神の選びに応える幸いな人生

マルコの福音書3章13-19節より

2020年4月5日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

神さまがご自身の救いのご計画をなすために、イエスに仕える12使徒が選ばれた。彼らは決して聖人君子でも、強い信仰の持ち主でもない。それどころか、個性ある問題多き面々だ。

神の選び、救いの計画は私たち人間の基準では決して計ることはできない(Ⅰコリ1:26-29)。

この12使徒は新しいイスラエル12部族として選ばれた。その目的はキリストの十字架の死と復活の証人として、また聖霊を受け、新しいイスラエルとしての教会を建て上げるためである。

私たちも罪の支配するこの世から、恵みによって選ばれ救い出された(エペ2:1-6)。それはキリストの体なる教会を建て上げる奉仕をするめである。神と人を愛し、生きるすべてでイエス・キリストを表わすためである(エペ4:11-13)。

使徒たちはイエスに従い、失敗や困難を通して少しずつキリストの似た者に変えられ、イエスを売り渡したイスカリオテのユダを除いては、最後までイエスに仕え、多くは殉教の死を遂げた。

しかし、彼らの命はこの地上で終わらない(ヘブル11:13)。栄光の天の御国に迎え入れられ、死も苦しみもない永遠の命をキリストと共に生きる。

オリンピック選手に選ばれることはこの世の最高の栄誉の一つかもしれない。

しかし、神さまに選ばれ、イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、キリストの栄光のために生涯を神さまのご計画に用いられる栄誉は、なにものにもまさる(ヤコブ1:12)。

使徒のひとりシモン・ペテロはキリストの十字架の前にイエスを裏切るという大失敗をやらかした。けれども、イエスはすべてをご存知で彼を選び、愛し、彼が信仰を取り戻すために祈られた。

イエス・キリストを信じる者には失敗の人生と言うものは存在しない。

神さまがあなたの人生の失敗も苦しみも悩みもすべて、ご存知で、いつも顧みてくださり、励まし、共におられ、それらすべてを神:様のご栄光としてくださる。すべてを益として、イエス・キリストに似た者にしてくださる(ローマ8:28-39)。

この真実な神様を信じて心から喜び、人生を歩もうではありませんか。

まことの安息を与えてくださるイエス・キリスト

マルコの福音書3章1-12節より

2020年3月29日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

パリサイ人は安息日を守らないイエスを責めた。しかしイエスはご自身を安息日の主であると主張した。律法を厳格に守り、権威を誇るパリサイ人の偽善をイエスは指摘した。パリサイ人は自分たちの地位を守るため、ねたみにかられ、心がかたくなにされ、イエスの権威あることばを受け入れられない。パリサイ人はイエスを罠に陥れ、殺すために安息日を利用する。

安息日(律法)を守ることによっていのちを得るのではない。イエスこそが、いのちを与える安息である(イエスとは「主は救い」の意味)(ヘブル4:1-3)。イエスがこの地上に来られたのは、十字架で呪われたものとなって律法を成就するため(ガラ3:13)(マルコ10:45)。ご自身を十字架に捧げ、死と葬りと復活による罪の赦しによる新しい契約を与えられた(ヘブル8:6-13)(エレミヤ31:31-34)。

その新しい教えを説くイエスをパリサイ人は葬ろうとし、民衆は受け入れようとみもとに集まる。

しかし、人の子であるイエスとは何者であるかはわからない。病人を癒し、汚れた霊が追い出され、何かが起こっていることはわかるが、人々は見えるものしか信じられない。くしくも汚れた霊だけがイエスを「神の子」であると知る。人間は罪に堕落した結果、自分の力によってイエスを救い主と信じられない。

人間は自然の摂理や良心の呵責から神の存在を認めることはできる(ローマ1:20)が、しかしキリストが罪からの救い主であることは福音(Ⅰコリ15:1-4)を通してしかわからない(Ⅱテモテ3:15)(ローマ3:23-34)。

神は聖霊を与え、自身の罪を認め、悔い改め、イエスを信じる信仰さえもお与えになる(ヨハネ16:7-8)。

日曜日は神に礼拝を捧げ、命に憩う安息の日

マルコの福音書2章23-28節より

2020年3月22日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

創造と救いは命を与える神さまの偉大なみわざである。神さまの創造のみわざは休むことなく継続され今もすべての命をあわれみ保っておられる。

安息日はすべての労働をやめて、神さまに礼拝を捧げるために聖別された日である。

それは神さまが最初の6日で万物を創造され、7日目に休まれたことにならうことである(出エジ20:10-11)。また奴隷から解放されたことを覚えて救いの神さまに礼拝を捧げることでもある(申命記5:15)。

安息と礼拝は互いに関連があり、これはうわべで守ることではない。何よりも第一とされる基本であり、命の源である。理由を求めることでなく従うべきことであり、人間の存在の目的である。神さまとの永遠の契約である。守らなければ死罪にあたる(出エジ31:12-17)。神の安息を守る者は祝福される。

罪に堕落して以来、人はまことに礼拝を捧げる対象と安息を失った。罪と死に束縛され、おそれと労苦に捕らわれている。神さまが与えてくださる救いによる平安をすべての人が必要としている。

「安息の年」に6年間農耕した土地を7年目に休ませる。命を育む土地は「神のもの」「聖なるもの」である(出エジ23:10-11)。その年に奴隷は解放され(出エジ21:2-6)、負債は免除された(申命記15:1-6)。7回目の安息の年の次の年、50年目ヨベルの年にはすべての人が自分の土地、家族のもとに帰ることができた(レビ25)。

安息とは肉体的、精神的な労働を中断して、労苦や悩みから解放されて、平安にある状態を言う。

安息はキリストを信じる信仰により与えられる命である(イザヤ61:1-3)。奴隷から救い出されたエジプトの民は不従順のために安息の地、カナンに入ることができなかった。しかし、まことの安息と礼拝は、キリストを信じる者のために今も残されている。

安息はキリストの十字架の死と復活により、今も与え続けられている恵みである(ヘブル4)。

キリストの十字架の死と復活による新しい創造

マルコの福音書2章18-28節より

2020年3月15日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書には断食は年に一度の大贖罪日と呼ばれる日に行うように書かれている(レビ16:29)。パリサイ人の断食は偽善的なものであった。旧約の時代の宗教儀式ではなく、まことの贖罪のために罪なきキリストが人間の罪の刑罰の身代わりに十字架で罪の贖(あがな)いを成し遂げてくださった(へブル9:12)。

キリストは病を癒(いや)し、悪霊を追い出し、死人を復活させ、貧しい人、罪人の友となり、愛と赦しの福音、神の国を語り歩いた。人々はキリストのもとに集まり、その新しい権威ある教えを喜んで聞いた。

しかし、不気味な十字架の影がしのび寄り雲行きが怪しくなると、キリストに対する人々の態度は急変した。キリストがむち打たれ十字架にさらし者とされた時に、人々はもとより3年あまり寝食を共にして仕えた弟子たちもキリストを捨て、拒み、去って行った。

キリスト者は花婿なるキリストの純潔な花嫁に例えられる。キリストが十字架死なれることは、花嫁から花婿キリストが取り去られること。

キリストを十字架に付けた罪深い人間の罪を知り、悔い改めに導かれる(使徒2:36-38)。

しかしキリストは死んで三日目によみがえり、死と罪に打ち勝たれた(1コリント15)。キリストが十字架で流された血潮によって新しい契約が与えられる。それは自分の罪の身代わりのためにキリストが十字架で死んで復活されたことを信じる者に与えられる罪の赦しである。信じる者にはキリストと共に古い罪が死に、キリストのよみがえりと共に新しい命が与えられる(ローマ6:4)。神との関係が回復され、神の子とされる(ヨハネ1:12)。

キリストを信じた者は以前の生き方から、心、言葉、行いすべてがキリストに似た者とされていく(ローマ8:28-30)(2コリント5:17)。キリストの命のつながり罪に打ち勝つ力が与えられる(ローマ5:17)。

キリストを通して大胆に神に近づく

マルコの福音書2章1-17節より

2020年3月8日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

中風の人が4人の人に担がれて屋根を破ってイエスに近づいた。大胆な信仰に驚かされる。わかるから信仰を持つのではなく、キリストに近づくことにより信仰が神によって与えられる。(へブル11:6)(エペソ3:12)

中風の人にイエス様は「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われる。病で苦しむ者に対して罪の癒しを宣告される。

病は肉体を苦しめ、肉体を滅ぼすかも知れない。しかし病は死を超えることはない。しかし神に対する罪はすべての人の本質的な大問題である。何ものかにが神よりも大切とされることが罪の根本であり、そのため人間は本来あるべき姿が大きく損なわれている。罪の奴隷とされ悪に引き寄せられる傾向をもつ。地上生涯だけでなく死後は永遠の滅びに至る。

罪は神と人間の関係を阻む隔ての壁である。中風の人たちが屋根を壊したように、神との壁は信仰によって壊される。その時に中風の人はただ信じて担がれていただけ。 罪の赦しを得るために人間は何もできない。ただ、神さまからの赦しをいただくだけです。私たちの罪の身代わりにキリストが十字架で死んでくださったことを信じるなら救われる。そのままの姿で、罪を悔い改めて、イエス様の前に進み出るなら、神様はあなたを新しく造り変える。今ある問題を解決してから信じるのではない。悪習慣に克服してからイエス様を信じるのでない。イエス様を罪からの救い主として心にお迎えするなら、問題の解決も誘惑に打ち勝つ力も与えてくれる。(ヘブル9:14)

神に近づく者が受ける癒しは永遠の救いの希望

マルコの福音書1章35-45節より

2020年3月1日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

重い皮膚病のツァラアトの男性はイエスのもとに行き癒された。その時、イエスは誰にも言わず、祭司に見せて、きよめの供え物を捧げるよう厳しく戒められた。しかし、彼はイエスに従わず、癒しの奇跡を人々に言い広めた。十字架ではなく、奇跡だけが人々に広がり、まことの救い主として来られたイエスの働きを人々から遠ざける。

ツァラアトは一般の病気と違い宗教的な意味の病、罪に関わる。その病気の宣告や完治したことの宣言も医者ではなく神に仕える祭司が行う。(レビ記13,14章)

ツァラアトの患者は汚れた者として人々から隔離される。そして神のあわれみにより癒されたなら、祭司に見せて、決められた捧げものをして、「けがれた者」が「きよい者」と宣言される。この宣言こそが罪ある人間が神に義と認められる救いである。

すべての人の病は神から離れて自分本位に生きている状態、罪である。神の最大の奇跡は人の内面の癒し、罪の赦しである。そのためにキリストがあなたの罪の身代わりに十字架で死んでくださった。このことを信じる者は罪赦され、神との親しい関係が回復され、新しい命を与えられて生きる者と変えられる。

イエスを信じて近づき、あなたの人生にイエスを迎えるなら、キリストの新しい命はあなたの内に入り、神さまはあなたの人生にご介入される。その時、あなたはすべてを神さまにお委ねして安心して生きる者に変えられる。内なる病であった恐れや心配、絶望から解放される。

キリストの権威により人間の尊厳を回復する

マルコの福音書1章21-34節より

2020年2月23日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

この地上には権威と呼ばれるものが存在する。大統領、裁判官、また学校、職場、家庭にもそれぞれ権威を有する者がいる。この権威が正しく働かないと様々な問題が起こってくる。生まれ持って権威を持つ者はいない。この地上のすべての権威は神様が立てられたものである。神様は、すべての権威の上に存在する。神様こそが、まことの権威、主権を持たれるお方である。万物を創造され、それを保持され、罪に堕落した霊的、物質的なすべての救いを成し遂げてくださる。

教えることにも権威ある言葉で教えられる。聖書は神の言葉で権威がある。

人間はこのまことの権威を持つ神様に従がう時のみ、正しく尊く、神さまに愛された存在である自分を受け入れ、人間として自由に生きることができる。この権威に逆らって生きることが罪である。

キリストはこの権威を神様から与えられ、悪霊に対して、万物に対して従わせる権威を持ち、この世を広義と正義によってさばき、治められる。そして罪を赦す権威を持つ唯一の方である。

そのために王の王、主の主であるキリストが仕えられるためでなく、仕える者として、自ら十字架で、私たちの罪のために死んでくださいました。私たちに愛を示され、愛し合うことの模範となられました。

キリストを罪からの救い主として信じ従う者は、罪赦されて、まことのいのちを得る。そしてキリストの権威をもって、人を赦し、愛し、悪霊や罪に打ち勝つ力をもって、キリストに遣わされた使節として地の塩、世の光とされる。

すべての人を呼ぶ父なる神の愛の声

マルコの福音書1章14-28節より

2020年2月16日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

バプテスマのヨハネが捕えられ、イエスは宣教を開始された。

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

罪に堕落して神から離れた、すべての人への不変のメッセージだ。

イエスに呼ばれた弟子たちは家財も家族も残して、イエスのあとに従った。信仰とは過去の生き方に決別して始める新しい生き方。今までの古い知性で理解しようとして納得して始めるものではない。ただイエスのことばを信じると決断すること。

弟子たちが特別だったから選ばれたのではない。神にとってすべての人は同じ。ただ違うのは神の呼びかけを聞き従うかどうか。

神さまがあなたを呼び続けるのは、皆さんが神様の子どもであるから。子どもが本当に喜んで生きている姿こそが、父なる神様の願いだからです。

問題があっていい、正しくなくていい、ありのままの姿で神様に向き合うこと。そうするなら神様はあなたの人生に深く関わられ、あなたを癒し、命を回復してくださる。どんな時も、神様はあなたの心にしっかりと住まわれる。

「自分探しの旅」という言葉がある。しかし、父なる神様を知ることなく、自分を探すことは不可能だ。このまことの神さまに出会うことにまさる人生はない。

今は恵みの日、救いの時、神の時は満ちている。イエス様は私たちをご覧になり、呼び続けている。このイエス様に応えて信じて今日も生きていける。

キリストを信じる者は暗闇の力に打ち勝つ

マルコの福音書1章12-13節より

2020年2月9日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

悪魔はみ使いの堕落したなれの果てで、偽り、欺き、試みる者。神と人に対抗して、神のご計画を妨害しようと、悪霊を使って、人を誘惑して罪の奴隷とし、人間の霊をくらまし、まことの救い主から引き離し、永遠の滅びへ道連れにしようと働いている。

今の世は霊的な荒野そのもの。危険で過酷で人間単独では住めない場所。今の世は神の許された限定の中での悪魔の支配下にある。悪魔も自分たちの滅びが迫っているのを知り最後の悪あがきがすさまじい。悪魔など空想、迷信、非科学的な存在と侮るものこそ悪魔の思うつぼである。我々は悪魔の子か神の子かどちらかに属する。悪魔の暗闇の力に人間は対抗する力はない。しかし神のみことば、キリストが今も生きて働かれている。悪魔もみことばの力をよく知る。しかしその真理の力を用いることはできないので、私たちからみことばを持ち去ろうと必死に働く。

聖なる神の御国と悪の死の支配の争奪は創世以来見えない霊的な世界で今も続いている。

神のご計画はキリストの十字架の死と復活により、悪魔を滅ぼし、人間を罪の支配から救い出し御国の民に回復すること。そのために、神は洗礼を受けたイエスに下った御霊により、すぐに荒野の試みにイエスを追いやる。ここから、イエスは悪魔と直接対決される。

しかし、みことばの預言の通り、キリストは悪魔に完全な勝利をとられた。私たちを罪と死から解放してくださった。

この世の霊だからと言ってすべて信じてはならない。聖霊によりイエスを主と告白する者はこの世で勝利する。

キリストこそが悪魔に打ち勝ち、罪を赦す権威をもつお方である。

試みを通られたキリストは人の弱さをご存知である。私たちを死から命に変え、罪に打ち勝つ力を与えられる。

「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」

(ヨハネの手紙第一3章8節)

「子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」

(ヨハネの手紙第一4章4節)

悔い改め、キリストを信じるなら生きる道が真っ直ぐにされる~新しき時代の到来。道を備え迎えよ~

マルコの福音書1章1-11節より

2020年2月2日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

約2000年の旧約聖書の時代、それは最初の人アダムに始まる神から離れた人間の罪の歴史。今、神の時が満ち、旧約から新しい契約へ変わる劇的な瞬間が訪れようとしている。

キリストの道を備える先駆者として荒野で待つヨハネを神は遣わされた。

神と人間の関係を阻んでいるのは罪である。電球とソケットの間に薄い紙一枚が入っても電気は流れず電球は光らない。罪がある限り人間は神に近づくことは決してできない。神不在の人生の道は光がなく、曲がりくねり、でこぼこ道があり、いたみやひび割れがあり、目的もなく、どこに向かって進めばいいのかもわからない。その道は永遠の滅びに続いている。

あなたの人生の道に光を照らし、目的の泉を与え、うるおし、障害を取り除き、橋を架け、草木を植え、真新しい道にしてくれるのは神さまご自身である。

キリストの血の全き罪の赦しによる新しい契約が人間に与えられた。

今は素晴らしい救いの時。それを受けるかどうかは、あなたの心次第である。私たちの人生にも神の時は満ちる。あなたの人生にキリストが入って来られる。キリストが入る前の人生と後ではすべてが変えられる。古い人は過ぎ去り、新しく生まれ変わる。

そのために必要なことは神さまに立ち返り、自分の罪を正直に告白して、キリストが自分の罪のために身代わりに十字架で死なれたことを信仰によって信じることである。赦しは恵みであり、人間の努力でなくキリストの十字架による。

キリストご自身があなたの内に住まわれるのである。あなたのかけがえのない人生の道を一緒に歩むために。これが福音であり最高の知らせである。

「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」

(マルコの福音書1章11節)