ヨナ書3章10節-4章11節より
2023年10月15日
<聖書>
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、
【主】に祈って言った。「ああ、【主】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。
【主】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
【主】は仰せられた。「あなたは当然のことのように怒るのか。」
ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。
神である【主】は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。
太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
【主】は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」
(ヨナ書3章10節-4章11節)
<説教>
ヨナの宣教でニネベの人々は罪を悔い改めて、ニネベは滅びから救われました。ニネベはヨナたちの国をひどい目にあわせる敵国です。異邦の神を信じる邪悪な国でした。ヨナはこの神の大きな愛に怒ります。
ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。
ヨナは怒って、【主】に祈って言った。
(ヨナ書4:1-2)
人間は偉大な神のあわれみ、いつくしみを完全に理解できません。
しかし、神はそのひとり子のキリストを十字架につけて、私たちの罪の赦しを成し遂げてくださいました。ここに神の愛がすべての人に明らかにされました。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ人への手紙5:8)
神の愛に触れ、私たちの氷の心が溶かされ、愛を持つ者に変えられていきます。少しずつ、神がおられる交わりの中でキリストの愛を家族で知っていきます。
キリストの愛によって救われ、新しく生まれた者の愛とは、このイエス様を誰かに紹介することです。
人生の中で、私たちの最も大きな出来事、それはイエス様と出会って素晴らしい人生に変えられたことなのですから。
それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。
(マルコの福音書16:15)
ヨナは神のことばを、ニネベの人々に伝えました。そこに神の力が働かれて、人も家畜も悔い改めて、救われたのです。
私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
(ローマ人への手紙1:16)
神はご自分の子どもたちを選ばれています。しかし、福音を宣べ伝える人が遣わされ、その人々が福音を聞いて信じなければ救われません。
人々は目的がわからずさまよっています。何が正しいのか、どう生きるべきなのかを悩んでいます。
この世が提供する者は、真実な人生の問いから離れさせ、人を堕落させるようなものが多くあります。
この世界には、私たちを真理へ導くものはありません。
財産、健康、夢、肩書き、恋人、趣味娯楽、どれも大切です。しかし、どれも一番になり得ません。罪を犯した刑罰である死後の永遠の滅びには何の助けにもなりません。いえ、今現在の生き方がイエス様の豊かな命と愛に満たされます。
すべての人に福音が必要です。それは他のなにものにも比べることはできません。
福音を信じて与えられる永遠のいのちは神の与えてくれる賜物(プレゼント)です。お金では決して手に入れることはできません。
神の愛は大きすぎて、私たちの愛ではときに嫉妬するかも知れません。人間関係ではよくなくても、神への嫉妬は、神への愛です。
ヨナは、自分の預言者の立場や、自分の信仰がありました。
しかし、私たちの、どんな自己実現も、神のご計画された神実現にまさるものではありません。
誰かのために、誰かを愛するなら、福音を紹介することにまさる愛はないと気付きます。
イエス様を愛して、イエス様と共に生きることは、自分にとって素晴らしいだけでなく、あなたの愛する大切な人にとっても素晴らしいことなのです。