罪のおぞましさを認めて悲しむ者は幸い

マタイの福音書5章4節より

2021年11月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

なぜ悲しむ者が幸いな者なのでしょうか。悲しみによって物事の見た目だけでなく、人生の深い意味や、人との関わりの大切さを知ります。また悲しみに絶望して、人の力を超えた神への信仰に導かれることもあります。もう一つは悲しむ者に寄り添って一緒に悲しむ者は幸いなのです。この世の物への執着はよくありませんが、人に対して無関心であってはならず、人を愛することは一番大切な人間本来の生き方なのです。かつては自分のために集める生き方から、キリストを信じた者は、キリストが歩まれたように、誰かのために与える生き方に変えられるのです。あなたの人生はむなしいものではなく神の前に宝が積まれるのです。

人生の悲しみの原因を聖書は①罪 ②死 ③金銭を愛すること ④知識と言います。これらはいずれも人間が神様から離れた結果生じたものです。それを聖書は罪と言います。

イエス様が言われる「悲しむ者は幸い」の一番大事な意味は、自分の罪と自分の無価値を絶望して悲しむ者は幸いと言う意味です。

悲しみは、「この世の悲しみ」と「神からの悲しみ」があります。「この世の悲しみ」は、罪自身ではなく、罰を受けたことや罪が見つかったことや面倒になったことの恨みです。

しかし「神からの悲しみ」は罪を認め告白させ、罪と自分さえも憎み悲しむことです。罪を二度と繰り返さないと神への心の姿勢です。これを悔い改めと呼びます。

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

(コリント人への手紙第二 7章10節)

あなたは、あなたを愛して信じる者や家族をだまして、ばれなかったら罪ではないと思いますか。一度犯した罪はなかったことにはできません。あなたの良心を痛め続けます。罪は自分を偽ることができないのです。罪は神に対して犯すのです。

また罪は大切な関係を破壊します。罪とは単にその行為ではないのです。罪とは関係が死ぬことです。すべての人間の祖先アダムが神に背いて堕落して以来、人間は生まれ持って神との関係を失った罪人です。その罪責の結果あるのは人間の内面の恐れと不安とパニックです。

しかし罪に苛まれ苦しみ続けなくても大丈夫です。神の愛の故に、キリストが人間の罪の罰を身代わりに十字架で受けてくださいました。その罪の赦しを信じる者は罪責の重荷から解放されます。神との関係を回復され、自由を取り戻し平安と喜びを受けて生きることができます。その慰めは、現在の祝福ですが、世の終わりに罪と死、悲しみ、苦しみが取り去られ、神の国の到来の時に完全に実現するのです。

「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

(ヨハネの黙示録21章3-4節)

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