ヨハネの福音書9章1-7節より
2022年7月3日
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
(ヨハネの福音書9章1-7節)
【説教】
【生まれつきという人間の運命】
私は盲目であったのに、今は見えるということです。
(ヨハネの福音書9:25)
この生まれつきの盲人はイエス様によって目が開かれました。彼は生きとし生けるものや自然の風景が見えるようになりました。信仰が与えられ、見えないものを信じる者になったのです。イエス様が神さまだとわかって、また自分の以前の罪深い姿を知ったのです。イエス様を信じる前の古い自分と、信じた後、新しく変えられた自分がわかったのです。
この反対の記事が聖書の創世記3章の人間に罪が入った出来事です。
それ以来すべての人間は罪人として生まれてきます。見えない神がわからず、自分の罪がわからない状態で生まれます。
生まれつきの盲人がイエス様の塗った泥で目がふさがれ、池まで歩いている姿は人から見れば愚かで笑われるかも知れません。しかし、信仰とは一見、愚かに見えるのです。しかし、人からどう見られようとも、心から疑わずにまっすぐに信じなければなりません。
キリストが十字架にかけられて殺されるときもそうでした。しかし、罪の生き方から救い出され、生まれ変わり、目が見えるようになるには、この愚かにも思われるキリストの十字架の事実を信じる以外ないのです。多くの人が十字架など何の意味もない、今の進化した科学万能の時代に何の力もない、ただの聖書のお話しだと終わらせている、この十字架にこそ唯一の救いがあるのです。
【運命、血のつながり、弱さやハンディキャップからの解放】
先祖の呪いで生まれつきの盲人として生まれ、乞食以外生きる道はなく、彼はその人生を受け入れていたかもしれません。その自分の運命は誰にも変えられないとなかばあきらめていたかも知れません。
しかし、イエス様は言います。「あなたの、どうしようもない運命は、あなたの罪でも、両親の罪のせいでもない。神さまの栄光の奇蹟が現れるためだ」と。
またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
(ヨハネの福音書9:1)
目が見えない盲人にはこのイエス様のまなざしは気付きません。しかし、私たちにはわからなくても、全知全能のイエス様はあなたを見ておられます。
いかなる運命があなたを縛っていたとしても、あなたの血筋がどうであろうと、誰もあなたの価値を認めてくれなくても、自分の力ではどうしても暗闇の中からどうして光の射す場所へ出ることができないとしても、そのあなたの運命に神さまは働かれるのです。奇蹟を起こされるのです。
生まれつきの盲人の目を開くことなど聞いたことがない。前代未聞でありえない奇蹟を彼は体験したのです。本当の奇蹟は今、彼が神を信じて礼拝していることです。
これは説明のつかない根拠のない奇蹟ではありません。キリストが2000年前にカルバリの十字架で死んでよみがえり、あなたの運命を変えてくださったのです。
神さまから遠く離れて、闇の中を罪深く生きて、やがて死んでしまう運命から、キリストを信じて生まれ変わり、イエスのふところに帰り、光の中に生きる者に変えてくださったのです。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
(ヨハネの福音書5:24)