十字架への道

マタイの福音書26章47-56節より

土山みことばキリスト教会

2023年3月5日

<聖書>

イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりであるユダがやって来た。剣(つるぎ)や棒(ぼう)を手にした大ぜいの群衆(ぐんしゅう)もいっしょであった。群衆(ぐんしゅう)はみな、祭司(さいし)長(ちょう)、民(たみ)の長老(ちょうろう)たちから差(さ)し向(む)けられたものであった。イエスを裏切(うらぎ)る者は、彼らと合図(あいず)を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。イエスは彼に、「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群衆(ぐんしゅう)が来て、イエスに手をかけて捕(と)らえた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸(の)ばして剣(つるぎ)を抜(ぬ)き、大祭司(だいさいし)のしもべに撃(う)ってかかり、その耳(みみ)を切(き)り落(お)とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣(つるぎ)をもとに納(おさ)めなさい。剣(つるぎ)を取(と)る者(もの)はみな剣(つるぎ)で滅(ほろ)びます。それとも、わたしが父にお願(ねが)いして、十二(じゅうに)軍団(ぐんだん)よりも多くの御使(みつか)いを、今わたしの配下(はいか)に置(お)いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書(せいしょ)が、どうして実現(じつげん)されましょう。」そのとき、イエスは群衆(ぐんしゅう)に言われた。「まるで強盗(ごうとう)にでも向(む)かうように、剣(つるぎ)や棒(ぼう)を持(も)ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮(みや)ですわって教(おし)えていたのに、あなたがたは、わたしを捕(と)らえなかったのです。しかし、すべてこうなったのは、預言者(よげんしゃ)たちの書(しょ)が実現(じつげん)するためです。」そのとき、弟子(でし)たちはみな、イエスを見捨(みす)てて、逃(に)げてしまった。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章47-56節)

<説教>

ユダの裏切(うらぎ)りによって、イエスはユダヤ指導者(しどうしゃ)たちに逮捕(たいほ)されます。

普通(ふつう)は犯人(はんにん)が刑事(けいじ)に逮捕(たいほ)されるとき、犯人(はんにん)は逃げようとしたり、最後まで抵抗(ていこう)して悪あがきします。しかし、イエスは逮捕(たいほ)されるとき、逃(に)げも隠(かく)れもせず、武装(ぶそう)した何百人の群衆(ぐんしゅう)に、自分からすすんで捕(と)らえられました。

イエスの十字架(じゅうじか)はすべて神(かみ)が定(さだ)められた完全(かんぜん)な計画(けいかく)でした。イエスが十字架(じゅうじか)の上ですべての人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなられるためでした。イエスは十字架(じゅうじか)への苦難(くなん)の道が、父の神(かみ)の御心(みこころ)であることを確信(かくしん)して、人間の罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりを受(う)けられたのです。

ペテロは数百人の武装(ぶそう)した群衆(ぐんしゅう)に、勇(いさ)ましく剣(けん)で立ち向かいます。しかし、イエスを殺害しようとする本当の敵(てき)は、剣(けん)や棒(ぼう)をもった人間ではなく、悪の力、サタンなのです。この悪の力が完全(かんぜん)に打(う)ち破(やぶ)られる道はただ一つ、イエスご自身が神(かみ)の怒(いか)りの杯(はい)をお飲みになること、すなわち、十字架(じゅうじか)でその聖(きよ)い命を捧(ささ)げることでした。

私たちの敵(てき)は死であり、罪(つみ)の力です。その敵(てき)は決して恐(おそ)ろしい姿をしていません。それは私たちの日々の生活の中にあるのです。それは心から出てくる悪い考え、人の気持ちを知ろうとしない自己(じこ)中心(ちゅうしん)な考え、自分の欲望(よくぼう)や心の思いを満(み)たすことを人生の第一の目的としてしまったり…神(かみ)の存在(そんざい)を無視(むし)して、神(かみ)に従(したが)わずに生きること。それが罪(つみ)です。

罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は死です。死とはこの世から消(き)え去(さ)ることではありません。永遠(えいえん)に終わらない滅(ほろ)びの苦(くる)しみです。人間はこの罪(つみ)と死に対してまったく無力です。どんな武器(ぶき)も、勇気(ゆうき)も役(やく)に立たないのです。しかし、神は人間に救(すく)いの道を備(そな)えてくださいました。それが十字架(じゅうじか)の救(すく)いです。

イエスが十字架(じゅうじか)で死なれたのは、あなたの罪(つみ)のためであると信(しん)じて、心を変えて、神により頼(たの)んで生きようとするなら、あなたは罪(つみ)の刑罰(けいばつ)は赦(ゆる)され、死の滅(ほろ)びから救(すく)い出されます。永遠(えいえん)の命が与えられ天の御国(みくに)に入ることができます。

イエスが十字架(じゅうじか)に向(む)かわれたのは、悪(わる)に対しても善(ぜん)をあらわして生きることの模範(もはん)です。そしてイエスは、犠牲(ぎせい)の愛による人間の真実(しんじつ)な生き方を表わされました。そして人間は「苦難(くなん)」によってしか成長(せいちょう)しないことをイエスは十字架(じゅうじか)で教えてくれたのです。

イエスを信(しん)じるなら、あなたは愛と真実(しんじつ)の人生に必ず変えられていきます。

「キリストも、あなたがたのために苦(くる)しみを受(う)け、その足跡(あしあと)に従(したが)うようにと、あなたがたに模範(もはん)を残(のこ)されました。キリストは罪(つみ)を犯(おか)したことがなく、その口に何の偽(いつわ)りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返(かえ)さず、苦(くる)しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任(まか)せになりました。そして自分から十字架(じゅうじか)の上で、私たちの罪(つみ)をその身(み)に負われました。それは、私たちが罪(つみ)を離(はな)れ、義(ぎ)のために生きるためです。キリストの打(う)ち傷(きず)のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」

(ペテロの手紙第一2章21-24節)

祈りの友

マタイの福音書26章36-46節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月26日

<聖書>

それからイエスは弟子(でし)たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼(かれ)らに言われた。「わたしがあそこに行って祈(いの)っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連(つ)れて行かれたが、イエスは悲(かな)しみもだえ始(はじ)められた。そのとき、イエスは彼(かれ)らに言われた。「わたしは悲(かな)しみのあまり死(し)ぬほどです。ここを離(はな)れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進(すす)んで行って、ひれ伏(ふ)して祈(いの)って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯(さかずき)をわたしから過(す)ぎ去(さ)らせてください。しかし、わたしの願(ねが)うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子(でし)たちのところに戻(もど)って来て、彼(かれ)らの眠(ねむ)っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑(ゆうわく)に陥(おちい)らないように、目をさまして、祈(いの)っていなさい。心は燃(も)えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目(にどめ)に離(はな)れて行き、祈(いの)って言われた。「わが父よ。どうしても飲(の)まずには済(す)まされぬ杯(さかずき)でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻(もど)って来て、ご覧(らん)になると、彼(かれ)らはまたも眠(ねむ)っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼(かれ)らを置(お)いて行かれ、もう一度同(おな)じことをくり返(かえ)して三度目(さんどめ)の祈(いの)りをされた。それから、イエスは弟子(でし)たちのところに来(き)て言われた。「まだ眠(ねむ)って休んでいるのですか。見なさい。時(とき)が来(き)ました。人(ひと)の子(こ)は罪人(つみびと)たちの手に渡(わた)されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切(うらぎ)る者が近(ちか)づきました。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章36-46節)

<説教>

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)のあと、十字架(じゅうじか)へ向(む)かってイエスは弟子(でし)たちを連(つ)れて祈(いの)られました。その場所はオリーブの木に囲(かこ)まれたゲツセマネ(油(あぶら)しぼりの意味(いみ))と呼(よ)ばれます。そこでイエスは人間の罪(つみ)の杯(さかずき)(さばきの憤(いきどお)りのぶどう酒)を飲(の)み干(ほ)すために、汗(あせ)を血(ち)のようにしたたらせて祈(いの)られました。

イエスの十字架(じゅうじか)の前の祈(いの)りは、自分の願(ねが)いではなく、父なる神のみこころがなされることでした。

弟子(でし)のパウロとヤコブとヨハネは祈(いの)ることができずに、疲(つか)れと悲(かな)しみに眠(ねむ)りこけてしまいました。

今も、イエスと共に祈(いの)る者は決(けっ)して多くないと言われています。イエスはあなたに祈(いの)りの友となることを願(ねが)われています。

苦(くる)しみや悲(かな)しみの意味(いみ)がわからなくても、希望(きぼう)が閉(と)ざされようとも、祈(いの)りましょう。どう祈(いの)っていいのかわからなくても、じつはイエスがあなたのために祈(いの)ってくださっています。あなたのつたない祈(いの)りも、イエスの御名(みな)で祈(いの)る時、イエスの祈(いの)りとされているのです。

体でわかること(目で見る、耳で聞く、鼻でにおう、手や肌(はだ)で触(さわ)る)がすべてではありません。あなたの前の現実(げんじつ)の問題(もんだい)に絶望(ぜつぼう)して、感覚(かんかく)を頼(たよ)りにした誘惑(ゆうわく)に身(み)を任(まか)せてはいけません。

神を信(しん)じる者の祈(いの)りには力があります。祈(いの)りは必ず答えられます。祈(いの)ることができず、疲(つか)れて、悲(かな)しみの果(は)てに眠(ねむ)っても弟子(でし)たちはイエスのそばにいました。祈(いの)りはイエスのそばにいることです。そこにとどまるとき、イエスの愛(あい)と赦(ゆる)しがあなたを救(すく)ってくださいます。

祈(いの)りによって神があなたを変えてくださいます。状況(じょうきょう)を変えてくださいます。心(こころ)が変えられます。知識(ちしき)でも理屈(りくつ)でもありません。あなたは信仰(しんこう)によってそれを実際(じっさい)に体験(たいけん)するのです。

神はあなたを神に祈(いの)る者としてご自身(じしん)に似(に)せて造(つく)られたのです。祈(いの)りは神を信じる者の特権(とっけん)であり、務(つと)めであり、励(はげ)むべきことです。ただし、それは最高(さいこう)の人間の営(いとな)みです。

「まことに、あなたがたにもう一度(いちど)、告(つ)げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上(ちじょう)で心(こころ)を一つにして祈(いの)るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。

ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

(マタイの福音書18章19-20節)

「病(や)まなければ」河野 進
病(や)まなければ 捧(ささ)げ得(え)ない悔(く)い改(あらた)めの祈(いの)りがあり
病(や)まなければ 聞(き)き得(え)ない救(すく)いのみ言葉があり
病(や)まなければ 負(お)い得(え)ない恵(めぐ)みの十字架(じゅうじか)があり
病(や)まなければ 信(しん)じ得(え)ないいやしの奇蹟(きせき)があり
病(や)まなければ 受(う)け得(え)ないいたわりの愛(あい)があり
病(や)まなければ 近(ちか)づき得(え)ない清(きよ)い聖壇(せいだん)があり
病(や)まなければ 仰(あお)ぎ得(え)ない輝(かがや)く御顔(みかお)がある
おお 病(や)まなければ人間でさえあり得(え)なかった

キリストのつまずき

マタイの福音書26章30-35節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月19日

<聖書>

そして、賛美(さんび)の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子(でし)たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜(こんや)、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼(ひつじか)いを打(う)つ。すると、羊(ひつじ)の群(む)れは散(ち)り散(ぢ)りになる』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決(けっ)してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告(つ)げます。今夜(こんや)、鶏(にわとり)が鳴(な)く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決(けっ)して申(もう)しません。」弟子(でし)たちはみなそう言った。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章30-35節)

<説教>

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)でユダがイエスを裏切(うらぎ)りました。その後で、イエスはさらに弟子たちに、あなたがたはみな、私を裏切(うらぎ)ると宣告します。そうです。十字架の前に、イエスの弟子たちはすべてイエスにつまずいたのです。

ユダは自分の欲のためにイエスを裏切(うらぎ)りました。ペテロは自分は絶対(ぜったい)大丈夫(だいじょうぶ)だという自信(じしん)、過信(かしん)によってイエスを裏切(うらぎ)ります。

誰も自分の頑張(がんば)りや努力(どりょく)によってイエスを愛して、従(したが)い続(つづ)けることはできません。自分こそ弱(よわ)い者だ、罪深(つみぶか)い者だと認(みと)めるする者こそが、神(かみ)に助けを求め、悔(く)い改(あらた)めてイエスに従(したが)うことができるのです。

ペテロは、鶏(にわとり)が鳴(な)く前に3度イエスを知らないと言うイエスの予告(よこく)通(どお)りに、イエスを否(いな)みました。彼はイエスを間違(まちが)いなく愛していました。しかし人間の愛には限界(げんかい)があるのです。

しかし、ペテロはイエスの弟子としての大失敗(だいしっぱい)、恥(はじ)を隠(かく)そうとせず、聖書(せいしょ)の中にはっきりと表わしました。それは、弱(よわ)さや失敗(しっぱい)や罪深(つみぶか)い者をイエスはゆるして、愛して下さる方であることを皆(みな)さんに知ってもらいたかったからです。

イエスを愛していくとき、あなたは必ず、自分の罪深(つみぶか)さや汚(けが)れを知ることでしょう。しかしイエスは、あなたの弱(よわ)さやどうしようもない姿(すがた)をご存知(ぞんじ)なのです。その上で、イエスはあなたを愛してくださいます。あなたをその問題、苦しみ、絶望(ぜつぼう)から救(すく)い出すためにこそ、イエスは十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。

弟子(でし)たちはイエスを裏切(うらぎ)りましたが、イエスが約束(やくそく)されたのは十字架(じゅうじか)で死んだ後、よみがえり、弟子(でし)たちとガリラヤで会うことです。

自分を裏切(うらぎ)って離(はな)れ去(さ)っていく弟子(でし)たちすべてのことをご存知(ぞんじ)でした。しかしその先にある神の約束(やくそく)は赦(ゆる)しと愛です。

あなたはイエスの十字架(じゅうじか)のゆえに愛されています。赦(ゆる)されています。

神が定められたキリストの十字架

マタイの福音書26章14-25節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月12日

<聖書>

そのとき、十二(じゅうに)弟子(でし)のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司(さいし)長(ちょう)たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨(ぎんか)三十枚を彼に支払(しはら)った。そのときから、彼はイエスを引(ひ)き渡(わた)す機会(きかい)をねらっていた。さて、種(たね)なしパンの祝(いわ)いの第一日に、弟子(でし)たちがイエスのところに来て言った。「過(すぎ)越(こし)の食事をなさるのに、私たちはどこで用意(ようい)をしましょうか。」イエスは言われた。「都(みやこ)に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子(でし)たちといっしょに、あなたのところで過(すぎ)越(こし)を守ろう」と言っておられる』と言いなさい。」そこで、弟子(でし)たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過(すぎ)越(こし)の食事の用意(ようい)をした。さて、夕方になって、イエスは十二(じゅうに)弟子(でし)といっしょに食卓に着かれた。みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告(つ)げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切(うらぎ)ります。」すると、弟子(でし)たちは非常(ひじょう)に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢(はち)に手を浸(ひた)した者が、わたしを裏切(うらぎ)るのです。確(たし)かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去(さ)って行きます。しかし、人の子を裏切(うらぎ)るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」すると、イエスを裏切(うらぎ)ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ」と言われた。

(マタイの福音書ふくいんしょ26章14-25節)

<説教>

ユダヤの最大の祭(まつ)り、過(すぎ)越(こし)しが近づいています。

祭司(さいし)、長老(ちょうろう)たちは、イエスをだまして捕(とら)えて死刑(しけい)にする陰謀(いんぼう)を企(くわだ)てますが、祭(まつ)りの間は民衆(みんしゅう)の騒(さわ)ぎを恐(おそ)れていました。イエスの十字架(じゅうじか)の背後(はいご)には人々のねたみがありました。

イエスの12弟子(でし)のひとりイスカリオテのユダは祭司(さいし)長(ちょう)に銀貨(ぎんか)30枚でイエスを売り渡(わた)します。彼にサタンが入ったとありますから、イエスの十字架(じゅうじか)の出来事の背後(はいご)にはサタン(悪魔(あくま))の働きがありました。

ユダの裏切(うらぎ)りによって、祭司(さいし)、長老(ちょうろう)たちの思惑(おもわく)とおりにいかず、イエスご自身(じしん)の予告(よこく)通(どお)り、過(すぎ)越(こし)しの祭(まつ)りにイエスは捕(とら)えられ、十字架(じゅうじか)に渡(わた)されました。ユダ自身(じしん)もイエスが死ぬとは考えていなかったでしょう。

では、十字架(じゅうじか)の出来事は偶然(ぐうぜん)おこったことなのでしょうか。

いいえ、十字架(じゅうじか)の出来事は、イエスが主権的(しゅけんてき)に、イエスが十字架(じゅうじか)の道を選(えら)び取(と)られました。聖書(せいしょ)の預言(よげん)が成就(じょうじゅ)するためでした。長いイスラエルの歴史(れきし)を通して、神は聖書(せいしょ)にはっきりと定(さだ)めておられました。

ユダヤの歴史(れきし)で最も大きな出来事は、出(しゅつ)エジプトと言われる、奴隷(どれい)からの解放(かいほう)と新天地(しんてんち)の約束(やくそく)でした。その救いは、小羊(こひつじ)の犠牲(ぎせい)の血(ち)による、滅(ほろ)びのわざわいからの過(すぎ)越(こし)し(救い)でした。

この過(すぎ)越(こし)しの犠牲(ぎせい)の子(こ)羊(ひつじ)として、イエスは十字架(じゅうじか)で死なれました。

最後(さいご)の晩餐(ばんさん)は、最期(さいご)の過(すぎ)越(こし)しの食事でもありました。また、最初の聖餐式(せいさんしき)でした。

教会(きょうかい)で、今もこの聖餐式(せいさんしき)が守られ、2000年前の出来事であったイエスの十字架(じゅうじか)の罪(つみ)のあがないが忘れられたことは一度もありません。

あなたもイエスを信じるならば、過(すぎ)越(こし)し(救い)があり、出エジプト(解放(かいほう))が起こります。あなたの罪(つみ)が赦(ゆる)され、まことの自由が与(あた)えられ、あなたの人生は神の御国(みくに)に入ります。

まことの救い、まことの解放(かいほう)が神の定められた十字架(じゅうじか)につけられたイエスにあります。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取(と)り、祝福(しゅくふく)して後(のち)、これを裂(さ)き、弟子(でし)たちに与(あた)えて言われた。
「取(と)って食べなさい。これはわたしのからだです。」

また杯(はい)を取(と)り、感謝(かんしゃ)をささげて後(のち)、こう言って彼らにお与(あた)えになった。
「みな、この杯(はい)から飲(の)みなさい。

これは、わたしの契約(けいやく)の血です。罪(つみ)を赦(ゆる)すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国(みくに)で、あなたがたと新しく飲(の)むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造(つく)った物を飲(の)むことはありません。」(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章26-29節)

愛に生きる

マタイの福音書26章6-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年2月5日

<聖書>

さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒(おか)された人シモンの家におられると、ひとりの女がたいへん高価(こうか)な香油(こうゆ)の入った石膏(せっこう)のつぼを持ってみもとに来て、食卓(しょくたく)に着(つ)いておられたイエスの頭(かしら)に香油(こうゆ)を注いだ。弟子(でし)たちはこれを見て、憤慨(ふんがい)して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油(こうゆ)なら、高く売れて、貧(まず)しい人たちに施(ほどこ)しができたのに。」するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困(こま)らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧(まず)しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女が、この香油(こうゆ)をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬(まいそう)の用意(ようい)をしてくれたのです。まことに、あなたがたに告(つ)げます。世界中(せかいじゅう)のどこででも、この福音(ふくいん)が宣(の)べ伝(つた)えられる所(ところ)なら、この人のした事(こと)も語(かた)られて、この人の記念(きねん)となるでしょう。」

(マタイの福音書(ふくいんしょ)26章6-13節)

<説教>

イエスの十字架(じゅうじか)の時が近づいていました。弟子(でし)たちは、イエスが間もなく死ぬという実感(じっかん)も緊張感(きんちょうかん)もありませんでした。しかし、ある女はイエスと過ごす機会(きかい)はもうこれが最後(さいご)かも知れないと感じました。

彼女は、自分の持ち物の中で一番高価(こうか)なもの、女性にとって大切な香油(こうゆ)をイエスに惜(お)しみなく捧(ささ)げました。それが、彼女が大切な愛するイエスにできる最高のことでした。彼女はイエスに愛と信仰(しんこう)を表わしたのです。

愛とは愛することと愛されることによって完成します。愛されることだけを願う人生は干からびた人生です。あなたが誰かに愛を与えるとき、人生は豊かな愛と喜びの素晴らしいものとなるでしょう。

愛を与えるとは、あなたの大切なもの与えることです。一緒に時間を過ごすこと、聞いて理解してあげること、手助けする事。また、ゆるしを与える事、信用を与える事です。あなたの心の中でわかること、あなたが願うことを、他の誰かに、あなたから与えるのです。

あなたの笑顔(えがお)は素晴らしいです。微笑(ほほえ)みながら優(やさ)しい言葉をかけてあげてください。その人はきっと励(はげ)まされ、勇気(ゆうき)を与えられるでしょう。

人生には一回きりしかない機会(きかい)があります。その機会(きかい)を逃(のが)せば、もう同じ場合、同じ人、同じ時、同じ感動(かんどう)は再び戻(もど)ってきません。多くの人は、よいことをする機会(きかい)を失ったために、人生を悲劇(ひげき)に終わらせているのです。

しかし、イエスを信じる者は、罪(つみ)赦(ゆる)されて、自分のかたくなさや自我、プライドから解放(かいほう)されて、心から素直に生きる者に変えられます。何度も失敗しながらです。イエスはあなたを絶対あきらめません。

イエスの愛に赦(ゆる)され、感動(かんどう)して生きる者は、愛だけがすべてであり、愛は無限であることを知るのです。弱かろうが、ちっぽけな存在であろうが、誰もが愛を与えることができます。イエスと共に生きる者はその素晴らしさを知り、体験していくのです。イエスに出会うなら、あなたはいかなるものも包み込み受け止める愛を、無尽蔵(むじんぞう)に与えることができます。あなたの愛はいつまでも残ります。

信仰は宝

マタイの福音書8章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月15日

<聖書>

イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)がみもとに来て、懇願(こんがん)して、言った。「主よ。私のしもべが中風(ちゅうぶう)で、家に寝(ね)ていて、ひどく苦(くる)しんでいます。」イエスは彼に言われた。「行って、直(なお)してあげよう。」しかし、百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は答(こた)えて言った。「主よ。あなたを私の屋根(やね)の下にお入れする資格(しかく)は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直(なお)ります。と申しますのは、私も権威(けんい)の下にある者ですが、私(わたし)自身(じしん)の下にも兵士(へいし)たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別(べつ)の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚(おどろ)かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告(つ)げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰(しんこう)を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国(みくに)で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓(しょくたく)に着きます。しかし、御国(みくに)の子らは外の暗(くら)やみに放り出され、そこで泣(な)いて歯(は)ぎしりするのです。」それから、イエスは百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信(しん)じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

(マタイの福音書(ふくいんしょ)8章5-13節)

<説教>

この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、次の2つのことでイエスを驚(おどろ)かせました。①愛(あい)の人であった。②信仰(しんこう)の人であった。

当時のユダヤ社会は人種(じんしゅ)、階級(かいきゅう)、性別(せいべつ)、教育(きょういく)、信仰(しんこう)などの違(ちが)いによるひどい差別(さべつ)がありました。奴隷(どれい)は人間として見なされず、使(つか)い捨(す)ての道具(どうぐ)と扱(あつか)われました。その命も主人(しゅじん)の自由にされていました。

そんな現実(げんじつ)の中にも関(かか)わらず、この百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は病気(びょうき)で死にそうな奴隷(どれい)を助けるために行動しました。悪(あく)の罪深(つみぶか)い世の中で正しく生きるために、神(かみ)は人に信仰(しんこう)を与(あた)えられます。

しかし、汚(けが)れた罪人(つみびと)とみなされた異邦人(いほうじん)の百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)は、イエスに近づくことができませんでした。その壁(かべ)を打(う)ち破(やぶ)ったのは彼の信仰(しんこう)でした。百人(ひゃくにん)隊長(たいちょう)はイエスと会わなくても、イエスが彼の瀕死(ひんし)のしもべに触(ふ)れなくても、ただイエスのことばによって、しもべは癒(いや)されて生きると信(しん)じました。

信仰(しんこう)は、弱(よわ)い者を強(つよ)くし、現実(げんじつ)しか見えない者の目を開き、プライドを砕(くだ)き愛(あい)の人と変(か)え、罪(つみ)に汚(けが)れた者をゆるし、きよめます。十字架(じゅうじか)で死なれたイエスを目撃(もくげき)しなくても、信仰(しんこう)によって神(かみ)のみ言葉(ことば)を真実(しんじつ)と信(しん)じる者は救(すく)われます。

信仰(しんこう)はイエスによって与(あた)えられ、完成(かんせい)されました。イエスは十字架(じゅうじか)でよみがえられ、罪(つみ)と死に打(う)ち勝ち、よみがえられました。

信仰(しんこう)は知識(ちしき)ではありません。神(かみ)はありふれた人間関係の中に、神(かみ)の御心(みこころ)、目的(もくてき)、計画(けいかく)を教(おし)え、あなたがどう答(こた)えるかを待(ま)っておられます。神(かみ)を信頼(しんらい)して、神(かみ)を知り、体験(たいけん)して、無限(むげん)の信頼(しんらい)へ…信仰(しんこう)者は神の莫大(ばくだい)な宝(たから)と勝利(しょうり)が与(あたえ)られています。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル人への手紙11:6)

恵みは神から

ピリピ人への手紙3章3-9節より

土山みことばキリスト教会

2023年1月8日

<聖書>

神(かみ)の御霊(みたま)によって礼拝(れいはい)をし、キリスト・イエスを誇(ほこ)り、人間的(にんげんてき)なものを頼(たの)みにしない私(わたし)たちのほうこそ、割礼(かつれい)の者(もの)なのです。ただし、私(わたし)は、人間的(にんげんてき)なものにおいても頼(たの)むところがあります。もし、ほかの人が人間的(にんげんてき)なものに頼(たの)むところがあると思(おも)うなら、私(わたし)は、それ以上(いじょう)です。私(わたし)は八日目(ようかめ)の割礼(かつれい)を受け、イスラエル民族(みんぞく)に属(ぞく)し、ベニヤミンの分(わ)かれの者(もの)です。きっすいのヘブル人で、律法(りっぽう)についてはパリサイ人、その熱心(ねっしん)は教会(きょうかい)を迫(はく)害(がい)したほどで、律法(りっぽう)による義(ぎ)についてならば非難(ひなん)されるところのない者(もの)です。しかし、私(わたし)にとって得(とく)であったこのようなものをみな、私(わたし)はキリストのゆえに、損(そん)と思(おも)うようになりました。それどころか、私(わたし)の主(しゅ)であるキリスト・イエスを知(し)っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損(そん)と思(おも)っています。私(わたし)はキリストのためにすべてのものを捨(す)てて、それらをちりあくたと思(おも)っています。それは、私(わたし)には、キリストを得(え)、また、キリストの中にある者(もの)と認(みと)められ、律法(りっぽう)による自分(じぶん)の義(ぎ)ではなくて、キリストを信(しん)じる信仰(しんこう)による義(ぎ)、すなわち、信仰(しんこう)に基(もと)づいて、神(かみ)から与(あた)えられる義(ぎ)を持つことができる、という望(のぞ)みがあるからです。

(ピリピ人への手紙(てがみ) 3章3-9節)

<説教>

お金、美貌(びぼう)、才能(さいのう)があっても、生きているのが虚(むな)しい人たちがいます。パウロは当時(とうじ)のユダヤ社会(しゃかい)では完璧(かんぺき)なエリートでした。完全(かんぜん)な人生(じんせい)を歩んでいました。

しかし、パウロはイエス・キリストを憎(にく)んでいました。彼の生きる目的(もくてき)はクリスチャンを殺害(さつがい)してこの世(よ)から消(け)し去(さ)ることでした。そんな生き方に平安(へいあん)も喜(よろこ)びもあるはずがありません。

パウロは神(かみ)の律法(りっぽう)(十戒(じっかい)に代表(だいひょう)される旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)の命令(めいれい))に厳格(げんかく)に仕(つか)えました。そういう意味(いみ)では、パウロは神(かみ)に正(ただ)しいと認(みと)められる、救(すく)いを受(う)けるに一番(いちばん)ふさわしい人物(じんぶつ)でした。

聖書(せいしょ)によると、すべての人は罪人(つみびと)です。それはキリストを愛(あい)さずに、いいえキリストに反抗(はんこう)していると言う意味(いみ)で罪人(つみびと)なのです(罪(つみ)とは神(かみ)に対する意識的(いしきてき)な反逆(はんぎゃく))。自分では、善人(ぜんにん)だと思っても、道徳的(どうとくてき)に正(ただ)しく生きても、この世(よ)では正(ただ)しくても神(かみ)の正(ただ)しさには至(いた)らないのです。

義(ぎ)(正(ただ)しい関係(かんけい))には①道徳的(どうとくてき)な義(ぎ)と②神(かみ)の義(ぎ)があります。道徳的(どうとくてき)な正(ただ)しさは素晴(すば)らしいことです。ぜひそのように生きるべきです。しかし神(かみ)の義(ぎ)をいただくには、キリストが十字架(じゅうじか)であなたの罪(つみ)のために死(し)なれたことを信(しん)じる以(い)外(がい)ありません。それだけが救(すく)われて神(かみ)と和解(わかい)して天(てん)の御国(みくに)に入る方法(ほうほう)です。

キリストを信(しん)じる救(すく)いは、死後(しご)の天国(てんごく)に行く時だけでなく、今の生き方すべてが喜(よろこ)びと平安(へいあん)と希望(きぼう)に変(か)えられます。

神(かみ)はあなたを造(つく)られた方です。神(かみ)はいつもあなたを覚(おぼ)えて共(とも)にいてくださいます。神(かみ)はあなたの問題(もんだい)に解決(かいけつ)を持(も)っておられます。神(かみ)はあなたの将来(しょうらい)の祝福(しゅくふく)を約束(やくそく)されています。

「罪(つみ)の赦(ゆる)し」とは薄(うす)っぺらい言葉ではありません。キリストの愛(あい)の交(まじ)わりによってあなたを内側(うちがわ)から愛(あい)と正(せい)義(ぎ)の人に変(か)える命(いのち)です。それは宗教(しゅうきょう)ではなく生き方です。神(かみ)がくださる望(のぞ)みです。望(のぞ)みは神(かみ)の備(そな)えたキリストの十字架(じゅうじか)にあります。

イエス・キリストは本当の救い主

ルカの福音書2章1-7節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月25日

<聖書>

そのころ、全世界(ぜんせかい)の住民(じゅうみん)登録(とうろく)をせよという勅令(ちょくれい)が、皇帝(こうてい)アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督(そうとく)であったときの最初(さいしょ)の住民(じゅうみん)登録(とうろく)であった。それで、人々はみな、登録(とうろく)のために、それぞれ自分(じぶん)の町に向(む)かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼(かれ)は、ダビデの家系(かけい)であり血筋(ちすじ)でもあったので、身重(みおも)になっているいいなずけの妻(つま)マリヤもいっしょに登録(とうろく)するためであった。ところが、彼(かれ)らがそこにいる間に、マリヤは月(つき)が満(み)ちて、男子(だんし)の初子(しょこ)を産(う)んだ。それで、布(ぬの)にくるんで、飼葉(かいば)おけに寝(ね)かせた。宿屋(やどや)には彼(かれ)らのいる場所(ばしょ)がなかったからである。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)2章1-7節)

<説教>

ユダヤ人、また異邦人(いほうじん)も旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)に預言(よげん)されたメシヤ救(すく)い主(ぬし)を長(なが)い間(あいだ)、待(ま)ち望(のぞ)んでいました。400年の神(かみ)のことばの沈黙(ちんもく)、そして、ユダヤはローマに支配(しはい)され、世界(せかい)共通(きょうつう)原語(げんご)のギリシャ語、整備(せいび)されたローマの道路(どうろ)、まさに救(すく)い主(ぬし)の到来(とうらい)のよき知らせのための環境(かんきょう)は整(ととの)ったのです。しかし、表面的(ひょうめんてき)には輝(かがや)かしいローマの内部(ないぶ)は、すでに死の一歩(いっぽ)手前(てまえ)でした。人々の魂(たましい)、霊的(れいてき)な飢(う)え渇(かわ)きは限界(げんかい)に達(たっ)していました。

そんなとき、約束(やくそく)のメシヤ・キリストは、この世界(せかい)、歴史(れきし)の中に人間(にんげん)の姿(すがた)をして来られたのです。誰(だれ)もが予想(よそう)もしなかった、飼葉(かいば)おけでお生まれになったのです。いったい誰(だれ)がそんなところに神(かみ)の子がいると信じられるでしょう。

世界(せかい)の覇者(はしゃ)、権力(けんりょく)の頂点(ちょうてん)のローマ皇帝(こうてい)カイザル・アウグスト。彼は自分を王、神(かみ)、救(すく)い主(ぬし)として人々をひざまずかせました。しかし、人の心まで支配(しはい)はできませんでした。そのカイザルに対して、まことの救(すく)い主(ぬし)は、もっともふさわしくない飼葉(かいば)おけで誕生されたのです。その知らせはカイザルではなく、野宿(のじゅく)で夜番(よばん)をする羊飼(ひつじか)いでした。神(かみ)は罪(つみ)で狂(くる)ったこの世界(せかい)の秩序(ちつじょ)、価値観(かちかん)をすべて正しくされます。

キリストと呼(よ)ばれる救(すく)い主(ぬし)は、この世界(せかい)では受(う)け入れられません。行くべき場所は十字架(じゅうじか)です。キリストが飼葉(かいば)おけで生まれたのは十字架(じゅうじか)で死ぬためでした。

多くの人は救(すく)い主(ぬし)を必要(ひつよう)と考えないでしょう。このお方(かた)を救(すく)い主(ぬし)としてお迎(むか)えする者とは、次のような失敗(しっぱい)をした人たちなのです。

それは、神(かみ)に会って、何事(なにごと)もうまくいると言えなくなった人です。それは、悪(あく)の力の前に、自分の善意(ぜんい)のもろさと無力(むりょく)さを知っている人です。それは、神(かみ)によって、悔(く)い改(あらた)め、悲(かな)しみの内に、自分の罪(つみ)を神(かみ)に告白(こくはく)する人です。

つまり、救(すく)い主(ぬし)キリストに飛(と)び込(こ)んで、失敗(しっぱい)を勝利(しょうり)に変(か)えていただこうとする人たちなのです。このお方(かた)によってしか、人は罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の死と、その罪責(ざいせき)から救(すく)われません。このクリスマスにあなたの救(すく)い主(ぬし)として、イエス様を信じませんか。それは飼葉(かいば)おけの赤ちゃんを、神(かみ)の子、救(すく)い主(ぬし)のしるしであると信じることです。

一生に一度のできごと

ルカの福音書1章5-13節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月18日

<聖書>

ユダヤの王(おう)ヘロデの時(とき)に、アビヤの組(くみ)の者(もの)でザカリヤという祭司(さいし)がいた。彼(かれ)の妻(つま)はアロンの子孫(しそん)で、名(な)をエリサベツといった。ふたりとも、神(かみ)の御前(みまえ)に正(ただ)しく、主(しゅ)のすべての戒(いまし)めと定(さだ)めを落度(おちど)なく踏(ぶ)み行(おこな)っていた。エリサベツは不妊(ふにん)の女(おんな)だったので、彼(かれ)らには子(c)がなく、ふたりとももう年(とし)をとっていた。さて、ザカリヤは、自分(じぶん)の組(くみ)が当番(とうばん)で、神(かみ)の御前(みまえ)に祭司(さいし)の務(つと)めをしていたが、祭司(さいし)職(しょく)の習慣(しゅうかん)によって、くじを引(ひ)いたところ、主(しゅ)の神殿(しんでん)に入って香(こう)をたくことになった。彼(かれ)が香(こう)をたく間(あいだ)、大(おお)ぜいの民(たみ)はみな、外(そと)で祈(いの)っていた。ところが、主(しゅ)の使(つか)いが彼(かれ)に現(あらわ)れて、香壇(かおりだん)の右(みぎ)に立った。これを見たザカリヤは不安(ふあん)を覚(おぼ)え、恐怖(きょうふ)に襲(おそ)われたが、御使(みつか)いは彼(かれ)に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願(ねが)いが聞(き)かれたのです。あなたの妻(つま)エリサベツは男(おとこ)の子(こ)を産(う)みます。名(な)をヨハネとつけなさい。

(ルカの福音書(ふくいんしょ)1章5-13節)

<説教>

祭司(さいし)ザカリヤと妻(つま)エリサベツは、モーセの兄(あに)祭司(さいし)アロンの血筋(ちすじ)でした。彼らは神(かみ)の宮(みや)の仕事(しごと)に忠実(ちゅうじつ)に仕(つか)えました。しかいザカリヤには長年(ながねん)の願(ねが)いがありました。それは、夫婦(ふうふ)の間に子どもが与(あた)えられることでした。

その願(ねが)いが少しずつあきらめに変(か)わりそうなときに、ザカリヤに大きな仕事(しごと)が与(あた)えられました。それは祭司(さいし)の中でも、一生(いっしょう)に一度(いちど)あるかないかという仕事(しごと)でした。神(かみ)の宮(みや)で朝晩(あさばん)の捧(ささ)げものの前に香(こう)をたくこと大切(たいせつ)な仕事(しごと)です。

そのことを通(とお)して、神(かみ)さまは長年(ながねん)のザカリヤの祈(いの)りに答(こた)えられたのです。

【一生(いっしょう)で一番(いちばん)の出来事(できごと)とは】

あなたにも人生(じんせい)でいろいろな大きな出来事(できごと)があったことでしょう。また、これからもあるかも知れません。しかしイエス様を信(しん)じるよりも大きな出来事(できごと)はありません。そのことにより、あなたはまったく新(あたら)しく生(う)まれ変(か)わり、どんなときもイエス様の愛(あい)と命(いのち)によって共(とも)に約束(やくそく)の希望により生きることができるのです。それは神(かみ)さまが与(あた)えてくださった最高(さいこう)のプレゼントです。

【聖書(せいしょ)はあなたへの約束(やくそく)】

「主(しゅ)によって語(かた)られたことは必(かなら)ず実現(じつげん)すると信(しん)じきった人は、何(なん)と幸(さいわ)いなことでしょう。」

 (ルカの福音書1:45)

ザカリヤは最初(さいしょ)は、自分たちに子供(こども)が与(あた)えられるという神(かみ)さまの言葉(ことば)を信(しん)じられませんでした。しかし、妻(つま)エリサベツがみごもったことにより、不信仰(ふしんこう)な自分(じぶん)を悔(く)い改(あらた)めました。そして、イエス様の救(すく)いを受(う)けることができました。

聖書(せいしょ)の言葉(ことば)は、他(ほか)でもないあなたへの約束(やくそく)なのです。信(しん)じられない状況(じょうきょう)や、自分(じぶん)の罪深(つみぶか)さや弱(よわ)さに負(ま)けそうでも、悔(く)い改(あらた)めて、神(かみ)さまの言葉(ことば)を告白(こくはく)して約束(やくそく)を受(う)け取(と)りましょう。あなたの人生(じんせい)を通(とお)して神(かみ)さまの御業(みわざ)が現(あらわ)されていきます。

神(かみ)には約束(やくそく)されたことを成就(じょうじゅ)する力(ちから)があることを堅(かた)く信(しん)じました。だからこそ、それが彼(かれ)の義(ぎ)とみなされたのです。しかし、「彼(かれ)の義(ぎ)とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼(かれ)のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中からよみがえらせた方を信(しん)じる私たちも、その信仰(しんこう)を義(ぎ)とみなされるのです。

(ローマ人への手紙4:21-24)

あなたを証明するもの

コリント人への手紙第一3章18-23節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月11日

<聖書>

だれも自分(じぶん)を欺(あざむ)いてはいけません。もしあなたがたの中で、自分(じぶん)は今(いま)の世(よ)の知者(ちしゃ)だと思(おも)う者(しゃ)がいたら、知者(ちしゃ)になるためには愚(おろ)かになりなさい。なぜなら、この世(よ)の知恵(ちえ)は、神(かみ)の御前(みまえ)では愚(おろ)かだからです。こう書いてあります。「神(かみ)は、知者(ちしゃ)どもを彼(かれ)らの悪賢(わるがしこ)さの中で捕(と)らえる。」また、次(つぎ)のようにも書いてあります。「主(しゅ)は、知者(ちしゃ)の論議(ろんぎ)を無益(むえき)だと知(し)っておられる。」ですから、だれも人間(にんげん)を誇(ほこ)ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界(せかい)であれ、いのちであれ、死(し)であれ、また現在(げんざい)のものであれ、未来(みらい)のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神(かみ)のものです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章18-23節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ(救(すく)い主(ぬし))は表(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「生(い)ける石(いし)」として今も生(い)きて働(はたら)かれてるのです。

家(いえ)を建(た)てる者(もの)たちの捨(す)てた石(いし)。それが礎(いしずえ)の石(いし)になった。(詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)・使徒(しと)たち(キリストのからだ)を通(とお)して働(はたら)く神(かみ)の言葉(ことば)、生(い)きるキリスト信仰(しんこう)を土台(どだい)として建(た)て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)の信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)を建(た)て上げ、また教会(きょうかい)を建(た)て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)は生(い)きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは神(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)(土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)の基礎(きそ)(何を信(しん)じるか)も大切(たいせつ)な問題(もんだい)です。神(かみ)なき生(い)き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)と敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を受(う)け入れる者(もの)は神(かみ)の愛(あい)を知(し)り安心(あんしん)して、神(かみ)から人生(じんせい)の目的(もくてき)を与(あた)えられます。内(うち)なる人である霊(れい)の基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住(す)まれる、神(かみ)から受(う)けた聖霊(せいれい)の宮(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、知(し)らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って買(か)い取(と)られたのです。ですから自分のからだをもって、神(かみ)の栄光(えいこう)を現(あらわ)しなさい。(Ⅰコリント6:19-20)

信仰(しんこう)による歩(あゆ)みには、働(はたら)きや功績(こうせき)や結果(けっか)の大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな働(はたら)きはできなくても、救(すく)いは完全(かんぜん)であり、決(けっ)して変(か)わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)に評(ひょう)価(か)してくださる方は神(かみ)さまです。

しかし、愛(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の持(も)っている最(もっと)も聖(きよ)い信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)を築(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって祈(いの)り、神(かみ)の愛(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)を保(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに至(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待(ま)ち望(のぞ)みなさい。(ユダの手紙20-21)