ローマ人への手紙6章4-14節より
2023年10月29日
<聖書>
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
(ローマ人への手紙6章4-14節)
<説教>
イエス・キリストを信じて救われたクリスチャンには何が起こったのか?クリスチャンとは何者でしょうか。
人間の内面で次のような事実が起こった人のことだと言えます。
①古い自分の葬式
罪の性質に支配された古い人は死んでいる。
②キリストとの結婚式
キリストとつながって一つに結合されている。
①生きるために死ななければならない
夏から朝顔がきれいに咲いています。しかし秋になると花の咲く時期を終えます。花は枯れて死にますが、その後には種が出来て、また来年の夏にはきれいな花を咲かせます。人間も髪の毛、血、骨、からだは死んで新しく生まれ変わっています。生きるためにどんどん古い細胞は死んで新しく作られるのです。 生まれ持っての人間の罪深い性質は、勉強や道徳教育、善行、修行をしても、わずかでも消し去ることはできません。ただ、人間の罪のために十字架で流されたキリストも血しおによってのみきよめられるのです。キリストを信じる者は、キリストが十字架で罪に対して死なれたように、古い罪の性質に死にます。神の力によっていかなる人も変えられます。
②主人が変わらなければならない
キリストを信じる前は、私たちは罪の奴隷状態でした。死のもう一つの意味は、分離することです。別れることです。キリストを信じた者は、罪の支配から離れて、神のご支配に移されます。これも人間の努力や頑張りでは不可能です。クリスチャンとは、すでに罪の支配から自由にされている者です。これが事実です。
だから、キリスト者は、このイエス様が十字架で罪に対して一度死なれ、神に対して永遠に生きることを、自分の人生で実際に生きる者であることを覚えなければなりません。
それは、あなたが罪と自我とこの世に対して死んだ者として、神さまの栄光(素晴らしさ)のために、神と共に生きることです。
しかしクリスチャンも古い性質がこの地上で生きる限り残っています。
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
(コロサイ人への手紙3:5)
また、現実に存在する罪の力が私たちに24時間365日、襲いかかってきます。
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。
(Ⅰペテロ5:8-9)
「罪が滅ぶべき肉体を支配して、情欲に従わせることがないようにしなさい」
(ローマ6:12別訳)
人間のからだを罪の支配に任せてはいけません。不義の器(ローマ6:13)とは「鋭い不義の武器」の意味です。
しかし、罪はもはや絶対に私たちの主人になることはない(ローマ6:14)のです。だから、キリスト者はからだの各部を義の武器として神様に捧げるのです。自分のために使うのではなく、神さまのために用いるのです。
なぜ、そんなことができるのでしょうか。それは、イエス様を信じた者は、もう古い律法(よい行いをしなければ正しい人間でないという生き方)に生きる者ではないからです。
頑張りや、社会的地位、才能や仕事ができる・できない、人の評価がすべてであった生き方、
それらから解放されて、十字架のみわざによって、イエス様を信じて、神さまの恵みによって生かされた真の意味で自由な者だからです。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(Ⅱコリント人への手紙5:17)