正しさにまさる愛~十字架の赦し

ヨハネの福音書7章53節-8章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年12月10日

<聖書>

〔そして人々はそれぞれ家に帰った。
イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮(みや)に入られた。民衆(みんしゅう)はみな、みもとに寄(よ)って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法(りっぽう)学者(がくしゃ)とパリサイ人が、姦淫(かんいん)の場で捕(と)らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置(お)いてから、
イエスに言った。「先生。この女は姦淫(かんいん)の現場(げんば)でつかまえられたのです。
モーセは律法(りっぽう)の中で、こういう女を石(いし)打(う)ちにするように命(めい)じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発(こくはつ)する理由(りゆう)を得(え)るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪(つみ)のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年(ねん)長者(ちょうしゃ)たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残(のこ)された。女はそのままそこにいた。
イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪(つみ)に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪(つみ)に定めない。行きなさい。今からは決して罪(つみ)を犯(おか)してはなりません。」〕

(ヨハネの福音書7章53節-8章11節)

<説教>

律法(りっぽう)学者(がくしゃ)とパリサイ人が、姦淫(かんいん)の場で捕(と)らえられたひとりの女を連れて来て(ヨハネ8:3)

当時のユダヤ社会では、殺人と偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)、そして、この姦淫(かんいん)の刑罰(けいばつ)は死刑(しけい)です(石打ち)。

この女を罪(つみ)に定めるのか、どうするかによって彼らはイエスを罠(わな)にかけて、議会(ぎかい)に告発(こくはつ)して、葬(ほうむ)り去(さ)ろうとします。

律法(りっぽう)学者(がくしゃ)らは、姦淫(かんいん)の女をイエスや群衆(ぐんしゅう)の真ん中に置きます。彼らは、もはや罪(つみ)を犯(おか)した女を、まるでもののように扱(あつか)いました。イエスを陥(おとしい)れるための道具のように。

しかし、イエスは驚(おどろ)くべきことを言われます。

イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪(つみ)のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

(ヨハネ8:7)

それは、姦淫(かんいん)の罪(つみ)を犯(おか)しただけでなく、心の中で淫(みだ)らなことを一度も考えたことのないものだけが、この女に石を投げることができるという意味でした。

姦淫(かんいん)の罪(つみ)は死(し)罪(ざい)です。婚姻(こんいん)関係(かんけい)のない者が性的な行為(こうい)を行うことは死(し)罪(ざい)です。

しかし、イエスは女を罪(つみ)に定めるのではなく、女を連れてきた連中(れんちゅう)や、好奇(こうき)な目で女を冷たく見る群衆(ぐんしゅう)たちの罪(つみ)を指摘(してき)したのです。

自分が正しいと考えることは、多くの場合、罪(つみ)の根本的(こんぽんてき)な姿勢(しせい)と言えます。イエスの前では、誰(だれ)も自分に罪(つみ)がないと言って、女に石を投げることはできないのです。

誰(だれ)も人の罪(つみ)はもとより、些細(ささい)なことを人間的な判断(はんだん)でさばいてはいけないと聖書(せいしょ)は教えます。それよりも自分の罪(つみ)をよく吟味(ぎんみ)すべきです。

また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。

(マタイ7:3)

ひとり、またひとり去(さ)っていき、イエスと女だけが残(のこ)りました。イエスに女を非難(ひなん)する姿勢(しせい)は見られません。

そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪(つみ)に定(さだ)めない。行きなさい。今からは決して罪(つみ)を犯(おか)してはなりません。」

(ヨハネ8:11)

いかなる権威(けんい)ある律法(りっぽう)(法律(ほうりつ))もその正しさだけで、いかなる人もさばいてはいけないのです。どんな罪(つみ)を犯(おか)した者にも、その人格(じんかく)を認(みと)め、罪(つみ)に定(さだ)めることが最終的(さいしゅうてき)目標(もくひょう)ではなく、その人を善(ぜん)に向かわせることが目的なのです。

イエスは、その人の過去(かこ)をご覧(らん)になるでしょう。しかし、その人の未来をもご覧(らん)になるのです。その人のこれからの生き方を信じて、その罪(つみ)を赦(ゆる)されようとします。かつての罪(つみ)人(びと)が、イエスを信じることにより、善人(ぜんにん)、愛(あい)の人に変えられることをイエスは何より信じているのです。

この「イエスと姦淫(かんいん)の女」の記事は、姦淫(かんいん)の罪(つみ)が軽くあしらわれることを恐れて、写本(しゃほん)によっては省(はぶ)かれています。

しかし、イエスは姦淫(かんいん)の罪(つみ)をいとも簡単に赦(ゆる)されたのではありません。この女性だけでなく、彼女を告発(こくはつ)した律法(りっぽう)学者(がくしゃ)やパリサイ人たち、いえ、すべての人間の罪(つみ)を十字架(じゅうじか)の上で、ご自身の罪(つみ)として受けようとされるお方の罪(つみ)の赦(ゆる)しの宣言(せんげん)です。

今からは決して罪(つみ)を犯(おか)してはなりません。(ヨハネ8:11)

赦(ゆる)された者としての、罪(つみ)との戦いがあるでしょう。しかし、イエス様は私たちをどこまでも信じてくださいます。また罪(つみ)に打(う)ち勝(か)つ力も与(あた)えてくださいます。

罪(つみ)人は罪(つみ)に定(さだ)められて当然(とうぜん)と考えるかも知れません。しかし神さまの道は人間とはまったく違(ちが)うのです。

【主(しゅ)】を求(もと)めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼(よ)び求(もと)めよ。

悪者(わるもの)はおのれの道を捨(す)て、不法者(ふほうしゃ)はおのれのはかりごとを捨(す)て去(さ)れ。【主(しゅ)】に帰れ。そうすれば、主(しゅ)はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊(ゆた)かに赦(ゆる)してくださるから。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異(こと)なり、わたしの道は、あなたがたの道と異(こと)なるからだ。──【主(しゅ)】の御告(みつ)げ──

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

(イザヤ55:6-9)

神さまは、罪人である人間を罪(つみ)に定(さだ)めることより、その罪(つみ)をご自身のひとり子であるイエス・キリストによって罪(つみ)の刑罰(けいばつ)を受けてくださいました。なぜなら神は愛(あい)だからです。

人として来られたイエス様は、罪人(つみびと)をさばきません。神さまはイエス様にさばく権威(けんい)を与(あた)えられていることも事実です。しかし、神さまはイエス様の十字架(じゅうじか)によって罪(つみ)の赦(ゆる)しを用意してくださいました。

その救(すく)いに対して、その人がどのように応答(おうとう)するか、その態度(たいど)と姿勢(しせい)(これを信仰(しんこう)と言います)によって罪(つみ)に定(さだ)められるのです。

罪赦された者として愛に生きる

ルカの福音書7章36-50節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月26日

<聖書>

さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招(まね)いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓(しょくたく)に着(つ)かれた。
すると、その町にひとりの罪深(つみぶか)い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓(しょくたく)に着(つ)いておられることを知り、香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足(みあし)のそばに立ち、涙(なみだ)で御足(みあし)をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足(みあし)に口づけして、香油(こうゆ)を塗(ぬ)った。
イエスを招(まね)いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者(よげんしゃ)なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深(つみぶか)い者なのだから」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。
「ある金貸(かねか)しから、ふたりの者が金を借(か)りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借(か)りていた。
彼らは返(かえ)すことができなかったので、金貸(かねか)しはふたりとも赦(ゆる)してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸(かねか)しを愛するようになるでしょうか。」
シモンが、「よけいに赦(ゆる)してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断(はんだん)は当たっています」と言われた。
そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗(あら)う水をくれなかったが、この女は、涙(なみだ)でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。
あなたは、わたしの頭に油(あぶら)を塗(ぬ)ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油(こうゆ)を塗(ぬ)ってくれました。
だから、わたしは『この女の多くの罪(つみ)は赦(ゆる)されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」
そして女に、「あなたの罪(つみ)は赦(ゆる)されています」と言われた。
すると、いっしょに食卓(しょくたく)にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪(つみ)を赦(ゆる)したりするこの人は、いったいだれだろう。」
しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰(しんこう)が、あなたを救(すく)ったのです。安心して行きなさい。」

(ルカの福音書7章36-50節)

<説教>

パリサイ人のシモンはイエスを食事に招(まね)きました。

そこに招(まね)かざる、ひとりの罪深(つみぶか)い女がイエスのために自分のできる最高の愛を捧(ささ)げます。

町中の者が、この女の悪い噂(うわさ)を知っていました。おそらく遊女(ゆうじょ)であったと思われます。この女自身が、自分の罪深(つみぶか)い生き方をこれ以上続けられないどん底(ぞこ)に苦(くる)しんでいました。そんな時、イエスの噂(うわさ)を聞きました。

イエスは多くの人々を病気と苦(くる)しみと悪霊(あくれい)からいやし、死人をよみがえらせ、貧(まず)しい者たちに罪(つみ)の救(すく)いの福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)えていました(ルカ7:21-23)。

「イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫(じょうぶ)な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招(まね)くためではなく、罪人(つみびと)を招(まね)くために来たのです。』」

(マルコの福音書2:17)

もう女は、明日を生きる力もありませんでした。なぜこんな人生になってしまったのか。愛されたい。心から喜(よろこ)んで生きたい…すべての希望(きぼう)は消え去っていきました。

そんなときにイエス様のことを聞いたのです。そして、彼女はイエス様を信じて、心のありのままをイエス様に祈ったのです。

その瞬間(しゅんかん)でした。彼女の重い心が、傷が、罪責(ざいせき)が取り去られたのです。

内から溢(あふ)れる愛と感謝を押(お)さえきれずに、彼女はイエス様に会いに行きます。

このパリサイ人のシモンはイエスを預言者(よげんしゃ)かも知れないと思いました。今、あちこちで評判(ひょうばん)のイエスの人気にあやかろうと招(まね)きました。当時の客人(きゃくじん)をもてなす当たり前の、足を洗う水も、祝福(しゅくふく)の口づけも彼にはありませんでした。

罪深(つみぶか)い女とシモンの違(ちが)いは何でしょうか。それは自分の罪(つみ)の自覚(じかく)の違(ちが)いです。

イエスが言われた、たとえの借金(しゃっきん)の金額(きんがく)のように、自分の罪(つみ)を数量(すうりょう)で測(はか)ることはできません。ただ自分の罪(つみ)の自覚(じかく)によるのです。そしてパリサイ人シモンと女の違(ちが)いは、愛する生き方において明らかになるのです。

「だから、わたしは『この女の多くの罪(つみ)は赦(ゆる)されている』と言います。
それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦(ゆる)されない者は、少ししか愛しません。」

(ルカの福音書7:47)

神はどんな罪(つみ)も赦(ゆる)してくださるのでしょうか。そうです。赦(ゆる)されない罪(つみ)はありあません。

人間ならば、償い切れない罪(つみ)があるかも知れません。しかし、神の前では赦(ゆる)されない罪(つみ)はないのです。それは、私たちが罪(つみ)を償うのではなく、キリストが人間が負(お)うべき罪(つみ)の刑罰(けいばつ)を身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)でご自身のきよい命によって払ってくださったからです。

シモンはイエスが罪(つみ)の赦(ゆる)しを宣言(せんげん)した事実(じじつ)が、わかりませんでした。

しかし、この罪深(つみぶか)い女が、香油(こうゆ)を塗(ぬ)り、涙(なみだ)でぬらして、髪の毛でぬぐった御足(みあし)、そのお方は預言者(よげんしゃ)どころか、この地上で唯一(ゆいいつ)、人間の罪(つみ)を赦(ゆる)すことが出来るお方、救(すく)い主(ぬし)だったのです(マルコ2:10、使徒4:12)。

すべての人は、神を見なければなりません。このキリストなる神さまによって罪(つみ)を赦(ゆる)されなければなりません。その重荷(おもに)はあなた一人で負(お)うにはあまりにも重すぎるのです。

この女の姿こそが信仰(しんこう)に生きる者の姿です。

「信仰(しんこう)がなくては、神に喜(よろこ)ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」

(ヘブル人への手紙11:6)

「しかし、イエスは女に言われた。『あなたの信仰(しんこう)が、あなたを救(すく)ったのです。安心して行きなさい。」」

(ルカの福音書7:50)

この「安心して行きなさい」は平安に入りなさいという意味です。

そして、赦(ゆる)された者は、愛する者として生きるのです。

イエスを信じて罪(つみ)の重荷(おもに)をおろして、愛と平安と喜(よろこ)びの人生に生きていこうではありませんか。

土の器~闇から光へ

コリント人への手紙第二3章16節-4章7節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月19日

<聖書>

しかし、人が主(しゅ)に向くなら、そのおおいは取(と)り除(のぞ)かれるのです。
主(しゅ)は御霊(みたま)です。そして、主(しゅ)の御霊(みたま)のあるところには自由があります。
私たちはみな、顔のおおいを取(と)りのけられて、鏡(かがみ)のように主(しゅ)の栄光(えいこう)を反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、主(しゅ)と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主(しゅ)の働きによるのです。
こういうわけで、私たちは、あわれみを受(う)けてこの務(つと)めに任(にん)じられているのですから、勇気(ゆうき)を失(うしな)うことなく、
恥(は)ずべき隠(かく)された事を捨(す)て、悪巧(わるだく)みに歩まず、神のことばを曲(ま)げず、真理を明らかにし、神の御前(みまえ)で自分自身をすべての人の良心(りょうしん)に推薦(すいせん)しています。
それでもなお私たちの福音(ふくいん)におおいが掛(か)かっているとしたら、それは、滅(ほろ)びる人々の場合に、おおいが掛(か)かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光(えいこう)にかかわる福音(ふくいん)の光を輝(かがや)かせないようにしているのです。
私たちは自分自身を宣(の)べ伝(つた)えるのではなく、主(しゅ)なるキリスト・イエスを宣(の)べ伝(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕(つか)えるしもべなのです。
「光が、やみの中から輝(かがや)き出よ」と言われた神は、私たちの心を照(て)らし、キリストの御顔(みかお)にある神の栄光(えいこう)を知る知識(ちしき)を輝(かがや)かせてくださったのです。
私たちは、この宝(たから)を、土(つち)の器(うつわ)の中に入れているのです。それは、この測(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(コリント人への手紙第二3章16節-4章7節)

<説教>

①人間の心は覆(おお)いが掛(か)かっていて、自分の力で神を知ることができません。

この手紙を書いたパウロも、昔は神に逆(さか)らい、キリスト者を迫害(はくがい)していました。しかし、神の光がパウロの心を照(て)らし、よみがえられたキリストと出会い、神を信じる者に変えられました。

②この世の神(悪魔(あくま))が人間の思いに覆(おお)いを掛(か)けて、神を知ることを妨(さまた)げています。

それは、滅(ほろ)びる人々の場合に、おおいが掛(か)かっているのです。その場合、この世の神が不信者(ふしんじゃ)の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音(ふくいん)の光を輝(かがや)かせないようにしているのです。

(Ⅱコリント4:3-4)

では、人間は神を知り、信じることはできないのでしょうか。

いいえ。悪魔(あくま)は人間の心に覆(おお)いを掛(か)けても、神は、人間の心を光で照(て)らしてくださいます。

人が自分の罪(つみ)を認め、悔(く)い改(あらた)めるとき、神はそのように働いてくださいます。

③人間は神に心を照(て)らしていただき、キリストを通して神を知ることができるのです。

パウロは、福音(ふくいん)(キリストを信じるなら、人は救(すく)われるというよい知らせ)に仕える者とされました。しかし、パウロは言います。

私たちは自分自身を宣(の)べ伝(つた)えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣(の)べ伝(つた)えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕(つか)えるしもべなのです。

(Ⅱコリント4:5)

パウロは自分のことではなく、十字架(じゅうじか)に付けられたイエスを宣(の)べ伝(つた)えました。キリスト者であっても弱(よわ)く、愚(おろ)かなものですが、自分のすべての罪(つみ)を贖(あがな)って(救(すく)って)くださったキリストにふさわしい生き方へ向かい、変えられていきます。

そのことをパウロは、次のみことばにたとえています。

私たちは、この宝(たから)を、土(つち)の器(うつわ)の中に入れているのです。それは、この測(はか)り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

(Ⅱコリント4:7)

古代(こだい)ローマでは、土(つち)の器(うつわ)に金貨(きんか)や銀貨(ぎんか)をいれてしまっておく習慣(しゅうかん)がありました。凱旋(がいせん)将軍(しょうぐん)の行軍(こうぐん)はこの土(つち)の器(うつわ)をもっていました。

キリストを信じた者も、神の子とされ、天国へいくことを約束された勝利者(しょうりしゃ)です。しかし、この世で苦難(くなん)や悩(なや)みがあり、自分の弱(よわ)さや愚(おろ)かさが完全になくなることはありません。

しかし、それであってもキリスト者は偉大(いだい)な勝利者(しょうりしゃ)なのです。しかし、その偉大(いだい)さは、彼らの中にある福音、キリストの栄光(えいこう)によるのです。

神の偉大(いだい)さとは、弱(よわ)い私たちを用いて、偉大(いだい)なことをしてくださることです。パウロはその神のあわれみによって人生が変えられました。神に造(つく)られた人間へと回復(かいふく)されたのです。

聖書(せいしょ)は人間を、陶器師(とうきし)である神に造(つく)られた土(つち)の器(うつわ)にたとえています。弱(よわ)くこわれやすい人間であるが、神に造(つく)られた尊(とうと)い存在(そんざい)です。弱(よわ)き小さい私の中に、比(くら)べることのできない測(はか)り知れない神の恵(めぐ)み、愛、力が生きているのです。

神は信じるわたしたちの覆(おお)いを取(と)り除(のぞ)いて、キリストの輝(かがや)きを、反射(はんしゃ)させるように私たちを輝(かがや)かせてくださいます。そして、もはや反射(はんしゃ)でなく、私たちをキリストに似(に)た者へと変え続けてくださるのです。

しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取(と)り除(のぞ)かれるのです。主は御霊(みたま)です。そして、主の御霊(みたま)のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取(と)りのけられて、鏡(かがみ)のように主の栄光(えいこう)を反映(はんえい)させながら、栄光(えいこう)から栄光(えいこう)へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊(みたま)なる主の働きによるのです。

(Ⅱコリント3:16-18)

イエス様と最後まで生きる

ヘブル人への手紙12章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月12日

<聖書>

こういうわけで、このように多くの証人(しょうにん)たちが、雲(くも)のように私たちを取(と)り巻(ま)いているのですから、私たちも、いっさいの重荷(おもに)とまつわりつく罪(つみ)とを捨(す)てて、私たちの前に置(お)かれている競走(きょうそう)を忍耐(にんたい)をもって走り続けようではありませんか。
信仰(しんこう)の創始者(そうししゃ)であり、完成者(かんせいしゃ)であるイエスから目を離(はな)さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置(お)かれた喜(よろこ)びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架(じゅうじか)を忍(しの)び、神の御座(みざ)の右に着座(ちゃくざ)されました。
あなたがたは、罪人(つみびと)たちのこのような反抗(はんこう)を忍(しの)ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲(つか)れ果(は)ててしまわないためです。

(へブル人への手紙12章1-3節)

<説教>

キリスト者として最後まで生きることは、決して簡単なことではないかも知れません。神さまに従(したが)って生きるキリスト者は日本でも1%未満(みまん)と言われています。

聖書によるとイエス様の弟子として従(したが)うキリスト者の歩みは「競争」なのです。

しかし、ヘブル人への手紙11章にある旧約聖書の信仰者が証人(しょうにん)として、私たちを励(はげ)ましてくれます。ただの声援(せいえん)ではなく、最後まで信仰(しんこう)に生きた証人(しょうにん)としてです。

そして、何より父なる神さまに従(したが)われたイエス様の信仰(しんこう)により、私たちもまた、このお方を目標として、また指導者(しどうしゃ)として、同伴者(どうはんしゃ)として歩んでいくのです。

旧約の信仰(しんこう)者と同様に、今の時代も罪の世であり、キリスト者として生きやすい所ではありません。

しかし、キリスト者として生きる問題は自分自身にあり、罪と重荷(おもに)を捨てて身軽(みがる)にして、競争を走り続けることが大切です。

ここでの罪とは「不信仰」です。一般的な信仰(しんこう)ではなく、御言葉(みことば)に従(したが)う信仰(しんこう)です。

信仰(しんこう)がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報(むく)いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。                                                   (ヘブル人への手紙11:6)

そのために、イエス様を見上げ続けることです。この方を見るならば、罪によって神さまとの関係を失うことはありません。疲(つか)れて座(すわ)り込(こ)んでも、また希望(きぼう)と力が与(あた)えられます。愛が生まれます。イエス様に似(に)た者へと造(つく)り変えてくださいます。

人間の罪によって、イエス様は十字架の苦しみとはずかしめを受けられましたが、よみがえりの先にある、神へつながる救いの道、信仰(しんこう)の栄冠(えいかん)を喜(よろこ)ばれました。

世の罪、また自分自身の罪により、苦難(くなん)がありますが、イエス様の信仰(しんこう)によって、栄光(えいこう)の勝利が約束されています。信仰(しんこう)がそれを確実(かくじつ)なものとしてくれるのです。

信仰(しんこう)は望んでいる事がらを保証(ほしょう)し、目に見えないものを確信(かくしん)させるものです。

(ヘブル人への手紙11:1)

私たちの本当の喜(よろこ)びとは、大切な人が喜(よろこ)んでいることでしょう。そこから喜(よろこ)びは始まります。イエス様は、あなたを愛されて喜(よろこ)んでおられます。喜(よろこ)んでイエス様を見続けましょう。人生のゴールで、必ずイエス様はあなたを迎(むか)えてくださいます。

私は自分のからだを打ちたたいて従(したが)わせます。それは、私がほかの人に宣(の)べ伝(つた)えておきながら、自分自身が失格者(しっかくしゃ)になるようなことのないためです。

(コリント人への手紙第一9:27)

イエス様と共に愛に生きる

ルカの福音書10章25-37節より

土山みことばキリスト教会

2023年11月5日

<聖書>

すると、ある律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠(えいえん)のいのちを自分のものとして受(う)けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法(りっぽう)には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『心(こころ)を尽(つ)くし、思(おも)いを尽(つ)くし、力(ちから)を尽(つ)くし、知性(ちせい)を尽(つ)くして、あなたの神である主(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身(じしん)のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行(じっこう)しなさい。そうすれば、いのちを得(え)ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人(となりびと)とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下(くだ)る道で、強盗(ごうとう)に襲われた。強盗(ごうとう)どもは、その人の着物(きもの)をはぎ取り、なぐりつけ、半殺(はんごろ)しにして逃(に)げて行った。
たまたま、祭司(さいし)がひとり、その道を下(くだ)って来たが、彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り過(す)ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側(はんたいそく)を通り過(す)ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅(たび)の途中(とちゅう)、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄(ちかよ)って傷(きず)にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜(かちく)に乗(の)せて宿屋(やどや)に連(つ)れて行き、介抱(かいほう)してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋(やどや)の主人に渡(わた)して言った。『介抱(かいほう)してあげてください。もっと費用(ひよう)がかかったら、私が帰りに払(はら)います。』
この三人の中でだれが、強盗(ごうとう)に襲(おそ)われた者の隣人(となりびと)になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

(ルカの福音書10章25-37節)

<説教>

この律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)は、永遠(えいえん)のいのちを受けるために何を行えばいいのかイエスに質問しました。

すると彼は答えて言った。「『心を尽(つ)くし、思いを尽(つ)くし、力を尽(つ)くし、知性(ちせい)を尽(つ)くして、あなたの神である主(しゅ)を愛せよ』、また『あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

(ルカの福音書10:27)

このみことばは、旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)にある律法(りっぽう)です。

「あなたの隣人(となりびと)をあなた自身のように愛しなさい。」(レビ記19:18)

隣人(となりびと)とは誰(だれ)なのか、どのように愛するのか、その答えがイエスの語られた「良きサマリヤ人」(ルカ10:30-37)の姿です。

律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)で神に仕(つか)える祭司(さいし)、レビ人は半殺(はんごろ)しになった人を見て反対側を通り過(す)ぎて行きます。律法(りっぽう)では死人に触(ふ)れると汚(けが)れ、神殿(しんでん)の奉仕(ほうし)ができなくなる。また、介抱(かいほう)する者が強盗(ごうとう)に襲(おそ)われる手口(てぐち)もよくあり、それを恐(おそ)れた…

しかし、自分を正しいとするいかなる理由も、神の前では通用しません。

それに対してサマリヤ人は

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中(とちゅう)、そこに来合(きあ)わせ、彼を見てかわいそうに思い、(ルカ10:33)

サマリヤ人のこの「かわいそうに思」う心こそがすべてなのです。この強盗(ごうとう)に襲われた人に対するあわれみの心によって、彼のすべての愛のわざが行なわれたのです。

祭司(さいし)、レビ人もわずかでも同情(どうじょう)があったはずなのです。私たちは、このあわれみを閉(と)ざしてはなりません。あわれみによって隣人(となりびと)が生まれるのです。だれかがあなたの隣人(となりびと)なのではありません。大切なのは、あなたが誰(だれ)かの隣人(となりびと)になれるということです。

この律法(りっぽう)の専門家(せんもんか)は、何を行えば永遠のいのちを得(え)るのか、また誰(だれ)がわたしの隣人(となりびと)なのかとイエスに聞きました。

人は良(よ)い行いによっては決して救(すく)われません。人は愛を行うものとして神の似(に)姿(すがた)に創造(そうぞう)されたのです。良(よ)い行いをする神の似(に)せて造(つく)られたのです。神さまがあなたに何を望(のぞ)んでおられるかを私たちは知っています。

私たちは神の作品であって、良(よ)い行いをするためにキリスト・イエスにあって造(つく)られたのです。神は、私たちが良(よ)い行いに歩むように、その良(よ)い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。

(エペソ2:10)

もっとも大切なことは愛なのです。同情(どうじょう)するだけではなく、具体的(ぐたいてき)な行動(こうどう)が伴(ともな)う愛です。聖書が言う愛は感情(かんじょう)ではなく、態度(たいど)、姿勢(しせい)、行動(こうどう)、決断(けつだん)です。

愛は寛容(かんよう)であり、愛は親切(しんせつ)です。また人をねたみません。愛は自慢(じまん)せず、高慢(こうまん)になりません。礼儀(れいぎ)に反することをせず、自分の利益(りえき)を求(もと)めず、怒(いか)らず、人のした悪を思わず、不正を喜(よろこ)ばずに真理(しんり)を喜(よろこ)びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待(きたい)し、すべてを耐(た)え忍(しの)びます。愛は決して絶(た)えることがありません。

(Ⅰコリント13:4-8)

心が変われば人は変わります。愛された者は愛します。多く赦(ゆる)された者は多く愛します。いかなる人もイエスの愛に触(ふ)れられ罪赦(ゆる)されたなら、新しい心に変えられ、新しく生きられるのです。

永遠のいのちは、この愛をイエスとともにあらわして生きることです。

イエス様の「あなたも行って同じようにしなさい。(ルカ10:37)」は

あなたを新しい生き方に変えるみ言葉です。

キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法(ふほう)から贖(あがな)い出し、良(よ)いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。

(テトス2:14)

キリストの十字架~本当に生きるために死ぬ

ローマ人への手紙6章4-14節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月29日

<聖書>

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬(ほうむ)られたのです。それは、キリストが御父(みちち)の栄光(えいこう)によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活(ふっかつ)とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架(じゅうじか)につけられたのは、罪(つみ)のからだが滅(ほろ)びて、私たちがもはやこれからは罪(つみ)の奴隷(どれい)でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪(つみ)から解放(かいほう)されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配(しはい)しないことを、私たちは知っています。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪(つみ)に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
このように、あなたがたも、自分は罪(つみ)に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪(つみ)の支配(しはい)にゆだねて、その情欲(じょうよく)に従(したが)ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義(ふぎ)の器(き)として罪(つみ)にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身(じしん)とその手足を義(ぎ)の器(き)として神にささげなさい。
というのは、罪(つみ)はあなたがたを支配(しはい)することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法(りっぽう)の下にはなく、恵(めぐ)みの下にあるからです。

(ローマ人への手紙6章4-14節)

<説教>

イエス・キリストを信(しん)じて救(すく)われたクリスチャンには何が起(お)こったのか?クリスチャンとは何者でしょうか。

人間の内面(うちめん)で次のような事実(じじつ)が起(お)こった人のことだと言えます。

①古い自分の葬式(そうしき)

罪(つみ)の性質(せいしつ)に支配(しはい)された古い人は死んでいる。

②キリストとの結婚式(けっこんしき)

キリストとつながって一つに結合(けつごう)されている。

①生きるために死ななければならない

夏から朝顔(あさがお)がきれいに咲(さ)いています。しかし秋になると花の咲(さ)く時期(じき)を終えます。花は枯(か)れて死にますが、その後には種(たね)が出来て、また来年の夏にはきれいな花を咲(さ)かせます。人間も髪(かみ)の毛、血(ち)、骨(ほね)、からだは死んで新しく生まれ変わっています。生きるためにどんどん古い細胞(さいぼう)は死んで新しく作られるのです。 生まれ持っての人間の罪(つみ)深(ぶか)い性質(せいしつ)は、勉強(べんきょう)や道徳(どうとく)教育(きょういく)、善行(ぜんこう)、修行(しゅぎょう)をしても、わずかでも消(け)し去(さ)ることはできません。ただ、人間の罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で流されたキリストも血(ち)しおによってのみきよめられるのです。キリストを信(しん)じる者は、キリストが十字架(じゅうじか)で罪(つみ)に対(たい)して死なれたように、古(ふる)い罪(つみ)の性質(せいしつ)に死にます。神の力によっていかなる人も変えられます。

②主人しゅじんが変わらなければならない

キリストを信(しん)じる前は、私たちは罪(つみ)の奴隷(どれい)状態(じょうたい)でした。死のもう一つの意味(いみ)は、分離(ぶんり)することです。別(わか)れることです。キリストを信(しん)じた者は、罪(つみ)の支配(しはい)から離(はな)れて、神のご支配(しはい)に移(うつ)されます。これも人間の努力(どりょく)や頑張(がんば)りでは不可能(ふかのう)です。クリスチャンとは、すでに罪(つみ)の支配(しはい)から自由にされている者です。これが事実(じじつ)です。

だから、キリスト者は、このイエス様が十字架(じゅうじか)で罪(つみ)に対(たい)して一度死なれ、神に対(たい)して永遠(えいえん)に生きることを、自分の人生で実際(じっさい)に生きる者であることを覚(おぼ)えなければなりません。

それは、あなたが罪(つみ)と自我(じが)とこの世(よ)に対(たい)して死んだ者として、神さまの栄光(えいこう)(素晴(すば)らしさ)のために、神と共に生きることです。

しかしクリスチャンも古(ふる)い性質(せいしつ)がこの地上(ちじょう)で生きる限(かぎ)り残(のこ)っています。

ですから、地上(ちじょう)のからだの諸部分(しょぶぶん)、すなわち、不品行(ふひんこう)、汚(けが)れ、情欲(じょうよく)、悪(わる)い欲(よく)、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)なのです。

(コロサイ人への手紙3:5)

また、現実(げんじつ)に存在(そんざい)する罪(つみ)の力が私たちに24時間365日、襲(おそ)いかかってきます。

身(み)を慎(つつし)み、目をさましていなさい。あなたがたの敵(てき)である悪魔(あくま)が、ほえたける獅子(しし)のように、食(く)い尽(つ)くすべきものを捜(さが)し求(もと)めながら、歩(ある)き回(まわ)っています。堅(かた)く信仰(しんこう)に立って、この悪魔(あくま)に立ち向(むか)かいなさい。

(Ⅰペテロ5:8-9)

「罪(つみ)が滅(ほろ)ぶべき肉体(にくたい)を支配(しはい)して、情欲(じょうよく)に従(したが)わせることがないようにしなさい」

(ローマ6:12別(べつ)訳(やく))

人間のからだを罪(つみ)の支配(しはい)に任(まか)せてはいけません。不義(ふぎ)の器(うつわ)(ローマ6:13)とは「鋭(するど)い不義(ふぎ)の武器(ぶき)」の意味(いみ)です。

しかし、罪(つみ)はもはや絶対(ぜったい)に私たちの主人(しゅじん)になることはない(ローマ6:14)のです。だから、キリスト者はからだの各部(かくぶ)を義(ぎ)の武器(ぶき)として神様に捧(ささ)げるのです。自分のために使うのではなく、神さまのために用(もち)いるのです。

なぜ、そんなことができるのでしょうか。それは、イエス様を信(しん)じた者は、もう古(ふる)い律法(りっぽう)(よい行いをしなければ正しい人間でないという生き方)に生きる者ではないからです。

頑張(がんば)りや、社会的(しゃかいてき)地位(ちい)、才能(さいのう)や仕事(しごと)ができる・できない、人の評価(ひょうか)がすべてであった生き方、

それらから解放(かいほう)されて、十字架(じゅうじか)のみわざによって、イエス様を信(しん)じて、神さまの恵(めぐ)みによって生かされた真(しん)の意味(いみ)で自由な者だからです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新(あたら)しく造(つく)られた者です。古(ふる)いものは過(す)ぎ去(さ)って、見よ、すべてが新(あたら)しくなりました。

(Ⅱコリント人への手紙5:17)

神がくださる最高の福音に、私も生きる

ヨナ書3章10節-4章11節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月15日

<聖書>

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力(どりょく)していることをご覧(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。
ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)に不愉快(ふゆかい)にさせた。ヨナは怒(おこ)って、
【主(しゅ)】に祈って言った。「ああ、【主(しゅ)】よ。私がまだ国にいたときに、このことを申(もう)し上(あ)げたではありませんか。それで、私は初(はじ)めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情(なさ)け深(ぶか)くあわれみ深(ぶか)い神であり、怒(おこ)るのにおそく、恵(めぐ)み豊(ゆた)かであり、わざわいを思い直(なお)されることを知っていたからです。
【主(しゅ)】よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」
【主(しゅ)】は仰(おお)せられた。「あなたは当然(とうぜん)のことのように怒(おこ)るのか。」
ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋(かりごや)を作り、町の中で何が起(お)こるかを見きわめようと、その陰(かげ)の下にすわっていた。
神である【主(しゅ)】は一本のとうごまを備(そな)え、それをヨナの上をおおうように生(は)えさせ、彼の頭の上の陰(かげ)として、ヨナの不きげんを直(なお)そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常(ひじょう)に喜(よろこ)んだ。
しかし、神は、翌日(よくじつ)の夜明(よあ)けに、一匹の虫を備(そな)えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯(か)れた。
太陽が上ったとき、神は焼(や)けつくような東風を備(そな)えられた。太陽がヨナの頭に照(て)りつけたので、彼は衰(おとろ)え果(は)て、自分の死を願(ねが)って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
すると、神はヨナに仰(おお)せられた。「このとうごまのために、あなたは当然(とうぜん)のことのように怒(おこ)るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒(おこ)るのは当然(とうぜん)のことです。」
【主(しゅ)】は仰(おお)せられた。「あなたは、自分で骨折(ほねお)らず、育(そだ)てもせず、一夜(いちや)で生(は)え、一夜(いちや)で滅(ほろ)びたこのとうごまを惜(お)しんでいる。
まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜(お)しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜(かちく)とがいるではないか。」

(ヨナ書3章10節-4章11節)

<説教>

ヨナの宣教(せんきょう)でニネベの人々は罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めて、ニネベは滅(ほろ)びから救(すく)われました。ニネベはヨナたちの国をひどい目にあわせる敵国(てきこく)です。異邦(いほう)の神を信じる邪悪(じゃあく)な国でした。ヨナはこの神の大きな愛に怒(いか)ります。

ところが、このことはヨナを非常(ひじょう)に不愉快(ふゆかい)にさせた。
ヨナは怒(いか)って、【主】に祈(いの)って言った。

(ヨナ書4:1-2)

人間は偉大(いだい)な神のあわれみ、いつくしみを完全に理解(りかい)できません。

しかし、神はそのひとり子のキリストを十字架(じゅうじか)につけて、私たちの罪(つみ)の赦(ゆる)しを成(な)し遂(と)げてくださいました。ここに神の愛がすべての人に明らかにされました。

しかし私たちがまだ罪人(つみびと)であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身(じしん)の愛を明らかにしておられます。

(ローマ人への手紙5:8)

神の愛に触(ふ)れ、私たちの氷(こおり)の心が溶(と)かされ、愛を持つ者に変えられていきます。少しずつ、神がおられる交わりの中でキリストの愛を家族で知っていきます。

キリストの愛によって救(すく)われ、新しく生まれた者の愛とは、このイエス様を誰(だれ)かに紹介(しょうかい)することです。

人生の中で、私たちの最(もっと)も大きな出来事、それはイエス様と出会って素晴(すば)らしい人生に変えられたことなのですから。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界(ぜんせかい)に出て行き、すべての造(つく)られた者に、福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)えなさい。

(マルコの福音書(ふくいんしょ)16:15)

ヨナは神のことばを、ニネベの人々に伝(つた)えました。そこに神の力が働(はたら)かれて、人も家畜(かちく)も悔(く)い改(あらた)めて、救(すく)われたのです。

私は福音(ふくいん)を恥(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信(しん)じるすべての人にとって、救(すく)いを得(とく)させる神の力です。

(ローマ人への手紙1:16)

神はご自分の子どもたちを選(えら)ばれています。しかし、福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)える人が遣(つか)わされ、その人々が福音(ふくいん)を聞いて信(しん)じなければ救(すく)われません。

人々は目的がわからずさまよっています。何が正しいのか、どう生きるべきなのかを悩(なや)んでいます。

この世が提供(ていきょう)する者は、真実(しんじつ)な人生の問(と)いから離(はな)れさせ、人を堕落(だらく)させるようなものが多くあります。

この世界には、私たちを真理(しんり)へ導(みちび)くものはありません。

財産(ざいさん)、健康(けんこう)、夢(ゆめ)、肩書(かたが)き、恋人、趣味(しゅみ)娯楽(ごらく)、どれも大切です。しかし、どれも一番になり得(とく)ません。罪(つみ)を犯(おか)した刑罰(けいばつ)である死後の永遠(えいえん)の滅(ほろ)びには何の助けにもなりません。いえ、今現在の生き方がイエス様の豊かな命と愛に満たされます。

すべての人に福音(ふくいん)が必要です。それは他のなにものにも比(くら)べることはできません。

福音(ふくいん)を信(しん)じて与(あた)えられる永遠(えいえん)のいのちは神の与(あた)えてくれる賜物(たまもの)(プレゼント)です。お金では決して手に入れることはできません。

神の愛は大きすぎて、私たちの愛ではときに嫉妬(しっと)するかも知れません。人間関係ではよくなくても、神への嫉妬(しっと)は、神への愛です。

ヨナは、自分の預言者(よげんしゃ)の立場や、自分の信仰(しんこう)がありました。

しかし、私たちの、どんな自己(じこ)実現(じつげん)も、神のご計画された神(かみ)実現(じつげん)にまさるものではありません。

誰(だれ)かのために、誰(だれ)かを愛するなら、福音(ふくいん)を紹介(しょうかい)することにまさる愛はないと気付きます。

イエス様を愛して、イエス様と共に生きることは、自分にとって素晴(すば)らしいだけでなく、あなたの愛する大切な人にとっても素晴(すば)らしいことなのです。

最後に祈れる神をもつ幸い

ヨナ書2章1-10節より

土山みことばキリスト教会

2023年10月8日

<聖書>

ヨナは魚の腹(はら)の中から、彼の神、【主】に祈(いの)って、
言った。「私が苦(くる)しみの中から【主】にお願(ねが)いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹(はら)の中から叫(さけ)ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。
あなたは私を海の真ん中の深(ふか)みに投げ込まれました。潮(しお)の流(なが)れが私を囲(かこ)み、あなたの波(なみ)と大波(おおなみ)がみな、私の上を越(こ)えて行きました。
私は言った。『私はあなたの目の前から追(お)われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖(せい)なる宮(みや)を仰(あお)ぎ見たいのです』と。
水は、私ののどを絞(し)めつけ、深淵(しんえん)は私を取(と)り囲(かこ)み、海草(かいそう)は私の頭にからみつきました。
私は山々の根元(ねもと)まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、【主】よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。
私のたましいが私のうちに衰(おとろ)え果(は)てたとき、私は【主】を思い出しました。私の祈(いの)りはあなたに、あなたの聖(せい)なる宮(みや)に届(とど)きました。
むなしい偶像(ぐうぞう)に心を留(と)める者は、自分への恵(めぐ)みを捨(す)てます。
しかし、私は、感謝(かんしゃ)の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓(ちか)いを果(は)たしましょう。救(すく)いは主のものです。」
【主】は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

(ヨナ書2章1-10節)

<説教>

暴風(ぼうふう)と荒れる海‐そこに投げ込まれるのをヨナは恐れていました。

ヨナは潮(しお)の流れに囲(かこ)まれ、大きな波がヨナを飲みこみ、水で窒息(ちっそく)しそうになり、暗い海の中の不気味(ぶきみ)な裂(さ)け目の中に深く沈(しず)んでいきます。海藻(かいそう)がヨナに絡(から)み付き、海底近くまで沈(しず)み、そこでがんじがらめになります。

ヨナは死を恐れます。死の苦しみを恐れます。

しかし、死の寸前でヨナは死の苦しみより恐ろしいことに気付きました。それは、神から離(はな)れて死んでしまうことでした。永遠に神の愛から離(はな)れてしまうことでした。

私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖(せい)なる宮を仰(あお)ぎ見たいのです』と。

(ヨナ書2:4)

人間は誰も必ず死にます。その時、家族も友も、愛する誰も一緒に死ぬことはできません。正確には死後のさばきを一緒に受けてくれる人は誰もいません。しかし、イエス様は、あなたが死ぬ時も共にいていくださいます。

たとい、死の陰(かげ)の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

(詩篇23:4)

ヨナは苦しみの中で神に祈(いの)ります。神は祈(いの)りに答えてくださいます。大きな魚がヨナを飲みこみ、魚の腹の中で守ってくださったのです。そこで、かつて神の御顔(みかお)から離(はな)れようとしたヨナは、死の苦しみの中で、神の御顔(みかお)を求めて、救(すく)い出されるのです。ヨナは死の直前で、まことの神を思い出して祈(いの)ったのです。

死の前で、信頼(しんらい)して祈れる神は、イエス・キリストだけです。この方にまことのいのちがあります。

イエス・キリストを信じる者は、決して滅(ほろ)びの死に入ることはありません。

それは、この魚の中にヨナが三日(みっか)三晩(みばん)いたことは、実は十字架(じゅうじか)で死んで葬(ほうむ)られ、三日目によみがえられたイエス・キリストの救(すく)いを表わしているからです。

イエス様は次のように言われました。

しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫(かんいん)の時代はしるしを求めています。だが預言者(よげんしゃ)ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日(みっか)三晩(みばん)大魚(たいぎょ)の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日(みっか)三晩(みばん)、地の中にいるからです。

(マタイの福音書12:39-40)

イエス様は十字架(じゅうじか)で死なれて三日間、罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の死の支配(しはい)の中にとどまられました。

しかし神は、この方を死の苦しみから解(と)き放(はな)って、よみがえらせました。

(使徒2:24)

この苦しみとは「陣痛(じんつう)」の意味です。救(すく)いとは、三位(さんみ)一体(いったい)の父の神の愛と、子なるキリストの犠牲(ぎせい)と従順(じゅうじゅん)によって生み出されるのです。いのちを生み出す営みなのです。苦しみにまさる喜びがそこにあるのです。

人間が造った神と呼ばれるもの(偶像(ぐうぞう))には、そのような愛も命も存在しません。神から離(はな)れる永遠の死の苦しみから人間を救(すく)うことはできません。

むなしい偶像(ぐうぞう)に心を留(と)める者は、自分への恵(めぐ)みを捨(す)てます。しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓(ちか)いを果(は)たしましょう。救(すく)いは主(しゅ)のものです。」 

(ヨナ書2:8-9)

反逆する人間に呼びかける神

ヨナ書1章より

土山みことばキリスト教会

2023年10月1日

<聖書>

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
しかしヨナは、【主】の御顔(みかお)を避(さ)けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃(ふなちん)を払(はら)ってそれに乗(の)り、【主】の御顔(みかお)を避(さ)けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
さて、【主】は大風を海に吹(ふ)きつけられた。それで海に激(はげ)しい暴風(ぼうふう)が起こり、船は難破(なんぱ)しそうになった。
水夫(すいふ)たちは恐(おそ)れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫(さけ)び、船を軽くしようと船の積荷(つみに)を海に投げ捨(す)てた。しかし、ヨナは船底(ふなぞこ)に降(お)りて行って横になり、ぐっすり寝込(ねこ)んでいた。
船長(せんちょう)が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込(ねこ)んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留(と)めてくださって、私たちは滅(ほろ)びないですむかもしれない。」

(ヨナ書1章1-6節)

<説教>

1.人間の罪(つみ)とは神への反逆(はんぎゃく)

アミタイの子ヨナに次のような【主】のことばがあった。

「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫(さけ)べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」                          (ヨナ書1:1-2)

まことの神は、人間に語られます。神を恐(おそ)れて罪(つみ)から離(はな)れなさいと神は語られます。アッシリアの大都市ニネベの人間の罪(つみ)に対して神はさばきを下されようとします。

預言者(よげんしゃ)ヨナは、その神の言葉を預(あず)かった(伝えるよう託(たく)された)のです。

アッシリアは神を恐(おそ)れず、神を侮(あなど)り、罪(つみ)に堕(だ)落(らく)して不道徳、殺戮(さつりく)と略奪(りゃくだつ)が満ちて、ヨナの国イスラエルを攻め取ろうとしていました。

そんなアッシリアが神に悔(く)い改(あらた)めて、滅亡(めつぼう)から救(すく)われることがヨナは我慢(がまん)できませんでした。

人間は自分の考えや都合(つごう)によって、神に素直(すなお)に従(したが)えないのです。

人間は神に対して頑(かたく)なで強情(ごうじょう)なのです。聖書によると人間の罪(つみ)の中心は神への反逆(はんぎゃく)です。

ヨナは神に従(したが)わず、神から離(はな)れようとします。主の御顔(みかお)を避けようとします。神が命じたニネベへ行かず、タルシシュへ逃(のが)れようとします。人間は何処へ逃(のが)れても、神から逃(に)げることなどできません。

神はいつも人間がどこにいるのかご存知(ぞんじ)です。

神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰(おお)せられた。「あなたは、どこにいるのか。」  

(創世記3:9)

神から離(はな)れようとすればするほど、人間の状況(じょうきょう)はますます最悪になっていきます。

大風と暴風(ぼうふう)がヨナの船を襲(おそ)い、ヨナは船の底に下って行き、寝てしまうのです。神から離(はな)れるとき、人間は怠慢(たいまん)になり、神に与えられた本当の素晴らしい人生をなかなか生きられないのです。

2.神は人間の応答(おうとう)を求められる

大風や暴風(ぼうふう)で船が難破(なんぱ)しそうになり、人々は命の危険を感じます。そして死を前に、罪(つみ)を知り、神を恐れるのです。くじを通して、神はこの大嵐はヨナの罪(つみ)が原因(げんいん)だと明らかにします。

罪(つみ)は単にひとりの悪では終わりません。人と人との関係に深刻(しんこく)な影響(えいきょう)を与えます。そして神との関係を引き離(はな)します。神から離(はな)れるほど、人間にとって恐ろしいことはありません。

イエス様も、十字架に架(か)かられる前に父なる神から離(はな)れることに耐(た)えられず祈りました。

ヨナは天地を造られた神を信じて恐れていました。

ヨナが神に対して逃げようと反逆(はんぎゃく)した理由は、神の真実を知っていたからでもありました。

神は罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めたニネベの人たちを赦(ゆる)されることをヨナは知っていたのです。

神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧(らん)になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

(ヨナ書3:10)

この世界を創られた唯一(ゆいいつ)の神は、すべての国の人を愛して救うことがおできになります。そして、ヨナは神の前に、自己中心の愛を悔(く)い改(あらた)めます。

ヨナは彼らに言った。「私を捕(と)らえて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激(はげ)しい暴風(ぼうふう)は、私のためにあなたがたを襲(おそ)ったのです。」

(ヨナ書1:12)

人々は自分の国の神を信じていました。しかし、ヨナの信じる聖書の神は、ヨナの罪(つみ)を明らかにして、ヨナに苦難(くなん)を与え、ヨナに悔(く)い改(あらた)めを導き、まことの救いを与えられます。

無神論者(むしんろんしゃ)は大きく二つに分かれます。ひとつは、天地を造られた神、唯一(ゆいいつ)の神を否定(ひてい)する無神論者(むしんろんしゃ)です。もうひとつは、否定(ひてい)する神を持たない無神論者(むしんろんしゃ)です。

創造(そうぞう)主(しゅ)であるただお一人の神を知っている無神論者(むしんろんしゃ)は、いつでも、まことの神に立ち返るべき神をもっています。

日本は特に、八百万(やおよろず)の神と言って、キツネや大木、石、お天道(てんとう)様(さま)など何でも神にします。神道(しんとう)、仏教(ぶっきょう)や檀家(だんか)制度(せいど)など独特の風土(ふうど)があり、まことの神を知らない人が大勢います。聖書の神こそが、まことの唯一(ゆいいつ)の神です。天地を造られ、今生きて働いて、すべての命を保(たも)っておられます。

父なる神は、そのひとり子のイエス・キリストを人間として、この地上に下し、十字架で人間の罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりとしてくださいました。

このキリストの十字架に対して、すべての人間はどう答えるかを神は問われています。

すべての人間は神の前に罪人(つみびと)です。しかし、キリストを信じて罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めるなら、神はあなたの罪(つみ)を赦(ゆる)して、神の子どもとしてくださいます。まことの神は、あなたの心からの祈りに必ず応(こた)えてくださいます。

空の空。すべては空。神なき人生の虚しさ

伝道者の書1章1-14節より

土山みことばキリスト教会

2023年9月24日

<聖書>

エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者(でんどうしゃ)のことば。
空(くう)の空(くう)。伝道者(でんどうしゃ)は言う。空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。
日の下で、どんなに労苦(ろうく)しても、それが人に何の益(えき)になろう。
一つの時代は去り、次の時代が来る。しかし地はいつまでも変わらない。
日は上り、日は沈(しず)み、またもとの上る所に帰って行く。
風は南に吹(ふ)き、巡(めぐ)って北に吹(ふ)く。巡(めぐ)り巡(めぐ)って風は吹(ふ)く。しかし、その巡(めぐ)る道に風は帰る。
川はみな海に流れ込むが、海は満(み)ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。
すべての事はものうい。人は語ることさえできない。目は見て飽(あ)きることもなく、耳は聞いて満(み)ち足りることもない。
昔(むかし)あったものは、これからもあり、昔(むかし)起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。
「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
先にあったことは記憶(きおく)に残(のこ)っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶(きおく)されないであろう。
伝道者(でんどうしゃ)である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。
私は、天の下で行われるいっさいの事について、知恵(ちえ)を用いて、一心(いっしん)に尋(たず)ね、探(さぐ)り出そうとした。これは、人の子らが労苦(ろうく)するようにと神が与(あた)えたつらい仕事だ。
私は、日の下で行われたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追(お)うようなものだ。

(伝道者(でんどうしゃ)の書1章1-14節)

<説教>

「空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。」(伝道者(でんどうしゃ)の書1:2)

これは、賢者(けんじゃ)ソロモンの言葉です。ソロモンはイスラエルの王様で、富(とみ)と知恵(ちえ)において地上のどの王よりもまさっていました。

神さまはソロモンに富(とみ)と誉(ほま)れ、知恵(ちえ)と英知(えいち)を与(あた)えられました。しかし、ソロモンは次第(しだい)に神さまから離(はな)れて、700人の妻と300人のそばめを持ち、快楽(かいらく)や事業(じぎょう)、世の宝を求めるようになりました。

しかし、どんなに栄華(えいが)を極(きわ)めてもソロモンの心は虚(むな)しかったのです。

人間とはいったい何でしょうか。この世が考える人間とは一般的(いっぱんてき)に次のように考えられています。

①社会のために働く。

(歯車(はぐるま)のような存在(そんざい))

②寝て食べて、子を産む。

(動物的な存在(そんざい))

③異性(いせい)との関わりを楽しむ。

(性的な存在(そんざい))

④お金や物質(ぶっしつ)があれば満足(まんぞく)する。

(経済的(けいざいてき)な存在(そんざい))

⑤世の中の力や運命(うんめい)に影響(えいきょう)される小さな存在(そんざい)。

(宇宙(うちゅう)の駒(こま))

⑥自由な意思(いし)、心がある。

(自由な存在(そんざい))

⑦社会の中で生きる。

(社会的な存在(そんざい))

しかし、これらが十分あっても人間は虚(むな)しさがあるのです。なぜなら、人間とは神さまに似(に)せて、神さまによって造(つく)られた存在(そんざい)だからです。

「神は人をご自身(じしん)のかたちとして創造(そうぞう)された。神のかたちとして彼を創造(そうぞう)し、男と女とに彼らを創造(そうぞう)された。」

      (創世記(そうせいき)1:27)

神さまの意志(いし)によって目的(もくてき)をもって、あなたはこの世に存在(そんざい)しているのです。何かの偶然(ぐうぜん)であなたが今、生きているのではないのです。

神さまに似(に)ているとはどういう意味(いみ)でしょうか。それは、神さまのことがわかり、心の中で神さまと語(かた)ったり、お祈(いの)りしたり、神さまの思いや願(ねが)いを知り、それに従(したが)うことができる存在(そんざい)なのです。神さまを愛して、礼拝(れいはい)するとき、人間は神さまの目的(もくてき)に生きる者として、本当の喜(よろこ)びと平安(へいあん)が与(あた)えられるのです。

たくさんの被造物(ひぞうぶつ)の中で人間だけが、活字(かつじ)を与(あた)えられ、聖書(せいしょ)を読み、神さまを信じることができるのです。

人間のすべての楽しみや喜(よろこ)びは神さまが与(あた)えてくれるものです。神さまから離(はな)れて、それらだけを求めても本当の喜(よろこ)びはありません。

「実に神はすべての人間に富(とみ)と財宝(ざいほう)を与(あた)え、これを楽しむことを許(ゆる)し、自分の受(う)ける分を受(う)け、自分の労苦(ろうく)を喜(よろこ)ぶようにされた。これこそが神の賜物(たまもの)である。こういう人は、自分の生涯(しょうがい)のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜(よろこ)びで満(み)たされるからだ。」  

(伝道者(でんどうしゃ)の書5:19-20)

また、神さまは永遠(えいえん)に存在(そんざい)されるお方で、人間を永遠(えいえん)の存在(そんざい)とされました。だから、この地上のすべての一時(いっとき)の楽しみだけでは、人間は決(けっ)して満(み)たされることはないのです。

「空(くう)の空(くう)。すべては空(くう)。」(伝道者(でんどうしゃ)の書1:2)

ソロモンの虚(むな)しさは神さまに従(したが)わず、神さまから離(はな)れたことが原因(げんいん)でした。

確(たし)かに人生には虚(むな)しさと悲(かな)しみがあります。しかし、それは人間的な視点(してん)に立った人生(じんせい)観(かん)です。イエス様の救(すく)いの約束(やくそく)(福音(ふくいん))を知らない人の人生の真理(しんり)です。神なき人生の虚(むな)しさです。罪深(つみぶか)い自分を知ったソロモンの結論(けつろん)がこれです。

「結局(けっきょく)のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐(おそ)れよ。神の命令(めいれい)を守(まも)れ。これが人間にとってすべてである。神は、善(ぜん)であれ悪(あく)であれ、すべての隠(かく)れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

(伝道者(でんどうしゃ)の書12:13-14)

罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めて、イエス様を信じる者は罪(つみ)赦(ゆる)されて、神さまと和解(わかい)して新しく生きることができます。そのとき人間は、初(はじ)めて虚(むな)しさから解放(かいほう)されます。

あなたは神さまの似(に)姿(すがた)に神さまによって創造(そうぞう)された高価(こうか)で尊(とうと)い存在(そんざい)です。

「わたしの目には、あなたは高価(こうか)で尊(たっと)い。わたしはあなたを愛している。」

(イザヤ書43:4)