に通って来ておられたK姉が亡くなられました。その日の朝、長崎と山梨から駆け付けて来ておられたご遺族の方から彼女が息を引き取られたとの連絡を戴き、病院の指示で、その日の午後に指宿の病院に姉妹のご遺体を引き取りに伺い、教会で納棺式を行い、姉妹のご遺体を棺に納めました。
そして、3日には家族葬と言うことでご遺族の方々と数名の教会員とで賛美歌を歌い、お祈りをし、説教をして神の国での再会を祈りつつ前夜式を行いました。
そして、4日に告別式を済ませ、献花をしてから、ご遺族の方々と幾人かの教会員とともに、頴娃町の火葬場に移動して火葬前式を行い最後のお別れを致しました。
近年、K姉は指宿の施設に入っておられたので、私たち夫婦は月1回一月分の週報を持参して彼女を訪問し、姉妹の部屋で一緒に賛美歌を歌い、お祈りをさせていただいておりました。賛美歌を歌いだすと教会を懐かしまれて涙を流し、早く教会に行きたいと言っておられました。
1月に姉妹をお伺いした時は、部屋で転ばれて骨折をされたとのことで、病院の方に移りられホールのすぐ横の中部屋のベッドで横になっておられました。そこでしばらくお話をし、「また、来月来ますね。」と言って明るく分かれ、姉妹も笑顔で送ってくれました。
それが2月末にお伺いした時には、看護師の方からK姉はひとり部屋に移られましたと言われて、奥の部屋に通されました。彼女は酸素マスクをつけて、ただ苦しそうに大きな息をしているだけで、私たちの呼びかけにも反応しないで、目は固く閉じられたままでした。
その日の内にご遺族の方々に連絡が入ったようで、すぐ長崎と山梨から指宿に来られて様子を見ておられましたが、3月に入ってすぐ永遠の眠りにつかれました。
1月に病院で姉妹にお会いした時には、まさか1カ月余りで亡くなられるとは考えもしませんでしたし、彼女自身もそのようなことは全く予想だにしなかったことだと思います。
しかし、これは彼女だけのことではなく、多くの人が体調を崩されて入院後、数カ月のうちに亡くなられたと言うことを、良く聞いておりました。
多くの人にとって、死に関しては予期せぬ時に訪れてくるものであることをしっかり認識し、その時になって慌てることが無いようにかねてからその備えをしておく必要があると思います。
三浦綾子さんの書かれたノンフィクション小説、塩狩峠の中に、主人公のお父様が亡くなられたときの遺書が出てまいります。
そこには「私があなた方に成したこと、また話したことの一つ一つが私の遺言だと思ってほしい。わたしはそのようなつもりで生きてきたから」というくだりがありますが、あのような確かな生き方が出来るのは、クリスチャンであるお父様が、死から目を背けず、かねてから後悔がないように、真実に生きてこられたゆえであると思います。
私たちもそのような悔いのない充実した確かな生き方ができたらと思います。
このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。・・・そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。Ⅱペテロ3:11,14
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。ヘブル9:27~28
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