キリスト信仰という土台

コリント人への手紙第一3章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年12月4日

<聖書>

与(あた)えられた神(かみ)の恵(めぐ)みによって、私は賢(かしこ)い建築家(けんちくか)のように、土台(どだい)を据(す)えました。そして、ほかの人がその上に家(いえ)を建(た)てています。しかし、どのように建(た)てるかについてはそれぞれが注意(ちゅうい)しなければなりません。というのは、だれも、すでに据(す)えられている土台(どだい)のほかに、ほかの物(もの)を据(す)えることはできないからです。その土台(どだい)とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台(どだい)の上に、金(きん)、銀(ぎん)、宝石(ほうせき)、木(もく)、草(くさ)、わらなどで建(た)てるなら、各人(かくじん)の働(はたら)きは明瞭(めいりょう)になります。その日がそれを明(あき)らかにするのです。というのは、その日は火(ひ)とともに現(あらわ)れ、この火(ひ)がその力(ちから)で各人(かくじん)の働(はたら)きの真価(しんか)をためすからです。もしだれかの建(た)てた建物(たてもの)が残(のこ)れば、その人は報(むく)いを受(う)けます。もしだれかの建(た)てた建物(たてもの)が焼(や)ければ、その人は損害(そんがい)を受(う)けますが、自分(じぶん)自身(じしん)は、火(ひ)の中をくぐるようにして助(たす)かります。あなたがたは神(かみ)の神殿(しんでん)であり、神(かみ)の御霊(みたま)があなたがたに宿(やど)っておられることを知(し)らないのですか。もし、だれかが神(かみ)の神殿(しんでん)をこわすなら、神(かみ)がその人を滅(ほろ)ぼされます。神(かみ)の神殿(しんでん)は聖(せい)なるものだからです。あなたがたがその神殿(しんでん)です。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章10-17節)

<説教>

旧約(きゅうやく)聖書(せいしょ)では、石とはメシヤ(救(すく)い主(ぬし))は表(あら)わします。そしてキリストこそが、十字架(じゅうじか)で死なれ、よみがえられた永遠(えいえん)の「生(い)ける石(いし)」として今も生(い)きて働(はたら)かれてるのです。

家(いえ)を建(た)てる者(もの)たちの捨(す)てた石(いし)。それが礎(いしずえ)の石(いし)になった。

(詩篇(しへん)118:22)

キリストの教会(きょうかい)、すなわち一人一人の預言者(よげんしゃ)・使徒(しと)たち(キリストのからだ)を通(とお)して働(はたら)く神(かみ)の言葉(ことば)、生(い)きるキリスト信仰(しんこう)を土台(どだい)として建(た)て上げられます。

教会(きょうかい)の体である信徒(しんと)の信仰(しんこう)は、その人生(じんせい)を建(た)て上げ、また教会(きょうかい)を建(た)て上げていきます。キリストのみことばによる信仰(しんこう)は生(い)きて現実(げんじつ)にあらわれていきます。

ここでパウロが言う大切(たいせつ)なことは、①その土台(どだい)はキリストであること ②評価(ひょうか)されるのは神(かみ)さまであることです。

建物(たてもの)にとって基礎(きそ)(土台(どだい))はきわめて重要なものです。同様に人生(じんせい)の基礎(きそ)(何を信(しん)じるか)も大切(たいせつ)な問題(もんだい)です。神(かみ)なき生(い)き方は、どこまでいっても不安定(ふあんてい)で、混乱(こんらん)と敗北(はいぼく)があります。けれども、イエス様を受(う)け入れる者(もの)は神(かみ)の愛(あい)を知(し)り安心(あんしん)して、神(かみ)から人生(じんせい)の目的(もくてき)を与(あた)えられます。内(うち)なる人である霊(れい)の基礎(きそ)が入るのです。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住(す)まれる、神(かみ)から受(う)けた聖霊(せいれい)の宮(みや)であり、あなたがたは、もはや自分(じぶん)自身(じしん)のものではないことを、知(し)らないのですか。あなたがたは、代価(だいか)を払って買(か)い取(と)られたのです。ですから自分のからだをもって、神(かみ)の栄光(えいこう)を現(あらわ)しなさい。

(Ⅰコリント6:19-20)

キリストがあなたの罪(つみ)や汚(よご)れのために、十字架(じゅうじか)で死(し)なれ復活(ふっかつ)されたことを信(しん)じる者(もの)は、その信仰(しんこう)によって人生(じんせい)のすべてで神(かみ)さまが働(はたら)かれ、あなたはキリスト(教会(きょうかい))をあらわす存在(そんざい)とされるのです。

あなたの生(い)きる姿(すがた)でキリストはこの世に生(い)きて働(はたら)かれることが明(あき)らかにされます。

信仰(しんこう)による歩(あゆ)みには、働(はたら)きや功績(こうせき)や結果(けっか)の大小(だいしょう)による心配(しんぱい)はありません。人から見て大きな働(はたら)きはできなくても、救(すく)いは完全(かんぜん)であり、決(けっ)して変(か)わることはありません。

自分の納得(なっとく)や人からの称賛(しょうさん)では救われません。あなたがキリストを土台として生きたかを完全(かんぜん)に評(ひょう)価(か)してくださる方は神(かみ)さまです。

しかし、愛(あい)する人々よ。あなたがたは、自分の持(も)っている最(もっと)も聖(きよ)い信仰(しんこう)の上に自分(じぶん)自身(じしん)を築(きず)き上げ、聖霊(せいれい)によって祈(いの)り、神(かみ)の愛(あい)のうちに自分(じぶん)自身(じしん)を保(たも)ち、永遠(えいえん)のいのちに至(いた)らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待(ま)ち望(のぞ)みなさい。

(ユダの手紙20-21)

信仰の成長を目指して

コリント人への手紙第一3章1-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月27日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たちよ。私は、あなたがたに向(む)かって、御霊(みたま)に属(ぞく)する人に対(たい)するようには話(はな)すことができないで、肉(にく)に属(ぞく)する人、キリストにある幼子(おさなご)に対(たい)するように話(はな)しました。私はあなたがたには乳(ちち)を与(あた)えて、堅(かた)い食物(しょくもつ)を与(あた)えませんでした。あなたがたには、まだ無理(むり)だったからです。実(じつ)は、今(いま)でもまだ無理(むり)なのです。あなたがたは、まだ肉(にく)に属(ぞく)しているからです。あなたがたの間(あいだ)にねたみや争(あらそ)いがあることからすれば、あなたがたは肉(にく)に属(ぞく)しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩(あゆ)んでいるのではありませんか。ある人が、「私はパウロにつく」と言(い)えば、別(べつ)の人は、「私はアポロに」と言(い)う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。アポロとは何(なん)でしょう。パウロとは何(なん)でしょう。あなたがたが信仰(しんこう)に入るために用(もち)いられたしもべであって、主(しゅ)がおのおのに授(さず)けられたとおりのことをしたのです。私が植(う)えて、アポロが水を注(そそ)ぎました。しかし、成長(せいちょう)させたのは神(かみ)です。それで、たいせつなのは、植(う)える者(もの)でも水を注(そそ)ぐ者(もの)でもありません。成長(せいちょう)させてくださる神(かみ)なのです。植(う)える者(もの)と水を注(そそ)ぐ者(もの)は、一つですが、それぞれ自分(じぶん)自身(じしん)の働(はたら)きに従(したが)って自分(じぶん)自身(じしん)の報酬(ほうしゅう)を受(う)けるのです。私たちは神(かみ)の協力者(きょうりょくしゃ)であり、あなたがたは神(かみ)の畑(はたけ)、神(かみ)の建物(たてもの)です。

(コリント人(じん)への手紙(てがみ) 第一(だいいち)3章1-9節)

<説教>

コリント教会(きょうかい)の信徒(しんと)たちは、キリストを信じて御霊(みたま)を受(う)けていましたが、御霊(みたま)に属(ぞく)するのではなく、肉(にく)に属(ぞく)していました。つまり、御霊(みたま)に従ってではなく、自分の人間的な力によって、神の願(ねが)う人になろうとしていたのです。

コリント教会(きょうかい)は分裂(ぶんれつ)して、分派(ぶんぱ)をつくって互(たが)いに敵対(てきたい)していました。パウロはそのことによって、彼らが御霊(みたま)ではなく、自分の肉(にく)に属(ぞく)しているとわかりました。御霊(みたま)によって生きるなら、一致(いっち)と和合(わごう)があります。しかし、肉(にく)に従うなら、分裂(ぶんれつ)、分派(ぶんぱ)、敵対(てきたい)が生(しょう)じます。

「肉(にく)の行いは明白(めいはく)であって、次のようなものです。不品行(ふひんこう)、汚(けが)れ、好色(こうしょく)、

偶像(ぐうぞう)礼拝(れいはい)、魔術(まじゅつ)、敵意(てきい)、争(あらそ)い、そねみ、憤(いきどお)り、党派(とうは)心(しん)、分裂(ぶんれつ)、分派(ぶんぱ)、」

(ガラテヤ5:19-20)

キリストを信(しん)じて救(すく)われた後も信仰(しんこう)の成長(せいちょう)が必要(ひつよう)です。信仰(しんこう)の成長(せいちょう)とはどういうことを言うのでしょうか。みことばを覚(おぼ)え、祈りに励み、奇跡や癒しを行い、奉仕や献金を多く捧げることでしょうか。コリント教会(きょうかい)の信徒(しんと)はまさにそのようでした(Ⅰコリント12)。

しかし、信仰(しんこう)の成長(せいちょう)は、愛(あい)することにおいて成長(せいちょう)しているかどうかなのです。キリストを信(しん)じて、信仰(しんこう)の歩みを始めて、あなたは去年より愛(あい)する者に変えられているでしょうか。御霊(みたま)によって神を愛(あい)して、人を愛(あい)する者とされることこそが、信仰(しんこう)の成長(せいちょう)なのです。

様々の御霊(みたま)の賜物(たまもの)を受(う)けても、そこに愛(あい)がないならまったく価値(かち)がないのです。

「たとい、私が人の異言(いげん)や、御使(みつか)いの異言(いげん)で話しても、愛(あい)がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言(よげん)の賜物(たまもの)を持っており、またあらゆる奥義(おうぎ)とあらゆる知識(ちしき)とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰(しんこう)を持っていても、愛(あい)がないなら、何の値(ね)うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧(まず)しい人たちに分(わ)け与(あた)え、また私のからだを焼(や)かれるために渡(わた)しても、愛(あい)がなければ、何の役にも立ちません。」(Ⅰコリント13:1-3)

「兄弟(きょうだい)たち。あなたがたは、自由(じゆう)を与(あた)えられるために召(め)されたのです。ただ、その自由(じゆう)を肉(にく)の働(はたら)く機会(きかい)としないで、愛(あい)をもって互(たが)いに仕(つか)えなさい。」(ガラテヤ5:13)

キリストの十字架(じゅうじか)の赦(ゆる)しをいただいて、神の愛(あい)に感謝(かんしゃ)して、父なる神を見上げ、人を敵(てき)や競争(きょうそう)相手(あいて)としてではなく、愛(あい)する存在(そんざい)として生きる者に変えられていきます。

古(ふる)い自分を十字架(じゅうじか)に付けて、御霊(みたま)の支配(しはい)にゆだねるなら、み言葉を通して御霊(みたま)が働(はたら)らかれ、罪(つみ)や汚(けが)れがきよめられ、キリストに似(に)た者に変えられていきます。それは御霊(みたま)の実(み)として結(むす)ばれていきます。

「しかし、御霊(みたま)の実は、愛(あい)、喜(よろこ)び、平安(へいあん)、寛容(かんよう)、親切(しんせつ)、善意(ぜんい)、誠実(せいじつ)、柔和(にゅうわ)、自制(じせい)です。このようなものを禁(きん)ずる律法(りっぽう)はありません。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉(にく)を、さまざまの情欲(じょうよく)や欲望(よくぼう)とともに、十字架(じゅうじか)につけてしまったのです。

もし私たちが御霊(みたま)によって生きるのなら、御霊(みたま)に導(みちび)かれて、進(すす)もうではありませんか。」(ガラテヤ5:22-25)

キリストの十字架の奥義

コリント人への手紙第一2章6-11節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月13日

<聖書>

しかし私たちは、成人(せいじん)の間(あいだ)で、知恵(ちえ)を語ります。この知恵(ちえ)は、この世(よ)の知恵(ちえ)でもなく、この世(よ)の過(す)ぎ去(さ)って行く支配者(しはいしゃ)たちの知恵(ちえ)でもありません。私たちの語(かた)るのは、隠(かく)された奥義(おくぎ)としての神(かみ)の知恵(ちえ)であって、それは、神(かみ)が、私たちの栄光(えいこう)のために、世界(せかい)の始(はじ)まる前から、あらかじめ定(さだ)められたものです。この知恵(ちえ)を、この世(よ)の支配者(しはいしゃ)たちは、だれひとりとして悟(さと)りませんでした。もし悟(さと)っていたら、栄光(えいこう)の主(しゅ)を十字架(じゅうじか)につけはしなかったでしょう。まさしく、聖書(せいしょ)に書いてあるとおりです。「目(め)が見(み)たことのないもの、耳(みみ)が聞(き)いたことのないもの、そして、人の心(こころ)に思(おも)い浮(う)かんだことのないもの。神(かみ)を愛(あい)する者(もの)のために、神(かみ)の備(そな)えてくださったものは、みなそうである。」神(かみ)はこれを、御霊(みたま)によって私たちに啓示(けいじ)されたのです。御霊(みたま)はすべてのことを探り、神(かみ)の深(ふか)みにまで及(およ)ばれるからです。いったい、人の心(こころ)のことは、その人のうちにある霊(れい)のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神(かみ)のみこころのことは、神(かみ)の御霊(みたま)のほかにはだれも知りません。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章6-11節)

<説教>

神(かみ)のみ言葉(ことば)、神(かみ)のご計画(けいかく)、神(かみ)の御心(みこころ)は、生まれたままの人間にはわかりません。

キリストの福音(ふくいん)(あなたの罪(つみ)の身代(みが)わりに十字架(じゅうじか)で死(し)なれたキリストを信(しん)じるなら救(すく)われる)は隠(かく)された奥義(おくぎ)なのです。

イザヤ書の40-66章は聖書中(せいしょちゅう)、最(もっと)も卓越(たくえつ)したメッセージであると言えます。罪(つみ)からの解放(かいほう)と新天(しんてん)新地(しんち)の永遠(えいえん)の希望(きぼう)が語(かた)られています。その中の重要(じゅうよう)な箇所(かしょ)が、「第4のしもべの歌」と言われるイザヤ書52章13節から53章12節です(ちなみに第1のしもべの歌はイザヤ42:1-9、第2のしもべの歌はイザヤ49:1-6、第3のしもべの歌はイザヤ50:4-9です)。

ここには、新約(しんやく)聖書(せいしょ)の福音書(ふくいんしょ)以上(いじょう)に、苦難(くなん)のしもべのキリストの十字架(じゅうじか)の受難(じゅなん)が記(しる)されています。そして、またキリストの十字架(じゅうじか)の意味(いみ)は誰もわからないと書かれています。

「私たちの聞(き)いたことを、だれが信(しん)じたか。

【主(しゅ)】の御腕(みうで)は、だれに現(あらわ)れたのか。」  (イザヤ書53:1)

【主(しゅ)】の御腕(みうで)とは、神(かみ)の力を表(あら)わしています。この神(かみ)の力によって、人は神(かみ)の言葉(ことば)を信(しん)じることができるのです。神(かみ)の啓示(けいじ)(神(かみ)がご自身(じしん)を明(あき)らかされる)によってのみ、人は回心(かいしん)して、罪(つみ)を悔(く)い改(あらた)めて、救(すく)われるのです。

聖書(せいしょ)によると人間の本質(ほんしつ)(あなたがあなたであること)は霊(れい)にあります。霊(れい)は魂(たましい)をもち、体(からだ)に住(す)んでいるのです。

体(からだ)(感覚(かんかく))や魂(たましい)(感情(かんじょう))でなく、霊(れい)で神(かみ)を知(し)るのです。霊(れい)によって神(かみ)との交(まじ)わりを持つのです。体(からだ)はこの地上(ちじょう)の一時的(いちじてき)なものであり、やがて朽(く)ちていきます。霊(れい)こそが癒(いや)され、養(やしな)われることを覚(おぼ)えなければならないのです。

「肉(にく)によって生(う)まれた者は肉(にく)です。御霊(みたま)によって生(う)まれた者(もの)は霊(れい)です。」

(ヨハネ3:6)

キリストを信(しん)じるなら、霊的(れいてき)に新(あたら)しく生(う)まれ変(か)わることができます(体(からだ)の生(う)まれ変(か)わりではありません)。外から見ただけでは、その人の内側(うちがわ)で何(なに)が起(お)こったかわかりません。しかし、時(とき)が経(た)つとはっきり現(あらわ)れてくるのです。

神(かみ)を信(しん)じるとは神(かみ)の言葉(ことば)を信(しん)じることです。神(かみ)の言葉(ことば)を通(とお)して、内(うち)なる霊(れい)の人は罪(つみ)からきよめられ、癒(いや)され、愛(あい)に生きる者へと変(か)えられ続(つづ)けます。イエス様を信(しん)じるなら、いつしか心(こころ)が変(か)えられていることに気付(きづ)くでしょう。また言葉(ことば)も優(やさ)しく変(か)えられるでしょう。きっと、表情(ひょうじょう)や笑顔(えがお)も。そして、自分のことを愛(あい)することができ、どんな小さなことも大切(たいせつ)に愛(いと)おしく思え、人生(じんせい)はかけがえのない宝物(たからもの)とされます。イエス様はどんな時もあなたを愛(あい)されています。

あなたもイエス様を迎(むか)えいれて、この素晴(すば)らしい祝福(しゅくふく)を受(う)け取(と)ってください。

「神(かみ)は、実(じつ)に、そのひとり子(ご)をお与(あた)えになったほどに、世(よ)を愛(あい)された。それは御子(みこ)を信(しん)じる者(しゃ)が、ひとりとして滅(ほろ)びることなく、永遠(えいえん)のいのちを持(も)つためである。」

(ヨハネ3:16)

くりかえせない人生(じんせい)だから
輝(かがや)く瞬間(とき)を逃(のが)さないで
かけがえのないものを見つけ
できれば愛(あい)と呼(よ)べる家(いえ)に住み
微笑(ほほえ)みながら
自由(じゆう)という町(まち)を歩(ある)き
痛(いた)みと言う歩道(ほどう)に座(すわ)り
優(やさ)しさが弱(よわ)さではなくて
仕(つか)えることに道(みち)を探(さが)し
むやみに言葉(ことば)を並(なら)べず
愛(あい)することを学(まな)びながら
ゆるせる心(こころ)育(そだ)てながら
言葉(ことば)遊(あそ)びにならぬように
真実(しんじつ)と呼(よ)ばれる小径(こみち)をずっと
歩(ある)いて行(ゆ)きたい
それが願(ねが)い
(「願(ねが)い」岩渕(いわぶち)まこと)

信仰により神と共に生きる

コリント人への手紙第一2章1-5節より

土山みことばキリスト教会

2022年11月6日

<聖書>

さて兄弟(きょうだい)たち。私(わたし)があなたがたのところへ行(い)ったとき、私(わたし)は、すぐれたことば、すぐれた知恵(ちえ)を用(もち)いて、神(かみ)のあかしを宣(の)べ伝(つた)えることはしませんでした。なぜなら私(わたし)は、あなたがたの間(あいだ)で、イエス・キリスト、すなわち十字架(じゅうじか)につけられた方(かた)のほかは、何(なに)も知(し)らないことに決心(けっしん)したからです。あなたがたといっしょにいたときの私(わたし)は、弱(よわ)く、恐(おそ)れおののいていました。そして、私(わたし)のことばと私(わたし)の宣教(せんきょう)とは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)のことばによって行(おこな)われたものではなく、御霊(みたま)と御力(みちから)の現(あらわ)れでした。それは、あなたがたの持(も)つ信仰(しんこう)が、人間(にんげん)の知恵(ちえ)にささえられず、神(かみ)の力(ちから)にささえられるためでした。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)2章1-5節)

<説教>

パウロはコリントへ来る前にアテネで宣教(せんきょう)しましたが、そこでは、ギリシャ哲学(てつがく)に対して、哲学(てつがく)的(てき)にイエスの救(すく)いを伝(つた)えようとしました。その結果(けっか)、失敗(しっぱい)し、弱(よわ)さと恐(おそ)れを覚(おぼ)えていました。パウロは、説得力(せっとくりょく)のある知恵(ちえ)や知識(ちしき)によらず、まっすぐに十字架(じゅうじか)につけられたキリストを宣(の)べ伝(つた)えることに立ち返ったのです。

神(かみ)さまが用意(ようい)された福音(ふくいん)(イエスの十字架(じゅうじか)を信じるなら救(すく)われる)が語られる時、聞く者に神(かみ)さまが働(はたら)かれて、人は救(すく)われます。

救(すく)われた者は、神(かみ)に与えられた信仰(しんこう)によって生きていきます。信仰(しんこう)とはイエス・キリストを信じることだけでなく、積極的(せっきょくてき)に自分を神(かみ)さまにお任(まか)せしていくことが必要(ひつよう)です。自分の信念(しんねん)だけでは足(た)りないのです。

聖書(せいしょ)が言う罪(つみ)とは、悪(わる)い行いや、邪悪(じゃあく)な考えだけではありません。むしろ、それらにつながる人間の本質(ほんしつ)が罪(つみ)深(ぶか)く汚(けが)れている状態(じょうたい)を言います。また、この世(よ)は人を罪(つみ)に誘惑(ゆうわく)する罪(つみ)の力が働(はたら)いています。

この罪(つみ)の治療(ちりょう)方法(ほうほう)には人間の本質(ほんしつ)を造(つく)り変(か)える力が必要(ひつよう)です。その力は人間の内側(うちがわ)にはなく、神(かみ)の力によるのです。誘惑(ゆうわく)の力に立(た)ち向(む)かう神(かみ)の助(だす)けが必要(ひつよう)です。クリスチャンとして生きるということは、自分の努力や頑張りだけでなく、この神(かみ)の力と助(だす)けが必要(ひつよう)です。

バルーン(熱気球(ねつききゅう))は空高く、遠(とお)くまで人を運(はこ)ぶことができます。しかし、あなたがこのバルーンから垂(た)れ下(さ)がったロープにつかまるとしたら、どうでしょうか。バルーンが地上(ちじょう)から徐々(じょじょ)に浮(う)き上がっていきます。50cm、1m、2m…、次第(しだい)に高く地上(ちじょう)から5m、10mと上昇(じょうしょう)したら、もうあなたは怖(こわ)くて、もう地上(ちじょう)に戻(もど)ってくれ!と叫(さけ)ぶことでしょう。しかし、バルーンからぶら下(さ)がった安全(あんぜん)なカゴに乗(の)るとしたら、高く舞(ま)い上がっても恐怖(きょうふ)はないでしょう。あなたは人間の力では不可能(ふかのう)な高さから地上(ちじょう)の景色(けしき)を楽しむことでしょう。

信仰(しんこう)もそのようなものと言えます。自分の力ではなく、神(かみ)の力を受(う)けて、自分の力では到達(とうたつ)できない人生を生きることができます。自我(じが)や自己(じこ)中心(ちゅうしん)、罪深(つみぶか)い欲望(よくぼう)が、キリストの十字架(じゅうじか)の愛(あい)と赦(ゆる)しの中できよめられて、あなたはまったく新しい者に変(か)えられて生きるのです。永遠(えいえん)に残(のこ)る価値(かち)ある悔(く)いなき人生です。

「私は福音(ふくいん)を恥(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信(しん)じるすべての人にとって、救(すく)いを得(え)させる神(かみ)の力です。なぜなら、福音(ふくいん)のうちには神(かみ)の義(ぎ)が啓(けい)示(じ)されていて、その義(ぎ)は、信仰(しんこう)に始(はじ)まり信仰(しんこう)に進(すす)ませるからです。『義人(ぎじん)は信仰(しんこう)によって生(い)きる』と書(か)いてあるとおりです。」

(ローマ人への手紙1章16-17節)

最も小さき者が、偉大な存在につながるなら

コリント人への手紙第一1章26-31節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月23日

<聖書>

兄弟(きょうだい)たち、あなたがたの召(め)しのことを考えてごらんなさい。この世(よ)の知者(ちしゃ)は多くはなく、権力者(けんりょくしゃ)も多くはなく、身分(みぶん)の高い者も多くはありません。しかし神(かみ)は、知恵(ちえ)ある者をはずかしめるために、この世(よ)の愚(おろ)かな者を選(えら)び、強(つよ)い者をはずかしめるために、この世(よ)の弱(よわ)い者を選(えら)ばれたのです。また、この世(よ)の取(と)るに足(た)りない者や見下(みくだ)されている者を、神(かみ)は選(えら)ばれました。すなわち、有(あ)るものをない者のようにするため、無(む)に等(ひと)しいものを選(えら)ばれたのです。これは、神(かみ)の御前(みまえ)でだれをも誇(ほこ)らせないためです。しかしあなたがたは、神(かみ)によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神(かみ)の知恵(ちえ)となり、また、義(ぎ)と聖(きよ)めと、贖(あがな)いとになられました。まさしく、「誇(ほこ)る者は主(しゅ)を誇(ほこ)れ」と書いてあるとおりになるためです。

(コリント人への手紙(てがみ) 第一(だいいち)1章26-31節)

<説教>

神(かみ)はこの世(よ)では価値(かち)のないような者を選(えら)んで、信仰(しんこう)を与(あた)えられます。イエスを信(しん)じた者は取(しゅ)税人(ぜいにん)や遊女(ゆうじょ)のような罪人(つみびと)でした。天国で一番偉(えら)い者とは、幼(おさな)い子どもだとイエスは言われました。

この世(よ)と天国では価値観(かちかん)はまったく違(ちが)うのです。自分が無力(むりょく)で価値(かち)のない者とする者が、天国に入ることができます。それは自分を低(ひく)くして、弱(よわ)い者を受(う)け入れるへりくだった者です。

神(かみ)は自分の価値(かち)を世(よ)の中にアピールする者ではなく、小さな弱(よわ)き者を用いて、神(かみ)の存在(そんざい)を現(あらわ)されるのです。

人間はいつ、自分がちっぽけであると知るのでしょうか。宇宙(うちゅう)の広(ひろ)さと比(くら)べるときでしょうか。愛(あい)する人を守(まも)れないときかも知れません。しかし人は罪深(つみぶか)い自分の姿(すがた)を見たとき、自分の小ささを知ります。無(む)に等(ひと)しいような自分に絶望(ぜつぼう)します。罪(つみ)とは神(かみ)から離(はな)れて自分を損(そこ)ない失(うしな)っている状態(じょうたい)のことです。神(かみ)の前にすべての人は罪人(つみびと)です。神(かみ)の前に自分の小ささを知(し)る者は幸(さいわ)いです。

神(かみ)に造(つく)られた人間は有限(ゆうげん)である被造物(ひぞうぶつ)です。有限(ゆうげん)ですから、不完全(ふかんぜん)で誤(あやま)りがあり、誘惑(ゆうわく)に弱(よわ)く、失敗(しっぱい)もします。しかし聖書(せいしょ)は、そうであっても、あなたはあなたでいいのだと教(おし)えてくれます。それを隠(かく)したり、諦(あきら)めたり、無理(むり)に大きく見せようとしないでいいのです。

自分の罪深(つみぶか)さ、汚(けが)れ、弱(よわ)さを認(みと)めていいのです。自分には何の価値(かち)もなくていいのです。人間はそれを認(みと)められず、また恐(おそ)ろしくもありましょう。それは決(けっ)して人生(じんせい)の敗北(はいぼく)ではないのです。かえって勝利(しょうり)の人生(じんせい)のスタートです。

誰(だれ)よりも、自分を小さく、貧(まず)しく、むなしくしてくださった方がおられます。神(かみ)のイエス・キリストです。

最(もっと)も偉大(いだい)な存在(そんざい)である神(かみ)はすべての所有者(しょゆうしゃ)で、宇宙(うちゅう)と世界(せかい)と歴史(れきし)と命(いのち)を支配(しはい)しておられます。そのすべてに豊(ゆた)かな神(かみ)が、もっとも小さい者の姿(すがた)になられたのです。神(かみ)であるキリストが人間の罪(つみ)のために人となって十字架(じゅうじか)で死んでくださいました。あなたの罪(つみ)の身代(みが)わりの犠牲(ぎせい)となられました。あなたに愛(あい)を示(しめ)してくださいました。

キリストは神(かみ)の御姿(みすがた)である方(かた)なのに、神(かみ)のあり方(かた)を捨(す)てられないとは考(かんが)えず、ご自分(じぶん)を無(む)にして、仕(つか)える者(しゃ)の姿(すがた)をとり、人間と同(おな)じようになられました。人としての性質(せいしつ)をもって現(あらわ)れ、自分(じぶん)を卑(いや)しくし、死(し)にまで従(したが)い、実(じつ)に十字架(じゅうじか)の死(し)にまでも従(したが)われました。          (ピリ2:6-8)

あなたは、取(と)るに足(た)りないさき者です。しかし大切(たいせつ)なことは最(もっと)も偉大(いだい)な神(かみ)につながることが出来(でき)るということです。自分の罪(つみ)を神(かみ)の前に正直(しょうじき)に言(い)い表(あらわ)すならすべての罪(つみ)は赦(ゆる)されます。このとき、小さい人間が偉大(いだい)な神(かみ)とひとつとされる人の理解(りかい)を超(こ)える奇跡(きせき)が起(お)こります。そのとき無(む)に等(ひと)しい者が、永遠(えいえん)に価値(かち)ある者に変(か)えられます。

これからは罪(つみ)に背(せ)を向(む)け、神(かみ)に向(む)いて生きるのです。イエス・キリストを通して、神(かみ)さまの大きな愛(あい)と恵(めぐ)みを受(う)けて、いつもあなたは、しっかりと存在(そんざい)して、自分の価値(かち)を喜(よろこ)んで生きるのです。

あなたの指(ゆび)のわざである天(てん)を見(み)、あなたが整(ととの)えられた月(つき)や星(ほし)を見(み)ますのに、人とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを心(こころ)に留(と)められるとは。人(ひと)の子(こ)とは、何者(なにもの)なのでしょう。あなたがこれを顧(かえり)みられるとは。あなたは、人(ひと)を、神(かみ)よりいくらか劣(おと)るものとし、これに栄光(えいこう)と誉(ほま)れの冠(かんむり)をかぶらせました。

(詩篇(しへん)8:3-5)

かつて、天(てん)の無数(むすう)の星(ほし)を見上(みあ)げては
私(わたし)は誰(だれ)にも知(し)られることのない
いてもいなくてもよい小(ちい)さい存在(そんざい)だと
言(い)い聞(き)かせていた。
しかし今(いま)は、小(ちい)さい無(む)のような私(わたし)を
完全(かんぜん)に知(し)ってくださる方(かた)がいることを信(しん)じている。
私(わたし)の存在(そんざい)を覚(おぼ)えて、愛(あい)して下(くだ)さるお方(かた)を。
それは星(ほし)を造(つく)られ、私を造(つく)られたお方(かた)。
十字架(じゅうじか)で私(わたし)のために死(し)なれたキリスト。
(作者不詳)

十字架は神の愛と命のメッセージ

コリント人への手紙第一1章18-25節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月16日

<聖書>

十字架(じゅうじか)のことばは、滅(ほろ)びに至(いた)る人々には愚(おろ)かであっても、救(すく)いを受(う)ける私たちには、神(かみ)の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵(ちえ)ある者の知恵(ちえ)を滅(ほろ)ぼし、賢(かしこ)い者の賢(かしこ)さをむなしくする。」知者(ちしゃ)はどこにいるのですか。学者(がくしゃ)はどこにいるのですか。この世(よ)の議論家(ぎろんいえ)はどこにいるのですか。神(かみ)は、この世(よ)の知恵(ちえ)を愚(おろ)かなものにされたではありませんか。事実、この世(よ)が自分の知恵(ちえ)によって神(かみ)を知ることがないのは、神(かみ)の知恵(ちえ)によるのです。それゆえ、神(かみ)はみこころによって、宣教(せんきょう)のことばの愚(おろ)かさを通(とお)して、信(しん)じる者を救(すく)おうと定(さだ)められたのです。ユダヤ人はしるしを要求(ようきゅう)し、ギリシヤ人は知恵(ちえ)を追求(ついきゅう)します。しかし、私たちは十字架(じゅうじか)につけられたキリストを宣(の)べ伝(つた)えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人(いほうじん)にとっては愚(おろ)かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召(め)された者にとっては、キリストは神(かみ)の力、神(かみ)の知恵(ちえ)なのです。なぜなら、神(かみ)の愚(おろ)かさは人よりも賢(かしこ)く、神(かみ)の弱(よわ)さは人よりも強(つよ)いからです。

(コリント人への手紙第一1章18-25節)

<説教>

十字架(じゅうじか)刑(けい)とは、裸(はだか)で手首(てくび)と足首(あしくび)を約15センチのくぎで木に打ち付けられ、激痛(げきつう)と出血(しゅっけつ)多量(たりょう)と呼吸(こきゅう)困難(こんなん)の末(すえ)に心臓(しんぞう)破裂(はれつ)で死(し)に至(いた)ります。その期間(きかん)は数日(すうじつ)から一週間(いっしゅうかん)以上(いじょう)と言われます。人々の前で辱(はずかし)められ、人間の尊厳(そんげん)を奪(うば)われる残酷(ざんこく)な死刑(しけい)の方法(ほうほう)です。

イエスは神(かみ)を名のった刑罰(けいばつ)で、むち打たれ、十字架(じゅうじか)刑(けい)により処刑(しょけい)されました。救(すく)い主(ぬし)キリストを待(ま)ち望(のぞ)んでいたユダヤ人にとって、あざけられ、悲惨(ひさん)で弱々(よわよわ)しい死(し)に方をしたイエスが神(かみ)の救(すく)い主(ぬし)キリストであるとは絶対(ぜったい)に信(しん)じられませんでした。

ギリシャ人にとっても神(かみ)とは人間とはかけ離(はな)れた崇高(すうこう)な存在(そんざい)でした。人間としてこの世(よ)に来られ、よりによって汚(けが)らわしい十字架(じゅうじか)と関(かか)わる者であるなど考えられませんでした。キリストが人間イエスとして誕生(たんじょう)したことも死(し)んで三日後の復活(ふっかつ)も愚(おろ)かな話でした。

今もキリストの十字架(じゅうじか)の話を聞くと、いやな思いを持(も)つ人がいます。暗(くら)い不吉(ふきつ)な話に思うかも知(し)れません。あなたの罪(つみ)やけがれの身代(みが)わりにキリストは十字架(じゅうじか)で死(し)なれたことは、ばかげていると思うかもしれません。

人間の罪(つみ)とはとんでもなく邪悪(じゃあく)な状態で生きていることを言うのではありません。人間が自分の力では決(けっ)して罪(つみ)の現実(げんじつ)から救(すく)い出されない姿(すがた)を言っているのです。

人は自分の知恵(ちえ)によって神(かみ)のことはわかりません。それが神(かみ)の知恵(ちえ)だと聖書(せいしょ)は言います。そうです。キリストの十字架(じゅうじか)を信(しん)じるなら罪(つみ)深(ぶか)い生き方から救(すく)われるということは人間の努力(どりょく)では決(けっ)してわからないのです。

十字架(じゅうじか)は人間の罪(つみ)の赦(ゆる)しをあらわすにふさわしいシンボルです。

十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)を表(あら)わしています。同時(どうじ)に十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)の赦(ゆる)しをあらわしています。

また十字架(じゅうじか)はあなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)をあらわしており、同時(どうじ)にその刑罰(けいばつ)を身代(みが)わりに受(う)けてくださる神(かみ)の愛(あい)をあらわすのです。

キリストの十字架(じゅうじか)によってしかあなたの罪(つみ)は赦(ゆる)されません。神(かみ)に対して犯(おか)した人間の罪(つみ)はそれほど重(おも)いものなのです。罪(つみ)のない聖(きよ)いキリストの命(いのち)だけが人間の罪(つみ)の身代(みが)わりとなることができるのです。

このことをただ信(しん)じて受(う)け取(と)るなら、あなたは救(すく)われます。それ以外(いがい)の方法(ほうほう)はどこにもないのです。

十字架(じゅうじか)のことばは、滅(ほろ)びに至(いた)る人々(ひとびと)には愚(おろ)かであっても、
救(すく)いを受(う)ける私(わたし)たちには、神(かみ)の力です。(Ⅰコリント1:18)

そしてどうしてありえようか、私(わたし)が
救(すく)い主(ぬし)の血潮(ちしお)の益(えき)を得(え)るということが?
主(しゅ)の苦痛(くつう)を引(ひ)き起(お)こした私(わたし)のために死(し)なれたのか
主(しゅ)を死(し)に至(いた)るまで悩(なや)ました私(わたし)のために?
驚(おどろ)くべき愛(あい)!どうしてありえようか
わが神(かみ)よ、なんじがわがために死(し)にたもうということが
(チャールズ・ウェスレー、讃美歌230番「み神の恵みを」の原詞)

福音は信じる者に優しく働く

コリント人への手紙第一1章10-17節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月9日

<聖書>

さて、兄弟(きょうだい)たち。私は、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの御名(みな)によって、あなたがたにお願(ねが)いします。どうか、みなが一致(いっち)して、仲間割(なかまわ)れすることなく、同じ心、同じ判断(はんだん)を完全(かんぜん)に保(たも)ってください。実(じつ)はあなたがたのことをクロエの家の者から知らされました。兄弟(きょうだい)たち。あなたがたの間には争(あらそ)いがあるそうで、あなたがたはめいめいに、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言っているということです。キリストが分割(ぶんかつ)されたのですか。あなたがたのために十字架(じゅうじか)につけられたのはパウロでしょうか。あなたがたがバプテスマを受(う)けたのはパウロの名によるのでしょうか。私は、クリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授(さず)けたことがないことを感謝(かんしゃ)しています。それは、あなたがたが私の名によってバプテスマを受(う)けたと言われないようにするためでした。私はステパナの家族にもバプテスマを授(さず)けましたが、そのほかはだれにも授(さず)けた覚(おぼ)えはありません。キリストが私をお遣(つか)わしになったのは、バプテスマを授(さず)けさせるためではなく、福音(ふくいん)を宣(の)べ伝(つた)えさせるためです。それも、キリストの十字架(じゅうじか)がむなしくならないために、ことばの知恵(ちえ)によってはならないのです。

(コリント人への手紙第一1章10-17節)

<説教>

使徒(しと)パウロは福音(ふくいん)を世界に伝(つた)える者として神様(かみさま)に召(め)されました。福音(ふくいん)は人種(じんしゅ)、社会(しゃかい)、経済(けいざい)、教育(きょういく)の壁(かべ)を越(こ)えます。

私は福音(ふくいん)を恥(はじ)とは思いません。福音(ふくいん)は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信(しん)じるすべての人にとって、救(すく)いを得(え)させる神(かみ)の力です。(ローマ1:16)

福音(ふくいん)とは、イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の死が、あなたの罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の身代(みが)わりであると信(しん)じるなら罪(つみ)が赦されて神(かみ)の子どもとされるというよい知らせ(グッドニュース)です。

この世界にはまことの希望(きぼう)はありません。しかし教会(きょうかい)には唯一の救(すく)いの道、まことの希望(きぼう)の福音(ふくいん)があります。これは世にはないキリストの教会(きょうかい)だけがもっている希望(きぼう)です。

キリストが生まれる500年も前の黄金(おうごん)時代(じだい)のギリシャの哲学者(てつがくしゃ)は、人間にとってもっとも良いことは、生まれないことだと説(と)きました。もうずっと昔(むかし)に神(かみ)は死んだと言われて、それを人々は信(しん)じています。神(かみ)を捨(す)て去(さ)り、すべての善(ぜん)も真理(しんり)も人間にあるという思想(しそう)はおそるべき出口のない死の世界です。人間がサルから偶然(ぐうぜん)生まれたと唱(とな)える進化論(しんかろん)はすべての存在(そんざい)には意味(いみ)も目的(もくてき)も価値(かち)もない、すべてはむなしいという絶望(ぜつぼう)の虚無(きょむ)の人生に追(お)い込(こ)みます。

ジャンクフード(冷凍(れいとう)食品(しょくひん)、ファーストフード、インスタント食品など)はカロリーだけが高く栄養価(えいようか)はあまりありません。これを食べ続(つづ)けると体を害(がい)し、精神(せいしん)や心の成長(せいちょう)にも悪(わる)い影響(えいきょう)が出ると言われています。

この世の哲学(てつがく)、思想(しそう)はとても難(むずか)しく、喜(よろこ)びも希望(きぼう)もがなく、たんに頭の知識(ちしき)、理論(りろん)であり、霊(れい)的(てき)に成長(せいちょう)することはできません。

しかし、福音(ふくいん)~イエス・キリストの十字架(じゅうじか)の救(すく)いは、聞く者の心とからだにやさしく、希望(きぼう)を与(あた)えるよい知らせです。子どもでも理解(りかい)して信(しん)じて救(すく)われるのです。国も年齢(ねんれい)も習慣(しゅうかん)も関係(かんけい)なく、どんな人生であったとしても、いかなる境遇(きょうぐう)にある人にも、求(もと)める人の心に福音(ふくいん)は届(とど)きます。誰(だれ)であっても信(しん)じるなら救(すく)われます。

兄弟(きょうだい)たち。私は今、あなたがたに福音(ふくいん)を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣(の)べ伝(つた)えたもので、あなたがたが受(う)け入(い)れ、また、それによって立っている福音(ふくいん)です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信(しん)じたのでないなら、私の宣(の)べ伝(つた)えたこの福音(ふくいん)のことばをしっかりと保(たも)っていれば、この福音(ふくいん)によって救(すく)われるのです。私があなたがたに最(もっと)もたいせつなこととして伝(つた)えたのは、私も受(う)けたことであって、次のことです。キリストは、聖書(せいしょ)の示すとおりに、私たちの罪(つみ)のために死なれたこと、また、葬(ほうむ)られたこと、また、聖書(せいしょ)の示すとおりに、三日目(みっかめ)によみがえられたこと、           (Ⅰコリント15:1-4)

これが聖書(せいしょ)にある福音(ふくいん)です。福音(ふくいん)は、知識(ちしき)や理論(りろん)でなく、実際(じっさい)にあなたに関わるよい知らせです。それを信(しん)じた者には希望(きぼう)と平安(へいあん)が現実(げんじつ)のものとなります。キリストはあなたの罪(つみ)のために十字架(じゅうじか)で死なれました。すべての人(あなたも含まれる)がよみがえる、その最初(さいしょ)(初穂(はつほ))としてキリストは三日目(みっかめ)によみがえられました。死後(しご)にすべての人は神(かみ)のさばきを受(う)けますが、あなたが、この福音(ふくいん)にどう答(こた)えて生きたかによって神(かみ)の子どもとされるか、そうでないかが決定(けってい)します。

神(かみ)は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者(ししゃ)の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望(のぞ)みを持(も)つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)

自分の言葉(ことば)や行(おこな)いのいかなることも、福音(ふくいん)をさえぎることがないようにすることがパウロの哲学(てつがく)であり思想(しそう)でした。キリストを信(しん)じた者はこの福音(ふくいん)をそのように宝(たから)のように愛(あい)する者です。あなたもイエス様の福音(ふくいん)を信(しん)じてみませんか。

シジフォスは死んで黄泉(よみ)に行った。ところが地上に戻(もど)されたのであった。黄泉(よみ)に呼(よ)び返(かえ)されたとき、彼は帰(かえ)ることを拒(こば)んだ。人生の快楽(かいらく)を満喫(まんきつ)したからである。罰(ばつ)として彼は連(つ)れ戻(もど)され、丘(おか)のいただきまで大きな岩(いわ)を押(お)し上げる刑(けい)を宣告(せんこく)された。しかし岩(いわ)をそこまで押(お)し上げると、転(ころ)げ落(お)ちてしまう。彼はふもとまで苦労(くろう)して降(お)りていき、もう一度岩(いわ)を押(お)し上げるが、再(ふたた)び転(ころ)げ落(お)ちるだけであった。
『シジフォスの神話(しんわ)』アルベール・カミュ

シジフォスはこの工程(こうてい)を果(は)てしなく繰(く)り返(かえ)すように運(うん)命(めい)づけられた。

彼の努力(どりょく)は、意味(いみ)ある結果(けっか)をまったく生(う)み出さない。

存在(そんざい)するものに意味(いみ)も目的(もくてき)も価値(かち)もないという実存(じつぞん)主義(しゅぎ)、虚無(きょむ)主義(しゅぎ)、神は死んだ思想(しそう)を代表(だいひょう)する文学(ぶんがく)の一つ。

わたしの行く手は平安(へいあん)だ。
死へのあらゆる働(はたら)きかけに対しても、ひそかなる守護(しゅご)がなされている。
すべての安定性(あんていせい)が失(うしな)われても、なお平安(へいあん)だ。たおされても平安(へいあん)だ。
たとえ、このあわれな肢体(したい)が滅んでも、なおまさって平安(へいあん)だ。
『平安(へいあん)』ルーパート・ブルック
たとえわたしが暗闇(くらやみ)の恐(おそ)ろしい雲海(うんかい)に入ったとしても、それはひと時だ。
わたしは神(かみ)の灯(ともしび)を胸(むね)に抱(だ)く。
その輝(かがや)きは早晩(そうばん)、暗闇(くらやみ)を貫(つらぬ)く。
わたしはいつしか脱出(だっしゅつ)する。
『パラサルサス』ブラウニング

イエス様の福音が与える平安をぜひあなたもお受けください。

キリストとの関係が、あなたを最後の日から守る

コリント人への手紙第一1章4-9節より

土山みことばキリスト教会

2022年10月2日

<聖書>

私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与(あた)えられた神(かみ)の恵(めぐ)みのゆえに、あなたがたのことをいつも神(かみ)に感謝(かんしゃ)しています。というのは、あなたがたは、ことばといい、知識(ちしき)といい、すべてにおいて、キリストにあって豊(ゆた)かな者(もの)とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確(たし)かになったからで、その結果(けっか)、あなたがたはどんな賜物(たまもの)にも欠(か)けるところがなく、また、熱心(ねっしん)に私たちの主(しゅ)イエス・キリストの現(あらわ)れを待(ま)っています。主(しゅ)も、あなたがたを、私たちの主(しゅ)イエス・キリストの日に責(せ)められるところのない者(もの)として、最後(さいご)まで堅(かた)く保(たも)ってくださいます。神(かみ)は真実(しんじつ)であり、その方(かた)のお召(め)しによって、あなたがたは神(かみ)の御子(みこ)、私たちの主(しゅ)イエス・キリストとの交(まじ)わりに入れられました。

(コリント人への手紙第一1章4-9節)

<説教>

キリストを信(しん)じて救(すく)われた者は、神(かみ)の計画(けいかく)によって召(め)されて(選(えら)ばれて呼(よ)び出されて)応答(おうとう)した者です。救(すく)いは聖霊(せいれい)の働(はたら)きによって始(はじ)まります。聖霊(せいれい)によってまず初(はじ)めに、自分の罪(つみ)を認(みと)め、キリストの十字架(じゅうじか)の救(すく)いがわかります。そして聖霊(せいれい)により、罪(つみ)の悔(く)い改(あらた)めに導(みちび)かれて、信仰(しんこう)が与(あた)えられます。

この瞬間(しゅんかん)に、義(ぎ)と認(みと)められ(罪(つみ)の刑罰(けいばつ)の放免(ほうめん))、神(かみ)との和解(わかい)が与(あた)えられ、神(かみ)の子とされます。この救(すく)いの根底(こんてい)にあるのは、信(しん)じた者がキリストとひとつにされることです(キリストとの結合(けつごう))。キリストがあなたの中に生きて働(はたら)き、またあなたもキリストの中に入り、霊的(れいてき)、生命的(せいめいてき)な命(いのち)を共にします。別々(べつべつ)の人間だった夫婦(ふうふ)が肉体的(にくたいてき)にも精神的(せいしんてき)にもひとつされ、時間をかけて理解(りかい)し合い、理想(りそう)も一つとされるように、信者(しんじゃ)はキリストとすべての営(いとな)み(喜(よろこ)び、苦(くる)しみ、十字架(じゅうじか)、復活(ふっかつ))を共有(きょうゆう)していきます。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷(どれい)も自由人(じゆうじん)も、一つのからだとなるように、一つの御霊(みたま)によってバプテスマを受(う)け、そしてすべての者が一つの御霊(みたま)を飲(の)む者とされたからです。

(Ⅰコリント12:13)

キリスト者は聖霊(せいれい)により賜物(たまもの)(神(かみ)に仕(つか)えるために与(あた)えられる能力(のうりょく))が与(あた)えられ、キリストの体である教会(きょうかい)につながり、互(たが)いに仕(つか)えて、教会(きょうかい)を建(た)て上げ、聖霊(せいれい)のみわざにより、キリストに似(に)た者に変(か)えられていきます(聖化(せいか)・きよめ)。

それは、からだの中に分裂(ぶんれつ)がなく、各部分(かくぶぶん)が互(たが)いにいたわり合うためです。もし一つの部分(ぶぶん)が苦(くる)しめば、すべての部分(ぶぶん)がともに苦(くる)しみ、もし一つの部分(ぶぶん)が尊(たっと)ばれれば、すべての部分(ぶぶん)がともに喜(よろこ)ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官(かくきかん)なのです。

(Ⅰコリ12:25-27)

一度、キリストを信(しん)じて救(すく)われた者の救(すく)いは決(けっ)して失(うしな)われることはありません。信(しん)じた瞬間(しゅんかん)に神(かみ)の子とされた身分(みぶん)と立場(たちば)は永遠(えいえん)に変(か)わることがなく、聖霊(せいれい)により、そのような者としてふさわしい生き方に生涯(しょうがい)かけて変(か)えられ続(つづ)けます。

外面(がいめん)や表面(ひょうめん)でなく、すべてがキリストの似(に)姿(すがた)に作(つく)り変(か)えられていくのです。キリスト者は見える現実(げんじつ)はどうであっても、見えない希望(きぼう)の約束(やくそく)を聖書(せいしょ)により信(しん)じるのです。

あなたがたのうちに良(よ)い働(はたら)きを始(はじ)められた方(かた)は、キリスト・イエスの日が来(く)るまでにそれを完成(かんせい)させてくださることを私は堅(かた)く信(しん)じているのです。

(ピリピ1:6)

そして、地上(ちじょう)生活(せいかつ)が終(お)わる死(し)の後、神(かみ)の臨在(りんざい)の中に入るときに、神(かみ)の計画(けいかく)に始(はじ)まった救(すく)いは、完全(かんぜん)に完成(かんせい)します。あなたは完全(かんぜん)に神(かみ)の子となり、子が受(う)ける財産(ざいさん)を相続(そうぞく)します。その素晴(すば)らしさは今は、ぼんやりとしかわかりませんが、やがて完全(かんぜん)に知ることができます。神(かみ)によって始(はじ)まった救(すく)いのご計画(けいかく)は必(かなら)ず完成(かんせい)します。

けれども、私たちの国籍(こくせき)は天(てん)にあります。そこから主(しゅ)イエス・キリストが救(すく)い主(ぬし)としておいでになるのを、私たちは待(ま)ち望(のぞ)んでいます。キリストは、万物(ばんぶつ)をご自身(じしん)に従(したが)わせることのできる御力(みちから)によって、私たちの卑(いや)しいからだを、ご自身(じしん)の栄光(えいこう)のからだと同(おな)じ姿(すがた)に変(か)えてくださるのです。

(ピリピ3:21-22)

あなたにあって完全(かんぜん)! 私(わたし)のわざではなく。
親愛(しんあい)なる主(しゅ)よ、あなたの場所(ばしょ)をお取(と)りくださるように。
あなたの血潮(ちしお)が私(わたし)に赦(ゆる)しをもたらしました。
そして今やあなたにあって完全(かんぜん)な者です。
そうです、義(ぎ)とされている!祝福(しゅくふく)された思想(しそう)よ!
そして聖化(せいか)されている!救(すく)いがなされた!
あなたの血潮(ちしお)が私(わたし)に赦(ゆる)しをもたらしました、
そして栄化(えいか)される、私(わたし)も!

(ジェイムズ・M・グレイ)