十字架と罪

マタイの福音書27章15-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月26日

<聖書>

ところで総督(そうとく)は、その(まつ)りには、群衆(ぐんしゅう)のために、いつも(のぞ)みの囚人(しゅうじん)をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人(しゅうじん)()らえられていた。それで、彼らが(あつ)まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(しゃくほう)してほしいのか。バラバか、それともキリストと()ばれているイエスか。」ピラトは、彼らがねたみからイエスを()(わた)したことに気づいていたのである。また、ピラトが裁判(さいばん)(せき)()いていたとき、彼の(つま)が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は(ゆめ)で、あの人のことで(くる)しいめに会いましたから。」しかし、祭司(さいし)(ちょう)長老(ちょうろう)たちは、バラバのほうを(ねが)うよう、そして、イエスを死刑(しけい)にするよう、群衆(ぐんしゅう)()きつけた。しかし、総督(そうとく)は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放(しゃくほう)してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架(じゅうじか)につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな(わる)い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます(はげ)しく「十字架(じゅうじか)につけろ」と叫び続けた。そこでピラトは、自分(じぶん)では手の(くだ)しようがなく、かえって暴動(ぼうどう)になりそうなのを見て、群衆(ぐんしゅう)の目の前で水を()()せ、手を(あら)って、言った。「この人の()について、私には責任(せきにん)がない。自分(じぶん)たちで始末(しまつ)するがよい。」すると、民衆(みんしゅう)はみな(こた)えて言った。「その人の()は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放(しゃくほう)し、イエスをむち()ってから、十字架(じゅうじか)につけるために()(わた)した。  

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章15-26節)

<説教>

ローマの支配下(しはいか)のユダヤ(りょう)総督(そうとく)ポンテオ・ピラトによる、イエスの裁判(さいばん)が行われます。ユダヤ国は十字架刑(じゅうじかけい)執行(しっこう)する権限(けんげん)がなかったので、イエスを政治犯(せいじはん)としてローマの権限(けんげん)十字架刑(じゅうじかけい)にしようとしたのです。

裁判(さいばん)の中で、ピラトはイエスは無実(むじつ)であり、十字架刑(じゅうじかけい)にする理由(りゆう)はないと判断(はんだん)しました。ピラトはイエスを何とか釈放(しゃくほう)しようと努力(どりょく)します。しかし、イエスを(にく)むユダヤ指導者(しどうしゃ)や、彼らに扇動(せんどう)された群衆(ぐんしゅう)(くる)ったように、「イエスを十字架(じゅうじか)に付けろ!」と(さけ)(つづ)けます。その力を(おそ)れて、自分の身を守るために、ついにピラトはイエスを十字架(じゅうじか)へと()(わた)します。

しかし、実はピラトの本当の姿(すがた)堕落(だらく)していました。彼は不正(ふせい)を行い、残忍(ざんにん)で、不法(ふほう)裁判(さいばん)で人を(ころ)し、人間として(みち)(はず)していたのです。ピラトはイエスがこれまで裁判(さいばん)で見てきた罪人(つみびと)とはまったく(ちが)存在(そんざい)であることに気付(きづ)きます。いつしか、ピラト本人(ほんにん)がイエスに(さば)かれていました。無実(むじつ)のイエスをさばくことなどできない自分の罪深(つみぶか)姿(すがた)をピラトは苦しみます。

ピラトは、イエスの無実(むじつ)を知りながら、ユダヤ人たちに自分の過去(かこ)悪行(あくぎょう)を知られていたため、自分の判断(はんだん)や正しさを行えず、ユダヤ人の言いなりになったのです。

しかし、イエスは、そんなピラトの罪深(つみぶか)姿(すがた)をご存知(ぞんじ)でした。

人間は自分の(ねが)いをかなえるためには、少しの(あく)不正(ふせい)はかまわないと思うかも知れません。いえ、(あく)(ぜん)()()つと本気で考える人たちもいるかも知れません。

しかし、ヘロデ、カヤパ、ピラト、ヒットラー、スターリン、その他すべての悪人(あくにん)たちは(かみ)から(とお)(ほろ)()りました。しかし、イエスは今も生きておられる()なるお方です。

ピラトは社会的(しゃかいてき)立場(たちば)問題(もんだい)がなくても、すべてをご存知(ぞんじ)(かみ)の目には罪深(つみふか)姿(すがた)がありました。それはすべての人間の姿(すがた)でもあります。すべての人は十字架(じゅうじか)を王座とする血まみれのイエスという王によって裁かれるのです。人は十字架(じゅうじか)によってはじめて自分の(つみ)を知るのです。

バラバは(ごく)悪人(あくにん)罪人(つみひと)でしたが、イエスの十字架(じゅうじか)()()えに無罪(むざい)放免(ほうめん)となりました。バラバは(ねが)っていた自由(じゆう)を手に入れました。しかし、そのとき、彼は自分の()わりにイエスがむち()たれ血まみれの姿(すがた)十字架(じゅうじか)背負(せお)って、ついに十字架(じゅうじか)の上で()なれたことを知ったことでしょう。彼はたとえ釈放(しゃくほう)されても、(おか)した(つみ)(けっ)して(ゆる)されません。

しかし、イエスの()がただの()ではなく、自分のために()なれたことがわかったとき、彼は(つみ)(ゆる)されるのです。

すべての人は、(つみ)(おか)したので、(かみ)からの栄誉(えいよ)()けることができず、ただ、(かみ)(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる(あがな)いのゆえに、(あたい)なしに()(みと)められるのです。

(ローマ人への手紙3:23-24)

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