イエス・キリストの福音はまことの喜びを与える

ヨハネの手紙 第一1章1-4節より

土山みことばキリスト教会

2022年1月9日

「人生には何か真実な意味があるのか。この世には本物らしく見えても、偽物がある。清らかで正直に人生を送ることは、重要なことなのか。他の人たちを愛そうが、愛すまいが、結果としてその人々に違いはあるのか。神(特にイエス・キリストを通して明らかにされている神)を信じたとして、その信仰が実際にどのように人生や物事を変えるのか…」

これらは、いつの時代も変わらない人間の問いかけです。その答えとして、間違った思想がキリストの時代からありました。

しかし、誤った教えが、どんなに魅力的であっても、それは本当の幸福をもたらすのではありません。しかし間違った教えの中で、誰も思いもしない、消し去ることのできない偉大な教えがありました。

それは、神が人となられて、私たちが生きているこの世界に来られたことです(ヨハネの福音書1:14)。人間は神になれませんが、神は人間になることができるのです。著者のヨハネは、イエスがその神のキリストであることを、実際に見て、聞いて、触れ合って知りました。

永遠の昔から存在した福音(キリストが十字架で死んでくださり人間を罪から救ってくださるよい知らせ)が人間イエスの言葉により、私たちに示されたのです。もう、人間の知識から真理を必死に探し求める必要はありません。

この福音により、人間は罪赦され、罪に打ち勝つ勇気と力を受け、神との関係を回復し、神の愛を受け、悪の力から解放され、死から命に変えられます。

イエスが十字架で死んでくださり、私たちへの愛を示してくださったので、私たちは愛し合うのです。イエスにより罪赦されたので、赦し合うのです。

このイエスとの交わり、喜びは他のいかなるものからも決して得られません。

あなたの人生を新しくするイエス・キリストを救い主としてお迎えしませんか。

人がいかに罪深くとも、はるかに大きい神の恵み

エペソ人への手紙2章1-10節より

2021年11月21日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には決定的な死生観があります。それはキリストなき人生がどれほど恐ろしいかです。罪とは殺人や窃盗、詐欺などを考えますが、聖書の言う罪とは「的を外す」こと意味します。人間として本来あるべき姿からかけ離れていること、人生の道を大きく踏み外して本来の目標に到達できないことです。

罪によって遠い将来、死後にさばきが下るのではありません。罪は今、現在、人間を殺す力があるのです。人は罪を犯した後と以前ではまったく同じ状態ではいられません。決して罪は消えることはなく、忘れても気づかなくても、いつまでも残るのです。罪により人は初めの純潔を失っていきます。また、罪は最初は恐れ震えながら犯します。しかし、次回はより平気に犯します。罪は感覚を麻痺させます。そして罪の後悔だけでなく、罪の最中にも、もはや楽しみは失われます。罪は人生の大切な価値を失わせます。そして、罪は習慣となり、いつしか罪の奴隷状態になります。罪をやめる人間の意志は無力で、以前の罪のためにさらなる罪を求めるようになります。罪の代償はあまりにも大きいのです。罪の代価は死です。

キリストなき人生のしるしは、この世の基準や価値に生きることです。神が与えた本来の価値を無視して、この世の物事や利潤に人間を合わることです。また悪魔に支配されて生きることです。悪魔は本来の神のよい計画から人間を離れさせ、人間の魂を破滅させます。また、欲望のなすがままの生活、悪いこと、禁じられていることに対する欲望で人生を破滅させます。神なき人生の本性、人間の内にある肉の性質に罪を犯すように働きかけます。神の怒りを受ける価値しかない生活です。

しかし、そんな絶望しかない人間を神は愛し、あわれみ、キリストと共に生かし、よみがえらせてくださいます。なぜでしょうか。それは神の偉大な恵みが世界に、後の世代に永遠に示されるためです。キリストを信じる信仰は個人の幸福や、ご利益ではなく、神さまの愛と赦しの偉大さが明らかにされるためです。本当に人間の素晴らしさを人々が喜んで生きるためです。

救いは努力や行いではなく、神の一方的な恵みによります。神が人を罪の中から救う恵みは誰にでも、ばらまかれるのではありません。信仰によって、救うべき者に確実に渡されるのです。「恵み」とは莫大な水の貯水池であり、その水を有効に、正確に実際に配給する水道管が「信仰」です。

神との関係が回復した者は、今まで思いも及ばない良い行いを思いつき、それを行うことができるに至るのは、キリストとともに新しく創造されたからです。救いに始まった、神の再創造はキリストに似た者に変え続けます。 恵みはただで受けることができます。それはキリストがあなたの罪の贖いの代価を十字架で支払ってくださったからです。このキリストの愛、命をかけた尊い救いにより人は必ず罪から離れきよめられ、愛のわざ、よい行いをする者に変えられます。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

(コリント人への手紙第二5章17節)

罪のおぞましさを認めて悲しむ者は幸い

マタイの福音書5章4節より

2021年11月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

なぜ悲しむ者が幸いな者なのでしょうか。悲しみによって物事の見た目だけでなく、人生の深い意味や、人との関わりの大切さを知ります。また悲しみに絶望して、人の力を超えた神への信仰に導かれることもあります。もう一つは悲しむ者に寄り添って一緒に悲しむ者は幸いなのです。この世の物への執着はよくありませんが、人に対して無関心であってはならず、人を愛することは一番大切な人間本来の生き方なのです。かつては自分のために集める生き方から、キリストを信じた者は、キリストが歩まれたように、誰かのために与える生き方に変えられるのです。あなたの人生はむなしいものではなく神の前に宝が積まれるのです。

人生の悲しみの原因を聖書は①罪 ②死 ③金銭を愛すること ④知識と言います。これらはいずれも人間が神様から離れた結果生じたものです。それを聖書は罪と言います。

イエス様が言われる「悲しむ者は幸い」の一番大事な意味は、自分の罪と自分の無価値を絶望して悲しむ者は幸いと言う意味です。

悲しみは、「この世の悲しみ」と「神からの悲しみ」があります。「この世の悲しみ」は、罪自身ではなく、罰を受けたことや罪が見つかったことや面倒になったことの恨みです。

しかし「神からの悲しみ」は罪を認め告白させ、罪と自分さえも憎み悲しむことです。罪を二度と繰り返さないと神への心の姿勢です。これを悔い改めと呼びます。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

(コリント人への手紙第二 7章10節)

あなたは、あなたを愛して信じる者や家族をだまして、ばれなかったら罪ではないと思いますか。一度犯した罪はなかったことにはできません。あなたの良心を痛め続けます。罪は自分を偽ることができないのです。罪は神に対して犯すのです。

また罪は大切な関係を破壊します。罪とは単にその行為ではないのです。罪とは関係が死ぬことです。すべての人間の祖先アダムが神に背いて堕落して以来、人間は生まれ持って神との関係を失った罪人です。その罪責の結果あるのは人間の内面の恐れと不安とパニックです。

しかし罪に苛まれ苦しみ続けなくても大丈夫です。神の愛の故に、キリストが人間の罪の罰を身代わりに十字架で受けてくださいました。その罪の赦しを信じる者は罪責の重荷から解放されます。神との関係を回復され、自由を取り戻し平安と喜びを受けて生きることができます。その慰めは、現在の祝福ですが、世の終わりに罪と死、悲しみ、苦しみが取り去られ、神の国の到来の時に完全に実現するのです。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

(ヨハネの黙示録21章3-4節)

赦され、赦すならば人は解き放たれる

マタイの福音書18章21-35節より

2021年11月7日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人間は神に対して莫大な罪の借金があります。それは自分のすべての持ち物をもっても支払うことはできません。神のキリストが十字架で死なれるほどの大きな罪です。

罪とは神の言葉に従わず、この世の生き方に流され、自己中心に心のままに、自分の欲を満たすことを第一にする生き方です。罪により、神の存在がわからず、神を認めることができず、罪の中にいます。その刑罰である滅びの死が課せられています。

しかし、罪から離れ、神に従って生きて行こうとする者を神は赦してくださいます。

赦しと許しはまったく違います。許しとは、大目にみたり、我慢することです。赦しは神のみがなせるわざです。罪の赦しは、①拭い去ること②思い出さない③癒すこと、それは神の平安を与え、神と和解し、きよめ、守り、解放を意味します。

罪の赦しは、神ご自身の本質でもあり、恵みです。神の罪人に対する愛のゆえに、キリストが十字架で罪のために死なれたことにより、罪が赦されます。赦しは人間の悔い改めとキリストの流された血潮によるのです。

また、キリストを信じて罪赦された者は、他の人を赦す者でなければなりません。

人間はひどいことをされた人を赦せません。また誰かにしたひどいことを赦されず、自分を赦せず、苦しんでいます。いかなる理由があっても、赦しがなければ人生は縛られてしまいます。

赦したところで、正しく問題がさばかれたり、事態は変わらないかも知れません。しかし、神は赦しなさいと仰います。赦さないことは大きな罪なのです。

いかなる人も神に赦されなければならない罪人です。キリストは十字架であなたの罪を赦してくださいました。十字架のキリストを見るとき、自分自身も罪深い存在であることを知ります。しかし、キリストがあなたの内にあるなら、赦すことができるように助けてくださいます。あなたの赦せないその人の罪のためにもキリストが十字架で死なれたのです。 人間は赦され、赦すことによって罪の人生から解放されます。憎しみ、憤り、あらゆる負の感情から自由にされます。キリストは互いに愛し合いなさいと言われました。愛するなら赦さなければなりません。赦すなら神はあなたの罪を赦してくださいます。

キリストを土台とする人生は決して倒されない

マタイの福音書7章24-29節より

2021年10月31日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

私たちの日々の生活の中の小さな過ち、間違った選択、よくない考え、無駄にした時間…それらが毎日何度も繰り返されるなら、やがて人生の大きな失敗や、時には破滅につながります。

「長い目で見ると、私たちは自分の人生を形作り、自分自身を形作っています。この過程は死ぬまで続きます。私たちの下す選択はすべて、究極的に私たち自身の責任となるのです。」

エレノア・ルーズベルト(アメリカ32代大統領夫人)」

聖書はキリストを土台として自分の家を建て上げなさいと言います。家とは人生であり、あなた自身のことです。

外見の見栄えだけの家や、砂の上に建てられた家は嵐や洪水で壊されます。家にとって大切なのは土台です。その土台となれるのはキリストです。キリスト以外の土台は、もろい砂であり、単なる見栄えに過ぎないのです。それは変わりやすい人の好み、気ままな欲望、はかない人生の目的、頼りにならない人間の判断、時代と共に移り変わる道徳観などです。

今日の人生の困難の原因は、キリストの言葉、聖書を聞かないことです。大切なのは、聖書の言葉を日々の生活の中で実際に行うことです。医者の診断を聞くだけでなく、治療を行わないと病気は治りません。

聖書のみことばによりキリストとしっかりつながるなら、今日どう生きるべきかを聖書が教えてくれます。キリストへの信仰の土台の上に確かな人生の家が建つのです。

やがて人生の試練の嵐は誰にもやってきます。その時、倒されずにしっかり建ち続けるか、あるいはひどい倒れ方をして破壊されるか、その違いがはっきり現されます。仮に人生でかろうじて倒れることがなくても、すべての人は地上の生き方の総決算があることを覚えなければなりません。

その神の判断基準はキリストを神と信じて、聖書のみことばを聞いて行ったかどうかです。神の言葉に聞き従い、罪を悔い改めて自己中心の生き方から解放されて、となり人を愛し、思いやり、関係を大切に生きたかどうかです。

キリストは自らの神の権威により語り、ご自分の言葉に対する態度によって、人の運命(死後も)が決まると言われます。

キリストは十字架で死なれ、あなたの罪の代価を支払うことによって、お金では決して買うことのできない家、神の宮、神殿をあなたに与えてくださいました。あなたがどんな試練にも倒されずキリストの命によって生きるために。

「つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、正しい者は永遠の礎である。」

(箴言10章25節)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」

(ヤコブ書1章22節)

神の愛と真実を疑うとき、人の欲望は悪魔の誘惑に負ける

マタイの福音書4章1-11節より

2021年10月24日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書は悪魔(サタン)の存在を明らかにしています。悪魔は、神に最初に創られた人間、アダムを誘惑して罪を犯させて、神との関係を失わせました。それ以来、この世界の現実は恐るべき罪と死の支配です。悪魔は人間の霊を見えなくして、神を信じることを妨げています。悪魔の存在も、悪巧みも隠されています。神から離れた人間は罪と死の中で恐れと不安に縛られています。

キリストはこの悪魔の罪と死の支配から人間を解放するために人間となられて、この罪の世界に来られたのです。救い主の働きをするために、神の主権をもって悪魔と向き合われました。悪魔の試みは、父なる神が定めた十字架の死とよみがえり以外の方法で人間を救うようにキリストを誘惑することでした。しかしキリストは永遠に不変の神のみことばで悪魔の誘惑を退けられます。

今も休むことなく、悪魔はすべての人間を罪に誘惑しています。特に性、金銭、権力・地位・名誉の領域で活発に活動しています。罪に堕落した人間の心の中の欲望は悪魔の誘惑に反応します。人間が神の愛と真実を疑い不信仰になるとき、人間は神に背いて誘惑に負けてしまうのです。悪魔は確かに人間を誘惑しますが、罪を犯すかどうかの最終決定は人間の意志にかかっています。

罪に打ち勝つためには、神を信じて、神のみことばに頼る以外にありません。神の言葉に従い、愛と平和をもって自分のこと以上に誰かのために生きることです。それこそがキリストの十字架を背負い、キリストの歩まれた道を生きる神の目的です。また、信仰に歩む者には罪に打ち勝つ力をキリストが与えてくださいます。

悪魔は人間の欲望に誘惑して罪を犯させます。そして罪責感に人間を苦しめ、死の滅びへ陥れるのです。しかし、悪魔の本当の目的はキリストが神であり、このお方を信じるなら、罪から救われることを信じさせないようにすることなのです。キリストの十字架以外の方法で、救いがあるとあなたをだますことなのです。キリストの十字架の贖い(あがない)以外に決して罪の解決はありません。

この罪と死そのものを、キリストは十字架の死とよみがえりによって打ち滅ぼされました。もう、あなたの罪は取り去られ、悪魔はあなたの罪を訴えることはできません。

悪魔はあなたを滅ぼすために罪を攻めたてますが、キリストはあなたが生きるために、罪を赦すために十字架であなたの罪の刑罰を変わりに負ってくださいました。

キリストはあなたを愛されています。

人生の二つの道、幸いか滅びか

詩篇1篇1-6節より

2021年10月17日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人生には二つの道があります。ひとつは神を信じて生きる正しい者の道です。もうひとつは神を信じない悪者の道です。

悪者とは、神を無視して、神に対する恐れをもたず、神が存在しないかのように生活します。祈ることもなく、食べ物や健康に感謝もせず、ただそのまま動き続け、好きなように生活しています。そして、次第に悪の見方、生き方に歩み、習慣的に悪に立ち止り、悪の深みにはまりこんでしまうのです。

多くの人は、自分の人生を少しばかりきれいにすれば問題ないと考えています。しかし、聖書には、悪い霊を追い出して、心をきれいにしても、また悪霊が仲間を連れて来て心に住み、以前よりも悪くなるとあります。少しばかり悪から離れるくらいでは人生は何も変わりません。

聖書が言う「幸いな人」とは、悪に近づかないだけでなく、神に向かって生きようとする人です。積極的に神のことばを聞いて従う者のことです。みことばが正しい者の人生を形造っていくのです。よい行いでなく、神のみことばが人生を変えるのです。

現在の人間のため息、うめき、叫び、いたみ、悲劇、人間関係の崩壊、人生の破滅は、神のみことばを聞いて守れなかった結果です。神のみことばが生活の一部になるまで、何度も繰り返して、心の中まで取り入れなければなりません。

また、正しい人とは、生まれたままの野生の木ではなく、神によって豊かな川のほとりに移植された新しく生まれた木です。川の水とは神のみことばです。正しい人にとって、みことばが飲み物と栄養です。また水はきれいにする働きがあります。罪に気付かせ、罪から離れさせます。神のことばが働き、地上生涯かけて、正しい人をきよめて続けてくださいます。

神のことばの内には命があり、正しい人を成長させ、時が来ると実がなります。しかし、悪者の人生は、風に吹き飛ばされるもみ殻です。もみ殻は一見、実のように見えても中には命がなく、何の実質もないのです。

悪者の道は、死後の神のさばきに耐えることはできません。いえ、この地上でも神を信じる会衆の集い(教会)に立てません。ここに立てない者は自分の責任で滅び失せることを意味します。

「幸いな者」は聖書全体の思想です。神のことば、聖書の目的は人を幸いにすることです。そして、「幸いな人」とはイエス・キリストのことです。すべての人間は罪人として生まれ、悪者の道を歩んでいます。悪者の道から、正しい者の道に移ることは人間の力では絶対にできません。キリストが正しい者の道となってくださいます。この道への入り口は、とても狭いですが、キリストを信じて、そのまま進むと、どんどん道が広くなります。そして、この道は命につながっています。

「幸い」か「滅び」

今、あなたはどちらの道にいますか。あなたはどちらの道を選びますか。

自分を偽らずに心の貧しさを悲しむ者は幸いです。神の国はそのような人のものです

マタイの福音書5章1-3節より

2021年10月3日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には「心の貧しい者は幸いです。」とあります。この「貧しい」の意味は、文字通り無一文の極度のみじめな貧困の意味です。さらに言語では、貧しさのために、何の栄誉もなく、人からしいたげられ、この世から見捨てられた結果、すべての希望を神にかける人を意味します。

人の心にあるものが言葉や行いとなって、罪深い現実が見える形となり世界中で現れているのです。人の心から出るものとは「悪い考え、結婚以外の性行為、盗み、殺人、貪欲、欺き、好色、ねたみ、高ぶり、愚かさ」と聖書にあります(マルコ7:20-23)。

また使徒パウロは、自分がしたい善ではなく、かえって悪を行ってしまうことにより、自分の中にどうにもできない罪深い性質が宿っていることを告白しています。

罪深い自分の心の貧しさを認め、悲しむものは、この世の物質は何の助けにもならないことを知っています。罪人である人間は自分を罪から救い出すことはできません。唯一キリストだけが人の罪を赦し、きよめることができるお方なのです。

金銭や快適な生活を手に入れたのに、虚しく満たされない人のように…、大切な関係を失い、故郷から遠く離れて途方に暮れている人のように…、家族や友から離れ、愛することも、愛されることもなく悲しんでいる人のように…、自分の恥や汚れや罪を隠して生きたために、人生の喜びも意味も失くしてしまった人のように…

すべての人は神から離れ、神の愛を知らず、神に対して犯した罪に苦しんでいるのです。

人間は物質ではなく霊的な存在です。人は神に似せて創造された高価な存在です。人生の目的はパンではなく神です。神のもとに帰ることです。人間は神との人格的な生きた関係が絶対に必要なのです。その神の言葉に従って生きるとき、人間は初めて満たされ、喜びが生まれ、人生に意味と目的が与えられます。

自分のためだけに生きるなら、永遠に続く喜びはありません。人間の命は互いの誰かのために存在しています。神に似せて創られた人間とは互いに愛し合い、助け合い、自分がしてほしいことを他の誰かにする存在です。そのとき人は本来の喜びに満たされ、神の言葉により神の国に生きることができます。

キリストは十字架で人間の罪の刑罰の身代わりとなられ、死んでくださいました。私たちを神の子どもとし、天の御国の相続、永遠の命を与えるためです。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」

(コリント人への手紙第 8章9節)

悔い改める者は新しく生きられる~聖霊による教会誕生の夜明け前

使徒の働き1章12-26節より

2021年9月26日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

十字架で死んでよみがえられたイエスは40日間弟子たちに現れた後で天に昇られます。しかし、弟子たちはイエスが去ったにも関わらず非常な喜びに満たされてエルサレムに帰ります。そこで父の約束をただ待つのではなく、みんなが心を合わせ、祈りに専念しました。自分の罪のために十字架で死なれたイエスを知り、復活されたイエスを信じる者は罪から救われ、共におられる神を信じ、まことの喜び、祈りが与えられます。

この時、イエスの兄弟や、女性たちも共同体のメンバーに加わりました。性別、人種の壁を超えたすべての人が、キリストに罪赦され、ひとつの家族とされます。ユダヤ教の枠を超えた新しいキリストを信じる群れが生まれます。

十字架の前でイエスを拒んだペテロも立ち直り、120人の兄弟たちの指導的役割を果たします。そして、イエスを裏切ったユダの代わりに使徒を補充します。使徒に必要な資格はイエスと共に生き、十字架で死んでよみがえられたイエスの目撃者であることでした。

それは、キリストと共に生きるあなたでもあります。自分の罪のためにキリストが十字架で死んでくださったことを信じて、復活されたキリストと共に生きる者です。

ユダがイエスを裏切り、後悔して首をつって死んだことは、聖書に預言された言葉の成就でした。キリストは12使徒を選ばれた時に、ユダが裏切り、そして自分に戻って悔い改めないことをご存知だったのです。

銀貨30枚でキリストを売渡し、十字架でイエスが死んだからユダが滅びたのではないのです。罪を犯した後、人間に赦しを求め、自分の方法で罪の行いを始末しようとしたから神のキリストの前から滅びたのです。神の言葉は必ず成就します。

どんな罪や過ちを犯しても、キリストのもとに行き、悔い改めて、以前の生き方を改めるなら神はその罪を赦されます。あなたは死から救われ、新しく生きることができるのです。

「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。『次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

(ルカの福音書2445-48節)

弟子たちが集まり、心合わせて祈り、信じるすべての人に聖霊なる神さまが与えられる教会の時代の始まりです。ユダヤ教からキリスト教へとイエスの十字架により罪の赦しによる新しい契約の時代です。

キリストだけが、あなたを罪と死から救うことのできるお方です。