自分を馬鹿(ばか)にした人たちを救った青年

山本忠一

土山みことばキリスト教会

日本ではあまり知られていませんが、昭和の中頃、愛の実践において光り輝いた人がいました。その名を升崎外彦という、牧師さんです。和歌山県の南部(みなべ)という小さな町で、労祈祷(ろうとう)学園という塾を経営していました。

土地の人々はこれを「アホ学園」と呼んでいました。この労祷学園に知恵遅れの少年が加わったのを知った近所の人が、門柱にペンキで「アホ学校」と落書きしたことがきっかけとなって、それが呼び名となり、南部名物の一つになりました。

この少年は山本忠一といって、幼い頃脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに、親類も愛想をつかし、捨てられて乞食をしていたのを、升崎牧師が世話をすることにしたのでした。連れ帰ったその夜から、升崎牧師は少年を自分の寝床に寝かせたのですが、朝になるとこの少年は大きな地図を布団いっぱいに描いていました。

この知恵遅れの少年、何の取柄もないと思われている「忠ヤン」(升崎牧師は忠一のことをこう呼びました)にも人に真似のできない、ハエをとるという一つの特技がありました。ハエと見るや、知恵遅れ者特有の落ち着かない目が俄然輝きだして、ハエを見つめながら左手左足で調子をとって右手の指先でパッと打ちました。それは百発百中、神技ともいうべきものでした。

しかし忠ヤンが加わったことにより労祷学園が「アホ学校」と名付けられた事を他の青年たちが問題にしました。そして升崎牧師に、「忠ヤンが労祷学園に出入りしないようにして欲しい。忠ヤンが加わるのなら自分たちは出て行く」とつめよりました。これにはさすがの升崎牧師も苦しみました。聖書には「もし誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は99匹を残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。」とあります。才能のある7人の青年と、1人の知恵遅れの少年と、どちらを選ぶべきか?思い悩んでいるうちに、7人の青年は去って行きました。

ところが、忠ヤンもある日外出したまま、夜になっても帰ってこず、八方手を尽くしてもその消息は全くわかりませんでした。どうやら、昔の放浪癖が出て、足に任せてどこまでも歩いて行ってしまったようです。

忠ヤンがいなくなってしまってから数年後のこと、彼が機帆船に拾われて働いていることを升崎牧師は風の便りで知りました。ところが、昭和14年のある日のこと、一人の紳士が突然升崎牧師を訪ねて来て、言いました。
「あなたは何年か前に山本忠一という子供をお世話くださった升崎先生ではありませんか?」

「おお、あなたは忠ヤンの消息をご存知ですか?」

「実はその忠ヤンが立派な働きをして死にました。これが忠ヤンの形見です。」

その紳士はそう言って船の舵輪(だりん)を差し出しました。彼は忠ヤンの乗っていた機帆船の船長でした。彼は次のように語りました。

「ある日、機帆船幸十丸は、荷物を満載して紀州尾鷲港を出ました。出帆後間もなく海がしけ出し、新宮沖にさしかかった時はどうしても思う方向に船を進めることができず、ついに暗礁に船底をぶっつけてしまいました。破れた船底から水が激しく浸水して、いくら排水してもどうにもなりませんでした。もうこれまで、と一同観念したとき、船底から『親方!親方!船を!船を!』と手を振りながら大声で叫んでいる者がいました。見ると、アホ忠でした。不思議にも水はあれから少しも増していませんでした。船員たちが再び必死になって水をかき出したところ、忠ヤンは船底の穴に自分の太ももをグッと突っ込み、必死にもがきつつ『船を、船を、早く早く陸に上げよ!』と狂おしく叫んでいました。それで船員たちはしゃにむに、船を進めて陸に近づけ、九死に一生を得ましたが、忠一はかわいそうに右大腿部をもぎ取られ、出血多量で上陸するまでに息を引き取ってしまいました。」

升崎牧師は労祷学園でいつも、オランダ堤防の決壊を救ったハンス少年のことを青年たちに教えており、この忠ヤンもよく「俺はハンスだ、ハンスだ」と口ぐせのように言っていましたが、その通りのことを彼はやってのけたのです。人からアホ忠、アホ忠と呼ばれ、自分もまたアホ忠が本名だと思い込んでいた山本忠一。水が噴き込んでくる船底の穴に、布切れや板切れの代わりに自分の体の一部をつめこみ、数名の同僚を救った山本忠一。もし、升崎牧師がかつて彼を受け入れて、愛を示していなければこんなに感動的な話は生まれていたのだろうかと思うのです。

「人がその友のために命を捨てるという、これより大きな愛は誰も持っていません。」
(ヨハネ福音書15:13)

キリストが悪魔の罪の支配から人間を解放する

ヨハネの手紙 第一3章8-12節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月13日

悪魔は罪を犯すことを主義として、生業(なりわい)としています。悪魔はキリストを信じる者が神の子とされる神さまのご計画を妨げ、人間に罪を犯させ、その罪責を攻めたて、すきあらば人間を滅ぼそうと狙っています(Ⅰペテロ5:8)。

悪魔はキリストの十字架、キリストの誕生をも妨害しました。それどころかキリスト誕生以前の彼の血統にさえも悪魔の手は及んでいたのです(旧約聖書)。

その一番最初の出来事が、創世記3章にある人間の罪の堕落(だらく)です。

最初の人アダムが悪魔の誘惑に敗れ、罪を犯した結果、彼の子孫、すなわち全人類は罪ある者として生まれてきます。罪の堕落の結果、人間は神さまとの関係を失い、刑罰として死が与えられました。

神から離れた人間は悪魔の支配にあり、死の力に縛られています。しかし、人となられたキリストがこの悪魔の力を十字架で打ち壊してくださいました。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル2:14-15)

キリストを信じる者は悪魔の子から神の子どもとして新しく生まれます。神の子どもは習慣的・意識的な罪を犯さず、義(正しさ)を行い、隣人を愛します。この罪・義・愛は密接に関係しています。

愛は罪を犯させません。義(キリストと正しい関係に生きること)は罪から離れさせ、愛の働きをなさせます。

人が愛し合うところに、神さまのご支配が現されます。そこには決して悪魔は入ることができません。キリストの十字架こそは神の愛のしるしです。感謝します。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 (ローマ5:8)

十字架はあなたを罪から守る愛の掟

ヨハネの手紙 第一3章4-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年3月6日

人間の社会でも国や町内会、会社、学校が定めた法律やルールがあります。あなたはなぜ、それらを守るのでしょうか。罰金や罰則があるからでしょうか。世間体が悪いからでしょうか。それは法律やルールを守ることが、あなたを人間として正しく生きさせ、また事故や危険から生命を守るためです。

神様の造られた世界に生きる人間(神様によって造られた被造物)も同じです。自然界のルールや秩序、法律には書かれていない道徳や倫理のルール、そして神様に対して人間が守るべき聖書のみことばがあるのです。

人間が決めた法律やルールだけを守っても、人間として正しく生きことはできないのです。今も戦争や飢餓や環境破壊、差別偏見など絶えません。神様の正しさの基準を守らなければなりません。人間がもっとも守るべきルールは神様が定めた聖書のみことばなのです。最も尊いルールは互いに愛し合うことです。神は愛です。

聖書の言う罪とは無法地帯の心、無秩序な状態の生き方です。神様を否定して、神様の命令を無視して、自己中心に心の欲のまま、好き勝手に生きることは、人間を堕落させ、滅びに向かわせ、神様が望まれる本来の人間の生き方はできません。

どうしようもない人間の罪の性質をきよめて生き方を180°変えるためにキリストは十字架で死んでくださいました。神様の定めた命令を守れない人間を、罪の刑罰の結果である永遠の滅び(地獄)から救い出すためにキリストは十字架でよみがえられました。

キリストだけが罪と完全に無縁のお方です。このキリストを罪からの救い主と信じる者はこのお方の罪なきご性質と、罪からきよめる力により、罪から義(正しさ)の性質に変えられます。心の法則が悪(罪と死)のルールから善(愛と命)のルールに変えられます

「 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ人への手紙8章2節)。

今まであなたは何を見続けてきましたか。聖いものですか、悲しいものや争いですか。目を覆いたくなるようなものですか。これからはキリストを見上げましょう。キリストはあなたをいつも見ておられます。十字架の上のキリストをいつも見ているならあなたは決して罪を犯し続けることはありません。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル人への手紙12章2節)

習慣的な罪、悪習慣、計画的な罪はきよめられます。罪を犯すことが当たり前ではなく、罪を犯すことは例外になるのです。そして犯してしまった罪はキリストに近づき、悔い改める者を神様は赦してきよめてくださいます。キリストの愛はあなたを罪から守ってくださいます

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)。

キリストに似た者へ変えられる希望

ヨハネの手紙 第一3章1-3節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月27日

この世には血のつながった実の父と、育ての父があります。それは父なる神と人との関係にも当てはまります。

すべての人は父なる神さまの命を受けて創造されました。

「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」(創世記1:26)

もう一つは日々の関係で私たちを愛と命の祝福で満たし、永遠に続く父の存在です。その父の子どもは天地創造の前から愛をもって定められた者です。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ人への手紙1:4—5)

その神さまの愛の招き(福音‐キリストの救いの知らせ)に信仰によって応えることにより、神の子どもの特権が与えられます。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネの福音書1:12)

神の子とは単にそう呼ばれるだけでなく、事実なのです。神の子であるかどうかが今の現実と未来を決定します。

この世はキリストを信じた者が神の子であることを体験としてわかりません。罪から離れ、愛と正義を表わすことにより神の子の存在を世に現すのです。

事実、神の子どもは与えられた御霊によって神の性質に変えられ続け、キリストが再び来られるときに、キリストに似た者に変えられます。それはキリストをありのまま見るからです。

今、神様はすべての人間を完全にご存知です。人間はと言えば、一部分しか知りません。しかしやがて、神様がご存知のように私たちも完全に知るのです。それを現実にするのが信仰です。信仰が救いの完成、天の御国を実現に果たしてくれます。

信仰の中心はイエス・キリストの十字架の死があなたの罪の身代わりであることを信じることによる救いです。この世にあって望みもなく、神もない人たちが、キリストの十字架の血により、神の子とされる希望です。

「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。」(エペソ人への手紙2:13-14)

この希望を信じて生きる者はこの滅びゆく世界の中で自分をきよく保ち、新しく造り変えられ続け、愛の父である神の戒めと助けにより最後まで守られます。 神さまの目的は、あなたを神の子とすること、それは神に創造された本当の人間の姿への回復です。あなたが神に形取り造られた尊い存在で、善と愛を行うことのできる、人となったイエス・キリストの姿に変えられるためです。

「というのは、すべての人を救う神の恵みが現れ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトスの手紙2:11-14)

終わりの時、真理のキリストにとどまる

ヨハネの手紙 第一2章18-29節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月20日

イエスは世の終わりの兆候の一つにキリストを名のる者が大勢現れると預言しました。今、世界では私こそがキリストの再来(臨)だという者が大勢います。

しかし、キリストを信じて聖霊を受けた者は、真理か偽者かを見分けることができるのです。反キリスト、偽教師はイエスを人となったキリストだと認めません。またイエスが神のキリストであることも認めません。イエスを認めないことは、世界最大の嘘です。嘘の嘘です。なぜなら、イエスを信じることなく、まことの父なる神を知ることは決してないからです(マタイ11:27)。

イエスを信じるとは、キリストの十字架の死があなたの罪のためであったこと(福音)を信じることです。この福音を信じる者は神の力によって救いを受けます。しかし、キリストの十字架を愚かなでたらめとして受け入れないなら、神はその者は世の終わりに滅びに入れられます。

この世は必ず終わります。その終わりとは、今の世が終わり、新しい世界が始まることです。その世とは神が完全に支配する、罪も死も涙も苦しみもない世界です。

また終わりは、すべての者が滅び去って、死の静寂が訪れることでもありません。神の前に罪の歩みをした滅びるべきものだけが滅びるのです(Ⅱペテロ3:7)。 今、キリストを自分の罪からの救い主と信じる者は、欲のまま、心のままの生き方から信仰により生きる者です。罪から離れて神に対して正しく生きる者です。今をキリストと共に永遠の命の中に生きる者です。そして、終わりの時、キリストが来られる時に新天新地に迎えられる希望の約束に生きる者です。

キリストを掲げよ、旗印は十字架

ヨハネの手紙 第一2章12-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月13日

この世界は神が創造された素晴らしい世界です。けれども、人間が神に対して罪を犯した時から、堕落した世界に変わりました。

それは神の存在を無視した誤った価値観、感覚に支配された享楽の奴隷状態、金銭が幸福である物欲と自慢、見えるものがすべてで精神的な世界は無関心、所有物の用途は利己的…

しかし、神はその世界が創造される前から、この罪の世には属さない神の子ども(キリスト者・クリスチャン)を選んでいました。天国の民とされたキリスト者は、この地上では旅人です。外国の旅人は、その国の市民権を持ちません。キリスト者はこの地上の制度、規則にだけに縛られず、天国の原則に従うのです。

この世は危険を生みます。この世の愚かな知恵、堕落した世の肉の欲を避けて、分別をもって自分をきよく保つことが必要です。肉の欲が私たちの中にあるなら戦いと混乱を引き起こします。キリスト者は肉の欲に支配され続けてはなりません。

確かにこの世にあっては艱難があります。しかし、神はこの世を愛され、そのひとり子を人間の罪のために十字架に渡されました。神はこの世界の罪による誤りを明らかにされました。

確かにこの世は魅力的です。しかしキリストの十字架にまさって誇るべきものはありません。罪なき神キリストが身代わりに死んでくださったのです。いかなるこの世のものも罪赦される恵みと比べられません。

自分の罪を悔い改めて、キリストを罪からの救い主と信じる者は神の子とされ、天国の民です。キリストを救い主と信じる者は、この世にあって勝利する者です。

この世の目的に執着する者は永遠に続くことのない過ぎ行くものに身を任せているのです。若さも権力も必ず衰えます。しかし、神を生きる中心にする者は、人生を永久不変のものに託した者です。

滅びゆくこの世を愛するか、永遠の神を愛するか。神を信じる者は幸いです。

あなたの心に光はあるか

ヨハネの手紙 第一2章7-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年2月6日

罪の闇とは人間の心の中の闇です。それは、心の中からわいてくる、悪い考え、結婚以外の性行為、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさです。

生まれた人間は罪により、知性が暗くされ、罪に対して盲目です。あなたの心の中を照らす光が絶対に必要なのです。そのためには、光である神様とともに生きることです。あなたの心を開いて、イエス様に入っていただくことです。

クリスマスにキリストは罪の闇の世界に来られました。闇である人間の内には愛も光もありません。キリストの十字架のみわざによって、人は暗闇の支配からキリストの光の中に移されるのです。心の中の罪と死の支配原理が、キリストの命と御霊の原理に変えられるのです。

聖書のメッセージは互いに愛し合いなさいです。この命令はキリストが十字架で死んでくださったことにより、今、すべての人に対して神様の愛が明らかにされています。

キリストを信じて、愛する者は光の中に、神とともにいるのです。

罪の現実は、キリストの光によって、滅びつつあります。キリストの命令である、互いに愛することだけが、唯一である新しい世界はもう始まっていて、やがて完成します。

人間は神さまと人格的な交わりをもつ存在として創造されました。それは親子の関係であり、夫婦の関係と言えます。愛と信頼のつながりです。

キリストがあなたと神様の関係を回復してくださいます。すべての罪を捨て去り、闇ではなく、光に向かって、キリストとともに生きようではありませんか。

神を知るにはどうすればいい?

ヨハネの手紙 第一2章3-6節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月30日

神を知るにはどうすればいいのでしょうか。キリストの時代は、宇宙や自然のように、哲学や知識によって神をも知ることできると考える人たちがいました。また、不思議な宗教的な儀式の神秘的体験により神と共にいると考える人たちもいました。しかし、彼らの宗教は道徳的にも行いにも、模範となる善いもの、愛の交わりもありませんでした。

人間が神を知るとは、聖書を通してご自身を明らかにされる神のことばによるの

です。人となられた神であるキリストにより神を知るのです。神を知るに至るには、神の言葉の聖書を聞き、守り従うことです。その時、神の愛の中に生き、自分の罪深さや、愛のなさ、弱さ、至らなさを教えられます。

神の言葉を聞いて、従って、守っていくとき、人は神を知ること、愛することよりも、さらに強い密接な関係とされます。

夫婦でも、自分より相手を尊重して、話す言葉をよく聴き、仕えていくとき、心も身体も一つにされ、まことの夫婦とされ続けていきます。親子も同じです。親は子を愛するが故に、嫌われても言うべきことを言い、しつけ、子も親の愛を受け、素直に聞き従い、成長して世の中に仕え、年老いても親に感謝をし、いつまでも愛し敬い続け、まことの親子とされていきます。

すべての人は、完全な必要が満たされていたにも関わらず、神の信頼を裏切り、言葉(命令)を守れずに罪に堕落しました。その時から、神の愛から離れた人間は愛を求め、愛することを願っています。

神に対して罪を犯したすべての人は永遠の死の刑罰を受けるしかありません。しかし、神はキリストを十字架につけ、すべての罪人を神の愛する子どもとして迎えてくださいます。

あなたは、愛された者なのです。それは、神の言葉に従って十字架で死なれたキリストを信じて救い出された愛される者なのです。あなたは、神の言葉を守って従っていける者と言う意味で愛されているのです。神はあなたを完全に信頼しておられるのです。

あなたはキリストが歩まれたように、すべてのことにおいて、まったく同じように歩む者です。それは、あなたが目の前の困難から簡単に逃げ出さないことだったり、以前よりも誰かを非難することよりも、自分が未熟だと悲しむことかも知れません。それはキリストを愛し、健全に自分を愛する姿です。あなたはキリストの中におり、あなたの中にキリストがおられます。あなたは神を知っているのです。今までひとりだったあなたに、いつもインマニュエルの(ともにおられる)神がおられます。アーメン。

神が用意されたキリストの十字架

ヨハネの手紙 第一2章1-2節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月23日

世界には昔から、様々な宗教があります。一時、世に影響を与えた宗教も、やがて消えていきます。そんな中でキリスト教は、歴史と共に存在し、今も益々世界で広がっています。いわば、キリスト教は海へと流れ込む大河の本流で、他の教えはやがて、細く狭まり渇れていく支流に過ぎません。

キリスト教とは何なのでしょうか。

それは、神が人間に働きかけるまことの救いです。神がご自身を明らかにされる聖書のメッセージは、神に造られた人間(神との関係によって存在できる)への愛と平和の回復です。それを明らかにしてくださったのはキリストの十字架です。

聖書の教えを守れない人間に、行ないではなく、信仰による神との和解をキリストにより用意してくださったのです。そのキリストの義(神と人間の正しい関係)を誰もが受けることができるのです。

その手段が信仰です。例えるなら、洗濯された清潔な服は用意されています。その服に袖を通して着ることが信仰です。美味しい食べ物はあります。それに手を伸ばして食べる、手が信仰です。

人間に神の正しさはありません。しかし、神の用意してくださった正しさ~罪なきキリストが十字架で死なれたことによる正しさ~を受ける者は、神にとって、正しい者とみなされるのです。

信仰がキリストの十字架の意味とあなたを結びつけるのです。

すべての人は罪人であり、罪の刑罰は死、永遠の滅びです。この現実を、まったく変えるメッセージが十字架の福音です。

義なる神は人間の罪をあいまいに赦すことできません。しかし、ひとり子のキリストをその刑罰の十字架に架けることにより、ご自身の義(正しさ)と愛を現されたのです(ローマ人への手紙3章21-30節)。

人間の喜びは交わり(コミュニケーション)にあります。時代が変わっても、手段が変わっても、人は関係を求めているのです。宗教とは何でしょうか。実は人格の交わりなのです。人間と神との関係(コミュニケーション)なのです。人間が神の前に心から喜び生きることなのです。

それを断絶するものが罪です。その罪の罪責に苦しむ人間をキリストは父なる神の前にいつも弁護してくださいます。その弁護は完全に力あるものです。なぜならキリストが十字架で罪の代価を支払ってくださったからです。

罪により、死の刑罰に絶望した人間の取りうる選択を信仰と言います。神の恵みに応答することです。

今日キリストの十字架の救いをお受けしましょう。

闇から光へ

ヨハネの手紙 第一1章5-10節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月16日

すべての人間は罪人であり、人は罪を犯すから罪人なのではなく、罪人なので罪を犯すのです。

神と言われるものを信じている人はたくさんいます。しかし、天地を創造して、あなたの命を造られた聖書で明らかにされる唯一の神を信じなければ、まことの神との交わりの喜びはありません。神を信じていると言っても、なお罪の闇の中にいる人は、神との関係に生まれる命がないのです。

神は光であり、完全に聖く、正しく、愛なるお方です。この神と交わり、真理の歩みをするためには、人間は罪のない光の中を歩まなければなりません。

その光の中に入ろうとする者には、イエス・キリストの十字架の血が、罪汚れをきよめ続けて下さいます。キリストが罪のきよめのために流された血こそが、驚くべき神の罪の赦しの根拠なのです(ヘブル人への手紙9章14節)。

神の光の中に生きることは、あなたのすべてを神の御手にお委ねすることです。罪深さも汚れも、誰も知らない苦しみ、悲しみも、人知れず流した涙も労苦も神はすべてご存知です。何も飾らずありのままの姿でキリストを信頼するなら、神はすべての赦しと癒しをくださり、まことの喜びに生きる者としてくださいます。

この神の光は、罪の闇の中にいる者を照らします。神に背を向け、自分自身の暗い影を見つめ続けて生きてはいけないのです。神の光に罪を示されたなら、あなたがすべきことは180度方向転換して、神に従う生き方に態度を変えることです。

そのとき、神の光があなたのすべての影、闇を消し去ってくださいます。

神の御子キリストが十字架で死んでくださったのはあなたへの愛の証しです。

この神の光の中を生きようではありませんか。