マタイの福音書11章20-30節より
2023年4月16日
<聖書>
それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
(マタイの福音書27章27-51節)
<説教>
ツロ、シドンは旧約聖書で、異邦の神を崇拝して、栄華と快楽と高ぶりにより、ユダヤをあざけり滅ぼされた国です。ソドムは汚れた肉欲と罪深い町であり、罪と罰の代名詞でした。けれども、そんな町々でさえ、イエスがなされる神の奇蹟を見るなら罪を悔い改めるので、ユダヤの町々よりも罪は軽いとイエスは言われます。
イエスを信じて罪を悔い改めるなら、天国に入れる福音(よい知らせ)は、賢い者や知恵ある者には神は隠されるのです。神は形式や儀式を嫌われます。神を愛する心を喜ばれます。世からさげすまれ、価値なき者、無知な者、ただ素直な者に神は救いの御国を恵として与えてくださるのです。
父なる神を知るのは子なるイエスだけです。またイエスを知るのは神だけです。父なる神と子なるイエスは特別な関係をもちます。天の御国にまつわるすべては神からイエスに委ねられています。ただ、イエスによってのみ、人間は神を知ることができるのです。ここで言う「知る」とはたんなる知的な知識ではなくて、いのちが通い合う存在の関係です。
イエスは、すべての人に、わたしのもとに来るように招いています。それは、罪の重荷に苦しむ者、人生の思いわずらい、苦しみ、問題に悩む者です。この招きにこたえてイエスのもとに来るものは重荷をおろして休むことができると約束されています。
それはイエスのくびきを共にいただくことです。くびきとは人間が2頭の牛や馬の首を板ではさんで固定して操る道具です。
それは、気ままに歩む者には、束縛であり邪魔なものです。しかし、主人に従おうとする者には必要であり、また願うものです。イエスこそがすべての主権者である神であり、この方を認めて、信頼して生きるとき、人は初めてまことの平安をいただくことができるのです。そのとき、不安、罪悪感、欲求不満からくる緊張や、あせりから解放されます。
なぜなら、イエスが与えるくびきは、あなたの体にぴったり合ったオーダーメイドのくびきだからです。肌がすりむけるような苦痛や窮屈なくびきではありません。罪の重荷や、世に認められる労苦に結わえつけられたくびきではないのです。
いつもイエスが共にいる歩みであり、決して重荷にはなりません。イエスを知っていく、罪の重荷が取り去れ、汚れからきよめらえる愛と喜びと平安の歩みなのです。
1.主にすがるわれに 悩みはなし 十字架の御許に 荷を下ろせば 歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を 2.恐れは変わりて 祈りとなり 嘆きは変わりて 歌となりぬ 歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を 3.主はいと優しく われと語り 乏しき時に 満たし給う 歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を 4.主の御約束に 変わりはなし 御許に行くまで 支え給わん 歌いつつ歩まん ハレルヤ! ハレルヤ! 歌いつつ歩まん この世の旅路を 聖歌498番 歌いつつ歩まん(主にすがる我に)