心配しないで生きる

マタイの福音書6章25-34節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月23日

<聖書>

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配(しんぱい)したり、また、からだのことで、何を()ようかと心配(しんぱい)したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物(きもの)よりたいせつなものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔(たねま)きもせず、()()れもせず、(くら)(おさ)めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを(やしな)っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配(しんぱい)したからといって、自分のいのちを少しでも()ばすことができますか。なぜ着物(きもの)のことで心配(しんぱい)するのですか。野のゆりがどうして(そだ)つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、(つむ)ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華(えいが)(きわ)めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾(きかざ)ってはいませんでした。きょうあっても、あすは()()()まれる野の草さえ、神はこれほどに(よそお)ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の(うす)い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を()るか、などと言って心配(しんぱい)するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人(いほうじん)が切に(もと)めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要(ひつよう)であることを知っておられます。だから、神の国とその()とをまず第一に(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて(あた)えられます。だから、あすのための心配(しんぱい)無用(むよう)です。あすのことはあすが心配(しんぱい)します。労苦(ろうく)はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書6章25-34節)

<説教>

神を信じない異邦人(いほうじん)は食べ物のこと、着物のことを心配(しんぱい)します。将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)します。

しかし、どれだけ心配(しんぱい)しても決して問題の解決(かいけつ)にはなりません。かえって体や精神的に悪いことさえあります。ほとんどの病気はストレスが原因だと言われています。

人間の心配(しんぱい)は、完全に信頼(しんらい)する存在、神を信じないことが原因です。神さまを(みと)めないならば、すべての起こりうる心配(しんぱい)は自分でどうにかしなくてはいけないのです。それは(つみ)(おか)して神様から(はな)れてしまった人間の生き方となってしまいました。

では心配(しんぱい)しないためにどうすればいいのでしょうか。

①     自然の生きものの姿を見て学ぶ。

イエス様は働かなくていいとは言っていません。鳥も働いています((すずめ)などは働き者で有名です)。しかし将来(しょうらい)のことを心配(しんぱい)する鳥や花はいません。しかし、神さまはそんな鳥を毎日(やしな)い、一日で()れてしまう花でさえも、最高の美しさで(よそお)ってくださいます。鳥や花より(すぐ)れた人間を神さまが(やしな)ってくださらないはずがありません。

②    神さまがすべてを支配(しはい)して(まも)ってくださることをいつも(おぼ)えて、そこに自分を()いて生活する。

イエス様は一番大切な(まも)るべきことは自分を愛するように隣人(となりびと)を愛することだと言われます。愛の心を持って(だれ)かを思いやって生きる。(だれ)かのために生きるとき自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。信仰(しんこう)をもって神さまのことばを実践(じっせん)するとき、自分の心配(しんぱい)はなくなっていきます。

③    今日を精一杯生きて、明日の心配(しんぱい)はしない。

いくら明日を心配(しんぱい)しても私たちが生きることができるのは今日だけです。今日という日を(つみ)から(はな)れて正しく、感謝して生きることに(つと)めましょう。

もし、あなたが今までの人生をすべて、事前(じぜん)に知らされていたら、今日まで生きてこられたでしょうか。今までたくさんの苦労(くろう)試練(しれん)があったことでしょう。しかし、あなたは、何が起こるか知らないで、心配(しんぱい)せずに生きてきましたが、今日まで生きて来られたのです。

神さまはあなたを(まも)(やしな)ってくださったのです。

だから、神の国とその()とをまず第一に(もと)めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて(あた)えられます。

マタイの福音書6:33

このみことばは聖書の中でも、とても素晴(すば)らしい約束の一つです。神の国とは神の支配(しはい)される領域(りょういき)をあらわします。神さまのご支配(しはい)される御国(みくに)の中で生活しようと(つと)め、神さまのみことばに(したが)って生きることを何より第一に(もと)(つづ)けるなら、必ず、神さまがあなたの必要を(そな)えてくださいます。

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりを自分の(つみ)身代(みが)わりと信じる者は、そのような生き方に変えられます。あらゆることを心配(しんぱい)しながら単独(たんどく)で生きる人生から、神さまと心が(むす)()けられるのです。

あなたのすべての(つみ)(ゆる)してくださった神さまは、愛をもって、あなたのすべての心配(しんぱい)もご自身の心配(しんぱい)事として引き受けてくださいます。

あなたがたの(おも)(わずら)いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配(しんぱい)してくださるからです。

Ⅰペテロ5:7

神の祝福に生きよう

創世記25章19-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月16日

<聖書>

これはアブラハムの子イサクの歴史(れきし)である。アブラハムはイサクを生んだ。イサクが、パダン・アラムのアラム人ベトエルの(むすめ)で、アラム人ラバンの妹であるリベカを(つま)にめとったときは、四十歳であった。イサクは自分の(つま)のために【(しゅ)】に祈願(きがん)した。彼女が不妊(ふにん)の女であったからである。【(しゅ)】は彼の(いの)りに答えられた。それで彼の(つま)リベカはみごもった。子どもたちが彼女の(はら)の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は」と言った。そして【(しゅ)】のみこころを求めに行った。すると【(しゅ)】は彼女に(おお)せられた。「二つの国があなたの胎内(たいない)にあり、二つの国民(くにたみ)があなたから分かれ出る。一つの国民(くにたみ)は他の国民(くにたみ)より強く、兄が弟に仕える。」出産(しゅっさん)の時が()ちると、見よ、ふたごが胎内(たいない)にいた。最初(さいしょ)に出て来た子は、赤くて、全身(ぜんしん)()(ころも)のようであった。それでその子をエサウと名づけた。そのあとで弟が出て来たが、その手はエサウのかかとをつかんでいた。それでその子をヤコブと名づけた。イサクは彼らを生んだとき、六十歳であった。

創世記(そうせいき)25章19-26節)

<説教>

(かみ)さまは、ご自身の国をつくることによって、祝福(しゅくふく)をご計画(けいかく)されました。それは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)のイスラエルから始まり、今はキリストを信じる者が集められた教会(きょうかい)です。イスラエルは、アブラハムから始まり、その子イサクはリベカによってエサウとヤコブが生まれます。

しかし、二人は外見(がいけん)性格(せいかく)もまるで違っていました。エサウは猟師(りょうし)で野の人で、ヤコブは天幕(てんまく)(かみ)さまに心を向けて生きる羊飼(ひつじか)いでした。

この双子(ふたご)兄弟(きょうだい)はイサク夫婦(ふうふ)(かみ)さまに(いの)(もと)めて20年目に(あた)えられた子どもでした。しかし、生まれる前から、リベカの(はら)の中でぶつかり合っていました。(かみ)さまは、エサウとヤコブからそれぞれ国が生まれ、兄が弟に(つか)えると、リベカに預言(よげん)します。ヤコブの家系(かけい)から、(かみ)の国をおこそうと計画(けいかく)されていました。

そして、あるとき兄のエサウが(りょう)からお(なか)()らして帰ったとき、弟のヤコブは美味(おい)しそうな(まめ)料理(りょうり)を作っていました。そのごちそうを欲しがるエサウに、ヤコブは長子(ちょうし)権利(けんり)(もと)めます。

エサウは空腹(くうふく)()たすために、よく考えることもなく、自分の長子(ちょうし)権利(けんり)をヤコブに売ってしまいます。

当時のイスラエルは、長子(ちょうし)は他の子どもたちより2倍の相続(そうぞく)財産(ざいさん)をもらえました。人も家畜(かちく)初子(ういご)(最初に母から生まれたもの)は(かみ)さまのものとされ、特別な価値(かち)があったのです。それと同時に(かみ)命令(めいれい)を守り、(かみ)の道に(つか)えて生きる責任(せきにん)義務(ぎむ)があったのです。

ヤコブも親の財産(ざいさん)をたくさんもらいたいと思いました。しかし、長子(ちょうし)権利(けんり)はそれよりも、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)意味(いみ)していたのです。

(かみ)さまの祝福(しゅくふく)とは、何となくありがたい気分がすることではありません。(かみ)さまを(しん)じる者は、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(あた)えられます。それは、(しん)じる者に変化を(あた)えるものです。次のようなものです。

1. 数量的に()えること
2. 力が(あた)えられること
3. 必要(ひつよう)な物が(そな)えられること
4. 生きる使命(しめい)任務(にんむ)(あた)えられること
5. 他の人に(かみ)(めぐ)みを分け(あた)えること

お金や(とみ)()(くわ)えられるのも(かみ)さまの祝福(しゅくふく)だと、聖書(せいしょ)にあります。

(しゅ)祝福(しゅくふく)そのものが人を()ませ、人の苦労(くろう)は何もそれに(くわ)えない。

箴言10:22

また、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(あた)えられるだけでなく、()けた(めぐ)みを、他の人に(あた)えることでもあります。

悪をもって悪に(むく)いず、侮辱(ぶじょく)をもって侮辱(ぶじょく)(むく)いず、かえって祝福(しゅくふく)(あた)えなさい。あなたがたは祝福(しゅくふく)()()ぐために()されたのだからです。                                       

Ⅰペテロ3:9

ヤコブも人をだまして、自分の利得に生きる者でしたが、その生涯(しょうがい)にわたり(かみ)さまのあわれみと訓練(くんれん)()け、まことの(かみ)さまを知っていきます。やがてヤコブは(さず)かった12人の子どもに(かみ)さまの祝福(しゅくふく)(いの)り、祝福(しゅくふく)(あた)える者に変えられていきます。 この12人の子ども(後のイスラエル12部族)からダビデが生まれ、やがてその子孫からイエス・キリストがお生まれになります。

今はイエス様を信じる者は、(かみ)さまの長子(ちょうし)とされます。(かみ)さまの子が()けるすべての霊的(れいてき)祝福(しゅくふく)(あた)えられます。

(よく)や目先のこと、物質的(ぶっしつてき)なこと、この地上のことを求めるだけでは人は幸せになることはできません。(かみ)さまを信じて、(つみ)(ゆる)しいただき、(かみ)さまの子どもとされ家族として生きる時、(かみ)さまの祝福(しゅくふく)()けて、まことの豊かな人生をおくることができるのです。

イエス様の十字架(じゅうじか)によって(あた)えられる祝福(しゅくふく)感謝(かんしゃ)しましょう。

このことは、アブラハムへの祝福(しゅくふく)が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を()けるためなのです。

ガラテヤ書3:14

愛に生きる

ヨハネの手紙第一 4章7-12節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月9日

<聖書>

(あい)する者たち。私たちは、(たが)いに(あい)し合いましょう。(あい)(かみ)から出ているのです。(あい)のある者はみな(かみ)から生まれ、(かみ)を知っています。(あい)のない者に、(かみ)はわかりません。なぜなら(かみ)(あい)だからです。(かみ)はそのひとり子を世に(つか)わし、その方によって私たちに、いのちを()させてくださいました。ここに、(かみ)(あい)が私たちに(しめ)されたのです。私たちが(かみ)(あい)したのではなく、(かみ)が私たちを(あい)し、私たちの(つみ)のために、なだめの(そな)(ぶつ)としての御子(みこ)(つか)わされました。ここに(あい)があるのです。(あい)する者たち。(かみ)がこれほどまでに私たちを(あい)してくださったのなら、私たちもまた(たが)いに(あい)し合うべきです。いまだかつて、だれも(かみ)を見た者はありません。もし私たちが(たが)いに(あい)し合うなら、(かみ)は私たちのうちにおられ、(かみ)(あい)が私たちのうちに(まっと)うされるのです。

(ヨハネの手紙第一4章7-12節)

<説教>

1902年にカナダで生まれたアルフレッド・ラッセル・ストーンは(おさな)(ころ)から農業(のうぎょう)(あい)しました。24歳から日本の長野(ながの)北海道(ほっかいどう)農村(のうそん)伝道(でんどう)生涯(しょうがい)(ささ)げた宣教師(せんきょうし)でした。

1920年生まれのディーン・リーパーは25歳から戦後(せんご)()野原(のはら)東京(とうきょう)宣教師(せんきょうし)として来日(らいにち)します。日本人になろうと銭湯(せんとう)に行っては日本人と背中(せなか)(なが)()うリーパー宣教師(せんきょうし)は、プロ級の手品師(てじなし)でもありました。

1954年9月26日に大型の台風(たいふう)15号が接近(せっきん)する中、函館(はこだて)から青森(あおもり)出航(しゅっこう)した青函(せいかん)連絡船(れんらくせん)洞爺(とうや)丸号(まるごう)」にこの2人の宣教師(せんきょうし)乗船(じょうせん)していました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)は約4時間後の22時45分に沈没(ちんぼつ)し、死者(ししゃ)行方(ゆくえ)不明者(ふめいしゃ)あわせて1155人におよぶ、日本(にほん)海難(かいなん)史上(しじょう)最悪(さいあく)事故(じこ)となりました。

洞爺(とうや)丸号(まるごう)台風(たいふう)()って、船が大きく真横(まよこ)(かたむ)いたとき、

リーパー宣教師(せんきょうし)恐怖(きょうふ)におびえる乗客(じょうきゃく)に、やさしく(かた)りかけ、自慢(じまん)手品(てじな)披露(ひろう)、あざやかな手さばきに、子どもも大人も大喜(おおよろこ)びします。一時(いちじ)船室(せんしつ)()()きがもどりますが、やがて船は大きく(かたむ)き、船室(せんしつ)に水が(なが)れこみます。リーパー宣教師(せんきょうし)は、同乗(どうじょう)していたストーン宣教師(せんきょうし)、オース宣教師(せんきょうし)と力をあわせ、悲鳴(ひめい)(うず)のなかで()げまどう乗客(じょうきゃく)救命(きゅうめい)()(くば)り、着用(ちゃくよう)手間取(てまど)る子どもや女性を(たす)けました。ストーン宣教師(せんきょうし)は、救命(きゅうめい)()のない学生を見つけ「あなたの前途(ぜんと)は長いから」といって救命(きゅうめい)()をゆずりました。リーパー宣教師(せんきょうし)は女性や子どもたちに救命(きゅうめい)()()せてやり、最後まで(はげ)ましの言葉をかけ(つづ)けたと(つた)えられています。

後日、七重(ななえ)(はま)救命(きゅうめい)()のない二人の宣教師(せんきょうし)(はだか)遺体(いたい)発見(はっけん)されました。また台風(たいふう)荒波(あらなみ)の中では、ほとんどの人が救命(きゅうめい)()()ていても(たす)かりませんでしたが、彼らの救命(きゅうめい)()をもらった若者と子どもは奇跡的(きせきてき)(たす)かりました。

他人のために命をすてた洞爺(とうや)丸号(まるごう)宣教師(せんきょうし)。自分の命を犠牲(ぎせい)にして人々を救った宣教師(せんきょうし)

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな(あい)はだれも持っていません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)15章13節)

(かみ)(あい)なり

(ヨハネの手紙第一4章8節)

(かみ)さまの(あい)をアガペーと言います。無条件(むじょうけん)(あい)価値(かち)なき者を(あい)する(あい)です。

その(かみ)(あい)があらわされたのが十字架(じゅうじか)です。

イエス・キリストは、(つみ)の中で死んでいる私たち人間に、いのちを(あた)えるために十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

私たちは生まれたままの状態(じょうたい)では、(かみ)()らず、(かみ)から(ばな)れ、罪深(つみぶか)自己(じこ)中心(ちゅうしん)(かみ)敵対(てきたい)する罪人(つみびと)でした。

しかし、十字架(じゅうじか)のもとで(かみ)(はか)()れない(あい)()り、そのいのちにあずかった者は(こころ)(よく)のままの生活に(もど)ることは出来ません。(たが)いに(あい)し合うべきなのです。

その姿(すがた)によって、(かみ)がおられると人は()るのです。

イエス様はすべての人に言われています。

(たが)いに(あい)し合いなさい。わたしがあなたがたを(あい)したように、あなたがたも(たが)いに(あい)し合いなさい。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章34節)

イエス・キリストの十字架(じゅうじか)はすべての人を(すく)うことができます。その(すく)いを()けたいとあなたが決心(けっしん)するかどうかだけです。

さあ、(つみ)()()り、新しく、(あい)に生きようではありませんか。

イエスは道

ヨハネの福音書13章36節-14章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年7月2日

<聖書>

シモン・ペテロがイエスに言った。「(しゅ)よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「(しゅ)よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも()てます。」イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも()てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに()げます。(にわとり)()くまでに、あなたは三度(さんど)わたしを知らないと言います。」
「あなたがたは心を(さわ)がしてはなりません。(かみ)を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、()まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を(そな)えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を(そな)えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに(むか)えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「(しゅ)よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが(みち)であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを(とお)してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書(ふくいんしょ)13章36節-14章11節)

<説教>

イエスが十字架(じゅうじか)()かって死ぬときが近づいていました。しかし弟子(でし)たちは、イエスがどこへ行こうとしているのかわかりませんでした。弟子(でし)たちはイエスが自分たちから(とお)(はな)れてしまうことを(おそ)れて、心が(さわ)いでいたのです。

イエスはそんな弟子(でし)たちに次のことを約束(やくそく)されます。

  1. イエスを信じる者は、かならず天国(てんごく)用意(ようい)された「住まい」それも大邸宅(だいていたく)()むことができる。
  2. イエスは弟子(でし)たちのついていけない所に行くが、(かなら)ずもう一度(もど)って来る。

私たちが第一に心配(しんぱい)すること、心(さわ)ぐことは将来(しょうらい)どうなるかということです。イエスを信じる者はこの神の約束(やくそく)(しん)じなければなりません。イエスはあなたを(かなら)(むか)えに来て、天国(てんごく)()まわせてくださいます。

それでも、イエスの言われることがわからない弟子(でし)たちに言われます。

「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

(ヨハネの福音書14:6

「イエスは道」とはどういう意味でしょうか。

()(のぼ)(ふもと)の道は多けれど同じ高嶺(たかね)の月を見るかな」

という()があります。これはどんな宗教(しゅうきょう)も、結局(けっきょく)、最後は(すく)われて天国(てんごく)へ行けるのだからどの宗教(しゅうきょう)も同じだという意味です。

しかし、聖書(せいしょ)はイエスを(しん)じなければ、父なる神のもとへはいけないと明らかにしています。

はじめて行く場所への道を(だれ)かに聞いた場合、どんなに丁寧(ていねい)に行き方を(おし)えてもらっても、本当にそこへたどり()けるかわかりません。

一番確実(かくじつ)な方法は、その目的地(もくてきち)への道を知っている人が、一緒(いっしょ)案内(あんない)してくれることです。

私たちは一度切りの人生の中でどうやって生きていいのか(まよ)います。何が正しいのかわからなくなります。じっさい聖書(せいしょ)は次のように書いています。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言(しんげん)14:12)

私たちをゴールに案内(あんない)してくれるのはイエスご自身(じしん)です。イエスとともに生きる時、安全(あんぜん)です。

イエスの言うことをよく聞いて、イエスを知ることが大切です。

道は()みつけられて道となります。

イエスは人間の(つみ)身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。イエスの十字架(じゅうじか)犠牲(ぎせい)によって、(しん)じる者は神と和解(わかい)することができます。イエスが神への道を開いてくださいました。

人が(すく)われるためにイエスが道となってくださいました。このイエスを(しん)じて、いつも、このお方の聖書(せいしょ)のみことばに(したが)うとき、(いつわ)りの(ほろ)びへの道から(のが)れて、天国に()まうことができるのです。

この道は、人間の力で見つけて入れる道ではありません。

自分の(つみ)(ぶか)さを知り、イエスを(しん)じて、()(あらた)めて生きようとする者だけが見出すことのできる小さい門、(せま)い道なのです。そのときイエスが道となってくださるのです。

イエスを(しん)じて、このお方に(したが)う者は(けっ)して、(まよ)って()(づま)ったりせず、イエスが(むか)えに来てくださり、神の用意(ようい)された天国の()まいに必ずたどり()くことができます。

何より大切なのはこの道に入ることです。他の道では(けっ)して天国につながることはありません。この道に入る者は(さいわ)いです。

(せま)い門から入りなさい。(ほろ)びに(いた)る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに(いた)る門は小さく、その道は(せま)く、それを見いだす者はまれです。

(マタイ7:13-14

日々の信仰が与える勝利

サムエル記第一17章1-11節より

土山みことばキリスト教会

2023年6月25日

<聖書>

ペリシテ人は(たたか)いのために軍隊(ぐんたい)召集(しょうしゅう)した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに(じん)()いた。サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に(じん)()き、ペリシテ人を(むか)()つため、(たたか)いの(そな)えをした。ペリシテ人は()こう(がわ)の山の上に、イスラエル人はこちら(がわ)の山の上に、谷を(へだ)てて相対(あいたい)した。ときに、ペリシテ人の陣営(じんえい)から、ひとりの代表(だいひょう)戦士(せんし)が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その()の高さは六キュビト半。頭には青銅(せいどう)のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅(せいどう)で五千シェケル。足には青銅(せいどう)のすね当て、背中には青銅(せいどう)()(やり)(やり)()機織(はたお)りの()(ぼう)のようであり、(やり)穂先(ほさき)は、(てつ)で六百シェケル。(たて)()ちが彼の先を歩いていた。ゴリヤテは立って、イスラエル人の(じん)()かって(さけ)んで言った。「おまえらは、なぜ、(なら)んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷(どれい)ではないのか。ひとりを(えら)んで、おれのところによこせ。おれと勝負(しょうぶ)して()ち、おれを()(ころ)すなら、おれたちはおまえらの奴隷(どれい)となる。もし、おれが()って、そいつを(ころ)せば、おまえらがおれたちの奴隷(どれい)となり、おれたちに(つか)えるのだ。」そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの(じん)をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負(しょうぶ)をしよう。」サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈(いきしょうちん)し、非常(ひじょう)(おそ)れた。

(サムエル記第一17章1-11節)

<説教>

イスラエル人は宿敵(しゅくてき)ぺリシテ人との(たたか)いに(くる)しんでいました。谷をはさんでお互いに緊迫(きんぱく)状態(じょうたい)でした。そこでぺリシテからは3メートルもある巨人(きょじん)でベテランの戦士(せんし)ゴリヤテがイスラエルに一対一の(たたか)いを(もう)()ます。イスラエル人はゴリヤテの巨体(きょたい)武器(ぶき)を見て、(おそ)れて(たたか)勇気(ゆうき)(うしな)ってしまいます。そんな時、8人兄弟の(すえ)()(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがゴリヤテを石一つで()(ころ)したのです。

戦士(せんし)でもない(わか)羊飼(ひつじか)いダビデがなぜゴリヤテに勝利(しょうり)したのでしょうか。

① ダビデは(おそ)れに支配(しはい)されなかった

ゴリヤテは自分の巨体(きょたい)武器(ぶき)を見せつけて、おどし文句(もんく)を言ってイスラエル人を(おそ)れさせました。(たたか)う時に(おそ)れは最大の(てき)です。多くの場合、(たたか)う前の心理戦(しんりせん)勝敗(しょうはい)は決定します。

聖書(せいしょ)に中に「(おそ)れるな」という命令(めいれい)は約365回出ています。それだけ人は(おそ)れてしまうものなのです。

しかし、ダビデはゴリヤテを自分と比較(ひかく)せずに全能(ぜんのう)の神さまと比較(ひかく)したのです。すべてを支配(しはい)される神さまと比べたらゴリヤテは()るに()りない小さい者です。

見える状況(じょうきょう)ではなく神さまに信頼(しんらい)するとき信仰(しんこう)大胆(だいたん)さが(あた)えられます。

② ダビデは普段(ふだん)の生活の中で神さまに(つか)えていた

ダビデは普段(ふだん)から神さまと共に羊飼(ひつじか)いの仕事に(つか)えていました。(ひつじ)をライオンや(くま)(おそ)われたときも、神さまが共におられ信仰(しんこう)勇気(ゆうき)により(たたか)っていました。

ダビデは、普段(ふだん)からみことばを(おも)いめぐらし、(いの)り、賛美(さんび)して神さまと共にいました。

ダビデはいきなりゴリヤテに勝利(しょうり)したのではありません。ダビデはどんな時も神さまに(つか)えて、信仰(しんこう)勇気(ゆうき)(あた)えられ、普段(ふだん)の生活の中で訓練(くんれん)され下地(したじ)が作られていたのです。

羊飼(ひつじか)いは決してきれいな仕事では、末っ子のダビデは父からまったく注目(ちゅうもく)されていませんでした。しかし、神さまのご計画(けいかく)(だれ)も知らないところで準備(じゅんび)されていました。目立たない普段(ふだん)何気(なにげ)ないところでの神さまとの関わりがやがて、目に見える形となって(あらわ)されるのです。

③ ダビデは神さまが勝利(しょうり)(あた)えてくださることを知っていた

ダビデは勝利(しょうり)秘訣(ひけつ)を知ってしました。神さまに忠実(ちゅうじつ)であるなら、あとは神さまが(かなら)(たす)けて(みちび)いてくださいます。

ダビデはたった一つの石で巨人ゴリヤテを()(たお)しました。しかしダビデの本当の武器(ぶき)万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)(生けて働かれる神の力)です。すべての(たたか)いに勝利(しょうり)をもたらすのは万軍(ばんぐん)(しゅ)御名(みな)です。神さまご自身が(たたか)いに出て(いど)まれるのです。

石とはメシヤ(キリスト)の象徴(しょうちょう)です。この石(キリスト)が巨人(悪魔(あくま))を()(たお)すのです。

悪魔(あくま)はキリストの十字架(じゅうじか)の死とよみがえりにより、完全に()(たお)されました。私たちがイエス様の御名(みな)(いの)り、みことばを信じて(したが)う時、悪魔(あくま)は何も手を出すことは出来ません。

私たちの(たたか)いとは、(つるぎ)(たて)によるのではなく、人間の内にあります。(つみ)に対して神のことばと信仰(しんこう)によって(たたか)いに勝利(しょうり)できるのです。

ダビデの勝利(しょうり)によって、イスラエルに神さまがおられることをすべての国に知らしめました。

今もキリスト者は信仰(しんこう)によって(つみ)勝利(しょうり)して、()にイエス・キリストを(あかし)するのです。

なぜなら、神によって生まれた者はみな、()に勝つからです。私たちの信仰(しんこう)、これこそ、()()ち勝った勝利(しょうり)です。()に勝つ者とはだれでしょう。

イエスを神の御子(みこ)と信じる者ではありませんか。

(ヨハネの手紙第一5:4-5