見えないいのちが大切
〜いつまでも残るもの~
私たちの教会の入り口、掲示板の周りに浜木綿が植えられています。またその周りに春になると鹿の子ユリが綺麗な花を咲かせます。これは教会のHさんが植えてくれたもので、私はことのほかこの花々を喜んでいます。
実は私は父の仕事の関係で、鹿児島県の屋久島で育ったのですが、小学生の頃住んでいた家のすぐ近くが海岸で、しょっちゅう砂浜で遊んだり、魚釣りをしたりして過ごしました。
そして、私が遊んだ砂浜一帯には浜木綿が自生していて、また春になると鹿の子ユリが咲き誇っていたので、浜木綿と鹿の子ユリは私を遠い昔の甘い思い出にいざなってくれる花々となっているのです。
今年も教会玄関前の鹿の子ユリが花を咲かせておりましたが、時期が過ぎ球根のみとなった今は、その姿自体を見ることはできません。一方、浜木綿はこの連日の暑さに加え、雨が降らないカラカラ天気の中でも、少し葉を枯らす程度で頑張っています。
もともと、浜木綿は南国の植物で、種が漂流して砂浜に流れ着き、水の少ないところでも平気で繁殖していくので、暑さや水不足に関してはそんなに心配することはない植物です。
しかし、今年の冬の寒さの中ではさすがに枯れてしまうのではないかと心配しました。すっかり雪に埋もれて、葉(偽茎)は完全に茶色に変色し腐っていました。それが、春になると何事もなかったかのように葉を伸ばし、以前と全く変わらない姿を見せてくれたのでその生命力に感嘆しました。
浜木綿も鹿の子ユリも地面から出ている本体は、すっかり枯れて姿を見せなくなり、死んでしまったかのように見えても、地の下ではしっかりいのちを保っていて、時が来ると復活して地表に出て来るんだと教えられました。
同じように私たち人間も、肉体はいつか朽ちて行くもので無くなってしまいます。しかし、私たちの本質、霊魂は朽ちることはなくいつまでも残るものであると思います。
もうずいぶん前ですが、アフリカで沢山の臨死体験をされた方々の証言を聞く機会がありました。皆、肉体的に死を宣告された後でも、魂は死んでいないで、自分の遺体に泣きすがる家族を見ていたり、大きな黒い穴に吸い寄せられていく体験をされていました。そして、神の裁きを体験されていました。それによって、私は死んで全てが終わりではないことを確信させられました。
若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。伝道者の書11:9
しかし、神は私たちに逃れの道を用意してくださいました。罪を悔い改めて、イエス様があなたのすべての罪を負って身代わりに罰を受けてあなたの罪を清算してくださったことを信じるのです。
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。ヘブル9:26b~28
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