信仰は宝

マタイの福音書8章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月15日

<聖書>

イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)がみもとに来て、懇願(こんがん)して、言った。「主よ。私のしもべが中風(ちゅうぶう)で、家に寝(ね)ていて、ひどく苦(くる)しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、直(なお)してあげよう。」しかし、百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は答(こた)えて言った。「主よ。あなたを私の屋根(やね)の下にお入れする資格(しかく)は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直(なお)ります。と申しますのは、私も権威(けんい)の下にある者ですが、私(わたし)自身(じしん)の下にも兵士(へいし)たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別(べつ)の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚(おどろ)かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告(つ)げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰(しんこう)を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国(みくに)で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓(しょくたく)に着きます。しかし、御国(みくに)の子らは外の暗(くら)やみに放り出され、そこで泣(な)いて歯(は)ぎしりするのです。」それから、イエスは百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信(しん)じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)8章5-13節)

<説教>

この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、次の2つのことでイエスを驚(おどろ)かせました。①愛(あい)の人であった。②信仰(しんこう)の人であった。

当時のユダヤ社会は人種(じんしゅ)、階級(かいきゅう)、性別(せいべつ)、教育(きょういく)、信仰(しんこう)などの違(ちが)いによるひどい差別(さべつ)がありました。奴隷(どれい)は人間として見なされず、使(つか)い捨(す)ての道具(どうぐ)と扱(あつか)われました。その命も主人(しゅじん)の自由にされていました。

そんな現実(げんじつ)の中にも関(かか)わらず、この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は病気(びょうき)で死にそうな奴隷(どれい)を助けるために行動しました。悪(あく)の罪深(つみぶか)い世の中で正しく生きるために、神(かみ)は人に信仰(しんこう)を与(あた)えられます。

しかし、汚(けが)れた罪人(つみびと)とみなされた異邦人(いほうじん)の百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、イエスに近づくことができませんでした。その壁(かべ)を打(う)ち破(やぶ)ったのは彼の信仰(しんこう)でした。百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)はイエスと会わなくても、イエスが彼の瀕死(ひんし)のしもべに触(ふ)れなくても、ただイエスのことばによって、しもべは癒(いや)されて生きると信(しん)じました。

信仰(しんこう)は、弱(よわ)い者を強(つよ)くし、現実(げんじつ)しか見えない者の目を開き、プライドを砕(くだ)き愛(あい)の人と変(か)え、罪(つみ)に汚(けが)れた者をゆるし、きよめます。十字架(じゅうじか)で死なれたイエスを目撃(もくげき)しなくても、信仰(しんこう)によって神(かみ)のみ言葉(ことば)を真実(しんじつ)と信(しん)じる者は救(すく)われます。

信仰(しんこう)はイエスによって与(あた)えられ、完成(かんせい)されました。イエスは十字架(じゅうじか)でよみがえられ、罪(つみ)と死に打(う)ち勝ち、よみがえられました。

信仰(しんこう)は知識(ちしき)ではありません。神(かみ)はありふれた人間関係の中に、神(かみ)の御心(みこころ)、目的(もくてき)、計画(けいかく)を教(おし)え、あなたがどう答(こた)えるかを待(ま)っておられます。神(かみ)を信頼(しんらい)して、神(かみ)を知り、体験(たいけん)して、無限(むげん)の信頼(しんらい)へ…信仰(しんこう)者は神の莫大(ばくだい)な宝(たから)と勝利(しょうり)が与(あたえ)られています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:6)

恵みは神から

ピリピ人への手紙3章3-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月8日

<聖書>

神(かみ)の御霊(みたま)によって礼拝(れいはい)をし、キリスト・イエスを誇(ほこ)り、人間的(にんげんてき)なものを頼(たの)みにしない私(わたし)たちのほうこそ、割礼(かつれい)の者(もの)なのです。ただし、私(わたし)は、人間的(にんげんてき)なものにおいても頼(たの)むところがあります。もし、ほかの人が人間的(にんげんてき)なものに頼(たの)むところがあると思(おも)うなら、私(わたし)は、それ以上(いじょう)です。私(わたし)は八日目(ようかめ)の割礼(かつれい)を受け、イスラエル民族(みんぞく)に属(ぞく)し、ベニヤミンの分(わ)かれの者(もの)です。きっすいのヘブル人で、律法(りっぽう)についてはパリサイ人、その熱心(ねっしん)は教会(きょうかい)を迫(はく)害(がい)したほどで、律法(りっぽう)による義(ぎ)についてならば非難(ひなん)されるところのない者(もの)です。しかし、私(わたし)にとって得(とく)であったこのようなものをみな、私(わたし)はキリストのゆえに、損(そん)と思(おも)うようになりました。それどころか、私(わたし)の主(しゅ)であるキリスト・イエスを知(し)っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損(そん)と思(おも)っています。私(わたし)はキリストのためにすべてのものを捨(す)てて、それらをちりあくたと思(おも)っています。それは、私(わたし)には、キリストを得(え)、また、キリストの中にある者(もの)と認(みと)められ、律法(りっぽう)による自分(じぶん)の義(ぎ)ではなくて、キリストを信(しん)じる信仰(しんこう)による義(ぎ)、すなわち、信仰(しんこう)に基(もと)づいて、神(かみ)から与(あた)えられる義(ぎ)を持つことができる、という望(のぞ)みがあるからです。

(ピリピ人への手紙(てがみ) 3章3-9節)

<説教>

お金、美貌(びぼう)、才能(さいのう)があっても、生きているのが虚(むな)しい人たちがいます。パウロは当時(とうじ)のユダヤ社会(しゃかい)では完璧(かんぺき)なエリートでした。完全(かんぜん)な人生(じんせい)を歩んでいました。

しかし、パウロはイエス・キリストを憎(にく)んでいました。彼の生きる目的(もくてき)はクリスチャンを殺害(さつがい)してこの世(よ)から消(け)し去(さ)ることでした。そんな生き方に平安(へいあん)も喜(よろこ)びもあるはずがありません。

パウロは神(かみ)の律法(りっぽう)(十戒(じっかい)に代表(だいひょう)される旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)の命令(めいれい))に厳格(げんかく)に仕(つか)えました。そういう意味(いみ)では、パウロは神(かみ)に正(ただ)しいと認(みと)められる、救(すく)いを受(う)けるに一番(いちばん)ふさわしい人物(じんぶつ)でした。

聖書(せいしょ)によると、すべての人は罪人(つみびと)です。それはキリストを愛(あい)さずに、いいえキリストに反抗(はんこう)していると言う意味(いみ)で罪人(つみびと)なのです(罪(つみ)とは神(かみ)に対する意識的(いしきてき)な反逆(はんぎゃく))。自分では、善人(ぜんにん)だと思っても、道徳的(どうとくてき)に正(ただ)しく生きても、この世(よ)では正(ただ)しくても神(かみ)の正(ただ)しさには至(いた)らないのです。

義(ぎ)(正(ただ)しい関係(かんけい))には①道徳的(どうとくてき)な義(ぎ)と②神(かみ)の義(ぎ)があります。道徳的(どうとくてき)な正(ただ)しさは素晴(すば)らしいことです。ぜひそのように生きるべきです。しかし神(かみ)の義(ぎ)をいただくには、キリストが十字架(じゅうじか)であなたの罪(つみ)のために死(し)なれたことを信(しん)じる以(い)外(がい)ありません。それだけが救(すく)われて神(かみ)と和解(わかい)して天(てん)の御国(みくに)に入る方法(ほうほう)です。

キリストを信(しん)じる救(すく)いは、死後(しご)の天国(てんごく)に行く時だけでなく、今の生き方すべてが喜(よろこ)びと平安(へいあん)と希望(きぼう)に変(か)えられます。

神(かみ)はあなたを造(つく)られた方です。神(かみ)はいつもあなたを覚(おぼ)えて共(とも)にいてくださいます。神(かみ)はあなたの問題(もんだい)に解決(かいけつ)を持(も)っておられます。神(かみ)はあなたの将来(しょうらい)の祝福(しゅくふく)を約束(やくそく)されています。

「罪(つみ)の赦(ゆる)し」とは薄(うす)っぺらい言葉ではありません。キリストの愛(あい)の交(まじ)わりによってあなたを内側(うちがわ)から愛(あい)と正(せい)義(ぎ)の人に変(か)える命(いのち)です。それは宗教(しゅうきょう)ではなく生き方です。神(かみ)がくださる望(のぞ)みです。望(のぞ)みは神(かみ)の備(そな)えたキリストの十字架(じゅうじか)にあります。

イエス・キリストは本当の救い主

ルカの福音書2章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月25日

<聖書>

そのころ、全世界(ぜんせかい)の住民(じゅうみん)登録(とうろく)をせよという勅令(ちょくれい)が、皇帝(こうてい)アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督(そうとく)であったときの最初(さいしょ)の住民(じゅうみん)登録(とうろく)であった。それで、人々はみな、登録(とうろく)のために、それぞれ自分(じぶん)の町に向(む)かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼(かれ)は、ダビデの家系(かけい)であり血筋(ちすじ)でもあったので、身重(みおも)になっているいいなずけの妻(つま)マリヤもいっしょに登録(とうろく)するためであった。ところが、彼(かれ)らがそこにいる間に、マリヤは月(つき)が満(み)ちて、男子(だんし)の初子(しょこ)を産(う)んだ。それで、布(ぬの)にくるんで、飼葉(かいば)おけに寝(ね)かせた。宿屋(やどや)には彼(かれ)らのいる場所(ばしょ)がなかったからである。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)2章1-7節)

<説教>

ユダヤ人、また異邦人(いほうじん)も旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)に預言(よげん)されたメシヤ救(すく)い主(ぬし)を長(なが)い間(あいだ)、待(ま)ち望(のぞ)んでいました。400年の神(かみ)のことばの沈黙(ちんもく)、そして、ユダヤはローマに支配(しはい)され、世界(せかい)共通(きょうつう)原語(げんご)のギリシャ語、整備(せいび)されたローマの道路(どうろ)、まさに救(すく)い主(ぬし)の到来(とうらい)のよき知らせのための環境(かんきょう)は整(ととの)ったのです。しかし、表面的(ひょうめんてき)には輝(かがや)かしいローマの内部(ないぶ)は、すでに死の一歩(いっぽ)手前(てまえ)でした。人々の魂(たましい)、霊的(れいてき)な飢(う)え渇(かわ)きは限界(げんかい)に達(たっ)していました。

そんなとき、約束(やくそく)のメシヤ・キリストは、この世界(せかい)、歴史(れきし)の中に人間(にんげん)の姿(すがた)をして来られたのです。誰(だれ)もが予想(よそう)もしなかった、飼葉(かいば)おけでお生まれになったのです。いったい誰(だれ)がそんなところに神(かみ)の子がいると信じられるでしょう。

世界(せかい)の覇者(はしゃ)、権力(けんりょく)の頂点(ちょうてん)のローマ皇帝(こうてい)カイザル・アウグスト。彼は自分を王、神(かみ)、救(すく)い主(ぬし)として人々をひざまずかせました。しかし、人の心まで支配(しはい)はできませんでした。そのカイザルに対して、まことの救(すく)い主(ぬし)は、もっともふさわしくない飼葉(かいば)おけで誕生されたのです。その知らせはカイザルではなく、野宿(のじゅく)で夜番(よばん)をする羊飼(ひつじか)いでした。神(かみ)は罪(つみ)で狂(くる)ったこの世界(せかい)の秩序(ちつじょ)、価値観(かちかん)をすべて正しくされます。

キリストと呼(よ)ばれる救(すく)い主(ぬし)は、この世界(せかい)では受(う)け入れられません。行くべき場所は十字架(じゅうじか)です。キリストが飼葉(かいば)おけで生まれたのは十字架(じゅうじか)で死ぬためでした。

多くの人は救(すく)い主(ぬし)を必要(ひつよう)と考えないでしょう。このお方(かた)を救(すく)い主(ぬし)としてお迎(むか)えする者とは、次のような失敗(しっぱい)をした人たちなのです。

それは、神(かみ)に会って、何事(なにごと)もうまくいると言えなくなった人です。それは、悪(あく)の力の前に、自分の善意(ぜんい)のもろさと無力(むりょく)さを知っている人です。それは、神(かみ)によって、悔(く)い改(あらた)め、悲(かな)しみの内に、自分の罪(つみ)を神(かみ)に告白(こくはく)する人です。

つまり、救(すく)い主(ぬし)キリストに飛(と)び込(こ)んで、失敗(しっぱい)を勝利(しょうり)に変(か)えていただこうとする人たちなのです。このお方(かた)によってしか、人は罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の死と、その罪責(ざいせき)から救(すく)われません。このクリスマスにあなたの救(すく)い主(ぬし)として、イエス様を信じませんか。それは飼葉(かいば)おけの赤ちゃんを、神(かみ)の子、救(すく)い主(ぬし)のしるしであると信じることです。

一生に一度のできごと

ルカの福音書1章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月18日

<聖書>

ユダヤの王(おう)ヘロデの時(とき)に、アビヤの組(くみ)の者(もの)でザカリヤという祭司(さいし)がいた。彼(かれ)の妻(つま)はアロンの子孫(しそん)で、名(な)をエリサベツといった。ふたりとも、神(かみ)の御前(みまえ)に正(ただ)しく、主(しゅ)のすべての戒(いまし)めと定(さだ)めを落度(おちど)なく踏(ぶ)み行(おこな)っていた。エリサベツは不妊(ふにん)の女(おんな)だったので、彼(かれ)らには子(c)がなく、ふたりとももう年(とし)をとっていた。さて、ザカリヤは、自分(じぶん)の組(くみ)が当番(とうばん)で、神(かみ)の御前(みまえ)に祭司(さいし)の務(つと)めをしていたが、祭司(さいし)職(しょく)の習慣(しゅうかん)によって、くじを引(ひ)いたところ、主(しゅ)の神殿(しんでん)に入って香(こう)をたくことになった。彼(かれ)が香(こう)をたく間(あいだ)、大(おお)ぜいの民(たみ)はみな、外(そと)で祈(いの)っていた。ところが、主(しゅ)の使(つか)いが彼(かれ)に現(あらわ)れて、香壇(かおりだん)の右(みぎ)に立った。これを見たザカリヤは不安(ふあん)を覚(おぼ)え、恐怖(きょうふ)に襲(おそ)われたが、御使(みつか)いは彼(かれ)に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願(ねが)いが聞(き)かれたのです。あなたの妻(つま)エリサベツは男(おとこ)の子(こ)を産(う)みます。名(な)をヨハネとつけなさい。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)1章5-13節)

<説教>

祭司(さいし)ザカリヤと妻(つま)エリサベツは、モーセの兄(あに)祭司(さいし)アロンの血筋(ちすじ)でした。彼らは神(かみ)の宮(みや)の仕事(しごと)に忠実(ちゅうじつ)に仕(つか)えました。しかいザカリヤには長年(ながねん)の願(ねが)いがありました。それは、夫婦(ふうふ)の間に子どもが与(あた)えられることでした。

その願(ねが)いが少しずつあきらめに変(か)わりそうなときに、ザカリヤに大きな仕事(しごと)が与(あた)えられました。それは祭司(さいし)の中でも、一生(いっしょう)に一度(いちど)あるかないかという仕事(しごと)でした。神(かみ)の宮(みや)で朝晩(あさばん)の捧(ささ)げものの前に香(こう)をたくこと大切(たいせつ)な仕事(しごと)です。

そのことを通(とお)して、神(かみ)さまは長年(ながねん)のザカリヤの祈(いの)りに答(こた)えられたのです。

【一生(いっしょう)で一番(いちばん)の出来事(できごと)とは】

あなたにも人生(じんせい)でいろいろな大きな出来事(できごと)があったことでしょう。また、これからもあるかも知れません。しかしイエス様を信(しん)じるよりも大きな出来事(できごと)はありません。そのことにより、あなたはまったく新(あたら)しく生(う)まれ変(か)わり、どんなときもイエス様の愛(あい)と命(いのち)によって共(とも)に約束(やくそく)の希望により生きることができるのです。それは神(かみ)さまが与(あた)えてくださった最高(さいこう)のプレゼントです。

【聖書(せいしょ)はあなたへの約束(やくそく)】

「主(しゅ)によって語(かた)られたことは必(かなら)ず実現(じつげん)すると信(しん)じきった人は、何(なん)と幸(さいわ)いなことでしょう。」

 (ルカの福音書1:45)

ザカリヤは最初(さいしょ)は、自分たちに子供(こども)が与(あた)えられるという神(かみ)さまの言葉(ことば)を信(しん)じられませんでした。しかし、妻(つま)エリサベツがみごもったことにより、不信仰(ふしんこう)な自分(じぶん)を悔(く)い改(あらた)めました。そして、イエス様の救(すく)いを受(う)けることができました。

聖書(せいしょ)の言葉(ことば)は、他(ほか)でもないあなたへの約束(やくそく)なのです。信(しん)じられない状況(じょうきょう)や、自分(じぶん)の罪深(つみぶか)さや弱(よわ)さに負(ま)けそうでも、悔(く)い改(あらた)めて、神(かみ)さまの言葉(ことば)を告白(こくはく)して約束(やくそく)を受(う)け取(と)りましょう。あなたの人生(じんせい)を通(とお)して神(かみ)さまの御業(みわざ)が現(あらわ)されていきます。

神(かみ)には約束(やくそく)されたことを成就(じょうじゅ)する力(ちから)があることを堅(かた)く信(しん)じました。だからこそ、それが彼(かれ)の義(ぎ)とみなされたのです。しかし、「彼(かれ)の義(ぎ)とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼(かれ)のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中からよみがえらせた方を信(しん)じる私たちも、その信仰(しんこう)を義(ぎ)とみなされるのです。

(ローマ人への手紙4:21-24)

あなたを証明するもの

コリント人への手紙第一3章18-23節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月11日

<聖書>

だれも自分(じぶん)を欺(あざむ)いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分(じぶん)は今(いま)の世(よ)の知者(ちしゃ)だと思(おも)う者(しゃ)がいたら、知者(ちしゃ)になるためには愚(おろ)かになりなさい。なぜなら、この世(よ)の知恵(ちえ)は、神(かみ)の御前(みまえ)では愚(おろ)かだからです。こう書いてあります。「神(かみ)は、知者(ちしゃ)どもを彼(かれ)らの悪賢(わるがしこ)さの中で捕(と)らえる。」また、次(つぎ)のようにも書いてあります。「主(しゅ)は、知者(ちしゃ)の論議(ろんぎ)を無益(むえき)だと知(し)っておられる。」ですから、だれも人間(にんげん)を誇(ほこ)ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界(せかい)であれ、いのちであれ、死(し)であれ、また現在(げんざい)のものであれ、未来(みらい)のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神(かみ)のものです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章18-23節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ(救(すく)い主(ぬし))は表(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「生(い)ける石(いし)」として今も生(い)きて働(はたら)かれてるのです。

家(いえ)を建(た)てる者(もの)たちの捨(す)てた石(いし)。それが礎(いしずえ)の石(いし)になった。(詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)・使徒(しと)たち(キリストのからだ)を通(とお)して働(はたら)く神(かみ)の言葉(ことば)、生(い)きるキリスト信仰(しんこう)を土台(どだい)として建(た)て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)の信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)を建(た)て上げ、また教会(きょうかい)を建(た)て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)は生(い)きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは神(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)(土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)の基礎(きそ)(何を信(しん)じるか)も大切(たいせつ)な問題(もんだい)です。神(かみ)なき生(い)き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)と敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を受(う)け入れる者(もの)は神(かみ)の愛(あい)を知(し)り安心(あんしん)して、神(かみ)から人生(じんせい)の目的(もくてき)を与(あた)えられます。内(うち)なる人である霊(れい)の基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住(す)まれる、神(かみ)から受(う)けた聖霊(せいれい)の宮(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、知(し)らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って買(か)い取(と)られたのです。ですから自分のからだをもって、神(かみ)の栄光(えいこう)を現(あらわ)しなさい。(Ⅰコリント6:19-20)

信仰(しんこう)による歩(あゆ)みには、働(はたら)きや功績(こうせき)や結果(けっか)の大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな働(はたら)きはできなくても、救(すく)いは完全(かんぜん)であり、決(けっ)して変(か)わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)に評(ひょう)価(か)してくださる方は神(かみ)さまです。

しかし、愛(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の持(も)っている最(もっと)も聖(きよ)い信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)を築(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって祈(いの)り、神(かみ)の愛(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)を保(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに至(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待(ま)ち望(のぞ)みなさい。(ユダの手紙20-21)

キリスト信仰という土台

コリント人への手紙第一3章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月4日

<聖書>

与(あた)えられた神(かみ)の恵(めぐ)みによって、私は賢(かしこ)い建築家(けんちくか)のように、土台(どだい)を据(す)えました。そして、ほかの人がその上に家(いえ)を建(た)てています。しかし、どのように建(た)てるかについてはそれぞれが注意(ちゅうい)しなければなりません。というのは、だれも、すでに据(す)えられている土台(どだい)のほかに、ほかの物(もの)を据(す)えることはできないからです。その土台(どだい)とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台(どだい)の上に、金(きん)、銀(ぎん)、宝石(ほうせき)、木(もく)、草(くさ)、わらなどで建(た)てるなら、各人(かくじん)の働(はたら)きは明瞭(めいりょう)になります。その日がそれを明(あき)らかにするのです。というのは、その日は火(ひ)とともに現(あらわ)れ、この火(ひ)がその力(ちから)で各人(かくじん)の働(はたら)きの真価(しんか)をためすからです。もしだれかの建(た)てた建物(たてもの)が残(のこ)れば、その人は報(むく)いを受(う)けます。もしだれかの建(た)てた建物(たてもの)が焼(や)ければ、その人は損害(そんがい)を受(う)けますが、自分(じぶん)自身(じしん)は、火(ひ)の中をくぐるようにして助(たす)かります。あなたがたは神(かみ)の神殿(しんでん)であり、神(かみ)の御霊(みたま)があなたがたに宿(やど)っておられることを知(し)らないのですか。もし、だれかが神(かみ)の神殿(しんでん)をこわすなら、神(かみ)がその人を滅(ほろ)ぼされます。神(かみ)の神殿(しんでん)は聖(せい)なるものだからです。あなたがたがその神殿(しんでん)です。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章10-17節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ(救(すく)い主(ぬし))は表(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「生(い)ける石(いし)」として今も生(い)きて働(はたら)かれてるのです。

家(いえ)を建(た)てる者(もの)たちの捨(す)てた石(いし)。それが礎(いしずえ)の石(いし)になった。

(詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)・使徒(しと)たち(キリストのからだ)を通(とお)して働(はたら)く神(かみ)の言葉(ことば)、生(い)きるキリスト信仰(しんこう)を土台(どだい)として建(た)て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)の信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)を建(た)て上げ、また教会(きょうかい)を建(た)て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)は生(い)きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは神(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)(土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)の基礎(きそ)(何を信(しん)じるか)も大切(たいせつ)な問題(もんだい)です。神(かみ)なき生(い)き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)と敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を受(う)け入れる者(もの)は神(かみ)の愛(あい)を知(し)り安心(あんしん)して、神(かみ)から人生(じんせい)の目的(もくてき)を与(あた)えられます。内(うち)なる人である霊(れい)の基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住(す)まれる、神(かみ)から受(う)けた聖霊(せいれい)の宮(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、知(し)らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って買(か)い取(と)られたのです。ですから自分のからだをもって、神(かみ)の栄光(えいこう)を現(あらわ)しなさい。

(Ⅰコリント6:19-20)

キリストがあなたの罪(つみ)や汚(よご)れのために、十字架(じゅうじか)で死(し)なれ復活(ふっかつ)されたことを信(しん)じる者(もの)は、その信仰(しんこう)によって人生(じんせい)のすべてで神(かみ)さまが働(はたら)かれ、あなたはキリスト(教会(きょうかい))をあらわす存在(そんざい)とされるのです。

あなたの生(い)きる姿(すがた)でキリストはこの世に生(い)きて働(はたら)かれることが明(あき)らかにされます。

信仰(しんこう)による歩(あゆ)みには、働(はたら)きや功績(こうせき)や結果(けっか)の大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな働(はたら)きはできなくても、救(すく)いは完全(かんぜん)であり、決(けっ)して変(か)わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)に評(ひょう)価(か)してくださる方は神(かみ)さまです。

しかし、愛(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の持(も)っている最(もっと)も聖(きよ)い信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)を築(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって祈(いの)り、神(かみ)の愛(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)を保(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに至(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待(ま)ち望(のぞ)みなさい。

(ユダの手紙20-21)

キリストの十字架の奥義

コリント人への手紙第一2章6-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月13日

<聖書>

しかし私たちは、成人(せいじん)の間(あいだ)で、知恵(ちえ)を語ります。この知恵(ちえ)は、この世(よ)の知恵(ちえ)でもなく、この世(よ)の過(す)ぎ去(さ)って行く支配者(しはいしゃ)たちの知恵(ちえ)でもありません。私たちの語(かた)るのは、隠(かく)された奥義(おくぎ)としての神(かみ)の知恵(ちえ)であって、それは、神(かみ)が、私たちの栄光(えいこう)のために、世界(せかい)の始(はじ)まる前から、あらかじめ定(さだ)められたものです。この知恵(ちえ)を、この世(よ)の支配者(しはいしゃ)たちは、だれひとりとして悟(さと)りませんでした。もし悟(さと)っていたら、栄光(えいこう)の主(しゅ)を十字架(じゅうじか)につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書(せいしょ)に書いてあるとおりです。「目(め)が見(み)たことのないもの、耳(みみ)が聞(き)いたことのないもの、そして、人の心(こころ)に思(おも)い浮(う)かんだことのないもの。神(かみ)を愛(あい)する者(もの)のために、神(かみ)の備(そな)えてくださったものは、みなそうである。」神(かみ)はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示(けいじ)されたのです。御霊(みたま)はすべてのことを探り、神(かみ)の深(ふか)みにまで及(およ)ばれるからです。いったい、人の心(こころ)のことは、その人のうちにある霊(れい)のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神(かみ)のみこころのことは、神(かみ)の御霊(みたま)のほかにはだれも知りません。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章6-11節)

<説教>

神(かみ)のみ言葉(ことば)、神(かみ)のご計画(けいかく)、神(かみ)の御心(みこころ)は、生まれたままの人間にはわかりません。

キリストの福音(ふくいん)(あなたの罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死(し)なれたキリストを信(しん)じるなら救(すく)われる)は隠(かく)された奥義(おくぎ)なのです。

イザヤ書の40-66章は聖書中(せいしょちゅう)、最(もっと)も卓越(たくえつ)したメッセージであると言えます。罪(つみ)からの解放(かいほう)と新天(しんてん)新地(しんち)の永遠(えいえん)の希望(きぼう)が語(かた)られています。その中の重要(じゅうよう)な箇所(かしょ)が、「第4のしもべの歌」と言われるイザヤ書52章13節から53章12節です(ちなみに第1のしもべの歌はイザヤ42:1-9、第2のしもべの歌はイザヤ49:1-6、第3のしもべの歌はイザヤ50:4-9です)。

ここには、新約(しんやく)聖書(せいしょ)の福音書(ふくいんしょ)以上(いじょう)に、苦難(くなん)のしもべのキリストの十字架(じゅうじか)の受難(じゅなん)が記(しる)されています。そして、またキリストの十字架(じゅうじか)の意味(いみ)は誰もわからないと書かれています。

「私たちの聞(き)いたことを、だれが信(しん)じたか。

【主(しゅ)】の御腕(みうで)は、だれに現(あらわ)れたのか。」  (イザヤ書53:1)

【主(しゅ)】の御腕(みうで)とは、神(かみ)の力を表(あら)わしています。この神(かみ)の力によって、人は神(かみ)の言葉(ことば)を信(しん)じることができるのです。神(かみ)の啓示(けいじ)(神(かみ)がご自身(じしん)を明(あき)らかされる)によってのみ、人は回心(かいしん)して、罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めて、救(すく)われるのです。

聖書(せいしょ)によると人間の本質(ほんしつ)(あなたがあなたであること)は霊(れい)にあります。霊(れい)は魂(たましい)をもち、体(からだ)に住(す)んでいるのです。

体(からだ)(感覚(かんかく))や魂(たましい)(感情(かんじょう))でなく、霊(れい)で神(かみ)を知(し)るのです。霊(れい)によって神(かみ)との交(まじ)わりを持つのです。体(からだ)はこの地上(ちじょう)の一時的(いちじてき)なものであり、やがて朽(く)ちていきます。霊(れい)こそが癒(いや)され、養(やしな)われることを覚(おぼ)えなければならないのです。

「肉(にく)によって生(う)まれた者は肉(にく)です。御霊(みたま)によって生(う)まれた者(もの)は霊(れい)です。」

(ヨハネ3:6)

キリストを信(しん)じるなら、霊的(れいてき)に新(あたら)しく生(う)まれ変(か)わることができます(体(からだ)の生(う)まれ変(か)わりではありません)。外から見ただけでは、その人の内側(うちがわ)で何(なに)が起(お)こったかわかりません。しかし、時(とき)が経(た)つとはっきり現(あらわ)れてくるのです。

神(かみ)を信(しん)じるとは神(かみ)の言葉(ことば)を信(しん)じることです。神(かみ)の言葉(ことば)を通(とお)して、内(うち)なる霊(れい)の人は罪(つみ)からきよめられ、癒(いや)され、愛(あい)に生きる者へと変(か)えられ続(つづ)けます。イエス様を信(しん)じるなら、いつしか心(こころ)が変(か)えられていることに気付(きづ)くでしょう。また言葉(ことば)も優(やさ)しく変(か)えられるでしょう。きっと、表情(ひょうじょう)や笑顔(えがお)も。そして、自分のことを愛(あい)することができ、どんな小さなことも大切(たいせつ)に愛(いと)おしく思え、人生(じんせい)はかけがえのない宝物(たからもの)とされます。イエス様はどんな時もあなたを愛(あい)されています。

あなたもイエス様を迎(むか)えいれて、この素晴(すば)らしい祝福(しゅくふく)を受(う)け取(と)ってください。

「神(かみ)は、実(じつ)に、そのひとり子(ご)をお与(あた)えになったほどに、世(よ)を愛(あい)された。それは御子(みこ)を信(しん)じる者(しゃ)が、ひとりとして滅(ほろ)びることなく、永遠(えいえん)のいのちを持(も)つためである。」

(ヨハネ3:16)

くりかえせない人生(じんせい)だから
輝(かがや)く瞬間(とき)を逃(のが)さないで
かけがえのないものを見つけ
できれば愛(あい)と呼(よ)べる家(いえ)に住み
微笑(ほほえ)みながら
自由(じゆう)という町(まち)を歩(ある)き
痛(いた)みと言う歩道(ほどう)に座(すわ)り
優(やさ)しさが弱(よわ)さではなくて
仕(つか)えることに道(みち)を探(さが)し
むやみに言葉(ことば)を並(なら)べず
愛(あい)することを学(まな)びながら
ゆるせる心(こころ)育(そだ)てながら
言葉(ことば)遊(あそ)びにならぬように
真実(しんじつ)と呼(よ)ばれる小径(こみち)をずっと
歩(ある)いて行(ゆ)きたい
それが願(ねが)い
(「願(ねが)い」岩渕(いわぶち)まこと)

信仰により神と共に生きる

コリント人への手紙第一2章1-5節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月6日

<聖書>

さて兄弟(きょうだい)たち。私(わたし)があなたがたのところへ行(い)ったとき、私(わたし)は、すぐれたことば、すぐれた知恵(ちえ)を用(もち)いて、神(かみ)のあかしを宣(の)べ伝(つた)えることはしませんでした。なぜなら私(わたし)は、あなたがたの間(あいだ)で、イエス・キリスト、すなわち十字架(じゅうじか)につけられた方(かた)のほかは、何(なに)も知(し)らないことに決心(けっしん)したからです。あなたがたといっしょにいたときの私(わたし)は、弱(よわ)く、恐(おそ)れおののいていました。そして、私(わたし)のことばと私(わたし)の宣教(せんきょう)とは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)のことばによって行(おこな)われたものではなく、御霊(みたま)と御力(みちから)の現(あらわ)れでした。それは、あなたがたの持(も)つ信仰(しんこう)が、人間(にんげん)の知恵(ちえ)にささえられず、神(かみ)の力(ちから)にささえられるためでした。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章1-5節)

<説教>

パウロはコリントへ来る前にアテネで宣教(せんきょう)しましたが、そこでは、ギリシャ哲学(てつがく)に対して、哲学(てつがく)的(てき)にイエスの救(すく)いを伝(つた)えようとしました。その結果(けっか)、失敗(しっぱい)し、弱(よわ)さと恐(おそ)れを覚(おぼ)えていました。パウロは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)や知識(ちしき)によらず、まっすぐに十字架(じゅうじか)につけられたキリストを宣(の)べ伝(つた)えることに立ち返ったのです。

神(かみ)さまが用意(ようい)された福音(ふくいん)(イエスの十字架(じゅうじか)を信じるなら救(すく)われる)が語られる時、聞く者に神(かみ)さまが働(はたら)かれて、人は救(すく)われます。

救(すく)われた者は、神(かみ)に与えられた信仰(しんこう)によって生きていきます。信仰(しんこう)とはイエス・キリストを信じることだけでなく、積極的(せっきょくてき)に自分を神(かみ)さまにお任(まか)せしていくことが必要(ひつよう)です。自分の信念(しんねん)だけでは足(た)りないのです。

聖書(せいしょ)が言う罪(つみ)とは、悪(わる)い行いや、邪悪(じゃあく)な考えだけではありません。むしろ、それらにつながる人間の本質(ほんしつ)が罪(つみ)深(ぶか)く汚(けが)れている状態(じょうたい)を言います。また、この世(よ)は人を罪(つみ)に誘惑(ゆうわく)する罪(つみ)の力が働(はたら)いています。

この罪(つみ)の治療(ちりょう)方法(ほうほう)には人間の本質(ほんしつ)を造(つく)り変(か)える力が必要(ひつよう)です。その力は人間の内側(うちがわ)にはなく、神(かみ)の力によるのです。誘惑(ゆうわく)の力に立(た)ち向(む)かう神(かみ)の助(だす)けが必要(ひつよう)です。クリスチャンとして生きるということは、自分の努力や頑張りだけでなく、この神(かみ)の力と助(だす)けが必要(ひつよう)です。

バルーン(熱気球(ねつききゅう))は空高く、遠(とお)くまで人を運(はこ)ぶことができます。しかし、あなたがこのバルーンから垂(た)れ下(さ)がったロープにつかまるとしたら、どうでしょうか。バルーンが地上(ちじょう)から徐々(じょじょ)に浮(う)き上がっていきます。50cm、1m、2m…、次第(しだい)に高く地上(ちじょう)から5m、10mと上昇(じょうしょう)したら、もうあなたは怖(こわ)くて、もう地上(ちじょう)に戻(もど)ってくれ!と叫(さけ)ぶことでしょう。しかし、バルーンからぶら下(さ)がった安全(あんぜん)なカゴに乗(の)るとしたら、高く舞(ま)い上がっても恐怖(きょうふ)はないでしょう。あなたは人間の力では不可能(ふかのう)な高さから地上(ちじょう)の景色(けしき)を楽しむことでしょう。

信仰(しんこう)もそのようなものと言えます。自分の力ではなく、神(かみ)の力を受(う)けて、自分の力では到達(とうたつ)できない人生を生きることができます。自我(じが)や自己(じこ)中心(ちゅうしん)、罪深(つみぶか)い欲望(よくぼう)が、キリストの十字架(じゅうじか)の愛(あい)と赦(ゆる)しの中できよめられて、あなたはまったく新しい者に変(か)えられて生きるのです。永遠(えいえん)に残(のこ)る価値(かち)ある悔(く)いなき人生です。

「私は福音(ふくいん)を恥(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信(しん)じるすべての人にとって、救(すく)いを得(え)させる神(かみ)の力です。なぜなら、福音(ふくいん)のうちには神(かみ)の義(ぎ)が啓(けい)示(じ)されていて、その義(ぎ)は、信仰(しんこう)に始(はじ)まり信仰(しんこう)に進(すす)ませるからです。『義人(ぎじん)は信仰(しんこう)によって生(い)きる』と書(か)いてあるとおりです。」

(ローマ人への手紙1章16-17節)

最も小さき者が、偉大な存在につながるなら

コリント人への手紙第一1章26-31節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月23日

<聖書>

兄弟(きょうだい)たち、あなたがたの召(め)しのことを考えてごらんなさい。この世(よ)の知者(ちしゃ)は多くはなく、権力者(けんりょくしゃ)も多くはなく、身分(みぶん)の高い者も多くはありません。しかし神(かみ)は、知恵(ちえ)ある者をはずかしめるために、この世(よ)の愚(おろ)かな者を選(えら)び、強(つよ)い者をはずかしめるために、この世(よ)の弱(よわ)い者を選(えら)ばれたのです。また、この世(よ)の取(と)るに足(た)りない者や見下(みくだ)されている者を、神(かみ)は選(えら)ばれました。すなわち、有(あ)るものをない者のようにするため、無(む)に等(ひと)しいものを選(えら)ばれたのです。これは、神(かみ)の御前(みまえ)でだれをも誇(ほこ)らせないためです。しかしあなたがたは、神(かみ)によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神(かみ)の知恵(ちえ)となり、また、義(ぎ)と聖(きよ)めと、贖(あがな)いとになられました。まさしく、「誇(ほこ)る者は主(しゅ)を誇(ほこ)れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)1章26-31節)

<説教>

神(かみ)はこの世(よ)では価値(かち)のないような者を選(えら)んで、信仰(しんこう)を与(あた)えられます。イエスを信(しん)じた者は取(しゅ)税人(ぜいにん)や遊女(ゆうじょ)のような罪人(つみびと)でした。天国で一番偉(えら)い者とは、幼(おさな)い子どもだとイエスは言われました。

この世(よ)と天国では価値観(かちかん)はまったく違(ちが)うのです。自分が無力(むりょく)で価値(かち)のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を低(ひく)くして、弱(よわ)い者を受(う)け入れるへりくだった者です。

神(かみ)は自分の価値(かち)を世(よ)の中にアピールする者ではなく、小さな弱(よわ)き者を用いて、神(かみ)の存在(そんざい)を現(あらわ)されるのです。

人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙(うちゅう)の広(ひろ)さと比(くら)べるときでしょうか。愛(あい)する人を守(まも)れないときかも知れません。しかし人は罪深(つみぶか)い自分の姿(すがた)を見たとき、自分の小ささを知ります。無(む)に等(ひと)しいような自分に絶望(ぜつぼう)します。罪(つみ)とは神(かみ)から離(はな)れて自分を損(そこ)ない失(うしな)っている状態(じょうたい)のことです。神(かみ)の前にすべての人は罪人(つみびと)です。神(かみ)の前に自分の小ささを知(し)る者は幸(さいわ)いです。

神(かみ)に造(つく)られた人間は有限(ゆうげん)である被造物(ひぞうぶつ)です。有限(ゆうげん)ですから、不完全(ふかんぜん)で誤(あやま)りがあり、誘惑(ゆうわく)に弱(よわ)く、失敗(しっぱい)もします。しかし聖書(せいしょ)は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと教(おし)えてくれます。それを隠(かく)したり、諦(あきら)めたり、無理(むり)に大きく見せようとしないでいいのです。

自分の罪深(つみぶか)さ、汚(けが)れ、弱(よわ)さを認(みと)めていいのです。自分には何の価値(かち)もなくていいのです。人間はそれを認(みと)められず、また恐(おそ)ろしくもありましょう。それは決(けっ)して人生(じんせい)の敗北(はいぼく)ではないのです。かえって勝利(しょうり)の人生(じんせい)のスタートです。

誰(だれ)よりも、自分を小さく、貧(まず)しく、むなしくしてくださった方がおられます。神(かみ)のイエス・キリストです。

最(もっと)も偉大(いだい)な存在(そんざい)である神(かみ)はすべての所有者(しょゆうしゃ)で、宇宙(うちゅう)と世界(せかい)と歴史(れきし)と命(いのち)を支配(しはい)しておられます。そのすべてに豊(ゆた)かな神(かみ)が、もっとも小さい者の姿(すがた)になられたのです。神(かみ)であるキリストが人間の罪(つみ)のために人となって十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。あなたの罪(つみ)の身代(みが)わりの犠牲(ぎせい)となられました。あなたに愛(あい)を示(しめ)してくださいました。

キリストは神(かみ)の御姿(みすがた)である方(かた)なのに、神(かみ)のあり方(かた)を捨(す)てられないとは考(かんが)えず、ご自分(じぶん)を無(む)にして、仕(つか)える者(しゃ)の姿(すがた)をとり、人間と同(おな)じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって現(あらわ)れ、自分(じぶん)を卑(いや)しくし、死(し)にまで従(したが)い、実(じつ)に十字架(じゅうじか)の死(し)にまでも従(したが)われました。          (ピリ2:6-8)

あなたは、取(と)るに足(た)りないさき者です。しかし大切(たいせつ)なことは最(もっと)も偉大(いだい)な神(かみ)につながることが出来(でき)るということです。自分の罪(つみ)を神(かみ)の前に正直(しょうじき)に言(い)い表(あらわ)すならすべての罪(つみ)は赦(ゆる)されます。このとき、小さい人間が偉大(いだい)な神(かみ)とひとつとされる人の理解(りかい)を超(こ)える奇跡(きせき)が起(お)こります。そのとき無(む)に等(ひと)しい者が、永遠(えいえん)に価値(かち)ある者に変(か)えられます。

これからは罪(つみ)に背(せ)を向(む)け、神(かみ)に向(む)いて生きるのです。イエス・キリストを通して、神(かみ)さまの大きな愛(あい)と恵(めぐ)みを受(う)けて、いつもあなたは、しっかりと存在(そんざい)して、自分の価値(かち)を喜(よろこ)んで生きるのです。

あなたの指(ゆび)のわざである天(てん)を見(み)、あなたが整(ととの)えられた月(つき)や星(ほし)を見(み)ますのに、人とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを心(こころ)に留(と)められるとは。人(ひと)の子(こ)とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを顧(かえり)みられるとは。あなたは、人(ひと)を、神(かみ)よりいくらか劣(おと)るものとし、これに栄光(えいこう)と誉(ほま)れの冠(かんむり)をかぶらせました。

(詩篇(しへん)8:3-5)

かつて、天(てん)の無数(むすう)の星(ほし)を見上(みあ)げては
私(わたし)は誰(だれ)にも知(し)られることのない
いてもいなくてもよい小(ちい)さい存在(そんざい)だと
言(い)い聞(き)かせていた。
しかし今(いま)は、小(ちい)さい無(む)のような私(わたし)を
完全(かんぜん)に知(し)ってくださる方(かた)がいることを信(しん)じている。
私(わたし)の存在(そんざい)を覚(おぼ)えて、愛(あい)して下(くだ)さるお方(かた)を。
それは星(ほし)を造(つく)られ、私を造(つく)られたお方(かた)。
十字架(じゅうじか)で私(わたし)のために死(し)なれたキリスト。
(作者不詳)

十字架は神の愛と命のメッセージ

コリント人への手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月16日

<聖書>

十字架(じゅうじか)のことばは、滅(ほろ)びに至(いた)る人々には愚(おろ)かであっても、救(すく)いを受(う)ける私たちには、神(かみ)の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵(ちえ)ある者の知恵(ちえ)を滅(ほろ)ぼし、賢(かしこ)い者の賢(かしこ)さをむなしくする。」知者(ちしゃ)はどこにいるのですか。学者(がくしゃ)はどこにいるのですか。この世(よ)の議論家(ぎろんいえ)はどこにいるのですか。神(かみ)は、この世(よ)の知恵(ちえ)を愚(おろ)かなものにされたではありませんか。事実、この世(よ)が自分の知恵(ちえ)によって神(かみ)を知ることがないのは、神(かみ)の知恵(ちえ)によるのです。それゆえ、神(かみ)はみこころによって、宣教(せんきょう)のことばの愚(おろ)かさを通(とお)して、信(しん)じる者を救(すく)おうと定(さだ)められたのです。ユダヤ人はしるしを要求(ようきゅう)し、ギリシヤ人は知恵(ちえ)を追求(ついきゅう)します。しかし、私たちは十字架(じゅうじか)につけられたキリストを宣(の)べ伝(つた)えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人(いほうじん)にとっては愚(おろ)かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召(め)された者にとっては、キリストは神(かみ)の力、神(かみ)の知恵(ちえ)なのです。なぜなら、神(かみ)の愚(おろ)かさは人よりも賢(かしこ)く、神(かみ)の弱(よわ)さは人よりも強(つよ)いからです。

(コリント人への手紙第一1章18-25節)

<説教>

十字架(じゅうじか)刑(けい)とは、裸(はだか)で手首(てくび)と足首(あしくび)を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛(げきつう)と出血(しゅっけつ)多量(たりょう)と呼吸(こきゅう)困難(こんなん)の末(すえ)に心臓(しんぞう)破裂(はれつ)で死(し)に至(いた)ります。その期間(きかん)は数日(すうじつ)から一週間(いっしゅうかん)以上(いじょう)と言われます。人々の前で辱(はずかし)められ、人間の尊厳(そんげん)を奪(うば)われる残酷(ざんこく)な死刑(しけい)の方法(ほうほう)です。

イエスは神(かみ)を名のった刑罰(けいばつ)で、むち打たれ、十字架(じゅうじか)刑(けい)により処刑(しょけい)されました。救(すく)い主(ぬし)キリストを待(ま)ち望(のぞ)んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨(ひさん)で弱々(よわよわ)しい死(し)に方をしたイエスが神(かみ)の救(すく)い主(ぬし)キリストであるとは絶対(ぜったい)に信(しん)じられませんでした。

ギリシャ人にとっても神(かみ)とは人間とはかけ離(はな)れた崇高(すうこう)な存在(そんざい)でした。人間としてこの世(よ)に来られ、よりによって汚(けが)らわしい十字架(じゅうじか)と関(かか)わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生(たんじょう)したことも死(し)んで三日後の復活(ふっかつ)も愚(おろ)かな話でした。

今もキリストの十字架(じゅうじか)の話を聞くと、いやな思いを持(も)つ人がいます。暗(くら)い不吉(ふきつ)な話に思うかも知(し)れません。あなたの罪(つみ)やけがれの身代(みが)わりにキリストは十字架(じゅうじか)で死(し)なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。

人間の罪(つみ)とはとんでもなく邪悪(じゃあく)な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では決(けっ)して罪(つみ)の現実(げんじつ)から救(すく)い出されない姿(すがた)を言っているのです。

人は自分の知恵(ちえ)によって神(かみ)のことはわかりません。それが神(かみ)の知恵(ちえ)だと聖書(せいしょ)は言います。そうです。キリストの十字架(じゅうじか)を信(しん)じるなら罪(つみ)深(ぶか)い生き方から救(すく)われるということは人間の努力(どりょく)では決(けっ)してわからないのです。

十字架(じゅうじか)は人間の罪(つみ)の赦(ゆる)しをあらわすにふさわしいシンボルです。

十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)を表(あら)わしています。同時(どうじ)に十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)の赦(ゆる)しをあらわしています。

また十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)をあらわしており、同時(どうじ)にその刑罰(けいばつ)を身代(みが)わりに受(う)けてくださる神(かみ)の愛(あい)をあらわすのです。

キリストの十字架(じゅうじか)によってしかあなたの罪(つみ)は赦(ゆる)されません。神(かみ)に対して犯(おか)した人間の罪(つみ)はそれほど重(おも)いものなのです。罪(つみ)のない聖(きよ)いキリストの命(いのち)だけが人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなることができるのです。

このことをただ信(しん)じて受(う)け取(と)るなら、あなたは救(すく)われます。それ以外(いがい)の方法(ほうほう)はどこにもないのです。

十字架(じゅうじか)のことばは、滅(ほろ)びに至(いた)る人々(ひとびと)には愚(おろ)かであっても、
救(すく)いを受(う)ける私(わたし)たちには、神(かみ)の力です。(Ⅰコリント1:18)

そしてどうしてありえようか、私(わたし)が
救(すく)い主(ぬし)の血潮(ちしお)の益(えき)を得(え)るということが?
主(しゅ)の苦痛(くつう)を引(ひ)き起(お)こした私(わたし)のために死(し)なれたのか
主(しゅ)を死(し)に至(いた)るまで悩(なや)ました私(わたし)のために?
驚(おどろ)くべき愛(あい)!どうしてありえようか
わが神(かみ)よ、なんじがわがために死(し)にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)