キリストにあってすべてが新しい

コリント人への手紙第二5章11-21節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月28日

<説教>

こういうわけで、私たちは、主(しゅ)を恐(おそ)れることを知っているので、人々を説得(せっとく)しようとするのです。私たちのことは、神の御前(みまえ)に明(あき)らかです。しかし、あなたがたの良心(りょうしん)にも明(あき)らかになることが、私の望(のぞ)みです。私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦(すいせん)しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇(ほこ)る機会(きかい)をあなたがたに与(あた)えて、心においてではなく、うわべのことで誇(ほこ)る人たちに答えることができるようにさせたいのです。もし私たちが気が狂(くる)っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気(しょうき)であるとすれば、それはただあなたがたのためです。というのは、キリストの愛が私たちを取(と)り囲(かこ)んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後(こんご)、人間的な標準(ひょうじゅん)で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準(ひょうじゅん)でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造(つく)られた者です。古いものは過(す)ぎ去(さ)って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解(わかい)させ、また和解(わかい)の務(つと)めを私たちに与(あた)えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世(よ)をご自分と和解(わかい)させ、違反(いはん)行為(こうい)の責(せ)めを人々に負(お)わせないで、和解(わかい)のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節(しせつ)なのです。ちょうど神が私たちを通(とお)して懇願(こんがん)しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解(わかい)を受(う)け入(い)れなさい。神は、罪(つみ)を知らない方を、私たちの代わりに罪(つみ)とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義(ぎ)となるためです。

(コリント人への手紙第二5章11-21節)

<説教>

あなたは新しく生まれ変わりたいですか。

人間の体の90%は生まれ変わっているのをご存知(ぞんじ)ですか。古(ふる)い細胞(さいぼう)が新しい細胞(さいぼう)に入れ替わるのです。約4か月前に食べたものが今の、あなたの血や肉や骨になっているのです。

脳(のう)細胞(さいぼう)(脳(のう)みそ)と心筋(しんきん)細胞(さいぼう)(心臓(しんぞう)の筋肉(きんにく))以外(いがい)の細胞(さいぼう)は、物質的(ぶっしつてき)にほとんど入(い)れ替(か)わっていると言われています。約1年半後、見た目は変わらなくてもあなたはほぼ別人になっているわけです。

驚(おどろ)きですね。しかし、この人間を創(つく)られた神は、人の内面(うちめん)をも創(つく)り変(か)えることができるのです。

その方法は、聖書(せいしょ)を読んで、自分の罪(つみ)に気付(きづ)き、心を入(い)れ替(か)えて、神を信じて愛して生きることです。それ以外(いがい)に、人間は新しく生きることは決(けっ)してできません。

イエスが自分の罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死んでくださったこと、また三日目によみがえられたことを信じるなら、その瞬間(しゅんかん)、あなたの霊(れい)、魂(たましい)は新しくされます。あなたの中に、イエスが生き始めてくださいます。

外見(がいけん)は何も変わっていないように思えるかも知れません。しかし、その変化は時間が経(た)つに従(したが)って明らかにあらわれます。罪(つみ)に対して適当(てきとう)にごまかして生きることができなくされ、真実(しんじつ)に生きようという思いが与(あた)えられます。自分の弱さを知り、イエス様を求めるようになります。人生の価値(かち)や基準(きじゅん)が変えられます。生きる目的がはっきりし、自分を大切に健全(けんぜん)に愛(あい)する者へと変えられます。

それは、すべてイエス・キリストに似(に)た者へと変えられることであると聖書(せいしょ)は言っています。

イエスは神(かみ)でありながら、人間としてこの地上に来られ、父なる神(かみ)を大切に愛(あい)して従(したが)い、人々を愛(あい)して、人間の本来(ほんらい)の生き方を教(おし)えて下さいました。

人間は愛(あい)している者、信じている者に似(に)ていきます。イエスを信じて愛(あい)して生きるとき、まったく新しい人生を始めることができるのです。

命とは不思議(ふしぎ)なものです。命の誕生(たんじょう)は人間には説明できません。

あなたは自分が生まれたときのことを覚(おぼ)えていますか。おそらく何も覚(おぼ)えていないでしょう。しかし、心を入れ替(か)えてイエスを信じて生きようとするなら、もう一度新しく魂(たましい)が生まれ変わります。それは、あなたの喜(よろこ)びと希望(きぼう)となり、イエスこそがあなたの人生の目的になることでしょう。

信仰は神に答えるただ一つの手段

創世記11章27節-12章4節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月21日

<聖書>

これはテラの歴史(れきし)である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。ハランはその父テラの存命中(ぞんめいちゅう)、彼の生まれ故郷(こきょう)であるカルデヤ人のウルで死んだ。アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。サライは不妊(ふにん)の女で、子どもがなかった。テラは、その息子アブラムと、ハランの子で自分の孫のロトと、息子のアブラムの妻である嫁のサライとを伴い、彼らはカナンの地に行くために、カルデヤ人のウルからいっしょに出かけた。しかし、彼らはハランまで来て、そこに住みついた。テラの一生は二百五年であった。テラはハランで死んだ。【主】はアブラムに仰(おお)せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷(こきょう)、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福(しゅくふく)し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福(しゅくふく)となる。あなたを祝福(しゅくふく)する者をわたしは祝福(しゅくふく)し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族(みんぞく)は、あなたによって祝福(しゅくふく)される。」アブラムは【主】がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。

(創世記11章27節-12章4節)

<説教>

創世記(そうせいき)は、「人類(じんるい)の初(はじ)め」について書かれています。宇宙(うちゅう)の創造(そうぞう)、人間の創造(そうぞう)、人間の堕落(だらく)、ノアの洪水(こうずい)による神の審判(しんぱん)、バベルの塔(とう)の後、言葉が混乱(こんらん)して、人々は散(ち)り散(ぢ)りにされました。

しかし、神に背(そむ)き、自己(じこ)中心(ちゅうしん)に生きようとする罪深(つみぶか)い人間に、神はいつも語りかけてくださいます。

人間を罪(つみ)と死の滅(ほろ)びから、救い出そうとする神の贖(あがな)いの計画は、ひとりの人物、アブラハムから始まります。

神はアブラハムの心が神の御前(みまえ)に真実(しんじつ)であるのをご覧(らん)になります。しかし、アブラハムは、異邦(いほう)の神、偶像(ぐうぞう)を神とするウルの町に住んでいました。神はアブラハムをそこから救(すく)い出されます。神の語りかけに答えるならは、人は罪(つみ)の世から分離(ぶんり)(聖(せい)別(べつ))されていきます。

75歳で子供のないアブラハムにとって、自分の子孫(しそん)を通して祝福(しゅくふく)を与える神の約束(やくそく)は、常識(じょうしき)では信(しん)じられないものでした。神の約束(やくそく)はかならず果(は)たされますが、その中に信仰(しんこう)の試練(しれん)が含まれています。

神は高齢(こうれい)のアブラハム夫婦(ふうふ)から星の数ほどの子孫(しそん)を与(あた)えることがおできになることをアブラハムは信仰(しんこう)によって信(しん)じました。そうです。神は約束(やくそく)されたことを必ず実現(じつげん)されます。神の語りかけに、アブラハムはすぐに答えました。まったく未知(みち)の地へ新しく進(すす)みだしたのです。

神の約束(やくそく)を受(う)け取(と)るただ一つの方法は「信仰(しんこう)」です。神のことばを間違(まちが)いのない真実(しんじつ)なものと信(しん)じることです。

聖書(せいしょ)のいう信仰(しんこう)者とは、正しい行いを守ることによっていただくよりも深い、真実(しんじつ)な神との関係を知っていました。

聖書(せいしょ)は初(はじ)めから終わりまで信仰(しんこう)によって受(う)け取(と)る神の約束(やくそく)です。

イエス・キリストを救(すく)い主(しゅ)と信じる信仰(しんこう)は特別(とくべつ)なものでなく、人間が創造(そうぞう)された昔(むかし)から神に対する人間ができる唯一(ゆいいつ)の応答(おうとう)なのです。

アブラハムに約束された祝福(しゅくふく)は、イエス・キリストを通して完全(かんぜん)に成就(じょうじゅ)しました。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神を信じる者を義(ぎ)(罪(つみ)のない者)と認(みと)めてくださいます。

イエスに従う者の生き方

マルコの福音書10章35-45節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月14日

<聖書>

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼(たの)み事(ごと)をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光(えいこう)の座(ざ)で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求(もと)めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲(の)もうとする杯(さかずき)を飲(の)み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲(の)む杯(さかずき)を飲(の)み、わたしの受(う)けるべきバプテスマを受(う)けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許(ゆる)すことではありません。それに備(そな)えられた人々があるのです。」十人の者(もの)がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹(はら)を立(た)てた。そこで、イエスは彼らを呼(よ)び寄(よ)せて、言われた。「あなたがたも知(し)っているとおり、異邦人(いほうじん)の支配者(しはいしゃ)と認(みと)められた者(もの)たちは彼らを支配(しはい)し、また、偉(えら)い人たちは彼らの上に権力(けんりょく)をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉(えら)くなりたいと思う者(もの)は、みなに仕(つか)える者(もの)になりなさい。あなたがたの間で人の先に立(た)ちたいと思う者(もの)は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕(つか)えられるためではなく、かえって仕(つか)えるためであり、また、多くの人のための、贖(あがな)いの代価(だいか)として、自分のいのちを与(あた)えるためなのです。」

(マルコの福音書(ふくいんしょ)10章35-45節)

<説教>

イエスの弟子(でし)のヤコブとヨハネは他の弟子(でし)たちと同じように、すべてを捨(す)ててイエスに従(したが)ってきました。しかし、心の中では人よりも自分が評価(ひょうか)されたいとも考えていました。

かつて弟子(でし)たちは天国(てんごく)で一番偉(えら)い者とはどのような人かをイエスに質問(しつもん)しました。人間とはそもそも偉(えら)くなりたい、認(みと)められたいと願(ねが)うものなのです。

キリスト者とはイエスに従(したが)って生きる者です。そこには自分のためだけに生きる者が経験(けいけん)しない試練(しれん)や苦(くる)しみがあることでしょう。

けれども、たとえイエスと苦(くる)しみをともに受(う)けても天国(てんごく)で受(う)ける報(むく)いの確約(かくやく)を取(と)ることはできません。究極的(きゅうきょくてき)にはすべての最後の権限(けんげん)はキリストの父である神(かみ)にあります。私たちが求(もと)めるべきは、いかに報(むく)いを受(う)けるかよりも、いかにイエスに従(したが)って仕(つか)えていくかなのです。

イエスを信(しん)じて生きる者は、この世の権力者(けんりょくしゃ)のようであってはなりません。神(かみ)の前では、そのような権力(けんりょく)や力はまったく通用(つうよう)しません。神(かみ)の前では人に仕(つか)える者こそ尊(たっと)ばれる生き方です。仕(つか)える給仕(きゅうじ)、しもべのように役に立つ、謙遜(けんそん)な姿勢(しせい)がキリスト者の根本的(こんぽんてき)な姿勢(しせい)です。

イエスは、その救(すく)い主(ぬし)(メシヤ)としての生涯(しょうがい)を通(とお)して仕(つか)えるしもべの生き方を示(しめ)されました。その十字架(じゅうじか)こそが完全(かんぜん)な模範(もはん)でした。

「贖(あがな)いの代価(だいか)(ギリュトゥトロン)」とは、自分の力ではどうしても抜(ぬ)け出せない罪(つみ)の奴隷(どれい)状態(じょうたい)から人間を救(すく)い出すためにイエスが十字架(じゅうじか)で支払(しはら)われた命(いのち)です。

十字架(じゅうじか)の死にまで従(したが)ったイエスのお姿を知って、私たちがイエスを信(しん)じて愛(あい)するとき、私たちもまた誰(だれ)かに仕(つか)えることによってイエスの愛(あい)と十字架(じゅうじか)を本当に体験(たいけん)します。その生き方によって私たちはイエスに似(に)た真実(しんじつ)な人間に変えられていきます。

この世で人々から称賛(しょうさん)されるのは、さまざまな勝者(しょうしゃ)といわれる人たちかも知れません。しかし、神(かみ)が天国(てんごく)で冠(かんむり)をかぶらせてくれる者とは、誰(だれ)にも知られないような人生の中で、小さきものに仕(つか)えた者なのです。

驚くべき恵み~キリストと共に生かす

エペソ人への手紙2章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年5月7日

<聖書>

あなたがたは自分の罪過(ざいか)と罪(つみ)との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪(つみ)の中にあってこの世(よ)の流(なが)れに従(したが)い、空中(くうちゅう)の権威(けんい)を持つ支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に働(はたら)いている霊(れい)に従(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の肉(にく)の欲(よく)の中に生き、肉(にく)と心の望(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを受(う)けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊(ゆた)かな神(かみ)は、私たちを愛(あい)してくださったその大きな愛(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救(すく)われたのは、ただ恵(めぐ)みによるのです──

(エペソ人への手紙2章1-5節)

<説教>

神(かみ)の驚(おどろ)くべき、信(しん)じがたい恵(めぐ)みを知るには、人間がいかにひどい状態(じょうたい)なのかを知る必要(ひつよう)があります。

死とはやがて迎(むか)える未来(みらい)のことではなく、今現在(げんざい)の人間の姿(すがた)こそが死(し)であると聖書(せいしょ)ははっきりと示しています。すなわち、死(し)とは、人間の生命(せいめい)の源(みなもと)である神(かみ)との関係を失(うしな)った状態(じょうたい)を言うのです。人間の霊(れい)は「病(や)んでいる」とか「弱(よわ)っている」とかではなく、「死(し)んでいる」のです。

人間は罪(つみ)と共に生まれてきます。その人間は罪(つみ)に支配(しはい)され、奴隷(どれい)とされて、神(かみ)に従(したが)うことができません。人間とは生まれながら神(かみ)の御怒(みいか)りを受(う)けるべき子どもなのです。この御怒(みいか)りとはすべての人間が死後(しご)に受(う)ける審判(しんぱん)のことです。

しかし、神(かみ)の愛(あい)は、人間に次のような信(しん)じられない恵(めぐ)みを与(あた)えてくださいます。

  • 神(かみ)への扉(とびら)は開(ひら)かれています

道を外れて家出した子どもは、もう帰る家の戸(と)はかたく閉(と)ざされていると考えるかも知れません。キリストの十字架(じゅうじか)の罪(つみ)の贖(あがな)いによって、信(しん)じる者はいつでも神(かみ)への和解(わかい)の道が用意(ようい)されています。神(かみ)は悔(く)い改(あらた)めて戻(もど)ってくる人間を喜(よろこ)んで待っておられます。

  • 罪(つみ)によって死(し)んだ理想(りそう)の灯(ひ)をともしてくださいます

人間は罪(つみ)を繰(く)り返(かえ)すことによって、人生の気高(けだか)い理想(りそう)を失(うしな)ってしまいます。しかしキリストの恵(めぐ)みは、消(き)え去(さ)った理想(りそう)にふたたび灯(ひ)をともします。人生はふたたび生きる価値(かち)あるものとされます。

  • 罪(つみ)によって失(うしな)われた意志(いし)に命を吹(ふ)き込(こ)み新しく造(つく)り変(か)えてくださいます

罪(つみ)は徐々(じょじょ)に、しかし確実(かくじつ)に人間の尊(とうと)い意志(いし)を破(は)滅(めつ)させてしまいます。禁(きん)じられた悪いことがやめられなくなり、人間の正しい自由(じゆう)意志(いし)の力を奪(うば)い去(さ)ります。そしてまったくなす術(すべ)もなく罪(つみ)の鎖(くさり)に縛(しば)られてしまうのです。しかし、キリストは失(うしな)われた意志(いし)を新しく造(つく)られます。愛(あい)は人に新しい力を与(あた)えるのです。人間の真実(しんじつ)の愛(あい)が人に生きる力を与(あた)えるとしたら神(かみ)の愛(あい)ははるかにそれ以上です。人はキリストを愛(あい)するとき、まさに、その愛(あい)が私たちの意志(いし)を善(ぜん)に向(む)けて新しく造(つく)り変(か)えるのです。

この素晴(すば)らしい神(かみ)の恵(めぐ)み(プレゼント)はすべて無料(むりょう)です。赦(ゆる)しは、ただ神(かみ)の一方的(いっぽうてき)な愛(あい)の行いです。人間の側(がわ)に出来(でき)ることは何一つないのです。

キリストの十字架(じゅうじか)の死(し)を、自分の罪(つみ)の身代(みが)わりであると感謝(かんしゃ)して、ただ受(う)け取(と)るならば、あなたはこの恵(めぐ)みをご自分のものとすることができるのです。

信仰によってイエスと生きる

マタイの福音書14章22-33節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月30日

<聖書>

それからすぐ、イエスは弟子(でし)たちを強(し)いて舟(ふね)に乗(の)り込(こ)ませて、自分より先に向(む)こう岸(きし)へ行かせ、その間に群衆(ぐんしゅう)を帰(かえ)してしまわれた。群衆(ぐんしゅう)を帰(かえ)したあとで、祈(いの)るために、ひとりで山に登(のぼ)られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟(ふね)は、陸(りく)からもう何キロメートルも離(はな)れていたが、風が向(む)かい風なので、波(なみ)に悩(なや)まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖(みずうみ)の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子(でし)たちは、イエスが湖(みずうみ)の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊(ゆうれい)だ」と言って、おびえてしまい、恐(おそ)ろしさのあまり、叫(さけ)び声(ごえ)を上げた。 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐(おそ)れることはない」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主(しゅ)よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命(めい)じになってください。」イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟(ふね)から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈(しず)みかけたので叫(さけ)び出し、「主(しゅ)よ。助けてください」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸(の)ばして、彼をつかんで言われた。「信仰(しんこう)の薄(うす)い人だな。なぜ疑(うたが)うのか。」そして、ふたりが舟(ふね)に乗(の)り移(うつ)ると、風がやんだ。そこで、舟(ふね)の中にいた者たちは、イエスを拝(おが)んで、「確(たし)かにあなたは神(かみ)の子です」と言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)14章22-33節)

<説教>

このお話しは、イエスが5つのパンと2匹の魚から5千人に食事(しょくじ)を与(あた)えた奇蹟(きせき)の後の出来事(できごと)です。

弟子(でし)たちは、真夜中(まよなか)の海で向かい風と強い波(なみ)に悪戦苦闘(あくせんくとう)していました。そんな弟子(でし)たちを慰(なぐさ)めるためにイエスは海の上を歩いて弟子(でし)たちに近づきました。

疲(つか)れ切(き)った弟子(でし)たちは、昼間の奇蹟(きせき)を忘れて、イエスを幽霊(ゆうれい)と見(み)間違(まちが)って恐(おそ)れます。イエスは弟子(でし)たちに言われます

「しっかりしなさい。わたしだ。恐(おそ)れることはない」

これは現実(げんじつ)の問題(もんだい)に恐(おそ)れてしまう私たちへのイエスのおことばです。どんな状況(じょうきょう)の中であってもイエスを信(しん)じることだけがあなたを守(まも)ってくれるのです。

イエスのことばを信(しん)じたときペテロの恐(おそ)れは消(き)え、イエスだけを真(ま)っ直(す)ぐに見て水の上を歩くことができました。しかし、その直後(ちょくご)に風と波(なみ)を見たとき彼の心に恐(おそ)れが生まれ、海に沈(しず)みそうになります。信(しん)じ続(つづ)けることが難(むずか)しいのです。

科学(かがく)では人間は絶対(ぜったい)に水の上を歩けません。重力(じゅうりょく)や浮力(ふりょく)の法則(ほうそく)に逆(さか)らうことができないからです。この天地(てんち)万物(ばんぶつ)を造(つく)られた神(かみ)を信じる者は幸(さいわ)いです。神(かみ)は見えるものだけでなく、時間や光、力やあらゆる物理(ぶつり)法則(ほうそく)も定(さだ)められました。

しかしイエスを信(しん)じる信仰(しんこう)は、重力(じゅうりょく)や浮力(ふりょく)に逆(さか)らって水の上を歩くより驚(おどろ)くべきことです。それは人間にはどうすることもできない罪(つみ)の力、人間をがんじがらめにしている罪(つみ)の鎖(くさり)からの解放(かいほう)です。イエスが十字架(じゅうじか)で死んでくださり、よみがえられたことで、罪(つみ)の力はもう取(と)り去(さ)られたのです。イエスを信(しん)じるなら、罪(つみ)の力はもうあなたを深(ふか)い闇(やみ)に沈(しず)めることはできません。

水の上を歩くよりも不思議(ふしぎ)な道です。それは目には見えない、どこを探(さが)しても見つからない信仰(しんこう)という小さい門、イエスと共にしか歩めない真理(しんり)という狭(せま)い道を生きることです。

そのようにイエスを信じて救(すく)われた者も何度(なんど)も何度(なんど)も失敗(しっぱい)します。しかしイエスに従(したが)う者は必(かなら)ず助(たす)けられ、そこから立ち上り、前へ前へと進んでいくことができるのです。その道は天国につながっています。

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理(しんり)であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

(ヨハネの福音書14:6)

探して近づいてくださる神

ルカの福音書15章11-24節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月23日

<聖書>

またこう話された。「ある人に息子(むすこ)がふたりあった。弟(おとうと)が父に、『お父さん。私に財産(ざいさん)の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代(しんだい)をふたりに分けてやった。それから、幾日(いくにち)もたたぬうちに、弟(おとうと)は、何もかもまとめて遠い国に旅立(たびだ)った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水(ゆみず)のように財産(ざいさん)を使(つか)ってしまった。何もかも使(つか)い果(は)たしたあとで、その国に大ききんが起(お)こり、彼は食べるにも困(こま)り始(はじ)めた。それで、その国のある人のもとに身(み)を寄(よ)せたところ、その人は彼を畑にやって、豚(ぶた)の世話(せわ)をさせた。彼は豚(ぶた)の食べるいなご豆(まめ)で腹(はら)を満(み)たしたいほどであったが、だれひとり彼に与(あた)えようとはしなかった。しかし、我(われ)に返(かえ)ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余(あま)っている雇(やと)い人(にん)が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢(う)え死(じ)にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪(つみ)を犯おか)し、またあなたの前に罪(つみ)を犯(おか)しました。もう私は、あなたの子と呼(よ)ばれる資格(しかく)はありません。雇(やと)い人(にん)のひとりにしてください。」』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠(とお)かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄(よ)って彼を抱(だ)き、口づけした。息子(むすこ)は言った。『お父さん。私は天に対して罪(つみ)を犯(おか)し、またあなたの前に罪(つみ)を犯(おか)しました。もう私は、あなたの子と呼(よ)ばれる資格(しかく)はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急(いそ)いで一番良(よ)い着物(きもの)を持(も)って来て、この子に着(き)せなさい。それから、手に指輪(ゆびわ)をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥(こ)えた子牛(こうし)を引(ひ)いて来(き)てほふりなさい。食べて祝(いわ)おうではないか。この息子(むすこ)は、死(し)んでいたのが生(い)き返(かえ)り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴(しゅくえん)を始(はじ)めた。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)15章11-24節)

<説教>

有名(ゆうめい)な放蕩(ほうとう)息子(むすこ)のたとえ話です。正確(せいかく)には、失(うしな)われた子どもたち・父の愛(あい)の物語(ものがたり)と言えます。

父の存命中(ぞんめいちゅう)に相続(そうぞく)財産(ざいさん)を受(う)け取(と)り、父のもとから遠(とお)く離(はな)れて放蕩(ほうとう)のすえ、友も失(うしな)い孤独(こどく)となり、食べるのにも困(こま)り果(は)て、ユダヤ人にとって決(けっ)してあってはならない豚(ぶた)の世話(せわ)をするまで落(お)ちぶれてしまいます…

人間の罪(つみ)とは一体(いったい)何(なん)でしょうか。それは人間は愛(あい)に対して反逆(はんぎゃく)する存在(そんざい)だということです。それは、愛(あい)するために子に命(いのち)を与(あた)えた神(かみ)にとっては考(かんが)えられないことでした。決(けっ)してあってはならないことでした。

子の罪(つみ)は、親のお金を自分の欲(よく)のために浪費(ろうひ)したことではありません。この放蕩(ほうとう)息子(むすこ)が父親の愛(あい)から独立(どくりつ)して生活したいと、なぜか考(かんが)えたことなのです。それは親を敬(うやま)っての自立(じりつ)ではありませんでした。父親の意志(いし)に従(したが)うことが窮屈(きゅうくつ)と感じて、父から離(はな)れて生きようとすることでした。また人生の主導権(しゅどうけん)は自分であって自分のしたいように生きようとすることでした。家庭(かてい)の愛(あい)の中で生きることは、自分の自由な人生を妨(さまた)げると考(かんが)えて、その家族から離(はな)れて生きようとすることでした。

実(じつ)はそれこそが、人類(じんるい)の最初(さいしょ)の罪(つみ)、最初(さいしょ)の人アダムが神(かみ)に従(したが)わず、神(かみ)から離(はな)れて生きることと同じなのです。それ以来(いらい)続(つづ)く人類(じんるい)の物語(ものがたり)の歴史(れきし)です。

罪(つみ)とは、自分を造(つく)った神(かみ)の最高の愛(あい)のもとで被造物(ひぞうぶつ)として従(したが)わずに、神(かみ)がくださる素晴(すば)らしい賜物(たまもの)を神(かみ)のために使わずに、神(かみ)のもとから離(はな)れて生きることです。しかし、神(かみ)から離(はな)れて自由に生きようとするとき、人間は必(かなら)ず罪(つみ)の奴隷(どれい)になると聖書(せいしょ)は教えています。

しかし父の愛(あい)は熱心(ねっしん)に失(うしな)われた息子(むすこ)を探(さが)すのです。息子(むすこ)が家にいたときも、父の財産(ざいさん)をもって遠(とお)く離(はな)れたときも、すべてを失(うしな)って豚(ぶた)の世話(せわ)をしていたときも、父の愛(あい)は変わることはありませんでした。

ただ、罪(つみ)が父と息子(むすこ)の間にあるために、和解(わかい)には息子(むすこ)の心(こころ)の変化(へんか)を待(ま)たねばなりませんでした。自分と向き合い罪(つみ)の悲惨(ひさん)を認(みと)め、神(かみ)に立ち返ろうと願(ねが)うこと、それは本人(ほんにん)以外(いがい)誰(だれ)にもできません。

人間は神(かみ)から離(はな)れて逆(さか)らっている間は、本当の自分から離(はな)れています。神(かみ)に立ち返るとき人間ははじめて本当の自分を見つけることができるのです。

我(われ)に返(かえ)ったとき、息子(むすこ)は父に従(したが)わなかった罪(つみ)の生き方を止めて父に従(したが)う雇(やと)い人(にん)になることで満足(まんぞく)します。もう愛(あい)される子どもの資格(しかく)はないと考えるかも知れません。

しかし、神(かみ)の前に悔(く)い改(あらた)めるなら、父なる神(かみ)は、喜(よろこ)んで彼を迎(むか)えてくださり、完全(かんぜん)なこども以上の存在(そんざい)を与(あた)えてくださいます。

あなたがたは自分の罪過(ざいか)と罪(つみ)との中に死(し)んでいた者であって、そのころは、それらの罪(つみ)の中にあってこの世の流(なが)れに従(したが)い、空中(くうちゅう)の権威(けんい)を持(も)つ支配者(しはいしゃ)として今も不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中に働(はたら)いている霊(れい)に従(したが)って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順(ふじゅうじゅん)の子らの中にあって、自分の肉(にく)の欲(よく)の中に生き、肉(にく)と心(こころ)の望(のぞ)むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒(みいか)りを受(う)けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊(ゆた)かな神(かみ)は、私たちを愛(あい)してくださったその大きな愛(あい)のゆえに、罪過(ざいか)の中に死(し)んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救(すく)われたのは、ただ恵(めぐ)みによるのです── 

(エペソ人への手紙2:1-5)

すべて疲れた人へ

マタイの福音書11章20-30節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月16日

<聖書>

それから、イエスは、数々(かずかず)の力あるわざの行われた町々が悔(く)い改(あらた)めなかったので、責(せ)め始(はじ)められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔(むかし)に荒(あら)布(ぬの)をまとい、灰(はい)をかぶって悔(く)い改(あらた)めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰(ばつ)が軽(かる)いのだ。カペナウム。どうしておまえが天(てん)に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残(のこ)っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰(ばつ)が軽(かる)いのだ。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地(てんち)の主(おも)であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢(かしこ)い者(もの)や知恵(ちえ)のある者(もの)には隠(かく)して、幼子(おさなご)たちに現(あらわ)してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡(わた)されています。それで、父のほかには、子を知(し)る者(もの)がなく、子と、子が父を知(し)らせようと心(こころ)に定(さだ)めた人のほかは、だれも父を知(し)る者(もの)がありません。すべて、疲(つか)れた人、重荷(おもに)を負(お)っている人は、わたしのところに来(き)なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心(こころ)優(やさ)しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負(お)って、わたしから学(まな)びなさい。そうすればたましいに安らぎが来(き)ます。わたしのくびきは負(お)いやすく、わたしの荷(に)は軽(かる)いからです。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

ツロ、シドンは旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)で、異邦(いほう)の神(かみ)を崇(すう)拝(はい)して、栄華(えいが)と快楽(かいらく)と高(たか)ぶりにより、ユダヤをあざけり滅(ほろ)ぼされた国です。ソドムは汚(けが)れた肉欲(にくよく)と罪深(つみふか)い町であり、罪(つみ)と罰(ばつ)の代名詞(だいめいし)でした。けれども、そんな町々でさえ、イエスがなされる神(かみ)の奇蹟(きせき)を見るなら罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めるので、ユダヤの町々よりも罪(つみ)は軽いとイエスは言われます。

イエスを信じて罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めるなら、天国(てんごく)に入れる福音(ふくいん)(よい知らせ)は、賢(かしこ)い者や知恵(ちえ)ある者には神(かみ)は隠(かく)されるのです。神(かみ)は形式(けいしき)や儀式(ぎしき)を嫌(きら)われます。神(かみ)を愛(あい)する心を喜(よろこ)ばれます。世(よ)からさげすまれ、価値(かち)なき者、無知(むち)な者、ただ素直(すなお)な者に神(かみ)は救(すく)いの御国(みくに)を恵(めぐみ)として与(あた)えてくださるのです。

父なる神(かみ)を知るのは子なるイエスだけです。またイエスを知るのは神(かみ)だけです。父なる神(かみ)と子なるイエスは特別な関係(かんけい)をもちます。天の御国(みくに)にまつわるすべては神(かみ)からイエスに委ねられています。ただ、イエスによってのみ、人間は神(かみ)を知ることができるのです。ここで言う「知る」とはたんなる知的(ちてき)な知識(ちしき)ではなくて、いのちが通(かよ)い合う存在(そんざい)の関係(かんけい)です。

イエスは、すべての人に、わたしのもとに来るように招(まね)いています。それは、罪(つみ)の重荷(おもに)に苦(くる)しむ者、人生の思いわずらい、苦(くる)しみ、問題(もんだい)に悩(なや)む者です。この招(まね)きにこたえてイエスのもとに来るものは重荷(おもに)をおろして休むことができると約束(やくそく)されています。

それはイエスのくびきを共にいただくことです。くびきとは人間が2頭(とう)の牛(うし)や馬(うま)の首(くび)を板(いた)ではさんで固定(こてい)して操(あやつ)る道具(どうぐ)です。

それは、気ままに歩む者には、束縛(そくばく)であり邪魔(じゃま)なものです。しかし、主人(しゅじん)に従(したが)おうとする者には必要(ひつよう)であり、また願(ねが)うものです。イエスこそがすべての主権者(しゅけんしゃ)である神(かみ)であり、この方を認(みと)めて、信頼(しんらい)して生きるとき、人は初(はじ)めてまことの平安(へいあん)をいただくことができるのです。そのとき、不安(ふあん)、罪悪感(ざいあくかん)、欲求(よっきゅう)不満(ふまん)からくる緊張(きんちょう)や、あせりから解放(かいほう)されます。

なぜなら、イエスが与(あた)えるくびきは、あなたの体にぴったり合ったオーダーメイドのくびきだからです。肌(はだ)がすりむけるような苦痛(くつう)や窮屈(きゅうくつ)なくびきではありません。罪(つみ)の重荷(おもに)や、世(よ)に認(みと)められる労苦(ろうく)に結(ゆ)わえつけられたくびきではないのです。

いつもイエスが共にいる歩みであり、決して重荷(おもに)にはなりません。イエスを知っていく、罪(つみ)の重荷(おもに)が取(と)り去(さ)れ、汚(けが)れからきよめらえる愛(あい)と喜(よろこ)びと平安(へいあん)の歩みなのです。

   1.主(しゅ)にすがるわれに 悩(なや)みはなし
 十字架(じゅうじか)の御許(みもと)に 荷(に)を下ろせば
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
  
 2.恐(おそ)れは変(か)わりて 祈りとなり
 嘆(なげ)きは変(か)わりて 歌(うた)となりぬ
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
   
 3.主(しゅ)はいと優(やさ)しく われと語(かた)り
 乏(とぼ)しき時(じ)に 満(み)たし給(たま)う
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
  
 4.主(しゅ)の御約束(みやくそく)に 変(か)わりはなし
 御許(みもと)に行(ゆ)くまで 支(ささ)え給(たま)わん
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん
 ハレルヤ! ハレルヤ!
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん この世(よ)の旅路(たびじ)を
  
 聖歌498番
 歌(うた)いつつ歩(あゆ)まん(主(しゅ)にすがる我に) 

十字架の上

マタイの福音書27章27-51節より

土山みことばキリスト教会

2023年4月2日

<聖書>

それから、総督(そうとく)の兵士(へいし)たちは、イエスを官邸(かんてい)の中に連(つ)れて行って、イエスの回りに全部隊(ぜんぶたい)を集(あつ)めた。そして、イエスの着物(きもの)を脱(ぬ)がせて、緋色(ひいろ)の上着(うわぎ)を着(き)せた。それから、いばらで冠(かんむり)を編(あ)み、頭(あたま)にかぶらせ、右手(みぎて)に葦(あし)を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王(おう)さま。ばんざい。」また彼らはイエスにつばきをかけ、葦(あし)を取(と)り上げてイエスの頭(あたま)をたたいた。こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物(きもの)を脱(ぬ)がせて、もとの着物(きもの)を着(き)せ、十字架(じゅうじか)につけるために連(つ)れ出した。そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架(じゅうじか)を、むりやりに背負(せお)わせた。ゴルゴタという所(ところ)(「どくろ」と言われている場所(ばしょ))に来てから、彼らはイエスに、苦(にが)みを混(ま)ぜたぶどう酒(しゅ)を飲(の)ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲(の)もうとはされなかった。こうして、イエスを十字架(じゅうじか)につけてから、彼らはくじを引(ひ)いて、イエスの着物(きもの)を分け、そこにすわって、イエスの見張(みは)りをした。また、イエスの頭(あたま)の上には、「これはユダヤ人の王(おう)イエスである」と書いた罪状(ざいじょう)書(が)きを掲(かか)げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗(ごうとう)が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架(じゅうじか)につけられた。道(みち)を行く人々は、頭(あたま)を振(ふ)りながらイエスをののしって、言った。「神殿(しんでん)を打ちこわして三日(みっか)で建(た)てる人よ。もし、神の子なら、自分を救(すく)ってみろ。十字架(じゅうじか)から降(お)りて来(こ)い。」同(おな)じように、祭司(さいし)長(ちょう)たちも律法(りっぽう)学者(がくしゃ)、長(ちょう)老(ろう)たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人(たにん)を救(すく)ったが、自分は救(すく)えない。イスラエルの王(おう)だ。今、十字架(じゅうじか)から降(お)りてもらおうか。そうしたら、われわれは信(しん)じるから。彼は神(かみ)により頼(たの)んでいる。もし神(かみ)のお気に入りなら、いま救(すく)っていただくがいい。『わたしは神(かみ)の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架(じゅうじか)につけられた強盗(ごうとう)どもも、同(おな)じようにイエスをののしった。さて、十二時(じゅうにじ)から、全地(ぜんち)が暗(くら)くなって、三時(さんじ)まで続(つづ)いた。三時(さんじ)ごろ、イエスは大声(おおごえ)で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫(さけ)ばれた。これは、「わが神(かみ)、わが神(かみ)。どうしてわたしをお見捨(みす)てになったのですか」という意味(いみ)である。すると、それを聞(き)いて、そこに立(た)っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼(よ)んでいる」と言った。また、彼らのひとりがすぐ走(はし)って行って、海綿(かいめん)を取(と)り、それに酸(す)いぶどう酒(しゅ)を含(ふく)ませて、葦(あし)の棒(ぼう)につけ、イエスに飲(の)ませようとした。ほかの者(もの)たちは、「私たちはエリヤが助(たす)けに来(く)るかどうか見ることとしよう」と言った。そのとき、イエスはもう一度(いちど)大声(おおごえ)で叫(さけ)んで、息(いき)を引(ひ)き取(と)られた。すると、見よ。神殿(しんでん)の幕(まく)が上から下まで真(ま)っ二(ぷた)つに裂(さ)けた。そして、地(ち)が揺(ゆ)れ動(うご)き、岩(いわ)が裂(さ)けた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章27-51節)

<説教>

十字架刑(じゅうじかけい)は、特別(とくべつ)な犯罪(はんざい)にしか使われませんでした。それは主人(しゅじん)を裏切(うらぎ)った者、逃亡(とうぼう)した者、最も低い身分(みぶん)の者が重い罪(つみ)を犯(おか)した場合でした。

汚(けが)れた罪人(つみびと)が地上に触(ふ)れないように、十字架(じゅうじか)の上で世(よ)から捨(す)てられた存在(そんざい)として、苦痛(くつう)と、さげすみと、はずかしめを受(う)けるのです。

そして、イエスは苦(くる)しみの十字架(じゅうじか)の上で、父なる神(かみ)にも見捨(す)てられました。

なぜでしょうか。神(かみ)は完全(かんぜん)に正しいお方(かた)で、きよく、愛(あい)なるお方(かた)です。神(かみ)は全能(ぜんのう)で何でもできます。しかし、神(かみ)のご性質(せいしつ)に反(はん)することはできません。神(かみ)は罪(つみ)をそのままにしておくことはできないのです。

イエスが十字架(じゅうじか)で死(し)ななければならないほど、人間の罪(つみ)は重(おも)いのです。十字架(じゅうじか)の上で、すべての人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなり、父なる神(かみ)の目には、イエスが完全(かんぜん)な罪人(つみびと)として見えたのです。そして、罪人(つみびと)としての刑罰(けいばつ)を、すべてお受(う)けになったのです。罪(つみ)は神(かみ)との関係(かんけい)を失わせます。神(かみ)に造(つく)られた者にとって、神(かみ)の答(こた)えがないことは何よりも苦痛(くつう)なのです。

イエスの右と左には強盗(ごうとう)が十字架(じゅうじか)に付けられていました。一人の強盗(ごうとう)は、自分の苦(くる)しみを叫(さけ)び、神(かみ)を呪(のろ)っています。しかし、もう一人の強盗(ごうとう)は、自分の罪深(つみぶか)い人生に気付(きづ)きます。神(かみ)がいないため、どうしようもない人生になったとわかったのです。しかし、彼はイエスが神(かみ)であり、自分の罪深(つみぶか)さに答(こた)えて下さると信(しん)じたのです。

しかし、彼は、もう十字架(じゅうじか)の上で死(し)ぬのをただ待(ま)つだけです。残(のこ)された時間で彼にいったい何が出来(でき)るとういうのでしょうか。もう絶望(ぜつぼう)なのでしょうか。

いいえ。人はいつでも自分と向(む)き合い、自分の罪(つみ)やけがれを心から、悔(く)い改(あらた)めるなら、イエスを信(しん)じるだけで、その瞬間(しゅんかん)に救(すく)われ、罪(つみ)が赦(ゆる)されます。

すべての人は、イエスの右と左の強盗(ごうとう)のどちらかです。それ以外の人はひとりもいません。すべての人間は罪人(つみびと)です。イエスが必要(ひつよう)なのです。

神(かみ)は人間の罪(つみ)を決してあいまいにはできません。しかし、神(かみ)は同時(どうじ)に、その罪(つみ)の刑罰(けいばつ)をご自分でお受(う)けになったのです。

十字架(じゅうじか)は、神(かみ)の完全(かんぜん)な正しさと、完全(かんぜん)な愛(あい)が現(あらわ)された死(し)をいのちに変(か)える力(ちから)です。

罪(つみ)の重荷(おもに)は、あまりに重(おも)く、誰(だれ)も背負(せお)うことなどできません。イエスはあなたを自由(じゆう)に解放(かいほう)するために「完了した」と言われ死(し)んでくださいました。

この尊(とうと)いイエスの犠牲(ぎせい)の死(し)、しかし、あなたのために喜(よろこ)んで十字架(じゅうじか)で死(し)んでくださったイエスを信(しん)じませんか。

十字架と罪

マタイの福音書27章15-26節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月26日

<聖書>

ところで総督(そうとく)は、その祭(まつ)りには、群衆(ぐんしゅう)のために、いつも望(のぞ)みの囚人(しゅうじん)をひとりだけ赦免してやっていた。そのころ、バラバという名の知れた囚人(しゅうじん)が捕(と)らえられていた。それで、彼らが集(あつ)まったとき、ピラトが言った。「あなたがたは、だれを釈放(しゃくほう)してほしいのか。バラバか、それともキリストと呼(よ)ばれているイエスか。」ピラトは、彼らがねたみからイエスを引(ひ)き渡(わた)したことに気づいていたのである。また、ピラトが裁判(さいばん)の席(せき)に着(つ)いていたとき、彼の妻(つま)が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢(ゆめ)で、あの人のことで苦(くる)しいめに会いましたから。」しかし、祭司(さいし)長(ちょう)、長老(ちょうろう)たちは、バラバのほうを願(ねが)うよう、そして、イエスを死刑(しけい)にするよう、群衆(ぐんしゅう)を説(と)きつけた。しかし、総督(そうとく)は彼らに答えて言った。「あなたがたは、ふたりのうちどちらを釈放(しゃくほう)してほしいのか。」彼らは言った。「バラバだ。」ピラトは彼らに言った。「では、キリストと言われているイエスを私はどのようにしようか。」彼らはいっせいに言った。「十字架(じゅうじか)につけろ。」だが、ピラトは言った。「あの人がどんな悪(わる)い事をしたというのか。」しかし、彼らはますます激(はげ)しく「十字架(じゅうじか)につけろ」と叫び続けた。そこでピラトは、自分(じぶん)では手の下(くだ)しようがなく、かえって暴動(ぼうどう)になりそうなのを見て、群衆(ぐんしゅう)の目の前で水を取(と)り寄(よ)せ、手を洗(あら)って、言った。「この人の血(ち)について、私には責任(せきにん)がない。自分(じぶん)たちで始末(しまつ)するがよい。」すると、民衆(みんしゅう)はみな答(こた)えて言った。「その人の血(ち)は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放(しゃくほう)し、イエスをむち打(う)ってから、十字架(じゅうじか)につけるために引(ひ)き渡(わた)した。  

(マタイの福音書(ふくいんしょ)27章15-26節)

<説教>

ローマの支配下(しはいか)のユダヤ領(りょう)の総督(そうとく)ポンテオ・ピラトによる、イエスの裁判(さいばん)が行われます。ユダヤ国は十字架刑(じゅうじかけい)を執行(しっこう)する権限(けんげん)がなかったので、イエスを政治犯(せいじはん)としてローマの権限(けんげん)で十字架刑(じゅうじかけい)にしようとしたのです。

裁判(さいばん)の中で、ピラトはイエスは無実(むじつ)であり、十字架刑(じゅうじかけい)にする理由(りゆう)はないと判断(はんだん)しました。ピラトはイエスを何とか釈放(しゃくほう)しようと努力(どりょく)します。しかし、イエスを憎(にく)むユダヤ指導者(しどうしゃ)や、彼らに扇動(せんどう)された群衆(ぐんしゅう)は狂(くる)ったように、「イエスを十字架(じゅうじか)に付けろ!」と叫(さけ)び続(つづ)けます。その力を恐(おそ)れて、自分の身を守るために、ついにピラトはイエスを十字架(じゅうじか)へと引(ひ)き渡(わた)します。

しかし、実はピラトの本当の姿(すがた)は堕落(だらく)していました。彼は不正(ふせい)を行い、残忍(ざんにん)で、不法(ふほう)な裁判(さいばん)で人を殺(ころ)し、人間として道(みち)を外(はず)していたのです。ピラトはイエスがこれまで裁判(さいばん)で見てきた罪人(つみびと)とはまったく違(ちが)う存在(そんざい)であることに気付(きづ)きます。いつしか、ピラト本人(ほんにん)がイエスに裁(さば)かれていました。無実(むじつ)のイエスをさばくことなどできない自分の罪深(つみぶか)い姿(すがた)をピラトは苦しみます。

ピラトは、イエスの無実(むじつ)を知りながら、ユダヤ人たちに自分の過去(かこ)の悪行(あくぎょう)を知られていたため、自分の判断(はんだん)や正しさを行えず、ユダヤ人の言いなりになったのです。

しかし、イエスは、そんなピラトの罪深(つみぶか)い姿(すがた)をご存知(ぞんじ)でした。

人間は自分の願(ねが)いをかなえるためには、少しの悪(あく)や不正(ふせい)はかまわないと思うかも知れません。いえ、悪(あく)は善(ぜん)に打(う)ち勝(か)つと本気で考える人たちもいるかも知れません。

しかし、ヘロデ、カヤパ、ピラト、ヒットラー、スターリン、その他すべての悪人(あくにん)たちは神(かみ)から遠(とお)く滅(ほろ)び去(さ)りました。しかし、イエスは今も生きておられる義(ぎ)なるお方です。

ピラトは社会的(しゃかいてき)立場(たちば)は問題(もんだい)がなくても、すべてをご存知(ぞんじ)の神(かみ)の目には罪深(つみふか)い姿(すがた)がありました。それはすべての人間の姿(すがた)でもあります。すべての人は十字架(じゅうじか)を王座とする血まみれのイエスという王によって裁かれるのです。人は十字架(じゅうじか)によってはじめて自分の罪(つみ)を知るのです。

バラバは極(ごく)悪人(あくにん)の罪人(つみひと)でしたが、イエスの十字架(じゅうじか)と引(ひ)き換(が)えに無罪(むざい)放免(ほうめん)となりました。バラバは願(ねが)っていた自由(じゆう)を手に入れました。しかし、そのとき、彼は自分の代(か)わりにイエスがむち打(う)たれ血まみれの姿(すがた)で十字架(じゅうじか)を背負(せお)って、ついに十字架(じゅうじか)の上で死(し)なれたことを知ったことでしょう。彼はたとえ釈放(しゃくほう)されても、犯(おか)した罪(つみ)は決(けっ)して赦(ゆる)されません。

しかし、イエスの死(し)がただの死(し)ではなく、自分のために死(し)なれたことがわかったとき、彼は罪(つみ)赦(ゆる)されるのです。

すべての人は、罪(つみ)を犯(おか)したので、神(かみ)からの栄誉(えいよ)を受(う)けることができず、ただ、神(かみ)の恵(めぐ)みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価(あたい)なしに義(ぎ)と認(みと)められるのです。

(ローマ人への手紙3:23-24)

イエスに従う者

マタイの福音書26章69-27章5節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月19日

<聖書>

ペテロが外の中庭(なかにわ)にすわっていると、女中(じょちゅう)のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打(う)ち消(け)して、「何を言っているのか、私にはわからない」と言った。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中(じょちゅう)が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打(う)ち消(け)し、誓(ちか)って、「そんな人は知らない」と言った。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄(ちかよ)って来て、「確(たし)かに、あなたもあの仲間(なかま)だ。ことばのなまりではっきりわかる」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない」と言って、のろいをかけて誓(ちか)い始(はじ)めた。するとすぐに、鶏(にわとり)が鳴(な)いた。そこでペテロは、「鶏(にわとり)が鳴(な)く前に三度(さんど)、あなたは、わたしを知らないと言います」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激(はげ)しく泣(な)いた。さて、夜が明けると、祭司(さいし)長(ちょう)、民(たみ)の長老(ちょうろう)たち全員は、イエスを死刑(しけい)にするために協議(きょうぎ)した。それから、イエスを縛(しば)って連(つ)れ出(だ)し、総督(そうとく)ピラトに引(ひ)き渡(わた)した。そのとき、イエスを売(う)ったユダは、イエスが罪(つみ)に定(さだ)められたのを知って後悔(こうかい)し、銀貨(ぎんか)三十枚を、祭司(さいし)長(ちょう)、長老(ちょうろう)たちに返(かえ)して、「私は罪(つみ)を犯(おか)した。罪(つみ)のない人の血(ち)を売(う)ったりして」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末(しまつ)することだ」と言った。それで、彼は銀貨(ぎんか)を神殿(しんでん)に投(な)げ込(こ)んで立(た)ち去(さ)った。そして、外に出(で)て行って、首(くび)をつった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章69-27章5節)

<説教>

過(すぎ)越(こ)しの祭(まつ)りが近づく中、イエスを十字架(じゅうじか)刑(けい)にしようとユダヤ宗教(しゅうきょう)議会(ぎかい)(サンヘドリン)の裁判(さいばん)が行われます。そんなイエスの受難(じゅなん)の時、弟子(でし)のペテロはイエスを知らないと否(いな)み、イスカリオテのユダは銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売(う)り渡(わた)した罪(つみ)を後悔(こうかい)して、首(くび)を吊(つ)り自殺(じさつ)します。

わずか前まではペテロはイエスが死(し)ぬなら一緒(いっしょ)に死(し)ぬと言い、またイエスを逮捕(たいほ)しにきた大勢(おおぜい)の群衆(ぐんしゅう)や兵士(へいし)に向(む)かって剣(つるぎ)で戦(たたか)おうとしました。勇敢(ゆうかん)に見えたペテロはイエスの十字架(じゅうじか)につまづいたのです。

ペテロはイエス出会ったとき、イエスが神(かみ)であり、自分が罪人(つみびと)であることを告白(こくはく)しました。そしてすべてを捨(す)ててイエスを愛(あい)して、彼につき従(したが)おうとしました(ルカの福音書(ふくいんしょ)5:1-11)。

しかし、十字架(じゅうじか)の前で彼は自分が握(にぎ)っている弱(よわ)さを知りました。

イエスは

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨(す)て、自分の十字架(じゅうじか)を負(お)い、そしてわたしについて来なさい。(マルコの福音書(ふくいんしょ)8:34)」

と言われました。

イエスは十字架(じゅうじか)により、世(よ)から苦(くる)しみを受(う)けて捨(す)てられました。イエスに従(したが)おうとする者もまた、同じ苦(くる)しみを受(う)けるのです。神(かみ)を知らない世(よ)のただ中で生きるキリスト者の苦(くる)しみがあるのです。

すべての人の人生の中にある苦(くる)しみ、試練(しれん)、恐(おそ)れ、不安(ふあん)ではなく、イエスを信(しん)じることによって受(う)ける苦(くる)しみです。

ペテロはイエスに従(したが)う者が受(う)ける苦(くる)しみを拒(こば)んだのでした。それは人間には負(お)えない十字架(じゅうじか)です。しかし、イエスは「わたしについて来たいなら」と言われます。それは強制(きょうせい)されてでも、期待(きたい)されてでもなく、自分の意志(いし)によってイエスと一緒(いっしょ)に生きようとするまことのイエスの弟子(でし)です。そのいばらの道(みち)への門(もん)は小さく、十字架(じゅうじか)へと続(つづ)く道(みち)は狭(せま)いですが、その道(みち)は神(かみ)の栄光(えいこう)がまぶしく輝(かがや)いています。日々の生活の中で、みことばに従(したが)い、神(かみ)の力を受(う)けて生きることができます。

神(かみ)は、そのようなイエスの弟子(でし)を受(う)け入れてくださり、まことの神(かみ)のご計画(けいかく)の中で使命(しめい)を与え、人生の目的(もくてき)を与(あた)えてくださいます。そこにイエスと共に受(う)けるまことの喜(よろこ)び、愛(あい)と祝福(しゅくふく)があります。

ユダは自分の力で人生をつかもうとして罪(つみ)を犯(おか)しました。彼は自分の罪(つみ)を後悔(こうかい)しましたが、祭司(さいし)長(ちょう)や長(ちょう)老(ろう)たちのもとに罪(つみ)のゆるしを受(う)けようとしました。すべての罪(つみ)は神(かみ)の前に犯(おか)しているのです。一度犯(おか)した罪(つみ)は決して取(と)り消(け)すことは出来ません。自分で始末(しまつ)することはできないのです。たとえ自殺(じさつ)して命(いのち)と引き換(か)えにしでも罪(つみ)の赦(ゆる)しにはならないのです。

罪(つみ)の赦(ゆる)しはただ一つです。聖(きよ)い神(かみ)のイエスの血の代価(だいか)が払(はら)われた十字架(じゅうじか)にあるのです。いかなる罪(つみ)もイエスのもとに悔(く)い改(あらた)めるなら赦(ゆる)され、神(かみ)との和解(わかい)が与(あた)えられ、新しく生きる者ときよめ、つくり変えられます。

「もし、私たちが自分の罪(つみ)を言い表(あらわ)すなら、神(かみ)は真実(しんじつ)で正しい方ですから、その罪(つみ)を赦(ゆる)し、すべての悪(あく)から私たちをきよめてくださいます。」

(ヨハネの手紙第一1:8)

十字架じゅうじかのかげに 泉いずみわきて
いかなる罪つみも きよめつくす
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげに ゆきし時に
み神かみの愛あいを 悟さとりえたり
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを 求もとめ続つづけん
険けわしき坂さかを のぼるときも
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
十字架じゅうじかのかげを いかで離れん
御国みくにの門に 入る日までは
おらせたまえ この身みを主しゅよ
十字架じゅうじかのかげに とこしえまで
「十字架じゅうじかのかげに」聖歌 396番