キリストのよみがえりは死に打ち勝つ真の希望

コリント人への手紙第一15章12-22節より

2021年4月4日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

今、世界を支配しているのは死です。いかなる権力者も、お金持ちも、有名人も善人も極悪人も必ず死んでいきます。死の前にすべての人はのみ込まれていくのです。だったら、生きている間に出来るだけ楽しもうという風潮があります。富と快楽を求める虚しい人生です。人間の人生とはその程度なのでしょうか。神がいない人生は虚しく退屈で希望がありません。生まれた意味も、人生の目的もありません。
すべてを虚しくする死からの救いのために宗教と呼ばれるものたくさんあります。
そのほとんどは人間がつくった神や宗教です。それらの教祖や代表は人間です。その教祖はいつか必ず死んでいきます。死の前に無力な人間がつくった宗教には死からの救いはありません。
しかし、真実がひとつだけあります。人間を創ったまことの神を聖書は紹介しています。その中にキリストの十字架の死と復活がはっきりと書かれています。それは、キリストの生涯の中で、聖書の中で、歴史の中で最も重要な出来事なのです。
最初の人アダムを通して、全世界に罪と死が入りました。すべての人間は罪をもって生まれてきます。罪はこの世と人の現実です。罪によって神と断絶した状態を霊的な死と言います。神を無視して、神から離れて生きるなら、人間は自己中心、心のまま、欲望のまま生きることになります。その最後は永遠の死と呼ばれ、神と永遠に断絶され、永遠に滅びの中に放り込まれます。
しかし、神であるキリストが人間の受けるべき罪の刑罰を十字架の上で受けられました。それだけでなく、三日目に罪と死に打ち勝ち、よみがえられたのです。そのよみがえりの命に死は意味をなしません。この瞬間に世界は死の支配から、キリストの命という希望が誕生したのです。
キリストの死と復活が、自分の罪のためであると信じて、自己中心の生き方から神に方向転換して生きると望むなら、あなたは死んでも、よみがえり、永遠に生きます。
すべての人間はキリストを信じて救われなければなりません。神に愛されて大切な命を受けた者が、永遠に地獄で苦しみ続けて滅んではいけないのです。
あなたは神様に目的をもって今生かされています。それは死んで、もともと存在しなかったように消えて忘れ去られるのではありません。永遠に神と共に罪も死もない完全な天国を生きていくのです。キリストの十字架はあなたのためなのです。その永遠につながる今の時を生きることが希望です。
ぜひ、このイースター(復活祭)にキリストをあなたの救い主として信じましょう。

確実に近づく世の終わり。信じて救われよ

マルコの福音書13章1-13節より

2021年3月28日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

この世界はいつまでも続きません。必ず終わりが来ます。それは確実に近づいています。
聖書には世の終わりの前兆として、キリストを名乗る偽者が現れると書いています。また、戦争、地震や飢饉の自然災害についても書かれています。不法のため人々の愛が冷めるともあります。
この世にまどわれてはいけません。唯一、聖書だけがこの最後のときをどう生きるべきか教えています。
終末はすでに始まっています。そして、キリストがすべての人にわかるように現れ、キリストを信じる者は救われ、すべての死人がよみがえり、最後の審判が行われます。それはすべての人の生きている間の言葉と行い態度のすべてが神様の前で完全に正しく裁きです。
この世の最後はすべての者が滅ぼしつくされるのではありません。キリストを信じて罪の赦しを受けた者は、永遠の命を受け救われ、キリストを信じなかった者は、永遠の滅びに入れられます。
またキリスト者も世の終わりに向けて迫害にあいます。しかし、それはキリストの救いを人々に伝えるためなのです。
世の終わりは、出産に例えられます。終末の前兆は陣痛のはじまりです。しかし、出産の苦しみは、後に訪れる新しい命の誕生によって喜びに変わります。
この世の終わりの苦しみも、やがて、この地上に到来する新天新地に迎えられる希望に変えられます。
今の世界は罪と死の支配で理不尽です。しかし、天国はキリストにより、罪も悪も死も存在しない、完全な神様の支配される世界です。死も苦しみも涙も叫びもない、永遠に幸福と平和が続くのです。いえ、そんな言葉で言い表せない栄光の輝きです。
キリストを信じるなら終末を恐れることはありません。またあなた一人ではありません。教会の兄弟姉妹、またキリストを信じて生きた人々、そしてイエス様があなたを天の御国に入る日まで共にいて守っていくださいます。
そのためにまずイエス・キリストをあなたの罪からの救い主と信じることです。
神のことば、聖書の約束の希望をしっかり握って生きていこうではありませんか。

キリストに捧げる人生

マルコの福音書12章41-44節より

2021年3月21日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

金持ちたちは有り余る中から献金箱に大金を投げ入れましたが、貧しいやもめは、少ない金額でもすべてを捧げました。イエスはこのやもめは献金箱に投げ入れた誰よりも多く捧げたと言われました。
いくら捧げるかよりも、どれだけ犠牲を払って、神様に捧げるかが大切です。有り余った中から捧げるものを神様は決して喜ばれません。どれだけ上質で大切なものを捧げたのかで、神様に対する真実な心が現れるのです。
この貧しいやもめは、明日の心配をしていませんでした。すべて神様にお委ねしていました。お金よりも神様を信頼していました。
この世で、お金はどれくらい頼りになるでしょうか。いくら財産を蓄えても、完全に安心することはできません。お金でその価値以上のものを手にいれることはできません。しかし、神様にお金を捧げるなら、その価値以上の祝福を受けます。
お金だけでなく、時間や、仕事も生活も、人生を神様に対して捧げて生きるなら、私たちの人生は、私たちの考えをはるかに超えた神様の素晴らしいご計画の中にあります。
また聖書は言います。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」 (マタイの福音書16章26節)

いくらお金を払っても、永遠の死から救われません。罪の刑罰は永遠の滅びです。
キリストが十字架で死なれ高価な代価が払われました。それは私たちを滅びの淵から、命を救い出すためです。お金の価値基準は、このキリストの支払われた犠牲にこそあるのです。

「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」
(コリント人への手紙第二8章9節)

神様はキリストの罪なき聖い命を差し出されました。それはすべての罪人を救うためです。キリストの十字架を信じて罪赦されて、永遠の命を受けた者は、自分の大切なものを喜んで、神様のために差し出すことができるのです。これこそ、まことの自由です。まことの豊かさです。アーメン。

キリストの死と命により始まる新しい歩み

ローマ人への手紙6章4-11節より

2021年3月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

眠っている人に大切なことを伝えようとしても無理です。目を覚ますまで待たなければなりません。神様も私たちにとても大切な話をしたいのに、神様から見ると私たちは眠っているどころか、死んでいるというのです。

それが罪に中にある人間の姿なのです。神様のことがまったくわからない状態、性質を罪と言います。すべての人間はこの罪の性質を持って生まれてきます。

罪ある人間の神様とは自分です。人生を自分のためだけに生きて、自分の心の思うままに、神様がどんな時も心の中まですべてご存知であることがわからずに好きなように神に対して悪を行っているのです。

人間の中に罪が住んでいて、善いとわかっていることがなかなかできません。その人生の結末は永遠の滅びです。

しかし、神様は神様に立ち返る人間を知っておられます。そして、その人が気づかなくても、神様はその人に働きかけます。やがて、その人は自分の罪深さを知り、神様がいない人生の虚しさや、神様が人生の問題を解決してくださることがわかります。

自分の罪を心から悔いて、キリストの十字架の死が自分の罪の身代わりであると信じる者は、古い罪の自我が死んで、キリストのよみがえりによる新しく霊的に誕生します。この時、死んでいた神様との関係の命を回復して、全人格が新しく造り変えられ始めます。

神様はご自身の言葉によってこの天地を創造されました。神様の御言葉を信じる者は新しく創造されるのです。神様に対して死んでいたあなたが新しく生まれることは、この天地を創造する以上の出来事なのです。あなたの存在は、この宇宙世界と比べることができない高価で尊い命なのです。

そのために、あなたがキリストを信じる前から、キリストは十字架で死なれ、あなたを愛されています。

この愛を受け、罪ゆるされるために、キリストをあなたの罪からの救い主として個人的に受け入れることが必要です。あなたの人生にキリストをお迎えしましょう。アーメン。

キリストに愛された者は神の言葉に従う

マルコの福音書12章38-40節より

2021年3月7日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

神の言葉を教える律法学者にイエスは厳しく警告します。彼らの生き方は自分の見栄を求めて、外見だけ神様に仕えていました。弱い者を救うべき神様の教えを逆手にとり、やもめ(未亡人)から金銭を巻き上げたりもしていました。神のことばを知っていても、神さまを侮っていました。神様の教えで、一番大切な愛をおろそかにしていました。愛とは仕えることです。彼らは神様のことばに仕えていませんでした。神様のことばを知ることは、同時に神のことばに従うことです。自分の人生の中で、日々の生活の中で、実際に神のことばを実行することです。

信仰生活は、単に規律を守ることではありません。あいさつしない人に、あいさつしなさいと叱ることと同じです。本来、あいさつは言われてするものではなく、自分の内からあいさつすることに意味があるのです。

しつけや教育、道徳では、人間の態度を変えることができても、その態度に至る心の中を変えることはできません。

それが人間の罪の性質です。キリストは罪から解放して、きよい命に変えてくださいます。自分の罪のために十字架で死なれたイエス様に自分愛されていることを知り、イエス様を愛して、神様のことばに従って、生きていきたい者とされます。愛は人を変えます。人間の愛でもそうなら、神様の愛はあなたを必ず変えてくださいます。

イエス様を信じて愛して生きる者は、イエス様に似た者に変えられていきます。人間は愛して大切にしている者に似ていくのです。

ですから、何に従っていくのか、何に仕えるのかは人生を決定するのです。

礼拝すべき創造主である神様を礼拝せず、他のものを神様よりも大切にして崇拝するなら、人生のあらゆる関係は狂いが生じます。

キリストは私たちと神様との関係を回復して、私たちが神様に対して信仰によって従順になるために来られたのです。どんな時も神様があなたと共にいて、この世の喜びや感情よりも、神様との関係を喜んで生きるためなのです。

その時、あなたはこの世の誇りで外見を装わなくても、内におられるキリストがあなたの輝きとなります。

アーメン。

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

(コリント人への手紙第Ⅱ4章16節)

イエス・キリストは私の主、救い主

マルコの福音書12章35-37節より

2021年2月28日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤの指導者は、キリストをダビデの子と考えていました。ダビデとはイスラエルの王様で、ユダヤの国を統一して、黄金時代を築いた英雄的な存在でした。

ダビデはキリストを表わす預言的な存在です。彼はたくさんの詩篇を書きました。その多くがキリストによって成就したのです。

その中の一つがダビデの家系から、まことの王である救い主キリストが生まれる、です。キリストとは油注がれた王の意味です。イエス・キリストは父なる神様によって油注がれた、まことのさばきと審判をされる王の王である神の子です。ダビデの子である以上に、すべての人にとっての罪からの救い主なのです。

ダビデの子とは、イスラエルを統一して治めた征服者としてのイメージが含まれています。当時のユダヤはローマの支配にあり、政治的な支配者としての力ある王を人々は待ち望んでいました。

しかし、キリストは神の愛を表わされるためのメシヤ、救い主なのです。神の聖さ、正しさ、愛によるご支配である霊的な神の国を、この地上において、永遠にもたらされる、救いの完成者なのです。

ダビデの書いた詩篇の多くが悲しみ、苦悩でした。キリストはダビデの言葉や人生を通して、ご自身を現されました。苦しみと絶望の中で神様を信じて助けを求めたダビデの叫びを詩篇を通して、キリストの十字架の死の苦しみが成就したのです。そこから救い出されたダビデの感謝と賛美は、イエス・キリストを自分の救い主として罪から救われたすべてのキリスト者の証です。

キリストの弟子であるペテロは、イエス様は生ける神の御子である救い主キリストですと告白しました。それに対して、イエス様は、ペテロにそう告白させたのは天の神様ですと言われました。

神の言葉、聖書は、ダビデやペテロについて書かれた言葉であると同時に、自分のために語られた言葉であることをぜひ覚えてください。神様を信じて、求めるなら、神様がそのことをあなたの知性と心を開いて教えてくださいます。

聖書の言葉が、イエス・キリストの罪の救いをあなたに与えてくださいます。アーメン。

神は愛。愛は十字架のキリスト

マルコの福音書12章28-34節より

2021年2月21日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

聖書の専門家である律法学者がイエスに一番大切な神の教えは何か質問します。神を愛すること、あなたの隣人を愛することが最も大切であるとイエスは答えます。

この教えは、もともとは、旧約聖書でイエスラエルの民が約束の地カナンに入るときに、異国の神を拝んだり、異邦のならわしに誘惑されないように、神が与えた規定でした。エジプトの国、奴隷の家から、イエスラエルの民を救い出した神を決して忘れずに愛することが最も大切な教えなのです。

イエスはこの神を愛することと、人を愛することはひとつだと言われました。イエスの教え、それはあなたがたは互いに愛し合いなさいです。

生まれもった人間に愛はありません。人間の愛は自分を愛してくれた人を愛する愛です。不完全、不十分な愛です。見返りを求めたり、打算的な愛なのです。それは愛ではありません。

聖書にあるもっとも大きな真理は神は愛だということです。愛は神からくるのです。すべての人間は神を捨て、神にそむき、神を無視して生きてきました。神の愛を知らずにいました。

神はキリストを通して、ご自身の愛を現されました。もっとも大切な神のひとり子を、人間の罪のために十字架につけられたのです。ここに愛があるのです。あなたを罪の奴隷状態から救い出すために、キリストが十字架で死なれました。この事実を知るならば、あなたは神を愛して、また、あなたと同じように神が愛された隣人を愛する者に変えられます。神を知る前、キリストを救い主と信じる前、私たちは人間の愛を求めて生きていました。しかし、すべての人に必要なものは、神の愛です。キリストがあなたの罪を身代わりに受けるために十字架で死なれ、よみがえられた愛です。

それは私たちが、何か価値があったからではありません。神の本質が愛であるからです。神の愛はアガペーの愛、無条件の愛なのです。

このキリストの愛に触れた者は、はじめて人を愛せるようになります。人間は愛する者に似ていきます。信じているものに自分も変えられていきます。

人間は神に似せて創造されました。よい行いをする神の作品として命を与えられたのです。それは神の愛を受けて、自分を愛するように隣人を愛することです。

人間は絶対に愛が必要です。愛なしに人間は成長できません。愛なしに何を手に入れても満足することはできません。キリストはあなたを愛されています。

愛するとき、人間はもっとも神に近い姿なのです。

キリストを信じて生きるならば、あなたの内側に愛が溢れてきます。あなたは神を愛し、自分を愛し、他者を愛する素晴らしい日々に変えられます。アーメン。

聖書と神の力を信じる

マルコの福音書12章18-27節より

2021年2月14日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

多くの現代人のようにサドカイ派の人たちは、死者の復活を信じていませんでした。彼らは聖書の一部(旧約聖書のモーセ五書)しか信じなかったからです。聖書はすべて間違いのない神の言葉として、素直に信じることが大切です。

あなたの人生の一日が作られる前に、神はあなたの人生のすべてを命の書に記されました。あなたは神の中に生き、動き、存在しています。たとえ死んでも、神は終わりのときにあなたをよみがらされます。

キリスト信仰の中心の柱は復活です。復活のないところに希望はありません。死者の復活は、地上の体ではなく、新しく変えられた天上の体です。卑しい体が栄光の体に変えられるのです。

この世は復活に満ちているのです。冬、それは死んだように凍りついた世界です。しかし、命の躍動にあふれ、暖かく、やさしい春がきます。ヤゴはくろっぽく飾り気のない姿です。しかし、時が満ちると、ほとんど一目につかない場所、時間に羽化してトンボに変身して、広い大空を自由に飛んでいきます。小さな死んだような種の中に命があり、根から発芽して、葉をつけ、美しい花が咲き、美味しい実をつけます。

この地上の知識はごく一部に過ぎません。説明できない神の領域があり、人間の知恵により神を知ることはできません。この世の知識や知恵は人間を罪から救うことはできません。人間の知恵のはじめは神を恐れ、悪から離れることなのです。

多くの人は聖書の存在は知っています。聖書は高い道徳や倫理的を教えるためでありません。それはキリストを信じた結果として変えられ与えられる祝福です。

聖書は神の言葉であって、霊的に死んでしまった人間に新しい命を与える力なのです。あなたに命を与えた神との関係を回復する力です。

聖書はあなたに知恵を与え、キリストに対する信仰を与え、あなたに救いを与えることができるのです。アーメン。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

(ヨハネの福音書3章16節)

神に返すべきもの

マルコの福音書12章13-17節より

2021年2月7日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

ユダヤ人は神に選ばれた約束の民で、律法を受け、救いが与えられ、ささげものや供え物をしていましたので、パリサイ派のユダヤ人はローマ政府に税金を納める必要はないと考えました。

一方、ヘロデ党と呼ばれるユダヤ人の一派はヘロデ王家の再興のために、ローマに積極的に協力して、納税を勧めました。

この、パリサイ派とヘロデ党の者たちが手を組んでイエスに罠にかけようと質問しました。ローマ皇帝カイザルに税金を納めるべきか、納めるべきでないか…。どう答えても、どちらかが納得しません。しかし、イエスは彼らの心の魂胆を見抜くお方です。神の言葉は、私たちの心を判別して、様々な図りごとを明らかにするのです。聖書こそが、私たちの心を照らし明らかにします。

私たちは国家に税金を納め、安全と秩序が守られています。水道や電気、交通機関や福祉、医療などを受けることができます。

しかし、国の指導者も権力者も、すべての権威は神様によって立てられているのです。

私たちは、この神様により、地上のあらゆる権威に従わなければなりません。そして、すべての権威の上におられる神様に従うことが人間に必要な生き方なのです。

あなたの親はあなたに何を一番望んでいるでしょうか。お金や家でしょうか。いいえ、親がのぞんでいることは、親子の温かい正直なつながり、いたわり合う愛、子どもが親を尊重してくれることではないでしょうか。

神様が求めていることも、同じです。神様があなたを創られ命を与え、仕事ができる健康と力を与え、今あるすべての環境も神様があなたに与えられたのです。あなたの時間やお金や健康は自分だけのためのものではありません。すべて一時的にあなたに管理を任されたものなのです。

あなたのためにすべてを与えてくださった神様に対して、人間は返すべきものがあるのです。

それは、神様に心を向けて、神様の言葉を信じて生きることです。教会で礼拝を捧げることです。喜んで神様に向かって賛美を捧げることです。

しかし、罪によって人間は神との関係が絶たれた状態です。神はご自身のひとり子を十字架につけ、その罪の解決を信じる者に与えられました。

イエス・キリストを信じて、罪の赦しを受け、神様にあなたの人生をおゆだねしましょう。アーメン

キリストは、すべての人に必要な命の礎(いしずえ)

マルコの福音書12章1-12節より

2021年1月31日主日礼拝メッセージ

アメイジング・グレイス・キリスト教会

イエスはユダヤの権威者たちに、たとえで話されます。

このたとえのぶどう園の主人は神、ぶどう園はイスラエルを表わしています。

神は農夫たちが働きやすく、利益を得やすいぶどう園を作られました。主人は旅に出かけ、ぶどうの経営、管理を任せます。神は人間を信頼して彼らの選ぶがままにされます。主人はしもべを失っても、幾度も農夫たちに彼らの負債を支払う機会を与えられます。

また、イエスはご自分がしもべではなく、主人の子、神の子であり、救い主メシヤであることを明らかにされます。そして不当に扱われ、殺されても、それで終わるのではなく、神の栄光が現されることもご存知でした。

農夫たちは、主人の遣わされたしもべ、また愛する主人の子を殺して、ぶどう園の所有者になろうとしました。それは主人が遠くにいて、自分たちのしたことが知られずに、彼の子が死んだことも知られないと考えたからです。

人間はこのような神の忍耐を利用して、神にそむき続けることができると考えています。これこそが人間の罪なのです。しかし神は生きておられます。最後は神の審判と当然の報いが必ず来ます。

イエスは人から捨てら、十字架で殺されました。しかし、神はイエスをそのままにされず、死からよみがえらされました。

建物で一番大切なのは土台である礎(いしずえ)です。イエスを通して教会が建てられ、信じる者に罪の赦しと聖霊が与えられます。

キリストこそが、すべての人に必要な命の礎(いしずえ)なのです。

このたとえを聞いてもユダヤ人は頑なに心を悔い改めませんでした。自分の罪を悔い改め、このイエスに救いを求める者は救われます。

アーメン