あなたの中にある神様のかたち

創世記1章24-28節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月28日

<聖書>

神(かみ)は仰(おお)せられた。「地が、種類(しゅるい)にしたがって、生(い)き物(もの)を生(しょう)ぜよ。家畜(かちく)や、はうもの、野の獣(けもの)を、種類(しゅるい)にしたがって。」そのようになった。
神(かみ)は、種類(しゅるい)にしたがって野の獣(けもの)を、種類(しゅるい)にしたがって家畜(かちく)を、種類(しゅるい)にしたがって地のすべてのはうものを造(つく)られた。神(かみ)はそれを見て良(よ)しとされた。
神(かみ)は仰(おお)せられた。「さあ人を造(つく)ろう。われわれのかたちとして、われわれに似(に)せて。彼らが、海(うみ)の魚(うお)、空(そら)の鳥(とり)、家畜(かちく)、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(しはい)するように。」
神(かみ)は人をご自身(じしん)のかたちとして創造(そうぞう)された。神(かみ)のかたちとして彼を創造(そうぞう)し、男と女とに彼らを創造(そうぞう)された。
神(かみ)は彼らを祝福(しゅくふく)された。神(かみ)は彼らに仰(おお)せられた。「生(う)めよ。ふえよ。地を満(み)たせ。地を従(したが)えよ。海(うみ)の魚(うお)、空(そら)の鳥(とり)、地をはうすべての生(い)き物(もの)を支配(しはい)せよ。」

<説教>

天地(てんち)創造(そうぞう)の第六日に動物(家畜(かちく)・けもの・地をはうもの)、そして人間が造(つく)られ

ました。動物は「種類(しゅるい)」に従って造(つく)られました。しかし、人間は「神(かみ)さまのかたち」として、神(かみ)さまに似(に)せて造(つく)られました。

「神(かみ)である【主】は土地のちりで人を形造(かたちづく)り、その鼻(はな)にいのちの息(いき)を吹(ふ)き込(こ)まれた。そこで人は生きものとなった。」                                                 (創世記(そうせいき)2:7)

神(かみ)さまのかたちとは何でしょうか。

1.人は理性(りせい)ある存在(そんざい)

人は決(けっ)して欲望(よくぼう)のままに生きる存在(そんざい)ではありません。何が悪(あく)で、何が善(ぜん)であるかを判断(はんだん)できます。私たちは自分の行動(こうどう)に責任(せきにん)を持っています。自分の生き方がなげやりであってはならないのです。人はいくら欲望(よくぼう)を満(み)たしても満足(まんぞく)できない存在(そんざい)なのです。

与(あた)えられた命(いのち)、家族(かぞく)、すべてを感謝(かんしゃ)して大切にしましょう。

他の動物と違(ちが)い、悪(あく)を行わないだけでなく、すすんで善(ぜん)を行うことができる存在(そんざい)なのです。

「私たちは神(かみ)の作品(さくひん)であって、良(よ)い行いをするためにキリスト・イエスにあって造(つく)られたのです。神(かみ)は、私たちが良(よ)い行いに歩むように、その良(よ)い行いをもあらかじめ備(そな)えてくださったのです。」               (エペソ人への手紙2:10)

2.人はこの地上の生きものを管理(かんり)する存在(そんざい)

この地上の被造物(ひぞうぶつ)を正しく管理(かんり)するべき存在(そんざい)です。神(かみ)さまが造(つく)られたすべての生きものに対して、人間は思いやりをもち、彼らの幸福(こうふく)のためにも寄(よ)り添(そ)うべきなのです。

しかし、人間の勝手(かって)により、自然(しぜん)破壊(はかい)や、生きものは絶滅(ぜつめつ)の危機(きき)にあります。その結果(けっか)、人間は天災(てんさい)や異常(いじょう)気象(きしょう)や食糧難(しょくりょうなん)、病気(びょうき)などのわざわいを招(まね)いています。 人間は何かを創造(そうぞう)して生み出したいという意志(いし)があります。芸術(げいじゅつ)、文化(ぶんか)、言葉、生き方など。神(かみ)さまが良(よ)いものを創造(そうぞう)されたように、人間の創造(そうぞう)の命(いのち)を生み出す存在(そんざい)なのです。

3.人は関係が必要(ひつよう)な存在(そんざい)

人間が神(かみ)さまに創造(そうぞう)されたということは、孤立(こりつ)して生きる存在(そんざい)ではないということです。人は人間との関(かか)わりの中でしか成長(せいちょう)できません。社会(しゃかい)の中で生きるとき本当の人間となることができます。すべての人は親戚(しんせき)、身内(みうち)です。競争(きょうそう)相手(あいて)としてではなく、仲間(なかま)なのです。愛(あい)し合うように聖書(せいしょ)は教えています。

人間は神(かみ)様に造(つく)られた有限(ゆうげん)の被造物(ひぞうぶつ)でもあります。人は自分が独立(どくりつ)して自分の力により存在(そんざい)していると思うかもしれませんが、一つ一つの呼吸(こきゅう)さえ神(かみ)さまによって与(あた)えられています。

有限(ゆうげん)の存在(そんざい)であるということは、不完全(ふかんぜん)でいいということです。自分の弱(よわ)さ、あやまりをおそれずに、かえって間違(まちが)っているかも知れないという謙遜(けんそん)な姿勢(しせい)で生きるべきです。

神(かみ)さまが必要(ひつよう)な被造物(ひぞうぶつ)であることを認(みと)めて生きるなら、満足(まんぞく)と幸福(こうふく)があり、認(みと)めないなら失望(しつぼう)と挫折(ざせつ)があります。

人間は他の被造物(ひぞうぶつ)とは比較(ひかく)できない素晴(すば)らしい存在(そんざい)です。しかし、それは、神(かみ)さまが人間を創(つく)られたから素晴(すば)らしいのです。ヴァイオリンにストラディバリウスという名器(めいき)があります。素晴(すば)らしい音色(ねいろ)を奏(かな)でるこの楽器(がっき)を通(とお)して、その製(せい)作者(さくしゃ)を称(たた)えているように、素晴(すば)らしい人間の存在(そんざい)を通(とお)して、神(かみ)さまをほめたたえるのです。人間は神(かみ)さまを礼拝(れいはい)するために造(つく)られて存在(そんざい)しています。教会(きょうかい)で礼拝(れいはい)を守りましょう。

人間は、神(かみ)さまのことばを聞いて答えることができます。それは聖書(せいしょ)に書いてある以下の事実(じじつ)です。

人間が自分勝手(かって)な罪深(つみぶか)い間違(まちが)った生き方をして滅(ほろ)びに向(む)かっていること。しかし、神(かみ)さまがその悲惨(ひさん)な生き方から救(すく)い出すために、ひとり子のイエス・キリストを人として十字架(じゅうじか)につけてくださったこと。キリストの死とよみがえりを信じるなら、その者は罪赦(つみゆる)されて、新しい神(かみ)のかたちにふさわしく生きることができること。

いかなる人であっても神(かみ)さまのかたちは決(けっ)して失(うしな)われてはいません。あなたが神(かみ)さまに造(つく)られたことが、何より神(かみ)さまからの祝福(しゅくふく)なのです。

「光(ひかり)が、やみの中から輝(かがや)き出よ」と言われた神(かみ)は、私たちの心を照(て)らし、キリストの御顔(みかお)にある神(かみ)の栄光(えいこう)を知る知識(ちしき)を輝(かがや)かせてくださったのです。私たちは、この宝(たから)を、土(つち)の器(うつわ)の中に入れているのです。それは、この測(はか)り知れない力が神(かみ)のものであって、私たちから出たものでないことが明(あき)らかにされるためです。                                     (コリント人への手紙第二4:6-7)

豊かさとは「もつ」ことでなく「生きる」こと

ルカの福音書12章13-21節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月21日

<聖書>

群衆(ぐんしゅう)の中のひとりが、「先生(せんせい)。私と遺産(いさん)を分けるように私の兄弟(きょうだい)に話(はな)してください」と言った。
すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁(さい)判官(ばんかん)や調停者(ちょうていしゃ)に任命(にんめい)したのですか。」
そして人々に言われた。「どんな貪欲(どんよく)にも注意(ちゅうい)して、よく警戒(けいかい)しなさい。なぜなら、いくら豊(ゆた)かな人でも、その人のいのちは財産(ざいさん)にあるのではないからです。」
それから人々にたとえを話(はな)された。「ある金持(かねも)ちの畑(はたけ)が豊作(ほうさく)であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物(さくもつ)をたくわえておく場所(ばしょ)がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉(くら)を取(と)りこわして、もっと大きいのを建(た)て、穀物(こくもつ)や財産(ざいさん)はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先(さき)何年分(なんねんぶん)もいっぱい物がためられた。さあ、安心(あんしん)して、食(た)べて、飲(の)んで、楽(たの)しめ。」』
しかし神(かみ)は彼に言われた。『愚(おろ)か者(もの)。おまえのたましいは、今夜おまえから取(と)り去(さ)られる。そうしたら、おまえが用意(ようい)した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神(かみ)の前に富(と)まない者(もの)はこのとおりです。」

(ルカの福音書12章13-21節)

<説教>

この金持(かねも)ちは、穀物(こくもつ)も倉(くら)も財産(ざいさん)も、すべて自分のものだと考えました。そして命(いのち)までも自分のものだと思ったのです。金銭(きんせん)や世(よ)の富(とみ)は海水のようなものです。飲めば飲むほど渇(かわ)くのです。いくら持っても満足(まんぞく)することはないのです。

この世(よ)の富(とみ)に対しては次のような姿勢(しせい)でいるべきです。

  • 第一としない② 頼(たの)みとしない③ いつまでも続(つづ)かないもの(永遠(えいえん)のものではない)

この金持(かねも)ちはこの世(よ)の富(とみ)で命(いのち)までも保証(ほしょう)されると考えました。富(とみ)は決して万能(ばんのう)ではありません。死後(しご)の保証(ほしょう)には何の役にも立ちません。

おのれの財産(ざいさん)に信頼(しんらい)する者どもや、豊(ゆた)かな富(とみ)を誇(ほこ)る者どもを。人は自分の兄弟をも買(か)い戻(もど)すことはできない。自分の身代金(みのしろきん)を神(かみ)に払(はら)うことはできない。──たましいの贖(あがな)いしろは、高価(こうか)であり、永久(えいきゅう)にあきらめなくてはならない──

(詩篇(しへん)49:6-8)

富(とみ)を与(あた)えるのは神(かみ)さまです。すべてを創造(そうぞう)された神(かみ)さまは、この世(よ)の見えるもの(物質(ぶっしつ)世界(せかい))、見えないもの(霊的(れいてき)世界(せかい))の主権者(しゅけんしゃ)です。この金持(かねも)ちを豊作(ほうさく)にしたのは神(かみ)さまなのです。そして命(いのち)を取(と)り去(さ)られたのも神(かみ)さまです。

この「取(と)り去(さ)られた」の原語(げんご)には貸(か)していたものを返(かえ)すように求(もと)める意味(いみ)があります。

人は貧(まず)しさには耐(た)え抜(ぬ)く強(つよ)さがあっても豊(ゆた)かさの中では快楽(かいらく)にふけりたいという弱(よわ)さがあります。豊(ゆた)かさの中で、その人の正しさの基準(きじゅん)や生きる目的(もくてき)が明(あき)らかになります。一時的(いちじてき)な喜(よろこ)びに生きるか。それとは比(くら)べることのできない永遠(えいえん)の喜(よろこ)びを信(しん)じるかです。

聖書(せいしょ)のザアカイという人物(じんぶつ)は巨万(きょまん)の富(とみ)を手にしましたが、その心は孤独(こどく)でした。

豊(ゆた)かな人生(じんせい)は「持(も)つ」ことではなく「関係(かんけい)に生きる」ことにあるのです。

聖書(せいしょ)の中でパウロは、貧(まず)しさの中でも、豊(ゆた)かさの中でも生きる秘訣(ひけつ)は、神(かみ)さまに感謝(かんしゃ)することだと言います。

神(かみ)さとの関係(かんけい)こそが、その人の生き方の豊(ゆた)かさを決定(けってい)するのです。

この金(かね)持(も)ちも、ザアカイも財産(ざいさん)を自分のためだけに使いました。誰(だれ)かのために使うことができませんでした。

神(かみ)さまは、イエス・キリストを私たちのために十字架(じゅうじか)に遣(つか)わされました。それは、財産(ざいさん)も命(いのち)も自分のものだと考える自己(じこ)中心(ちゅうしん)な私たちの罪(つみ)のためです。神(かみ)さまよりも金銭(きんせん)を神(かみ)として追(お)い求(もと)める私たちの生き方を正すためです。

「あなたがたは、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの恵(めぐ)みを知っています。すなわち、主(しゅ)は富(と)んでおられたのに、あなたがたのために貧(まず)しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧(まず)しさによって富(と)む者(もの)となるためです。」

(コリント人への手紙 第二8:9)

イエス様を信じる者(もの)は、神(かみ)の愛とあわれみを受(う)けて変(か)えられます。受(う)けるよりも与(あた)える生き方に変(か)えられます。誰(だれ)かのために生きる、愛と感謝(かんしゃ)の心を持(も)つことこそ、豊(ゆた)かな生き方です。そのとき、あなたはもちろん、神(かみ)さまが喜んでいることが必ずわかります。あなたの人生(じんせい)には喜びの関係(かんけい)が溢(あふ)れることでしょう。

「神(かみ)は喜んで与(あた)える人を愛してくださいます。神(かみ)は、あなたがたを、常(つね)にすべてのことに満(み)ち足(た)りて、すべての良(よ)いわざにあふれる者(もの)とするために、あらゆる恵(めぐ)みをあふれるばかり与(あた)えることのできる方です。」

(コリント人への手紙 第二9:7-8)

私の子どもだったら

「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。」詩篇103:8

口唇裂で生まれてきたある少女について、読んだことがあります。小学校に上がると、変形した鼻や割れた唇、歪んだ歯や不明瞭な発音をからかわれ、ひどくいじめられました。やがて彼女は、自分は誰にも好かれていないと思うようになりました。
二年生になると、子どもたちに大変人気のあるレナード先生が担任になりました。彼女は、ユーモアと愛情に溢れた明るい女性でした。この先生は、ある簡単なテストをして、子どもたちの聴力検査をしていました。生徒を教室の端に立たせると、反対側から小声で質問します。「あなたの靴は何色ですか。」または「ワンピースを持っていますか。」すると子どもが答えます。メアリーの番が来ました。彼女は、先生の声に聞き耳を立てます。すると、こう聞こえました。
「メアリーが私の子どもだったらうれしいのに。」
この一言が、メアリーの人生を決定的に変えました。自分の外見に関係なく、大好きな先生が自分を愛してくれている、と気づいたからです。
もし、あなたが「自分は価値のない人間だ」とか「自分などいてもいなくても同じだ」などと感じていたとしても、神は憐れみ深くあなたを受け入れ、心から愛しておられます(詩篇103:1-8)。そのような神の愛を知っていますか。(David Roper)

神の写真立てには、あなたの写真が入っている。

世界に一人しかいないあなた!!!

最(もっと)も幸(しあわ)せな人とはどんな人でしょう。それは、神(かみ)が創(つく)られた、あるがままの自分(じぶん)を受(う)け入(い)れて、自分(じぶん)が持(も)っているものをよろこび、人(ひと)がどう思(おも)うかを気(き)にしすぎない人(ひと)です。人(ひと)の期待(きたい)に合(あ)わせようと苦労(くろう)していると、それがプレッシャーになりますが、ありのままの自分(じぶん)を謙虚(けんきょ)に受(う)け止(と)めるなら解放感(かいほうかん)があります。

人(ひと)に合(あ)わせようとしたり、良(よ)い印象(いんしょう)を与(あた)えようとするあまり、自分(じぶん)以外(いがい)の何(なに)かになろうと無理(むり)に努力(どりょく)するよりは、むしろ、ありのままの自分(じぶん)でいるだけの勇気(ゆうき)を持(も)っている人(ひと)のことを、多(おお)くの人(ひと)は、立派(りっぱ)だと考(かんが)えるのではないでしょうか。もちろん、そのような決断(けつだん)をする人(ひと)は、孤独感(こどくかん)や疎外感(そがいかん)を味(あじ)わうことがよくあります。これは悲(かな)しいことです。

若(わか)い頃(ころ)、私(わたし)は、自分(じぶん)の外見(がいけん)がイヤでした。鼻(はな)が大きすぎて、やせっぽちで醜(みにく)いと思(おも)っていたので、劣等感(れっとうかん)のかたまりで、それを克服(こくふく)するのにかなりの年月(ねんげつ)を要(よう)しました。プライドが高(たか)かったし、人(ひと)と自分(じぶん)を比(くら)べていたからです。しかし、大人(おとな)になるにつれ、外見(がいけん)などそれほど大切(たいせつ)でないことを悟(さと)りました。自分(じぶん)は神(かみ)の望(のぞ)まれる通(とお)りに創(つく)られたのだとわかったのです。神(かみ)は自分(じぶん)を愛(あい)しているから、このように創(つく)ってくださったのだと。

神(かみ)は、神(かみ)によって創(つく)られたままのあなたを愛(あい)していて、神(かみ)の目(め)にはあなたは美(うつく)しいのです。誰(だれ)もが、世界(せかい)でたった一人(ひとり)の存在(そんざい)であって、特別(とくべつ)です。神(かみ)から見れば、外見(がいけん)がどんなであろうと、醜(みにく)いものなどありません。

神(かみ)とどのようなつながりを持(も)っているかが、自信(じしん)に関係(かんけい)してきます。神(かみ)に近(ちか)くなり、神(かみ)と良(よ)い関係(かんけい)にあるなら、もっと自分(じぶん)に満足(まんぞく)し、心(こころ)安(やす)らぎ、幸(しあわ)せで、リラックスできることでしょう。神(かみ)に近(ちか)く生(い)きようとしているなら、あなたはハンサム、または美人(びじん)です。神(かみ)の愛(あい)や光(ひかり)が自分(じぶん)を通(とお)して輝(かがや)くからです。

祈(いの)って、自分(じぶん)について神(かみ)がどう思(おも)っておられるかたずねてみてはどうでしょう。または、誰(だれ)かに、神(かみ)にたずねてもらうようお願(ねが)いするのです。神(かみ)の目(め)に自分(じぶん)がどう映(うつ)っているかや、自分(じぶん)の内(うち)なる美(うつく)しさや強さは何(なに)なのか、また神(かみ)はあなたの内(うち)でどんな才能(さいのう)や能力(のうりょく)を伸(の)ばしたいのかを。神(かみ)から励(はげ)ましの言葉(ことば)をもらうならば、自分(じぶん)が世界(せかい)にたった一人(ひとり)しかいない神(かみ)の創造物(そうぞうぶつ)であることを幸(しあわ)せに思(おも)うことでしょう。

聖書(せいしょ)には「あなたはわが目(め)に尊(とうと)い」とあります。

神(かみ)は、弱(よわ)さや欠点(けってん)もふくめて、ありのままのあなたを尊(とうと)く思(おも)い、愛(あい)して下(くだ)さっています。だからこそ、そのひとり子であるイエス・キリストを救(すく)い主(ぬし)としてあなたのために地上(ちじょう)に送(おく)られました。イエスは、神(かみ)からあなたへのプレゼントです。ただイエスを心(こころ)に受(う)け入(い)れるならば、あなたは救(すく)われ、天国(てんごく)に行(い)くことが約束(やくそく)されます。そして、イエスは永遠(えいえん)の友(とも)となって、あなたの人生(じんせい)を導(みちび)いて下(くだ)さるのです。次の祈(いの)りを祈(いの)って、あなたもイエスを心(こころ)の中(なか)に受(う)け入(い)れて下(くだ)さい。

「イエスさま、ありのままの私(わたし)を受(う)け入(い)れて下(くだ)さるあなたの愛(あい)を感謝(かんしゃ)します。あなたを心(こころ)の中(なか)に受(う)け入(い)れます。どうぞ、あなたの愛(あい)で私(わたし)の心(こころ)を満(み)たし、私(わたし)の人生(じんせい)を導(みちび)いて下(くだ)さい。そして、私(わたし)が他(ほか)の人(ひと)にもあなたの愛(あい)を分かち合(あ)うことができますように。 アーメン。」

アメイジンググレイス~驚くべき神の恵み

ローマ人への手紙5章12-21節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月14日

<聖書>

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪(つみ)が世界に入り、罪(つみ)によって死が入り、こうして死が全人類(ぜんじんるい)に広がったのと同様(どうよう)に、──それというのも全人類(ぜんじんるい)が罪(つみ)を犯したからです。
というのは、律法(りっぽう)が与えられるまでの時期にも罪(つみ)は世にあったからです。しかし罪(つみ)は、何かの律法(りっぽう)がなければ、認(みと)められないものです。
ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反(いはん)と同じようには罪(つみ)を犯(おか)さなかった人々をさえ支配(しはい)しました。アダムはきたるべき方のひな型(がた)です。
ただし、恵(めぐ)みには違反(いはん)の場合(ばあい)とは違(ちが)う点(てん)があります。もしひとりの違反(いはん)によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神(かみ)の恵(めぐ)みとひとりの人イエス・キリストの恵(めぐ)みによる賜物(たまもの)とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
また、賜物(たまもの)には、罪(つみ)を犯(おか)したひとりによる場合(ばあい)と違(ちが)った点(てん)があります。さばきの場合(ばあい)は、一つの違反(いはん)のために罪(つみ)に定(さだ)められたのですが、恵(めぐ)みの場合(ばあい)は、多くの違反(いはん)が義(ぎ)と認(みと)められるからです。
もしひとりの違反(いはん)により、ひとりによって死が支配(しはい)するようになったとすれば、なおさらのこと、恵(めぐ)みと義(ぎ)の賜物(たまもの)とを豊(ゆた)かに受(う)けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配(しはい)するのです。
こういうわけで、ちょうどひとりの違反(いはん)によってすべての人が罪(つみ)に定(さだ)められたのと同様(どうよう)に、ひとりの義(ぎ)の行為(こうい)によってすべての人が義(ぎ)と認(みと)められ、いのちを与(あた)えられるのです。
すなわち、ちょうどひとりの人の不従順(ふじゅうじゅん)によって多くの人が罪(つみ)人とされたのと同様(どうよう)に、ひとりの従順(じゅうじゅん)によって多くの人が義人(ぎじん)とされるのです。
律法(りっぽう)が入って来たのは、違反(いはん)が増(ま)し加(くわ)わるためです。しかし、罪(つみ)の増(ま)し加(くわ)わるところには、恵(めぐ)みも満(み)ちあふれました。
それは、罪(つみ)が死によって支配(しはい)したように、恵(めぐ)みが、私たちの主(しゅ)イエス・キリストにより、義(ぎ)の賜物(たまもの)によって支配(しはい)し、永遠(えいえん)のいのちを得(え)させるためなのです。

(ローマ人への手紙(てがみ)5章12-21節)

<説教>

最初の人アダムが神さまの命令を守(まも)らず罪(つみ)を犯したときに世界に罪(つみ)と死が入りました。それ以来すべて生まれる人間は罪(つみ)の性質(せいしつ)と、罪(つみ)の刑罰(けいばつ)である死刑(しけい)判決(はんけつ)を言い渡(わた)されています。この世界全体も罪(つみ)と死の支配(しはい)にあり、罪(つみ)に誘惑(ゆうわく)する力が働いています。

罪(つみ)は律法(りっぽう)(規則(きそく)やルール)がなければ自覚(じかく)できません。この地上には法律(ほうりつ)やルールがあるので、罪(つみ)を犯すと刑罰(けいばつ)を受けます。しかし、神さまの法律(ほうりつ)(聖書(せいしょ)の十戒(じっかい)など)に違反(いはん)しても人間は気付きません。神さまは聖書(せいしょ)(守(まも)るべき戒(いまし)め)を与(あた)えて、それが守(まも)れないことにより、罪(つみ)を教えてくださいます。

ネットで匿名(とくめい)の投書(とうしょ)や誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)により、人の心を傷(きず)つけます。性(せい)のモラルが低下(ていか)して、欲望(よくぼう)のままに本来(ほんらい)の大切な性(せい)(結婚(けっこん)関係(かんけい)にだけ限られる)がおかされています。法律(ほうりつ)では処罰(しょばつ)されなくても、神さまに対しては有罪(ゆうざい)です。当然(とうぜん)、地上と同様(どうよう)罪(つみ)の刑罰(けいばつ)があります。罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は死です。

人間だけが、他の被造物(ひぞうぶつ)と違(ちが)って、空想(くうそう)や心や思いの中で知らない場所を訪(おとず)れたり、誰(だれ)かと同伴(どうはん)することができます。心の中での罪(つみ)深(ぶか)いこと、誰(だれ)かを憎(にく)んだり、人をよこしまな思いで見るならば、神さまの基準(きじゅん)では、現実(げんじつ)にそれを行ったと扱(あつか)われます。罪(つみ)はまず心の中から始まり、そして現実(げんじつ)に起こるのです。

そのとき、すべてのだれも自分の罪(つみ)を認(みと)めないわけにいきません。そして罪(つみ)とは、神(かみ)さまの前で自分を正しいとすることなのです。神(かみ)さまとの正しい関係から離(はな)れて自分勝手(じぶんかって)に生きることなのです。神(かみ)さまの言葉に従(したが)わないことです。

子どもが悪いことをして親に叱(しか)られて、ゆるされることは、ただ恵(めぐ)み(親の大きな愛(あい))によるのです。

人の違反(いはん)(罪(つみ)を犯(おか)す)は決してなかったことにはできません。違反(いはん)に対しては恵(めぐ)みしかないのです。恵(めぐ)みとは本来(ほんらい)は働(はたら)いた者が受(う)けるべき報酬(ほうしゅう)を、働(はたら)きのない受(う)ける価値(かち)のない者がその報酬(ほうしゅう)を受(う)けることを言います。

聖書(せいしょ)(律法(りっぽう))の目的(もくてき)は、キリストによる救(すく)いを受(う)けるためです。

アダムは違反(いはん)を犯(おか)しました。しかし、キリストが違反(いはん)を完全に補(おぎな)う正しい行為(こうい)を示されました。罪(つみ)による死の支配(しはい)から、キリストは十字架(じゅうじか)で罪(つみ)と死に打ち勝ちよみがえり、いのちを与(あた)えてくださいました。自分の欲(よく)に従(したが)った罪(つみ)の生き方からキリストは父なる神(かみ)さまに従(したが)い十字架(じゅうじか)の死にまで従(したが)われました。

違反(いはん)(アダム)と恵(めぐ)み(キリスト)は比(くら)べることができないまったく異質(いしつ)なものです。人間には理解(りかい)できない、神(かみ)さまの大きなあわれみと愛(あい)です。罪(つみ)なき神(かみ)の子キリストが罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)できよい血を流してくださったのです。神(かみ)の愛(あい)が現されたのです。

罪(つみ)を重ねて絶望(ぜつぼう)の中にあるとき、その刑罰(けいばつ)を受(う)ける方が楽かもしれません。否、自分は満足かもしれません。自分を痛めつけて死んでしまう方が納得いくかもしれません。それは赦(ゆる)されない罪(つみ)と決めて、生きることより死しか方法がわからないからです。神(かみ)さまだけが罪(つみ)を赦(ゆる)す権威(けんい)をお持ちなのです。罪深(つみぶか)さを自覚(じかく)すればするほど、神さまの恵みを受けることができます。

ただ、あなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりを十字架(じゅうじか)で受(う)けて死なれたイエス様を信じることです。

キリストを信じて十字架(じゅうじか)の赦(ゆる)しを受(う)けるならば、世の中や自分の人生を憎(にく)むのではなく、愛(あい)して赦(ゆる)す者に変えられます。それがイエス様のいのちによって生きることです。死ぬのではなく、本当の「生きる」をくださいます。

「神(かみ)の恵(めぐ)みとは次のようにたとえることができます。莫大(ばくだい)な預金(よきん)残高(ざんだか)がある口座(こうざ)の通帳(つうちょう)があなたにプレゼントとして与(あた)えられている。あなたがすべきことは、それを持って、ただ銀行(ぎんこう)に行ってそれを自分のものにするだけである。」

讃美歌(さんびか)アメイジンググレイスの作詞者(さくししゃ)ジョン・ニュートンは82歳で神(かみ)の御許(みもと)へ旅立(たびだ)っていきました。晩年(ばんねん)、彼はこんな言葉を残(のこ)しています。

「薄(うす)れかける私の記憶(きおく)の中で、二つだけ確(たし)かに覚(おぼ)えているものがある。

一つは、私がおろかな罪人(つみびと)であること。もう一つは、キリストが偉大(いだい)なる救(すく)い主(ぬし)であること。」

「私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の肉(にく)の欲(よく)の中に生き、肉(にく)と心の望(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを受(う)けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊(ゆた)かな神(かみ)は、私たちを愛(あい)してくださったその大きな愛(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救(すく)われたのは、ただ恵(めぐ)みによるのです──」

(エペソ人への手紙2章3-5節)

聖書は信じる者を救う神のことば

テモテへの手紙第二3章12-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年8月7日

<聖書>

確(たし)かに、キリスト・イエスにあって敬虔(けいけん)に生(い)きようと願(ねが)う者(もの)はみな、迫害(はくがい)を受(う)けます。しかし、悪人(あくにん)や詐欺師(さぎし)たちは、だましたりだまされたりしながら、ますます悪(あく)に落(お)ちて行(い)くのです。
けれどもあなたは、学(まな)んで確信(かくしん)したところにとどまっていなさい。あなたは自分(じぶん)が、どの人(ひと)たちからそれを学(まな)んだかを知(し)っており、
また、幼(おさな)いころから聖書(せいしょ)に親(した)しんで来(き)たことを知(し)っているからです。聖書(せいしょ)はあなたに知恵(ちえ)を与(あた)えてキリスト・イエスに対(たい)する信仰(しんこう)による救(すく)いを受(う)けさせることができるのです。
聖書(せいしょ)はすべて、神(かみ)の霊感(れいかん)によるもので、教(おし)えと戒(いまし)めと矯正(きょうせい)と義(ぎ)の訓練(くんれん)とのために有益(ゆうえき)です。
それは、神(かみ)の人(ひと)が、すべての良(よ)い働(はたら)きのためにふさわしい十分(じゅうぶん)に整(ととの)えられた者(もの)となるためです。

(テモテへの手紙(てがみ)第二 3章12-17節)

<説教>

この世界にあるものはすべていつかは消え去ります。罪(つみ)と死の力が滅(ほろ)びへと向かわせています。そのような現実の中で、あなたは何を信じて生きていますか。生きている限り、人は何かを信(しん)じているのです。あなたの信(しん)じているものは、あなたを永遠(えいえん)に生かすものでしょうか。何を信(しん)じているかが大切(たいせつ)なのです。

あなたが本当に幸せな人生を生きるために、言いかえるなら、あなたが本当にいのちをいただいて生きるために、神(かみ)さまを知ることが必要(ひつよう)なのです。人間は自分で神(かみ)さまを知ることはできません。

神(かみ)さまご自身(じしん)のことばによって、人間は神(かみ)さまを知ることができます。それが聖書(せいしょ)です。聖書(せいしょ)には旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)と新約(しんやく)聖書(せいしょ)があります。旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)にはキリストと言われる救(すく)い主(ぬし)についての預言(よげん)が書かれています。新約(しんやく)聖書(せいしょ)はその預言(よげん)が成就(じょうじゅ)して神(かみ)さまに遣(つか)わされたイエス・キリストについて書かれています。

聖書(せいしょ)は人に罪(つみ)をさとらせます。罪(つみ)とは神(かみ)さまとの正しい関係(かんけい)を失(うしな)っている死(し)の状態(じょうたい)です。神(かみ)さまを恐(おそ)れずに生きるならば、人間はたかぶり、自分の欲(よく)のままに生きても滅(ほろ)びます。人間は罪(つみ)のために神(かみ)さまから離(はな)れて、神(かみ)さまを知ることができません。その罪(つみ)の問題(もんだい)の解決(かいけつ)のためにキリストは、あなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死(し)なれたのです。

キリストを個人的(こじんてき)にあなたの罪(つみ)からの救(すく)い主(ぬし)と信(しん)じるならば、あなたは罪(つみ)赦(ゆる)され、神(かみ)さまと和解(わかい)することができます。神(かみ)さまとの関係(かんけい)を永遠(えいえん)のいのちと言います。神(かみ)さまの子どもとして、いつまでも神(かみ)さまと共に生きることができます。

家族(かぞく)を失(うしな)って、その代(か)わりの人を探(さが)しても、本当の幸(しあわ)せはありません。罪(つみ)とは(家族の)状態(じょうたい)や関係(かんけい)が絶(た)ち切(き)られることです。人が何よりも求めるのは家族の関係(かんけい)の回復(かいふく)です。永遠(えいえん)の喜(よろこ)びとは家族(かぞく)と生きることです。そこに試練(しれん)や問題(もんだい)があっても、そこに本当の喜(よろこ)びや平安(へいあん)があるのです。そこにいのちがあるのです。

信仰(しんこう)もこの地上(ちじょう)の家族(かぞく)と同じです。イエス・キリストを信(しん)じて、神(かみ)さまとの関係(かんけい)を回復(かいふく)することは、家族(かぞく)の関係(かんけい)の回復(かいふく)です。これなしに、人は決して幸(しあわ)せな人生を送ることはできません。滅(ほろ)びの世界の中で聖書(せいしょ)を信(しん)じる者は幸(さいわ)いです。