ローマ人への手紙5章12-21節より
2022年8月14日
<聖書>
そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。
(ローマ人への手紙5章12-21節)
<説教>
最初の人アダムが神さまの命令を守らず罪を犯したときに世界に罪と死が入りました。それ以来すべて生まれる人間は罪の性質と、罪の刑罰である死刑判決を言い渡されています。この世界全体も罪と死の支配にあり、罪に誘惑する力が働いています。
罪は律法(規則やルール)がなければ自覚できません。この地上には法律やルールがあるので、罪を犯すと刑罰を受けます。しかし、神さまの法律(聖書の十戒など)に違反しても人間は気付きません。神さまは聖書(守るべき戒め)を与えて、それが守れないことにより、罪を教えてくださいます。
ネットで匿名の投書や誹謗中傷により、人の心を傷つけます。性のモラルが低下して、欲望のままに本来の大切な性(結婚関係にだけ限られる)がおかされています。法律では処罰されなくても、神さまに対しては有罪です。当然、地上と同様罪の刑罰があります。罪の刑罰は死です。
人間だけが、他の被造物と違って、空想や心や思いの中で知らない場所を訪れたり、誰かと同伴することができます。心の中での罪深いこと、誰かを憎んだり、人をよこしまな思いで見るならば、神さまの基準では、現実にそれを行ったと扱われます。罪はまず心の中から始まり、そして現実に起こるのです。
そのとき、すべてのだれも自分の罪を認めないわけにいきません。そして罪とは、神さまの前で自分を正しいとすることなのです。神さまとの正しい関係から離れて自分勝手に生きることなのです。神さまの言葉に従わないことです。
子どもが悪いことをして親に叱られて、ゆるされることは、ただ恵み(親の大きな愛)によるのです。
人の違反(罪を犯す)は決してなかったことにはできません。違反に対しては恵みしかないのです。恵みとは本来は働いた者が受けるべき報酬を、働きのない受ける価値のない者がその報酬を受けることを言います。
聖書(律法)の目的は、キリストによる救いを受けるためです。
アダムは違反を犯しました。しかし、キリストが違反を完全に補う正しい行為を示されました。罪による死の支配から、キリストは十字架で罪と死に打ち勝ちよみがえり、いのちを与えてくださいました。自分の欲に従った罪の生き方からキリストは父なる神さまに従い十字架の死にまで従われました。
違反(アダム)と恵み(キリスト)は比べることができないまったく異質なものです。人間には理解できない、神さまの大きなあわれみと愛です。罪なき神の子キリストが罪の身代わりに十字架できよい血を流してくださったのです。神の愛が現されたのです。
罪を重ねて絶望の中にあるとき、その刑罰を受ける方が楽かもしれません。否、自分は満足かもしれません。自分を痛めつけて死んでしまう方が納得いくかもしれません。それは赦されない罪と決めて、生きることより死しか方法がわからないからです。神さまだけが罪を赦す権威をお持ちなのです。罪深さを自覚すればするほど、神さまの恵みを受けることができます。
ただ、あなたの罪の刑罰の身代わりを十字架で受けて死なれたイエス様を信じることです。
キリストを信じて十字架の赦しを受けるならば、世の中や自分の人生を憎むのではなく、愛して赦す者に変えられます。それがイエス様のいのちによって生きることです。死ぬのではなく、本当の「生きる」をくださいます。
「神の恵みとは次のようにたとえることができます。莫大な預金残高がある口座の通帳があなたにプレゼントとして与えられている。あなたがすべきことは、それを持って、ただ銀行に行ってそれを自分のものにするだけである。」
讃美歌アメイジンググレイスの作詞者ジョン・ニュートンは82歳で神の御許へ旅立っていきました。晩年、彼はこんな言葉を残しています。
「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。
一つは、私がおろかな罪人であること。もう一つは、キリストが偉大なる救い主であること。」
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──」
(エペソ人への手紙2章3-5節)