キリストの十字架~本当に生きるために死ぬ

ローマ人への手紙6章4-14節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月29日

<聖書>

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(みちち)の栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活(ふっかつ)とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架(じゅうじか)につけられたのは、罪(つみ)のからだが滅(ほろ)びて、私たちがもはやこれからは罪(つみ)の奴隷(どれい)でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪(つみ)から解放(かいほう)されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配(しはい)しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪(つみ)に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪(つみ)に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪(つみ)の支配(しはい)にゆだねて、その情欲(じょうよく)に従(したが)ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義(ふぎ)の器(き)として罪(つみ)にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身(じしん)とその手足を義(ぎ)の器(き)として神にささげなさい。
というのは、罪(つみ)はあなたがたを支配(しはい)することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法(りっぽう)の下にはなく、恵(めぐ)みの下にあるからです。

(ローマ人への手紙6章4-14節)

<説教>

イエス・キリストを信(しん)じて救(すく)われたクリスチャンには何が起(お)こったのか?クリスチャンとは何者でしょうか。

人間の内面(うちめん)で次のような事実(じじつ)が起(お)こった人のことだと言えます。

①古い自分の葬式(そうしき)

罪(つみ)の性質(せいしつ)に支配(しはい)された古い人は死んでいる。

②キリストとの結婚式(けっこんしき)

キリストとつながって一つに結合(けつごう)されている。

①生きるために死ななければならない

夏から朝顔(あさがお)がきれいに咲(さ)いています。しかし秋になると花の咲(さ)く時期(じき)を終えます。花は枯(か)れて死にますが、その後には種(たね)が出来て、また来年の夏にはきれいな花を咲(さ)かせます。人間も髪(かみ)の毛、血(ち)、骨(ほね)、からだは死んで新しく生まれ変わっています。生きるためにどんどん古い細胞(さいぼう)は死んで新しく作られるのです。 生まれ持っての人間の罪(つみ)深(ぶか)い性質(せいしつ)は、勉強(べんきょう)や道徳(どうとく)教育(きょういく)、善行(ぜんこう)、修行(しゅぎょう)をしても、わずかでも消(け)し去(さ)ることはできません。ただ、人間の罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で流されたキリストも血(ち)しおによってのみきよめられるのです。キリストを信(しん)じる者は、キリストが十字架(じゅうじか)で罪(つみ)に対(たい)して死なれたように、古(ふる)い罪(つみ)の性質(せいしつ)に死にます。神の力によっていかなる人も変えられます。

②主人しゅじんが変わらなければならない

キリストを信(しん)じる前は、私たちは罪(つみ)の奴隷(どれい)状態(じょうたい)でした。死のもう一つの意味(いみ)は、分離(ぶんり)することです。別(わか)れることです。キリストを信(しん)じた者は、罪(つみ)の支配(しはい)から離(はな)れて、神のご支配(しはい)に移(うつ)されます。これも人間の努力(どりょく)や頑張(がんば)りでは不可能(ふかのう)です。クリスチャンとは、すでに罪(つみ)の支配(しはい)から自由にされている者です。これが事実(じじつ)です。

だから、キリスト者は、このイエス様が十字架(じゅうじか)で罪(つみ)に対(たい)して一度死なれ、神に対(たい)して永遠(えいえん)に生きることを、自分の人生で実際(じっさい)に生きる者であることを覚(おぼ)えなければなりません。

それは、あなたが罪(つみ)と自我(じが)とこの世(よ)に対(たい)して死んだ者として、神さまの栄光(えいこう)(素晴(すば)らしさ)のために、神と共に生きることです。

しかしクリスチャンも古(ふる)い性質(せいしつ)がこの地上(ちじょう)で生きる限(かぎ)り残(のこ)っています。

ですから、地上(ちじょう)のからだの諸部分(しょぶぶん)、すなわち、不品行(ふひんこう)、汚(けが)れ、情欲(じょうよく)、悪(わる)い欲(よく)、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)なのです。

(コロサイ人への手紙3:5)

また、現実(げんじつ)に存在(そんざい)する罪(つみ)の力が私たちに24時間365日、襲(おそ)いかかってきます。

身(み)を慎(つつし)み、目をさましていなさい。あなたがたの敵(てき)である悪魔(あくま)が、ほえたける獅子(しし)のように、食(く)い尽(つ)くすべきものを捜(さが)し求(もと)めながら、歩(ある)き回(まわ)っています。堅(かた)く信仰(しんこう)に立って、この悪魔(あくま)に立ち向(むか)かいなさい。

(Ⅰペテロ5:8-9)

「罪(つみ)が滅(ほろ)ぶべき肉体(にくたい)を支配(しはい)して、情欲(じょうよく)に従(したが)わせることがないようにしなさい」

(ローマ6:12別(べつ)訳(やく))

人間のからだを罪(つみ)の支配(しはい)に任(まか)せてはいけません。不義(ふぎ)の器(うつわ)(ローマ6:13)とは「鋭(するど)い不義(ふぎ)の武器(ぶき)」の意味(いみ)です。

しかし、罪(つみ)はもはや絶対(ぜったい)に私たちの主人(しゅじん)になることはない(ローマ6:14)のです。だから、キリスト者はからだの各部(かくぶ)を義(ぎ)の武器(ぶき)として神様に捧(ささ)げるのです。自分のために使うのではなく、神さまのために用(もち)いるのです。

なぜ、そんなことができるのでしょうか。それは、イエス様を信(しん)じた者は、もう古(ふる)い律法(りっぽう)(よい行いをしなければ正しい人間でないという生き方)に生きる者ではないからです。

頑張(がんば)りや、社会的(しゃかいてき)地位(ちい)、才能(さいのう)や仕事(しごと)ができる・できない、人の評価(ひょうか)がすべてであった生き方、

それらから解放(かいほう)されて、十字架(じゅうじか)のみわざによって、イエス様を信(しん)じて、神さまの恵(めぐ)みによって生かされた真(しん)の意味(いみ)で自由な者だからです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新(あたら)しく造(つく)られた者です。古(ふる)いものは過(す)ぎ去(さ)って、見よ、すべてが新(あたら)しくなりました。

(Ⅱコリント人への手紙5:17)

神がくださる最高の福音に、私も生きる

ヨナ書3章10節-4章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月15日

<聖書>

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力(どりょく)していることをご覧(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)に不愉快(ふゆかい)にさせた。ヨナは怒(おこ)って、
【主(しゅ)】に祈って言った。「ああ、【主(しゅ)】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申(もう)し上(あ)げたではありませんか。それで、私は初(はじ)めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情(なさ)け深(ぶか)くあわれみ深(ぶか)い神であり、怒(おこ)るのにおそく、恵(めぐ)み豊(ゆた)かであり、わざわいを思い直(なお)されることを知っていたからです。
【主(しゅ)】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
【主(しゅ)】は仰(おお)せられた。「あなたは当然(とうぜん)のことのように怒(おこ)るのか。」
ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋(かりごや)を作り、町の中で何が起(お)こるかを見きわめようと、その陰(かげ)の下にすわっていた。
神である【主(しゅ)】は一本のとうごまを備(そな)え、それをヨナの上をおおうように生(は)えさせ、彼の頭の上の陰(かげ)として、ヨナの不きげんを直(なお)そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常(ひじょう)に喜(よろこ)んだ。
しかし、神は、翌日(よくじつ)の夜明(よあ)けに、一匹の虫を備(そな)えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯(か)れた。
太陽が上ったとき、神は焼(や)けつくような東風を備(そな)えられた。太陽がヨナの頭に照(て)りつけたので、彼は衰(おとろ)え果(は)て、自分の死を願(ねが)って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
すると、神はヨナに仰(おお)せられた。「このとうごまのために、あなたは当然(とうぜん)のことのように怒(おこ)るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒(おこ)るのは当然(とうぜん)のことです。」
【主(しゅ)】は仰(おお)せられた。「あなたは、自分で骨折(ほねお)らず、育(そだ)てもせず、一夜(いちや)で生(は)え、一夜(いちや)で滅(ほろ)びたこのとうごまを惜(お)しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜(お)しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜(かちく)とがいるではないか。」

(ヨナ書3章10節-4章11節)

<説教>

ヨナの宣教(せんきょう)でニネベの人々は罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めて、ニネベは滅(ほろ)びから救(すく)われました。ニネベはヨナたちの国をひどい目にあわせる敵国(てきこく)です。異邦(いほう)の神を信じる邪悪(じゃあく)な国でした。ヨナはこの神の大きな愛に怒(いか)ります。

ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)に不愉快(ふゆかい)にさせた。
ヨナは怒(いか)って、【主】に祈(いの)って言った。

(ヨナ書4:1-2)

人間は偉大(いだい)な神のあわれみ、いつくしみを完全に理解(りかい)できません。

しかし、神はそのひとり子のキリストを十字架(じゅうじか)につけて、私たちの罪(つみ)の赦(ゆる)しを成(な)し遂(と)げてくださいました。ここに神の愛がすべての人に明らかにされました。

しかし私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身(じしん)の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙5:8)

神の愛に触(ふ)れ、私たちの氷(こおり)の心が溶(と)かされ、愛を持つ者に変えられていきます。少しずつ、神がおられる交わりの中でキリストの愛を家族で知っていきます。

キリストの愛によって救(すく)われ、新しく生まれた者の愛とは、このイエス様を誰(だれ)かに紹介(しょうかい)することです。

人生の中で、私たちの最(もっと)も大きな出来事、それはイエス様と出会って素晴(すば)らしい人生に変えられたことなのですから。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界(ぜんせかい)に出て行き、すべての造(つく)られた者に、福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)えなさい。

(マルコの福音書(ふくいんしょ)16:15)

ヨナは神のことばを、ニネベの人々に伝(つた)えました。そこに神の力が働(はたら)かれて、人も家畜(かちく)も悔(く)い改(あらた)めて、救(すく)われたのです。

私は福音(ふくいん)を恥(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信(しん)じるすべての人にとって、救(すく)いを得(とく)させる神の力です。

(ローマ人への手紙1:16)

神はご自分の子どもたちを選(えら)ばれています。しかし、福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)える人が遣(つか)わされ、その人々が福音(ふくいん)を聞いて信(しん)じなければ救(すく)われません。

人々は目的がわからずさまよっています。何が正しいのか、どう生きるべきなのかを悩(なや)んでいます。

この世が提供(ていきょう)する者は、真実(しんじつ)な人生の問(と)いから離(はな)れさせ、人を堕落(だらく)させるようなものが多くあります。

この世界には、私たちを真理(しんり)へ導(みちび)くものはありません。

財産(ざいさん)、健康(けんこう)、夢(ゆめ)、肩書(かたが)き、恋人、趣味(しゅみ)娯楽(ごらく)、どれも大切です。しかし、どれも一番になり得(とく)ません。罪(つみ)を犯(おか)した刑罰(けいばつ)である死後の永遠(えいえん)の滅(ほろ)びには何の助けにもなりません。いえ、今現在の生き方がイエス様の豊かな命と愛に満たされます。

すべての人に福音(ふくいん)が必要です。それは他のなにものにも比(くら)べることはできません。

福音(ふくいん)を信(しん)じて与(あた)えられる永遠(えいえん)のいのちは神の与(あた)えてくれる賜物(たまもの)(プレゼント)です。お金では決して手に入れることはできません。

神の愛は大きすぎて、私たちの愛ではときに嫉妬(しっと)するかも知れません。人間関係ではよくなくても、神への嫉妬(しっと)は、神への愛です。

ヨナは、自分の預言者(よげんしゃ)の立場や、自分の信仰(しんこう)がありました。

しかし、私たちの、どんな自己(じこ)実現(じつげん)も、神のご計画された神(かみ)実現(じつげん)にまさるものではありません。

誰(だれ)かのために、誰(だれ)かを愛するなら、福音(ふくいん)を紹介(しょうかい)することにまさる愛はないと気付きます。

イエス様を愛して、イエス様と共に生きることは、自分にとって素晴(すば)らしいだけでなく、あなたの愛する大切な人にとっても素晴(すば)らしいことなのです。

最後に祈れる神をもつ幸い

ヨナ書2章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月8日

<聖書>

ヨナは魚の腹(はら)の中から、彼の神、【主】に祈(いの)って、
言った。「私が苦(くる)しみの中から【主】にお願(ねが)いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹(はら)の中から叫(さけ)ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真ん中の深(ふか)みに投げ込まれました。潮(しお)の流(なが)れが私を囲(かこ)み、あなたの波(なみ)と大波(おおなみ)がみな、私の上を越(こ)えて行きました。
私は言った。『私はあなたの目の前から追(お)われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖(せい)なる宮(みや)を仰(あお)ぎ見たいのです』と。
水は、私ののどを絞(し)めつけ、深淵(しんえん)は私を取(と)り囲(かこ)み、海草(かいそう)は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元(ねもと)まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに衰(おとろ)え果(は)てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈(いの)りはあなたに、あなたの聖(せい)なる宮(みや)に届(とど)きました。
むなしい偶像(ぐうぞう)に心を留(と)める者は、自分への恵(めぐ)みを捨(す)てます。
しかし、私は、感謝(かんしゃ)の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓(ちか)いを果(は)たしましょう。救(すく)いは主のものです。」
【主】は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

(ヨナ書2章1-10節)

<説教>

暴風(ぼうふう)と荒れる海‐そこに投げ込まれるのをヨナは恐れていました。

ヨナは潮(しお)の流れに囲(かこ)まれ、大きな波がヨナを飲みこみ、水で窒息(ちっそく)しそうになり、暗い海の中の不気味(ぶきみ)な裂(さ)け目の中に深く沈(しず)んでいきます。海藻(かいそう)がヨナに絡(から)み付き、海底近くまで沈(しず)み、そこでがんじがらめになります。

ヨナは死を恐れます。死の苦しみを恐れます。

しかし、死の寸前でヨナは死の苦しみより恐ろしいことに気付きました。それは、神から離(はな)れて死んでしまうことでした。永遠に神の愛から離(はな)れてしまうことでした。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖(せい)なる宮を仰(あお)ぎ見たいのです』と。

(ヨナ書2:4)

人間は誰も必ず死にます。その時、家族も友も、愛する誰も一緒に死ぬことはできません。正確には死後のさばきを一緒に受けてくれる人は誰もいません。しかし、イエス様は、あなたが死ぬ時も共にいていくださいます。

たとい、死の陰(かげ)の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

(詩篇23:4)

ヨナは苦しみの中で神に祈(いの)ります。神は祈(いの)りに答えてくださいます。大きな魚がヨナを飲みこみ、魚の腹の中で守ってくださったのです。そこで、かつて神の御顔(みかお)から離(はな)れようとしたヨナは、死の苦しみの中で、神の御顔(みかお)を求めて、救(すく)い出されるのです。ヨナは死の直前で、まことの神を思い出して祈(いの)ったのです。

死の前で、信頼(しんらい)して祈れる神は、イエス・キリストだけです。この方にまことのいのちがあります。

イエス・キリストを信じる者は、決して滅(ほろ)びの死に入ることはありません。

それは、この魚の中にヨナが三日(みっか)三晩(みばん)いたことは、実は十字架(じゅうじか)で死んで葬(ほうむ)られ、三日目によみがえられたイエス・キリストの救(すく)いを表わしているからです。

イエス様は次のように言われました。

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫(かんいん)の時代はしるしを求めています。だが預言者(よげんしゃ)ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日(みっか)三晩(みばん)大魚(たいぎょ)の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日(みっか)三晩(みばん)、地の中にいるからです。

(マタイの福音書12:39-40)

イエス様は十字架(じゅうじか)で死なれて三日間、罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の死の支配(しはい)の中にとどまられました。

しかし神は、この方を死の苦しみから解(と)き放(はな)って、よみがえらせました。

(使徒2:24)

この苦しみとは「陣痛(じんつう)」の意味です。救(すく)いとは、三位(さんみ)一体(いったい)の父の神の愛と、子なるキリストの犠牲(ぎせい)と従順(じゅうじゅん)によって生み出されるのです。いのちを生み出す営みなのです。苦しみにまさる喜びがそこにあるのです。

人間が造った神と呼ばれるもの(偶像(ぐうぞう))には、そのような愛も命も存在しません。神から離(はな)れる永遠の死の苦しみから人間を救(すく)うことはできません。

むなしい偶像(ぐうぞう)に心を留(と)める者は、自分への恵(めぐ)みを捨(す)てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓(ちか)いを果(は)たしましょう。救(すく)いは主(しゅ)のものです。」 

(ヨナ書2:8-9)

反逆する人間に呼びかける神

ヨナ書1章より

土山みことばキリスト教会

2023年10月1日

<聖書>

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
しかしヨナは、【主】の御顔(みかお)を避(さ)けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃(ふなちん)を払(はら)ってそれに乗(の)り、【主】の御顔(みかお)を避(さ)けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
さて、【主】は大風を海に吹(ふ)きつけられた。それで海に激(はげ)しい暴風(ぼうふう)が起こり、船は難破(なんぱ)しそうになった。
水夫(すいふ)たちは恐(おそ)れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫(さけ)び、船を軽くしようと船の積荷(つみに)を海に投げ捨(す)てた。しかし、ヨナは船底(ふなぞこ)に降(お)りて行って横になり、ぐっすり寝込(ねこ)んでいた。
船長(せんちょう)が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込(ねこ)んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留(と)めてくださって、私たちは滅(ほろ)びないですむかもしれない。」

(ヨナ書1章1-6節)

<説教>

1.人間の罪(つみ)とは神への反逆(はんぎゃく)

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」                          (ヨナ書1:1-2)

まことの神は、人間に語られます。神を恐(おそ)れて罪(つみ)から離(はな)れなさいと神は語られます。アッシリアの大都市ニネベの人間の罪(つみ)に対して神はさばきを下されようとします。

預言者(よげんしゃ)ヨナは、その神の言葉を預(あず)かった(伝えるよう託(たく)された)のです。

アッシリアは神を恐(おそ)れず、神を侮(あなど)り、罪(つみ)に堕(だ)落(らく)して不道徳、殺戮(さつりく)と略奪(りゃくだつ)が満ちて、ヨナの国イスラエルを攻め取ろうとしていました。

そんなアッシリアが神に悔(く)い改(あらた)めて、滅亡(めつぼう)から救(すく)われることがヨナは我慢(がまん)できませんでした。

人間は自分の考えや都合(つごう)によって、神に素直(すなお)に従(したが)えないのです。

人間は神に対して頑(かたく)なで強情(ごうじょう)なのです。聖書によると人間の罪(つみ)の中心は神への反逆(はんぎゃく)です。

ヨナは神に従(したが)わず、神から離(はな)れようとします。主の御顔(みかお)を避けようとします。神が命じたニネベへ行かず、タルシシュへ逃(のが)れようとします。人間は何処へ逃(のが)れても、神から逃(に)げることなどできません。

神はいつも人間がどこにいるのかご存知(ぞんじ)です。

神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰(おお)せられた。「あなたは、どこにいるのか。」  

(創世記3:9)

神から離(はな)れようとすればするほど、人間の状況(じょうきょう)はますます最悪になっていきます。

大風と暴風(ぼうふう)がヨナの船を襲(おそ)い、ヨナは船の底に下って行き、寝てしまうのです。神から離(はな)れるとき、人間は怠慢(たいまん)になり、神に与えられた本当の素晴らしい人生をなかなか生きられないのです。

2.神は人間の応答(おうとう)を求められる

大風や暴風(ぼうふう)で船が難破(なんぱ)しそうになり、人々は命の危険を感じます。そして死を前に、罪(つみ)を知り、神を恐れるのです。くじを通して、神はこの大嵐はヨナの罪(つみ)が原因(げんいん)だと明らかにします。

罪(つみ)は単にひとりの悪では終わりません。人と人との関係に深刻(しんこく)な影響(えいきょう)を与えます。そして神との関係を引き離(はな)します。神から離(はな)れるほど、人間にとって恐ろしいことはありません。

イエス様も、十字架に架(か)かられる前に父なる神から離(はな)れることに耐(た)えられず祈りました。

ヨナは天地を造られた神を信じて恐れていました。

ヨナが神に対して逃げようと反逆(はんぎゃく)した理由は、神の真実を知っていたからでもありました。

神は罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めたニネベの人たちを赦(ゆる)されることをヨナは知っていたのです。

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

(ヨナ書3:10)

この世界を創られた唯一(ゆいいつ)の神は、すべての国の人を愛して救うことがおできになります。そして、ヨナは神の前に、自己中心の愛を悔(く)い改(あらた)めます。

ヨナは彼らに言った。「私を捕(と)らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激(はげ)しい暴風(ぼうふう)は、私のためにあなたがたを襲(おそ)ったのです。」

(ヨナ書1:12)

人々は自分の国の神を信じていました。しかし、ヨナの信じる聖書の神は、ヨナの罪(つみ)を明らかにして、ヨナに苦難(くなん)を与え、ヨナに悔(く)い改(あらた)めを導き、まことの救いを与えられます。

無神論者(むしんろんしゃ)は大きく二つに分かれます。ひとつは、天地を造られた神、唯一(ゆいいつ)の神を否定(ひてい)する無神論者(むしんろんしゃ)です。もうひとつは、否定(ひてい)する神を持たない無神論者(むしんろんしゃ)です。

創造(そうぞう)主(しゅ)であるただお一人の神を知っている無神論者(むしんろんしゃ)は、いつでも、まことの神に立ち返るべき神をもっています。

日本は特に、八百万(やおよろず)の神と言って、キツネや大木、石、お天道(てんとう)様(さま)など何でも神にします。神道(しんとう)、仏教(ぶっきょう)や檀家(だんか)制度(せいど)など独特の風土(ふうど)があり、まことの神を知らない人が大勢います。聖書の神こそが、まことの唯一(ゆいいつ)の神です。天地を造られ、今生きて働いて、すべての命を保(たも)っておられます。

父なる神は、そのひとり子のイエス・キリストを人間として、この地上に下し、十字架で人間の罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりとしてくださいました。

このキリストの十字架に対して、すべての人間はどう答えるかを神は問われています。

すべての人間は神の前に罪人(つみびと)です。しかし、キリストを信じて罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めるなら、神はあなたの罪(つみ)を赦(ゆる)して、神の子どもとしてくださいます。まことの神は、あなたの心からの祈りに必ず応(こた)えてくださいます。