結婚は人間に与えられた神様からの祝福

マルコの福音書10章1-12節より

2020年11月15日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

人々の心がかたくなだったので、モーセの律法では、姦淫、不品行(結婚以外の性的行為)、の罪に限って、離婚を認めていました。しかし、その規定も徐々にゆるみ、ささいな理由(料理を焦がした。通りで裁縫した。見知らぬ男性と話したなど)でも離婚が行われるようになりました。ひとつの理由は性的な不道徳がさかんだったためです。今の時代だけでなく、イエス様の時代にも性のモラルが乱れ、正常な結婚観が崩れていました。

創造の始めに結婚は、神様がふたりを結び合わせたものであり、引き離してはいけないとあります。結婚関係は神の前で生涯にわたり一夫一妻制であり、夫婦の関係を人間のきまりや律法によって本質的に無効にすることはできません。

神様は人間を神様に似せた高価な存在として創造されました。それは神様と人間が夫婦のように、親子のように、親密な愛の関係を喜び楽しむためです。しかし、人間が罪に堕落して、神様との関係が壊れたときに、人間関係も分裂と緊張が生じるようになりました。神様と離縁したからと言って、決して自由な独り身でいることはできず、別の連れ合いである暗闇の支配者である悪魔に支配されて、罪の奴隷となってしまうのです。

神様から離れ、神様との関係に狂いが生じる時、人間関係、性的な関係も狂いが生じます。姦淫の罪は、神様から離れた人間の大きな罪です。性的な関係は神様が夫婦にのみ与えられた祝福です。この神聖な贈り物を人間の自己中心な快楽とするとき、恐ろしい滅びへの道を歩むことになります。自分に対しての罪と神様の聖霊を悲しませます。

イエスラエルの夫、教会の夫はキリストです。私たちはキリストの花嫁なのです。結婚とはこれほど神様が人間を祝福された贈り物なのです。この悪い姦淫の時代、今こそ、罪から離れ、神様に悔い改め、立ち返らないといけません。聖くなければ誰も神を見ることはできません。 本来の正常な関係を回復するために、キリストは人間の罪を身代わりに受け十字架で死なれました。罪を認め、キリストを信じる者はキリストともに十字架で死に、新しい聖い命を与えられ、神様と和解し、キリストとひとつとされます。永遠に価値のある豊かな大切なあなたの人生を歩んでいきましょう。アーメン。

神様が愛する子に与えられる信仰の試練

マルコの福音書9章38-50節より

2020年11月8日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

弟子たちはキリストに従う自分たちだけが正しいと考えました。しかし、キリストに仕える形は様々であり、イエス様は、ご自分のお名前によって奇跡をなす者を味方であると言われます。キリストを信じる者は、神さまにより必ずつくり変えられて神様のために用いられます。

キリスト者は困っている者、助けを必要とする者を援助すべきです。なぜなら、そのような人はキリストを必要としている、キリストの愛する人たち、否、キリストご自身だからです。私たちは特別大きなことではなく、できる形でイエス様への愛を表すことができるのです。たとえ水一杯の助けでも、神さまは覚えておられ、報いを受けるのです。

それとは反対に、世の価値では取るに足らないような小さい者であっても、イエス様から引き離すなら、信仰を妨げるなら、永遠の刑罰に相当すると書かれています。

神様のご意志に従って生きるならば、私たちは、何らかの犠牲を覚悟しなければなりません。神様の喜ばれない生活習慣を見直すこと、ある種の楽しみをあきらめること、罪の世と決別するため、友人との関係を見直すことも必要かも知れません。

この世には退屈と絶望があります。まことの希望とキリストを愛する純潔を受けたキリスト者が、世で愛と光を与えるために遣わされています。世はキリスト者を通してしか、イエス様を信じることができません。イエス様の働きのために、すべてのキリスト者は試練を通ります。それは信仰の堕落からあなたを守り、神さまの子どもとしてあなたを愛されておられるからです。アーメン

キリストの十字架に学ぶ仕える生き方

マルコの福音書9章30-37節より

2020年11月1日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様は弟子たちにご自身が十字架で死なれることを教えられます。しかし弟子たちは恐れて聞こうとしません。この世の常識や先入観はキリストの十字架の救いを妨げます。しかしイエス様は人間に大切な信仰を与えようとされます。

イエス様を心からお迎えして信仰によって生きるなら、かつての自分さえよければいいと生き方から他者のために生きる、仕える生き方に変えられていきます。それは、人を気にして生き方から、心の中でいつも神様を見上げて生きる方です。

幼い子は自分のして欲しいことを言います。また世の中の役に立てないし、力も弱く、誰かに面倒をみてもらわないと生きていけません。イエス様は幼き子どもを受け入れなさいと言われます。それはあなたの都合のいいときだけでなく、気分が乗らない時も、相手の言うことを聞き、人格そのものを愛することです。うわべでは無理なのです。

今までは自分の好きな人、自分にとって有益な人、価値ある人を受け入れていたかも知れません。それは仕事や健康や若さを失ったら、失敗したら、人の道を外れたら受け入れられないと恐れる不安の生き方です。

人間の価値は神様から与えられます。キリストは価値なき罪人の人間を、十字架で受け入れてくださいました。このことを受け入れて生きるならば、かつての価値観は変えられ、勝ち負けから解放され、人を受け入れ、ゆるし、愛する者へと日々の生活を通して変えられていきます。十字架の死と復活の力があなたを変えるのです。アーメン

不完全な信仰を通して全能の神の力が働かれる

マルコの福音書9章14-29節より

2020年10月25日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

弟子たちは山の上で神の栄光が満ちる体験をしました。しかし私たちの日常の生活は山から降りた人の住む場所です。そこは悪いものが支配する罪の世です。

この世で神から離れて生きるなら、不信仰により、癒しも奇跡も起こりません。見える現実の世界以上も以下もありません。

イエスの弟子たちは悪霊を追い出す権威が与えられていましたが、不信仰のために子どもの病を治せませんでした。律法学者たちは、弟子たちの不甲斐ない姿を見て、イエスの神の力を引き下げようとします。イエスの癒しの力を信じて子どもを連れてきたはずの父親も、できますなら子どもを治してくださいと不信仰な姿勢でイエスにお願いします。

何事も不信仰によってのぞむなら、それは成し遂げられません。力以上、願う以上の成果は果たせません。しかし、「お心一つで私をきよくしていただけます」と大胆に願い求めた病人のように信仰によって物事に対するなら、神の力により、不可能な問題も成し遂げることができます。神の力により救い出してくださいます。

イエスがお言葉一つで悪霊を追い出したのは単なる悪霊はらいではありません。神の権威ある言葉が悪霊を追い出したのです。

信仰は半信半疑であってはなりません。信じる者は悪霊を追い出し病を癒す権威が与えられています。しかし、真に力を持っておられるのは神様です。神の力に不可能がありません。その力は信じる者の祈りを通して働かれます。

アーメン。

キリストの栄光と苦難の十字架

マルコの福音書9章2-13節より

2020年10月18日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

弟子たちはイエス様の栄光のお姿、また旧約聖書を代表するモーセとエリヤの出現に驚き恐れます。やがてモーセとエリヤの姿は消えて、イエス様だけが残ります。

そして父なる神様は、愛するイエス様の言うことを聞きなさいと言われます。

イエス様は誰にも比べることのできない特別なお方なのです。

しかし弟子たちは救い主の神様であるイエス様が十字架に死なれて、よみがえられることがわかりません。キリストも預言者の言葉も信じることができなかったのです。

私たちはどうでしょうか。聖書を神の言葉と信じて生活の土台としているでしょうか。イエス様はいつも心の中におられるでしょうか。

私たちもまた、自分の方法で問題の解決を考えてしまいがちです。自分の力や能力に頼りたい性質があります。恥や軽く扱われること、仕えることを嫌います。

神様はどんなこともおできになります。しかし、神様は十字架による道によって、人間を救おうとされました。

イエス様は父なる神様に従順に従われました。私たちも神様の言われることに素直に従う時に苦しみがあるかも知れません。しかしそこを通って与えられる神様のご計画があります。そこに本当の解決と喜びがあります。信仰によって神様に対して生きるなら、私たちは人生の勝利者です。すべてを失っても信仰ひとつで神様につながる希望と愛をもつことができるのです。

まことに神様に信頼するならば、問題の解決の時に感謝するだけでなく、問題の最中にあっても神様に希望を告白できるのです。

ペテロはイエス様と一緒に父の声を聞きました。私たちもイエス様と共にいるなら、神様の声を聞くことができます。罪なきお方であるイエス様は十字架の苦難のしもべとして神様の栄光をあらわされました。

あなたを罪から救うためです。あなたが新しく生きるためです。

生き方を教えてくださるイエス・キリスト

マルコの福音書8章35-9章1節より

2020年10月11日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

今ほど物質的に豊かな時代はありません。しかし、今ほど心が貧しい時代もないのかも知れません。人々はつながりと愛を求めています。

どう生きるべきか。その答えは人間の内にはありません。その答えは私たち人間を愛して命をお与えになった神様だけがご存知です。

命は人間のものではなく、神様とそのひとり子であるキリストの内にあります。このキリストが十字架の死と復活により罪と死に打ち勝ったことを信じる者はまことの永遠の命を与えられます。闇から光、死から命に移されます。

人間は生きていて、やがて死ぬのではないのです。アダムの堕落によりすべての人は死んでおり、しかしキリストを信じる者はまことに生きる者とされるのです。

自分の命を愛して自分のためだけに生きることは、人間の本来の生き方ではありません。

今は罪と悪が溢れており邪悪な時代と聖書は言います。今だけを自己中心に罪の中を生きるなら、やがて来る永遠の刑罰である滅びが待っています。しかしキリストを信じる者は今ではなく、やがて来る永遠のために今を生きることができるのです。

たとえ、キリストに従うために、命を失うことがあっても、そのものは永遠に生き続けます。キリストの言葉に従う者は真理を知り、自由が与えられます。

それはこの世の罪の奴隷として生きる自由ではなく、信仰により、いかなる状況になろうとも神様を信じて感謝して喜び生きる自由です。

恐れることは何もありません。永遠にキリストがあなたと共におられます。

自分を捨て、十字架を負い生きる

マルコの福音書8章31-38節より

2020年10月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエス様は弟子たちにご自身が苦しみを受け、十字架で殺されることを明らかにされます。

十字架とはキリストの受難と呼ばれる人間の罪を身代わりに受ける苦難の死です。

ペテロはそのことを認められません。それは神よりも人のことを第一に思う人間の罪の性質です。

十字架とは人間の尊厳を辱めるものです。恥やさげすみ、プライドを傷つけられることは人間がもっとも嫌うことです。しかし、神の御子で罪なきイエス様は十字架に従われました。

イエス・キリストを信じることは、その十字架が自分の罪のためであると信じることです。

苦しみ、悩み、痛みを通して、真の人間の姿でもあるイエス様に似た者とされていきます。キリストの十字架を受け止め、そこから本当の救いである、キリストの復活にあずかるようになるのです。

ユダヤでは昔、十字架刑を受ける者は、数十キロもある十字架を背負って、死刑場まで運んでいきました。私たちもまた、人生の重荷を背負って生きていくものです。

けれども、その重荷をイエス様にゆだねて、生きるなら、その重荷は次第に軽くされ、キリストの十字架をともに負う者と変えられます。

その十字架はいつしか、あなたの人生に関わる人々の中で、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制と言ったキリストの命をあらわしていくでしょう。

あなたのうちにあるキリストの御霊である命は喜び満たされ、神さまの素晴らしさを輝かせる永遠につながる人生を歩んでいきましょう。

イエスとはいったい誰なのか

マルコの福音書8章22-30節より

2020年9月27日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスのなされた奇跡や病の癒し、悪霊の追い出し、また罪を赦す権威ある教え、言葉と行いを見た人々はイエスを偉大な預言者、宗教家であると考えました。

「イエスとはいったい誰なのか」という質問にあなたはどう答えるかはとても大切なことです。それはあなたの生き方を決定します。いえ、死後にあなたが命を得るか、永遠の死に至るかどうかも決まるのです。

世の中にはたくさんの宗教と呼ばれるものが存在します。また立派な宗教家や先生、奇跡を行う人もいます。しかし、イエスはそれらの人とは明らかに違います。それはイエスは人であると同時に、救い主である神であるからです。

イエスが神であると信じる者は初めて自分自身に出会うことができます。そして自分には罪とよばれる神を無視して自己中心に生きる性質があることを知ります。しかし、そのことを悔い改め、神に喜ばれる生き方をしたいと祈り願うとき、イエス・キリストが十字架で身代わりに死んでくださって、自分の罪が赦されたことを知ります。人間は神に赦されなければ、本当の意味で生きることはできません。そのとき自分は神様に愛され、価値ある存在で、生きていいのだと、自分を受け入れ愛することができるように変えられます。そのとき、自分を愛するように他の人を愛するという、神が人間を造られた素晴らしい目的をあらわしていく生き方に変えられていきます。

この神であられるイエスにだけ、真の救い、人生の問題の解決があります。

アーメン。

まことの命のパンであるキリスト②

マルコの福音書8章10-21節より

2020年9月20日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

4000人の給食の奇跡のあとに、天からのしるしを求めるパリサイ人の記事が書かれています。

しるしを見ても彼らの心は閉ざされ、かたくなでイエスを神として信じません。人間の価値観から離れず、神を試すために奇跡を求めて、信じようとしないなら、奇跡は人の心を変えることはできません。聖書が神の言葉であることが何よりの奇跡です。

また4000人の給食の後、弟子たちにはパンが一つしかありませんでした。私たちは神から離れるなら、乏しく貧しい者です。しかし神により頼むならば豊かに富む者とされます。

神なしに生きる人生は、闇の中、救いがなく、それは死を意味します。罪のはかない喜びはむなしいものです。

わずかな菌がパンを発酵させ、ふくらませます。パン種は腐敗した悪をあらわします。世の悪い教えや罪が、人間を神の教えから引き離します。

弟子たちはイエス様の奇跡を見ても、今、パンが一つしかないことしか見ることができませんでした。いくら神様の奇跡を見て、体験しても、それが今の現実の生活の中で働く信仰とされることが大切です。

弟子たちは過去のイエス様の奇跡を忘れたわけではありませんでした。しっかりと覚えていたのです。しかし一つしかないパンの問題を、4000人の食事を用意されたイエス様にお任せすることはできなかったのです。

私たちも、みことばを覚えるだけでなく、それを今の苦難や問題に対して働く力として、信仰とされることを信じていきましょう。

まことの命のパンであるキリスト①

マルコの福音書8章10-21節より

2020年8月30日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

6章の5千人の給食の奇蹟とよく似たお話が書かれています。著者であるマルコ(ペテロ)はここではパンを通して、イエス様を知らせようとしています。

イエス様は食べ物をもたない空腹の群集を心配されます。いつも弱い立場にいる者をかえりみておられます。

弟子たちは、どうしたらいいかわかりません。男4千人に対して、手もとにある食料はパンが7つとわずかな魚しかありません。イエス様はそのわずかなパンと魚を取り、感謝して、裂き弟子たちに配るように言います。

私たちが持っているものはすべて神様から与えられたものです。イエス様は、私たちの必要を満たしてくださるお方です。人間は神に与えられた恵みをただ受け取る存在なのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる(マタイ7:7)」と聖書にあります。体を満たすパンだけでなく、人間のたましいに命である霊を与えるためにキリストはまことのパンとして天から来られました。ユダヤ人にとってパンが主食として欠かせないように(日本人にとってご飯)、このキリストを信じて受け入れることがすべての人に必要です。

この4千人の給食の記事は、キリストの十字架の罪のゆるしにともなう永遠の命を表しています。キリストは人間の罪の身代わりに十字架に架かられました。キリストはまことのパンとして、十字架の上で裂かれ、そのきよい血によって、罪をゆるされ、永遠の命をすべての人に分け与える準備をされました。この罪のゆるし、永遠の命を自分のものにするために必要なことは、イエス様の招きにこたえて、今までの罪の生き方を悔い改めて、神様の方に人生を方向転換することです。

人間の罪を赦すことのできるお方は、神であられるキリストだけです。