マタイの福音書27章27-51節より
2023年4月2日
<聖書>
それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。ゴルゴタという所(「どくろ」と言われている場所)に来てから、彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架につけてから、彼らはくじを引いて、イエスの着物を分け、そこにすわって、イエスの見張りをした。また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
(マタイの福音書27章27-51節)
<説教>
十字架刑は、特別な犯罪にしか使われませんでした。それは主人を裏切った者、逃亡した者、最も低い身分の者が重い罪を犯した場合でした。
汚れた罪人が地上に触れないように、十字架の上で世から捨てられた存在として、苦痛と、さげすみと、はずかしめを受けるのです。
そして、イエスは苦しみの十字架の上で、父なる神にも見捨てられました。
なぜでしょうか。神は完全に正しいお方で、きよく、愛なるお方です。神は全能で何でもできます。しかし、神のご性質に反することはできません。神は罪をそのままにしておくことはできないのです。
イエスが十字架で死ななければならないほど、人間の罪は重いのです。十字架の上で、すべての人間の罪の身代わりとなり、父なる神の目には、イエスが完全な罪人として見えたのです。そして、罪人としての刑罰を、すべてお受けになったのです。罪は神との関係を失わせます。神に造られた者にとって、神の答えがないことは何よりも苦痛なのです。
イエスの右と左には強盗が十字架に付けられていました。一人の強盗は、自分の苦しみを叫び、神を呪っています。しかし、もう一人の強盗は、自分の罪深い人生に気付きます。神がいないため、どうしようもない人生になったとわかったのです。しかし、彼はイエスが神であり、自分の罪深さに答えて下さると信じたのです。
しかし、彼は、もう十字架の上で死ぬのをただ待つだけです。残された時間で彼にいったい何が出来るとういうのでしょうか。もう絶望なのでしょうか。
いいえ。人はいつでも自分と向き合い、自分の罪やけがれを心から、悔い改めるなら、イエスを信じるだけで、その瞬間に救われ、罪が赦されます。
すべての人は、イエスの右と左の強盗のどちらかです。それ以外の人はひとりもいません。すべての人間は罪人です。イエスが必要なのです。
神は人間の罪を決してあいまいにはできません。しかし、神は同時に、その罪の刑罰をご自分でお受けになったのです。
十字架は、神の完全な正しさと、完全な愛が現された死をいのちに変える力です。
罪の重荷は、あまりに重く、誰も背負うことなどできません。イエスはあなたを自由に解放するために「完了した」と言われ死んでくださいました。
この尊いイエスの犠牲の死、しかし、あなたのために喜んで十字架で死んでくださったイエスを信じませんか。